高校生入間銃兎と飯。「いらっしゃい」
がらがらと少し立て付けの悪い引き戸を開けると正反対な柔らかな声に迎えられる。そのまま空いている席に座ると安っぽい透明のコップに入った水を持って注文は何か問われた。メニューを見ることなく唐揚げ定食を注文すると「ふふ、ご飯は大盛りね」と嬉しそうに笑ったので少し心がじんわりと温かくなった。
毎週日曜、図書館帰りは必ずこの定食屋に来ている。家と図書館の間に位置している好立地である上になんと言ってもボリュームがあって安いのが良い。そして味もどことなく懐かしい気持ちになるのだ。世間一般でいう実家の味は俺の場合この店かもしれない。あとこの店が好きな理由として、この店を切り盛りしている夫婦の柔らかな雰囲気もある。帰る家はあるとはいえ、親戚をたらい回しにされ今の家に来た経緯もあり居心地が悪い。それに比べここは俺の名前すら知らないのに優しくしてくれる。そんな優しさが親からの愛情と酷似していて、心の拠り所となっていた。
「おまちどうさま。カツ丼大盛りね」
「ありがとうございます」
開いていた単語帳を閉じ、ほかほかと湯気を立ててやってきたカツ丼を見つめて思わず唾を飲み込んだ。美味そう。よく噛んで食べるのよ、と一言付け足したふくよかな母さん──もといこの店の店主の奥さんはそのまま「母さん、水おかわりちょうだい」と他の客に呼ばれ俺に背を向けた。この店では店主は「父さん」や「お父さん」、店主の奥さんは常連から「母ちゃん」や「お母さん」などの愛称で親しまれているのだ。俺も十分常連と呼べるほど通いつめている訳でありなんなら親と呼びたい唯一の存在なのだが、未だにその愛称で呼んだことは無い。心の中で呼ぶのは出来るのに、どうしても死んだ両親以外を親と口にすることは出来なかった。
冷める前に食べないと、と箸を手に取る。ぱきん、と割り箸の奏でる乾いた音を合図に口に運ぶ。そして出汁の染み込んだ玉ねぎと卵に白米が無限に進む。口の中で溢れる肉汁がさらにそれを加速させた。いつもちゃんと噛めと言われるが、正直こんな旨いものを前にして正気を保てる人間はいるのだろうか。その辺自覚してもらいたいところだ。
残り半分になった頃、味噌汁を飲み一息つく。その間に女将がやって来て向かいの席に座った。時計の短針が九を指し過ぎたくらい、客はいつの間にか俺一人になっていた。
「はぁー、兄ちゃんいつも美味しそうに食べてくれるねぇ」
「……っ、そんなに俺顔に出てます?」
「あぁ、そりゃあもう兄ちゃんの可愛いほっぺたがそこに落ちてるからね」
冗談だよ、と豪快に笑う彼女のノリに付いていけず困ったようにはにかんだ。本当はもっと小粋な返事をしたいのだが、今までジョークの類から距離を置いて生きてきた俺にそんな気の利いたことが思いつく訳もなかった。……明日図書館で駄洒落の本でも借りてみるか。そんな空気を気にすることなく彼女は俺に語りかける。
「いやぁ、もう作りがいがあるねぇ」
「作ってんのは俺だろ!」
「ハハハッ、地獄耳かい?」
「ふふっ」
二人の軽快な会話に置いてきぼりにされながらもなんだかおかしくて笑ってしまう。こうやって軽口を叩き合える関係が素敵で羨ましいと思う。そんな俺の笑い声を聞いた彼女が俺の方を幽霊を見たかのように驚いた表情でじっと見つめてきた。今の会話は笑ってはいけなかったのかもしれない。反射的にすみません、と口にすると違うと二人が堰を切ったように笑いだした。また俺だけ置いていかれている。厨房から出てきた店主が彼女の隣に座った。
「いやいや、単に兄ちゃんが笑ってるの初めて見たからね。珍しくてつい」
「そうやって珍しがるともう笑ってくれなくなるぞ」
「それは嫌だわぁ」
少し恥ずかしくなって俯く。二人の視線があたたかいのが余計になんだか恥ずかしい。冷める前に早く食べな、と店主に急かされ我に返った。冷めても美味しいのだが、やっぱり温かいうちに食べたい。再び箸を持ち口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼しながらおかわりが欲しいなと叶わないことを想像した。財布に入っている金額的に二杯目を頼むと明日の昼は水だけだ。義両親には無理を言って隣街の学校に通わせてもらっている。外食という贅沢で浪費は出来ない。もう少し食べたい気持ちを抑え、いつの間にか空になっていた丼を眺めながら手を合わせる。
「おかわり食べたいの?」
「!?い、いえ、いくらでも食べれるくらい美味しいですけど流石にお腹いっぱいですよっ」
「ははっ、嘘はつかなくていいって」
「いつも物足りなそうな顔してたからよ、今日こそは絶対に腹一杯にさせてやろうと思ってたんだ」
二人の言葉に違うと必死に否定するものの俺の言葉を聞き流しながら、宣言通り厨房から次々と料理を運んでくる。ハンバーグに唐揚げ、ほうれん草の胡麻和えなど豪勢な食事が並ぶ。なぜこんな短時間で料理が並ぶのか不思議でたまらない。
「ちなみに今日は何がオススメ?」
「今日の自信作はハンバーグだな。焼き加減が上手くいった」
へぇ、と返事をした彼女はいつの間にか俺の前の席に座り、持ってきていた箸で一口頬張る。この時間は一体なんなんだ。その隣には最後の一品である麻婆豆腐の皿を持ってきた店主が座った。俺はただ、ぽかんとしたまま二人を眺めている。
「ほら、兄ちゃんもハンバーグ食べてみなよ。ウチのお父さんの力作、食べないのはもったいない」
「えっ、いや、流石申し訳ないですよ」
「作ったモンが無駄になる方が良くねぇだろ」
「そうそう。だから無駄にしない為にも、ね?お食べお食べ」
あっという間に俺の空になった丼は回収され、代わりにほかほかのご飯が盛られた茶碗が目の前に置かれた。ついでに力作のハンバーグが一枚まるまる乗っている。……ハンバーグ丼?
ここまでやって貰って断るのも野暮だろう。再び箸を取るとまだ足りていない腹は素直にぐぅと鳴った。二人はあれやこれやと話しながら食べていて、俺の腹の虫には気がついていないらしい。一安心しながらハンバーグを頬張る。
「うま……」
「だろ?」
自慢げに女将が笑った。それは俺が言うセリフだろ、と店主が呆れながら言ったがどこか嬉しそうだ。こうやって食卓を誰かと囲むのはいつぶりだろうか。共働きの義両親と食事を共にしたのが小学生の頃だったはず。久しぶりのあたたかい食事になんだか鼻の奥がツンとした痛みを感じた気がして、誤魔化そうと目の前に並ぶ美味しいご飯を口に運んだ。
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「……はぁ、お腹いっぱい……ご馳走様です」
久しぶりに膨れた腹を擦りながら呟く。満腹の俺を見て二人は嬉しそうに「お粗末さま」と言いながら食器を片付けている。これだけ食べさせて貰ったのだから、対価はしっかり払わないといけない。財布を出すとそっとその手を父さんに阻止された。
「……さすがに払わせてください」
「断る。ガキから金巻き上げる趣味はねぇんだわ」
「そういうことじゃないですよ!きちんとした食事を頂いた対価をちゃんと払わないと……」
「じゃあその対価は“これからもこの店に来ること”。それで十分だ」
ふしくれだった手が俺の頭を撫でる。その手が大好きだった父さんの手ととても似ている気がして泣きそうになった。ぐっと唇を噛んで堪える。ただの名前も知らない高校生のガキになぜここまで優しくしてくれるのだろうか。高校生なら一人でもギリギリ生きていける年齢、こんなにももてなす必要はないだろう。疑問は増える一方だがそれを聞くのは野暮な気がした。大人しく引き下がり頷く。
「何度でも来ます。だから、俺が生きてる間はお店閉めたりしないでくださいね」
「ちょっと、私らが先に寿命来ちゃうからそれは無理でしょ」
ハハッ、と軽快な女将の笑い声が響いた。店主は「案外百五十歳まで生きれる世の中になってるかもしれねぇな」なんて真面目に答えるから俺と女将、二人同時に吹き出した。