わたしのすてきな夢 9 立香と逢うことを考えに入れなくても、昼夜逆転していいことは何もない。
編集者やクライアントは昼間仕事をしているのだから、即座に連絡を取るなら合わせた方がいい、というのは道理だ。
だから以蔵も、相手の都合のない時は昼間に行動しよう、と心がけている。
コミッションのラフをクライアントに送り、新しいネームを切っていたら夕方になった。液タブを立てかけてデッサン人形を置き、ポーズを取らせて鉛筆を執った。
男女兼用の人形の腰を細め、ヒップを張り出させてスケッチブックに落とし込む。
えい感じじゃ、と思いながら鉛筆を動かしていたら、外で車の停まる音がした。ほんの少し集中が途切れる。
繁華街ならともかく、駅から徒歩十五分の住宅地にわざわざ来る者はそういない。以蔵の家の表は道路で、裏もアパートに隣接しているから、近所に駐車できるスペースはない。
それでも気にせず作業に戻ろうとしたら、ドアチャイムが鳴った。
宅配の来る予定はない。
新聞勧誘か宗教か光回線か、といぶかしみながら玄関へ向かうと、外から泣き声が聞こえた。
ひどく耳に馴染む。
あわててドアを開けたら、立香がいた。
オフィスカジュアルは別にどこも汚れてはいないのに、ずいぶんくたびれているように見えた。
そして、顔は丸めて広げた紙のようにぐしゃぐしゃだった。
「ど……」
問いかけようとして、一瞬逡巡する。
何かあったのは確実だから、『どういた』と訊くのも間抜けだ。けれど、何があったのか話し出す呼び水にはなる。
そう思って声をかけようとした時。
「以蔵さん!」
立香は玄関の三和土から上がりかまちの以蔵へ抱きついてきた。段差の分だけ身長差が広がり、胸に顔が埋まる。
あまりにも必死な様子に茶化すこともできず、ただ腕を背中に回してあやす。
「立香」
「いたの……いたの!」
「何がおったがじゃ」
立香は一度息を止め、金切り声を上げた。
「番! Ω! 運命の!」
その声は、わずかなタイムラグを起こして以蔵の耳へ入った。
言葉の意味を理解し切る前に――
足許が砂でできていたことに思い至った。
これまで感じていた幸福は、風向きひとつで簡単に崩れ去る。
以蔵はβだ。
運命の番には、とうてい勝てない。
当たり前のこと、これまで見ないようにしていたことに打ち据えられる。
己にしがみついて号泣する立香にの背中を撫でることすらためらう自分に気づく。
恋心が、泥まみれの地面に落ちた。