わたしのすてきな夢 6 何度か『取材』を重ねた。
少しずつ、立香のクレバスの様子が変わりつつある。
硬直していた襞に柔軟さが宿り、一本だけなら以蔵の指を受け容れられるようになった。
しかも、縁の花弁の厚みがわずかだが増した。
(こがぁにざんじ変わるがかのう……?)
と、疑問を覚えるが、ネットにはαやβがホルモンバランスを崩してΩへと変化してしまったという話もあるので、そんなものだろうという感覚でいる。ネットの話に信憑性を見出すのも間違っているかもしれないが。
人一人の身体を作り替えてしまっている、ということの恐ろしさも感じるものの、
(まぁ、本人がえい言いゆうことじゃき。わしは知らん)
今夜も立香のしなやかな脚の間に陣取って、長く伸びたものと狭い穴に愛撫を施した。
絶頂を迎えて、くったりとベッドに身体を預ける立香を見下ろし、白い腹に飛び散ったものの始末をする。
快楽の余韻に息を荒らげている立香のオレンジ色の髪を梳き、唇を重ねてやる。これくらいはサービスしなければ。
立香は以蔵のたくましい背に腕を回した。
「あー……安らぐ……」
そのまま硬い肩に柔らかいあごを乗せて、ぐりぐりとこすりつける。
「ずっとこうしてたいな……」
「おまんがよければ、わしはとっとこうしちゅうよ」
「うん、ずっと……じゃなくて」
立香は目を見開いた。
「以蔵さん、漫画持ってきてくれた?」
「お、おう……かばんにあるき」
熱意に押し負け、以蔵はうなずく。
「テーブルにiPadあるから、持ってきてくれる?」
以蔵はLDKのダイニングテーブルの椅子に置いてあった自分のかばんからUSBメモリと変換ケーブルを取り出して、テーブルに置いてあった立香の白いiPadを取って寝室へ戻った。
変換ケーブルはUSBとライトニング、またはタイプCの規格を繋ぐものだ。求職中の漫画家として、相手の環境によって見せられる機会が減ってはいけない。
「わぁ……ありがとう。早速読むね」
立香はメモリとiPadをケーブルで接続した。
『以蔵さんの漫画、読みたい』
そうねだられたのは、この前ベッドを共にした時だった。
『読んじゅうろう、わしに話持ち込む前に』
初めての通話の時に、『頓挫したコミカライズを読んでから依頼を持ちかけた』と言っていた。
『あぁ、うん、それは読んだけど……あれは以蔵さんが考えたお話じゃないじゃない? もちろん絵はめちゃくちゃうまいけど。そうじゃなくて、以蔵さんが一から描いた話が読みたいの』
また面倒なことを――と思ったが。
『昔言うたら絵も話もこじゃんと下手くそじゃぞ? 特に話はまっことえずい』
『それがいいの。以蔵さんが何を考えて描いてたかを知りたい』
『……えいよ』
以蔵に断る選択肢はない。
『できればデビュー作がいいな』
『仰せん通りに』
北斎のアシスタントをするきっかけになった持ち込み作には『佳作』の冠がつき、Webページの新人特集のにぎやかしとして最下段に載った。
話はともかく絵は新人離れしていたから、編集部としてはわざわざ新人特集を漁るような玄人の目にでも留まれば、という期待があっただろう。
データをコピーするついでに数年ぶりに見返すと、頼みだった絵もずいぶんと稚拙に思えた。話のたどたどしさはなおさらだ。
この頃の以蔵は焦っていた。
高知で絵のうまさをもてはやされ、すぐに週刊誌の看板作家になれると信じていた。しかし編集者からは感性の未熟さを指摘され、デビューどころか門前払いを食らった。
予想もしなかった展開に地団駄を踏み、手探りで先へ進み、なんとか二作目を描き上げた。
異世界ファンタジーは通用しなかったから、現代の高校生を主役にした。私小説の漫画版としか言いようのない出来になった。
それでも、立香が見たいと言うなら見せざるを得ない。
素肌に毛布をかけて、うつ伏せのまま液晶画面に指を滑らせ始めた立香を見るのも気羞ずかしく、手許のスマホを触る。
既にこの家のWifiのIDとパスワードは聞いてある。
ティーチ原作のアニメの公式が、次クールから始まる二期のPVを公開した。
一期のラストで顔見せした文系バーサーカーは、原作でも人気のキャラクターだ。トラブルメーカーのような振る舞いと主想いで思慮深い内面のギャップに惹かれているファンが多い。
彼女が本格的に主人公たちのチームと絡む展開は、原作ファンから待ち望まれていた。
それだけ魅力的なキャラクターを描けるティーチは、やはり人間のことをよくわかっている。
ひるがえって、以蔵は世界への解像度が低い、と改めて実感する。
たとえば、エルフという設定がある。長命種で世界を見続けてきたからものごとの本質を掴んでいて、同時に浮世離れしていて短命の人間の機微がわからない。
この設定を取り入れ、人によってはアレンジし、共感や憧れ、時に笑いをもたらすキャラクターに仕上げているクリエイターはたくさんいる。
しかし、以蔵は通りいっぺんの人物造形しか描けない。上っ面だけ人気キャラの真似をして、結局は空っぽな器しか作れない。
小説も映画も見続けている。こまめに図書館へ通い、新聞や雑誌にも目を通している。出かけるたびに人間観察もしているつもりだ。
それでも、切実に何かを欲しているキャラクターを描けない。
何かが足りないと思いながら持ち込み作のキャラクターを煮詰め、プロットを立て、ネームを切る。
今の自分の精いっぱいを詰めた作品であっても、どこぞ何ぞ足りん、と思ってしまう。
絵はうまいから、アシスタント先には困らない。売り込めばコミカライズの口も見つかるだろう。今立香と作っているようなPR作品も描ける。
だからこそ――
(もう、身のほどぉ知った方がえいがやいか)
そんな気持ちが滑り込む。
四捨五入とはいえ、もうアラサーと言われる年齢になった。
いつまでも夢を見てばかりではいられない。
そんなことをぼんやり考えながら、タイムラインに目を滑らせていたら――
「……うっ」
湿った声が聞こえた。
声の源へ目をやると、立香が枕に顔を埋めていた。その細い肩が震えている。
(あんまり下手くそで、づつのうなって泣いちゅうがか?)
そう疑う以蔵へ、立香は顔を上げた。
「すごい、すごい……」
「すごい、下手か?」
以蔵の言葉に、立香は首を横に振る。
「すごい、わかる……って思って。何かになりたい、何かにならなきゃいけない……ってもがいてるのに、自分を変えられない。めちゃくちゃ焦っても、どうにもならない。そういうの、他人事じゃないよ……」
液晶画面のLEDライトを浴びて、立香の顔は白く光っている。その頬を、幾筋もの涙が滑る。
(何ぞにならないかん、けんど何も変えられん、どういたらえいがじゃ)
まさしく、そんな気持ちをぶつけた。
漫画としてのメソッドにはうまく乗せられなかったが――あまり漫画を読んでいなかった立香は『漫画読み』の視線から自由でいられたのか。
心の鎧の内側、奉仕でよどんだ泥水の底にあるヘドロの下から光が生まれた。初めての感覚ではない。
初めてではなく――目を逸らし続けていた感情。
(……ちっくと)
鎧の外側から、落ち着いた以蔵が声をかける。
(ちっくとこいつを信じてえいがやいかえ?)
フラットな視線に立てば、立香は素直な感情を以蔵へ向けてくれているように見える。以蔵と気持ちよく仕事をし、作品へも伸びやかな感想をくれる。
(ほうじゃけんど……)
鎧の内側で、以蔵はうめく。
(こいつは、わしを利用しゆう。有利な立場からわしを自分のえいようにしゆう。ほがぁに扱われて、許せるわけないろう)
初めてベッドに誘われた時の、ゆるく温かい好意を踏みにじられた感覚を忘れてはいない。
己の気持ちを無碍にされた。
誰でもいい、何でもいい――そんな誘いを受けたから、復讐するように身体をもてあそび返している。
その感情に誤解や齟齬があるのではないか。立香の気持ちをうまく受け止められていないのではないか。
立香はこんなに以蔵へ丁寧に接しているのに。
(――けんど、こいつはα様じゃ)
鎧の内側のかたくなな以蔵は、あくまで拒む。
(いや、ほんまにこいつはわしの思うようなα様ながか?)
明るくて朗らかな振る舞いの端々から漏れる不健全さ、ほの暗さ。
何者にもなれなくて焦る作品に共感する苦しさ、生きづらさ。
自分を過信し、自分こそがこの世界を支配できるなどと思うステレオタイプのαとは違う、と感じている。
それでも、損なわれた自尊心が軋みを上げる。
(憎いがをぶつけられんき、こいつが傲慢なα様やなかったら困る)
そう思ってから、ふと我に返った。
(困る――がか?)
今まで、そんな感情のフィルターに気づかなかった。
(わしは、こいつが傲慢なα様やなかったら、困るがか?)
自分と問答しようとした以蔵へ、立香は声をかけた。
「以蔵さん、ずっと自分を下手だ下手だって言ってたから、ほんとに下手なんだと思ってたのに……ずるいよ」
「ずるいってなんじゃ」
「謙遜するなんて、キャラじゃなくない? もっと自信持たなきゃ。読者に見つけられたら、絶対に人気出るよ」
「しよう言うけんどのう……」
涼しい声を努めながら、波立つ内面を持て余している。
謙遜ではなかった。
己の画力はともかく、物語の才能はない。
しかし、あるだけで輝く才能もめったにない。削り、磨き、整えて人前に出せるものだろう。
以蔵は研鑽が足りなかったのではないか。もしくは、研鑽のし方を間違えていたのではないか。
少なくとも、一人の人間に響くものが描けているのだ。
正しい努力をすれば、正しく成長できるかもしれない。自分に絶望し、夢を捨てなくてもよくなるかもしれない。
そんな風に思える。
それを導いてくれたのが立香だ。
(こいつは、わしにとって――いんや、こいつはαじゃ――けんど――)
揺れるよどみの底で、ヘドロがまた少し輝いた。
◆ ◆ ◆
『以蔵さん』
「違うろう」
スカイプ越しに呼びかけられ、以蔵は即座に止めた。
「会社じゃ『土井先生』ち呼ばないかんろう。誰が聞きゆうかわからんき」
『今はミーティングブースにいるからそんなに聞かれてないですけど……そうですね、土井先生』
立香は口ごもりながら返事する。
ただれた関係を築きながら、PRの仕事の方も順調に続けていた。
乳幼児向け商品の売上は順調に伸び、七作目からギャラが上がった。
『作画・土井鉄蔵』というクレジットとともにツイッターのアカウントも併記してあるせいか、フォロワーが増えた。
おまけに、
『カメラの資料、見ていただけました?』
「一応目ぇは通したけんど……わしにはわからん業界で、うもう描けるかどうか」
『大丈夫ですよ! 土井先生はまっこと絵がうまいですから、カメラだって描けます』
「土佐弁、移っちゅうな」
『……あっ』
赤面する立香が見えるようだ。思わず笑ってしまう。
「ははっ」
『えーと……土井先生の了承はいただけたので、近いうちに先輩からメールが行くと思います。そこで詳しく打ち合わせしてください』
立香が仕掛けたSNS戦略を見た同僚が、「土井鉄蔵と仕事がしたい」と言い出したらしい。
以蔵に断る理由はない。仕事はあればあるほどありがたい。
この話を最初に持ち出した時の立香は、まるで自分が褒められたかのように同僚の土井鉄蔵評を教えてくれた。
絵がうまく、話がわかりやすく、商品のプレゼンも効果的だ、と。
後ろ二つは立香の功績だと思うのだが。
ともあれ、新たな仕事を得られるかもしれない。
『土井先生』
「なんじゃ」
立香は数秒言いよどんでから、振り切るように言った。
『わたし……いけないと思うんですけど、淋しいんです。土井先生のお仕事が増えるのは嬉しいはずなのに……』
「藤丸さんは欲張りじゃのう……安心しぃ、わしは藤丸さんとの仕事に手ぇ抜くつもりはないき」
『よかった……!』
華やかな笑声が、ヘッドセットから流れ込む。
そこに絶頂を迎えた後のほわほわした笑顔が重なり――
(落ち着きや、今は仕事ん話しゆうがじゃ)
首を振って、邪念を追い払う。
しかし。
(仕事ん、話、しゆうがじゃ……)
ダイニングでビールを酌み交わす時の笑顔。
痛みに寄せられていた眉が少しずつゆるむ過程。
思わず漏れるため息に、
『土井先生?』
立香が心配げに呼びかけてきた。