あくまで花に罪はない(メフコン) メフメトが食堂に顔を見せると、キッチンカウンターの向こうで赤い弓兵が魚焼き器を構えた。このカルデアに現界してから、幾度となく見た光景だ。
「大儀である」
メフメトのねぎらいに、エミヤは笑顔を見せた。
「帝王のお眼鏡に適うものを提供できているかね」
「大過ない。豚抜きの調理など慣れていないだろうに、毎度美味なものを供されているぞ」
「それは重畳」
エミヤは会話をしながら魚焼き器にほっけの切り身を載せる。同時におそらくスープの入った小鍋を火にかける。
サーヴァントには食事も睡眠も必要ないが、三大欲求を快く思う者も少なからずいる。それに、主と戴くマスターは魔術師の素養に乏しい、常識的な人間だ。大方のサーヴァントはマスターにならって夜は寝て朝に起き、三食を摂る。
だから、ランチタイムはこの食堂も混み合う。メフメトは居合わせたことがないが。
メフメトの食事には少し手間がかかる。イスラム教徒ゆえに食材の制限があるからだ。
メフメトは生前男色にも走っていたり、コンスタンティニエのアヤ・ソフィア大聖堂の宗教画を温存したりと、敬虔な方ではない。それでも、合法的な食事だけは守らねばならない、と本能に近い場所で覚え込まされている。
現界したての頃、エミヤに食事の相談をした。
『不可能ではないが、手間があるからピークタイムを避けてくれ』
厨房の守護者はそう言った。
準備が整うまで二日待ち、出された膳にメフメトは大変満足した。菜が三点しかないのは気に食わなったが、英雄王も太陽王も現状に甘んじていると言われれば、無理を通すこともできない。
何しろ、今のメフメトはサーヴァントだ。マスターを主と仰いでいる時点で、思春期から帝王として過ごした生前と違う。
そんなわけでメフメトは、比較的空いている時間の食堂を利用している。
「ところで、だ」
メフメトはエミヤを見る。
「あの皇帝は食事を摂っているか」
「あぁ、つつがなく」
エミヤはほっけを裏返しながら答えた。
カルデアには、皇帝と名乗った者が何人か召喚されている。
たとえば己の力のみで中華帝国を牛耳った武則天、もしくは華々しい戦果を上げて民衆に支持され即位したナポレオン・ボナパルト。
しかしメフメトが『皇帝』と呼ぶのは、ただ一人だ。
「あの御仁は、見た目にそぐわず健啖家だな。今日のA定食は青椒肉絲だったが、大盛りを残さず平らげた」
エミヤから語られるその人物の様子に、自然とメフメトの眉間に皺が寄ってしまう。
生前、義母の宮で見たコンスタンティニエの美しい絵物語に、メフメトはどうしようもなく焦がれた。即位後、宰相の反対を押し切って親征し、最新式の大砲と精強なイェニチェリ軍団を従えて三重防壁を破った。
その都はビザンツ帝国の国力低下のせいで寂れてはいたが、それでも空の青に映えるローマ時代の遺跡や岬の上に建つ白亜の大聖堂は、メフメトの征服欲を満たすには充分だった。
しかし、足りないものもあった。
自陣から遠目に見えた白馬――あれが欲しい――
「ずいぶんと避けられているものだな」
エミヤは言った。わかっていることでも、うなずくのはためらわれる。
「なぁ弓兵」
メフメトはキッチンカウンターから厨房へ身を乗り出した。メフメトもアーチャーではあるのだが。
「このカルデアでも、殺し合った者たちが顔を合わせることがあるだろう」
「あるな」
「そういう連中は、ここでうまくやっているのか」
「人によるな。遺恨を水に流して共闘する者も、顔を見るだけで殺意を抑え切れない者もいる。たとえば私は私を殺しかけた男にはいまだに気を許せないし、ペンテシレイアはアキレウスの気配を感じただけで暴走する」
アマゾネスの女王だったペンテシレイアはトロイアに与し、アカイアのアキレウスに悪気なく侮辱され、殺された。メフメトの時代の至高の国家――いわゆるオスマン帝国の領地は小アジア全域にまたがり、もちろんメフメトはギリシャ人と渡り合ったトロイアにも思い入れがある。
そして、とメフメトは考える。
「……あの皇帝も、そうなのだろうか」
「私のように取られたのが命だけなら――まぁもちろん命だけでも厭だが――まだしも、君はあの皇帝の何もかもを奪ったのだろう。ならばしかたないのではないか」
「うーん」
メフメトはうなる。
「私は殺したくてあの男を殺したわけではない」
「殺す側の事情など、殺される側は知らない」
「ただあの都が欲しくて……私は何度も降伏勧告をした。それでもか」
「命に換えても守りたかったのだろうな――できたぞ」
エミヤは膳を差し出した。焼き目をつけたバゲットに焼いたほっけと冷奴、地下菜園で採れたトマトやハーブをふんだんに使った羊飼いのサラダと鳥出汁のスープが載せられている。今日もメフメトの信仰に配慮した食事だ。エミヤは日本出身らしく、どの国の料理も作れるが特に日本風の料理がうまい。当番がブーディカの時は西ヨーロッパ風の、タマモキャットの時は顔と態度にそぐわない丁寧な食事が出る。
生前のメフメトなら、膳を自ら卓に運ぶなどありえないことだったが、もともとは小市民だったマスターの影響を受けたせいもあるのか、今はそこまで抵抗がない。
「そうだ、弓兵よ」
膳を運ぶ前に、ここのところ考えていたことを言う。
「この食堂に、私が育てた花を置いてもいいか。今はチューリップが咲いている」
「花か……確かにこの無味乾燥な食堂の癒しになるだろうな」
「人をくれれば、束にして運んで管制室やレクリエーションルームにも飾れる。どうだ」
「今まで園芸を趣味にしているサーヴァントはいなかったからな……地下菜園も実用的な野菜や果物ばかりだった。マスターにも話してみたらどうかね、手透きのサーヴァントを融通してもらえるかもしれない」
「そうか、そうだな」
メフメトはエミヤに笑顔を返して膳を受け取り、空いているテーブルに腰かけた。早速フォークを取る。
ほっけという魚は日本の北、ロシアの東端で獲れるそうで、生前のメフメトはもちろん存在すら知らなかった。しかしカルデアで初めて食したそれはうま味の乗った脂が染み出て、身も柔らかい。
フォークではうまく骨をさばくことができず、悪戦苦闘する。もちろん生前は、こんなことはみな小姓や宦官がやっていた。
かの太陽王は世俗の塵を嫌い、己が神殿を模したシミュレーターに引きこもっていると言うが、メフメトはサーヴァントとしての暮らしを楽しんでいる。地下菜園に行く必要もあるから、外に出ずにはいられない。
豆腐という食べ物は、大豆の絞り汁を凝固剤で固めたものらしい。ふるふると震え、舌の上でとろける感触に、やはり大豆を加工した醤油が合う。
文明の交差路だったコンスタンティニエでは東西の美食にこと欠くことはなかったが、帝王でも全知とはいかなかった。
トルコ風サラダにはカットしたトマトも載っている。新大陸の食材も、おおいにメフメトの舌を楽しませる。
もちろん、いかに食が進んでも、メフメトは下品にがっつくことはしない。よほどの空腹時ならともかく、帝王には余裕と優雅さが必要だ。
フォークを動かしつつ、チューリップについて想いを遣る。
レイシフト先で球根を調達し、魔術で成長を促進させて殖やした。本当なら一から育成したかったが、持ち込める球根の数は限られていたから、背に腹は代えられなかった。
ある程度殖えた球根を専用のラックの棚板に据え、水耕栽培した。水に含まれる栄養についても科学者や魔術師と意見交換し、納得のいくものを使った。
三分咲きのチューリップは赤と白、そしてピンクだった。ピンク地に白い縦縞が入っているものもいくつかあった。これを殖やそう、と決めた。
スープも飲み干し、キッチンカウンターに膳を戻すと、エミヤが受け取ってくれた。美味だったことを伝えると、
「それはよかった」
と満足げに笑った。
どうしても、あの皇帝の笑顔も見たくなる。
そもそも、メフメトはその顔もろくに見られていない。
コンスタンティノス11世もともに召喚されている、と聞いて探しても、まったく姿を現さない。周囲の者に聞いて、人垣の向こうに黒いスーツを見つけても、コンスタンティノスはメフメトの視線に気づいてすぐに消えてしまう。
他のサーヴァントに見せていた笑顔は遠目ながらも穏やかで、花が綻ぶかのようだった。
なんとかして、あの顔を己に向けさせたい。
いや、敵愾心にあふれた険悪な顔でもいい。
とにかくあの顔が見たい。
コンスタンティニエの三重防壁もたいがいに堅牢だったが、その主も負けず劣らずである。
「弓兵、あの皇帝は花を好くと思うか」
「花には罪がないと思うのではないかな。風雅を解する御仁に見える」
「そうか……ならばもっと植えなけばな」
エミヤは骨を捨て、食器を泡立ったスポンジでこする。
「図書館と同様、地下菜園も魔術で拡張することができるはずだ。今までその必要がなかったからしていなかっただけで……土はあのゴーレムマスター――アヴィケブロンから分けてもらえるかもしれない」
「なるほど、その調子でいけばカルデアを花で満たせるかもしれないな」
「マスターも子供サーヴァントも、文学者サーヴァントも喜ぶだろう」
「民の心を慰めるのも為政者の務めだ」
「その時は食堂もその恩恵に与らせてくれ」
「いいだろう、待っていろ。私も夕食を楽しみにしている」
メフメトは上機嫌でエミヤに別れを告げた。
自室には向かわず、地下菜園に寄る。拡張するのなら、その計画を他人任せにはできない。なにしろこの帝王が手ずから花を咲かせるのだ。改めて現地を視察して、より好ましい庭にしなければ。
地下菜園のドアを開けると、意外すぎる――しかしメフメトが望んでいたものが目に入った。
そう大きくはなく、その代わり厚めの身体を、仕立てのいいスーツが包んでいる。髪の毛は肩の上で揃え、大ぶりのイヤリングが横顔から見える。
水耕栽培のラックに収められたチューリップの花を、愛おしげに見遣る様。
思いがけない僥倖に、メフメトはしばし身動きもせずに視線を向ける。
人の気配に気づいたのか、コンスタンティノスは振り向く。そして盛大に顔をしかめた。
「なんでお前がここにいる」
「私が育てているからな」
メフメトの言葉に、コンスタンティノスはますます眉間に皺を寄せた。
「私はただ、ナーサリー・ライムから『地下菜園に綺麗な花が咲いた、皇帝陛下も見た方がいい』と勧められたから来たのだが……お前が絡んでいるなら来なければよかった」
さすがにあの可憐な口調を真似する気にはならなかったか。
メフメトから視線を逸らし、コンスタンティノスは再びチューリップを見た。
「まったく……こんな男がこんなに美しい花を咲かせるなど、この世は不条理だ」
その言葉に、メフメトは希望を抱いた。エミヤの言葉を思い出す。
「つまり、花は美しいと」
「誰が咲かせようが、花は花だ」
コンスタンティノスは口を尖らせる。生前の立場からはそぐわないしぐさが意外だ。サーヴァントとして現界したことで肩の荷が降りたのか、メフメトが知らなかっただけでもともとこういう性向なのか。
「そうだ」
「なんだ」
「チューリップを一本持って帰らないか。今手折ってやる」
「いらない」
「そう遠慮するな」
「遠慮なんてしてない」
曲剣と並べてベルトに差している園芸バサミを取り出して、メフメトは赤いチューリップの幹を切った。
「ほら、もう切ってしまったぞ。花瓶に生けなければ枯れる」
「植えた花への愛着はないのか」
「愛着? あるぞ。だからこそお前に贈りたい。お前の戦装束に映えるだろう」
「お前っ……そういうところが……!」
コンスタンティノスはメフメトの手からチューリップを奪い取った。
「花瓶はマスターに聞けば出してくれるだろう。花に罪はないからな!」
ぷりぷりと怒気をあらわにしながら、コンスタンティノスは地下菜園を後にした。
メフメトは静寂が支配する地下菜園に残される。その心は浮き立っていた。
「やっとこっちを見た」
歓喜のつぶやきを聞く者はない。
できれば、少しでも長くその瞳に己を映していたい。己でその視界をいっぱいにしたい。
この感情の名前を、まだメフメトは知らない。
生前のメフメトは、欲が湧いたらハレムの女かそば仕えの小姓で発散していた。
しかし、あの男をそのようには扱いたくない。女や小姓はやむなく、もしくは野望を持ってメフメトに抱かれていたが、コンスタンティノスには自我を持ったまま立ち向かって欲しい。
あの三重防壁そのままに。
余人を寄せつけないあの壁があったからこそ、メフメトはコンスタンティニエに――その主に惹かれたのだ。
天井に据えられた擬似太陽を見る。花のためには陽光が欲しい。土を敷くためには、床をある程度凹ませた方がいいだろう。種や苗を入手するために、レイシフトにも同行しなければ。
するべきことが見えれば、視界もクリアになる。
メフメトは己のための庭を作るべく、考えを巡らせる。
生前も満たされていたが、今はとても幸福だ。