十三夜の約束「今日は月が明るいな」
開け放った戸の間から空を見上げて、豊前江が口にした。
審神者は目線を手元に落としたまま、そうですね、と相槌を打つ。はらりと吹き込んできた風に、彼女の手元を照らす灯りがわずかに揺れた。
「十三夜ですし」
「ああ、今日の栗料理は美味かったな」
片見月をよしとしない風流な面々によって、今夜の夕食には団子や栗料理などが振舞われた。
桑名江を中心にして育てられた旬の食材はいずれも美味で、それらは月を愛でる間もなくなくなっていった。
「クレーターっつったっけ?窪みまで見える気がする」
「月といえば、土地の名前も面白いですよ。蛇の谷、喜びの湖、虹の入江…」
「主は月に行ったことあんのか?」
「いいえ、土産話は聞いたことありますが」
宇宙開発だテラフォーミングだと騒がれていても、地球の人間はなんだかんだで23世紀の今も地球で暮らしていた。暮らしていくしかない、のかもしれない。
そんな中で、月旅行は日常に飽いた人々の娯楽になっていた。
十三夜の月の上は、存外騒がしいのかもしれない、と審神者は思った。
「あなたは、行ったことありますか?」
審神者の言葉に、豊前江はキョトンと目を瞬かせ振り返った。
「まさか。なんであると思うんだ」
「神様ですから。人間みたいに乗り物に乗らなくても行けるんじゃないかと思って」
「俺らみたいな付喪神じゃ無理だよ。上の神様は行けっかもしれねーが」
月に目線を戻して、豊前江は答える。そうしてしばらく考える顔をした後、焦がれるように笑った。
「行けるなら、行ってみてーな」
その目は、ひとりで遠乗りに出かける時の、どこか他者が入り込むことを許さない赤い瞳だった。
それに俄かに不安を覚えた審神者は、ふっと息を吐いて顔を上げた。
「はい!できました」
「お、サンキューな。篭手切が次のれっすんでどうしても使うって言うからよ」
審神者が手元で繕っていたのは、軽装として誂えた着物のほつれだった。篭手切江が遠征に出ている間に直してしまいたいと、豊前江が審神者の部屋に持ち込んできたのだった。
「こういうのは私も得意ですから。またいつでも言って下さい」
「助かるよ。パーツの整備と違って、こういう事は得意じゃないからさ」
豊前江は受け取った着物を畳まずに肩に引っ掛ける。
審神者はゆっくりと立ち上がり、彼に背を向けて棚を開けた。
「もし」
裁縫道具を片付けながら、審神者はぽつりと口にする。
「もし行ったら、月の砂をお土産に持ってきて下さいね」
「砂?そんなんでいいのか」
花一輪、川の小石、木の葉一枚。
豊前江がふらりと遠くに出かけるたびに、審神者は子どものように土産をねだった。
そのどれもは大したものではないが、審神者の部屋には押し花にしたり磨き上げられたりしたそれらの土産が、大事そうに飾られていた。
それは、審神者の希いだった。
それがなければ彼は、ある日ふいに帰って来なくなるような、そんな気がほんの少しだけ、するから。
「一握りくらいなら、ポケットに入るでしょう?だから……」
「主」
豊前江は彼女の背後に寄ると、長い手指でポン、と審神者の頭を撫でた。
「心配しなくても、俺はちゃんと主の元に帰って来るよ」
ああ。
分かられていたのか。
審神者が土産をねだるのは、持って「帰って」来て欲しいからだ、と。
「いつか一緒に行こうぜ。乗せてってやるから」
まるでできるのが当然のように、豊前江は笑顔で言った。
審神者の頭には、バイクのような乗り物に2人乗りをして、空を駆ける豊前江と自分が思い浮かんだ。
まるで、昔見た古い古い映画のように。
それがなんだかおかしくて、審神者は笑いながら頷いた。
「約束ですよ」
おう、と爽やかに請け合って、豊前江は踵をかえす。
「それじゃおやすみ、主」
「おやすみなさい」
部屋へと戻る豊前江を廊下まで見送って、審神者は夜空へ視線を移した。
よく晴れた空からは、少し欠けた月と星々が、束の間の秋を照らしている。
十三夜、神様との約束。それに少しの安堵と期待をして微笑むと、審神者は静かに戸を閉めた。