※注意※
この物語は仁王シリーズに登場する『足利義輝と果心居士(および霊石)』をテーマに書いた二次創作です。しかし我々の世界の歴史ネタだったり、独自設定や歴史上の人物の名を使ったオリジナルキャラが出てきたり、説明のない『うちの子設定』があったりと好き放題なので、いろいろと注意してください。なんでも許せる人だけどうぞ。
コロコロ変わるとわかりにくいので名前は一般的なものに統一しています。
一
「室町幕府第十三代征夷大将軍、従四位下足利参議兼左近衛権中将源朝臣義輝、参る」
清眼に構えた刃の先では猿鬼が鉾を片手に雄叫びを上げている。
「ギィャオォォ」
頭部に巨大な一本の角を生やし、深紅の眼をぎらつかせる猿形のあやかしは、地を揺さぶるような激しい足踏みをし、弾むように七尺ほどの高さまで跳躍する。同時に振り上げられた腕からは鉾が放たれ、対峙する者のもとへ一直線に向かってゆく。
動かない。
猿鬼と相対する男は、それを躱そうとも、防御の姿勢を取ろうともしない。こびりついた血と錆で赤黒く染まった刃が鈍い光を放ちながら直立不動の男へ迫りくる。その胸に突き刺さらんとした刹那、小さな旋風が巻き起こり、男の纏う小袖が大きく揺れた。投げつけられた鉾が地に突き刺さり砂塵を舞い上がらせるが、何者も捕らえてはいない。しかしそれを放った猿鬼は、角を失った頭部から煙をあげ、ばたりと倒れていた。
あやかし特有の血の色であるのか、それとはまた違った体液の色であるのか…黄金に輝く汁が男の愛刀からしたたり落ちている。ひゅんと空を斬ってそれを飛ばし、懐から取り出した紙で刀身をぬぐう。陽光を受けた刃は、ひとつの毀れなくまっすぐと煌めきを撥ね返していた。
「ふん」
蔑むように、憐れむように、そしてどこか安堵するように、小さく息を吐き刀を鞘におさめる。
足利義輝。居館の裏山にて、愛刀・大般若長光を振るいあやかしを狩る男の名である。京を守護し、日ノ本六十余州を統べる征夷大将軍のはずであるが、度重なる争乱に巻き込まれ、近江国での避難生活を余儀なくされていた。
ひと息つき、義輝が居館へ戻ろうと、草を踏み倒して出来た道へ身体を向けたときである。
「む」
背後の薮から十数羽の鴉が甲高い鳴き声をあげて一斉に飛び去った。
何かが居る。獣か、大型のあやかしか。ふたたび刀の柄に手をかけ、じりじりと薮に歩み寄ってゆくと、見慣れぬものが地に転がっていた。
「これは」
拳ほどの大きさをした黄金色の石。陽光を受けてか、みずから光を放っているように見える。
義輝はそれを拾おうと前屈みになるが、手は石へ伸ばされることなく刀を抜き放っていた。左足を軸に身を翻し後方へ斬りかかる。手応えは無かった。
「何者ぞ」
問いかけた先には僧らしき姿の男が立っていた。編笠を被り、襤褸をまとった肩に絡子が掛かる。右手に持った錫杖は靄のようなものに包まれ輪郭がぼやけている。骨に皮を貼りつけただけのような痩身は鉛色で、全身に深く刻まれた皺と隙間なく書き込まれた経文、そして深紅の重瞳が、この世ならざる存在であることを主張してやまない。
刀の鋒と眼光、三つの煌めきがじりじりと距離を詰めるにもかまわず、僧形の男はおもむろに口を開く。
「…強きを求めるは、何がためよ」
頭の奥を強く揺さぶられるように声が響く。義輝は吐きそうなまでの不快感を押し殺し、毅然とした態度を必死に保ちながら返す。
「決まっておろう。幕府復権を果たし、世を建て直すため」
僧形の男は顔色ひとつ変えぬまま左手を伸ばす。掌に載せられた石は、足許のそれと同じ黄金色の輝きを放っていた。
「なれば霊石に乞え。さすれば望みは叶えられよう…」
「去ね」
言い終わらぬうちに義輝の愛刀が唸る。奴はそれを難なく、音も立てず躱してみせた。
「人ごときの力で世を創ることなぞ出来ぬ」
「戯言を申すな」
「人が創りし歴史の裏へは常に…」
「黙れ。去なねばこの大般若長光の餌食としてくれん」
言葉の応酬ともよべぬやりとりの中、斬撃が間断なく放たれる。しかしどれも衣に掠りすらせず、霞を追っているかのごとくふわふわと避けられ続ける。
「余は余の力で幕府をっ…!」
跳び上がりながら大上段に振った刃は、何者もとらえることがかなわなかった。奴の姿が視界から消え失せている。しまったと周囲を見回すと、左後方から金属の擦れる音がきこえた。前方へ転がるように身をひねり視界を移すと、見失った標的が居た。闇を貼りつけたような漆黒の塊がそばを浮いている。
「いずれわかるときが来よう」
そう言い捨てると、僧形の男は闇の中へ足を踏み入れる。まるで目に見えぬ怪物が奴を喰らっているかのごとく姿が消えてゆく。全身が闇に呑み込まれると、その塊は徐々に小さくなり、やがて消えた。義輝に刃を振るう気力は残されていなかった。
「…わが祖よ……」
地に打ち捨てられたままの霊石を掴み上げ、陽光にかざしてみせる。己れを照らす禍々しき輝きから目を逸らさず、じっと睨み続けた。
* * *
弘治三年(一五五七年)、近江国朽木谷。
義輝は今日も裏山に入っていた。両断された餓鬼の屍体が足許に転がる。妖鬼が唸り声を上げくずおれる。愛刀・大般若長光を鞘に納めながらふうと息を吐き、袖で汗をぬぐっていると、背後から草をかき分けて烏帽子姿の男が現れた。
「上様、やはりこちらへおられましたか」
薄汚れた小袖と裁付袴を身に纏い、片端を刃のように加工した三寸ほどの竹を両手に持っている。遠出から帰ったばかりなのであろう、似合わぬ無精髭を口周りに浮かせながら涼やかに笑む。
「藤孝か」
「さきほど戻りもうした」
細川藤孝。義輝が信頼を寄せる幕臣の一人である。義輝の都落ちに付き随い、現在は帰洛に向けて諸大名や朝廷との交渉に奔走している。
「うむ、大儀。話は屋敷で聞こう」
「お疲れにござりまするか?」
言いながら藤孝は右手の竹をひょいと投げる。
「ふん。あやかしごときに汗ひとつかいておらぬわ」
飛んできた竹を左手ではっしと掴む義輝の強言からは、まだ戻る気はないという感情が滲み出ていた。藤孝の口からわずかに洩れたふふという笑い声は、彼の耳に届いてはいない。
どちらからともなく構えを取り、向き合う。
「室町幕府第十三代征夷大将軍、従四位下足利参議兼左近衛権中将源朝臣義輝」
「室町幕府御部屋衆、従五位下細川兵部大輔藤孝」
「参る」「参る」
京が必ずしも安全だったとは言えないが、外はそれ以上の危険にさらされている。近江国との国境にそびえる山には数多のあやかしが棲んでおり、賊徒からの追討とあやかしからの襲撃に怯えながら遁走した日々は今も忘れることができない。
そんな義輝が己れの身を守るために武芸を修めようと思い至るに難くはなかった。剣の達人と名高き常陸国鹿島の塚原卜伝と云う男が廻国修行にて近隣を訪れていると知るや、それを招き指南を乞うた。鹿島新当流の剣技を授けられた彼は現在もこうして、あやかし相手に刃を振るうことを日課としている。
怒りや哀しみ、特定の感情に身をゆだね視界に入るもの全てへ殺戮を繰り広げる、人ならざる存在──奴らが襲う相手に貴賤は関係ない。無論、剣の巧拙や喧嘩の強弱も問わない。ゆえに、己れの腕を存分に振るえる。人の賊ならば標的を選ぶであろうし、幕臣たちとは不必要な忖度により満足のいく手合わせは希めなかった。ともに剣技を学んだ仲でもあるこの藤孝が、唯一まともに取り合ってくれる相手であった。
「四年経ちましょうか」
カッ、コッ、と竹同士が触れ合う音が山に弾ける。そこに二人の言葉が混ざっては消えてゆく。
「ああ。余も二十路を超えた」
「朽木谷での暮らしにも板についてきたのでは」
さまざまな角度・高さからの打ち込みを捌き、攻めに転じる。受けては返し、打っては受ける。
「喜ぶべきことではない」
「まことの思いは」
「む」
二つの竹が斬り結ぶ。藤孝の言葉に義輝の力がわずかに弱まる。隙を見た藤孝は強く押し込めてやろうとするが、義輝もまた即座に力を込め直し抗する。
「…将軍ならば、京に居るべきであろう」
「ごもっともで」
拮抗した力が分かたれる。ひと呼吸置き、ふたたび斬り込み合う。言葉より多くの刃が交わされてゆく。胴を狙った藤孝からの突きを躱しながらその手首を打つ。竹がぴしゃりと音を立て地へ撃墜する音を聞きながら、義輝は返す刀で空手となった対手の喉笛…から半寸ほどのところで刃を止めた。
「お見事」
藤孝は一切の焦りも怯えも見せず、ただ感嘆の息を洩らしながら、参ったという風に両の手を挙げ微笑んでみせる。
「やはり上様には敵いませぬな」
「剣では、か?」
「なにをおっしゃいます」
言い終わるが早いか、背を反らせつつ腰を落とすと義輝の脇下に潜り込む。それを追うように肘打ちが迫るが身体を半回転させ右に躱す。ずんと一息に立ち上がり、右手で義輝の胸ぐらを、左手で袖をそれぞれ掴み引き寄せる。肩と肩が触れ合い、投げの体勢に入ろうか…というところでぱっと手を離し、二人は向かい合った。わずかな沈黙に視線が宙で衝突する。
「……はは」
「はははは」
しかし次にはもう笑い合っていた。
「余と牛、どちらが強かろうか」
「上様には角が生えておりませぬからなぁ」
「なれば生やすか、角を」
「如何に」
「ぬしが狩った牛からもぎ取って付ける。さあ、狩ってまいれ」
「もう牛とやり合うのはご免こうむりまする。上様が狩られたあやかしの角にいたしましょう」
「余があやかしになってしまうでないか」
「牛ならよいのですか」
「牛将軍よな」
冗談混じりの言葉を互いに飛ばしながら、二人は山を下りてゆく。
あやかし狩りと、藤孝との手合わせ。ただの一人の武人として刃を振るっている間は、浮世の鬱屈した日々やしがらみを少しだけ忘れることができた。
屋敷へ戻ると二人は着替え、応接間に座していた。義輝の前には文机が置かれている。ともに先ほどの雰囲気とはうってかわって、険しい面持ちに重々しい空気をたたえている。
「三好から和睦の申し出が届きもうした」
懐から一通の書状を取り出し、文机の上に置いてみせる。
「ふむ。和睦、か」
「上様の帰洛も叶いましょう」
「…そうするしかあるまいな」
藤孝の言葉に義輝は淡々と返すのみである。
「敵わぬか」
「敵う点があるとすれば…」
ちらりと視線を逸らし、少し溜めて戻す。
「血筋、くらいでしょうな」
義輝はそれを聞いてははと笑ってみせる。
「ぬしでなければ斬っておるぞ」
「承知の上で」
藤孝も笑い返す。
将軍家を圧倒し京の支配権を獲得したのは、阿波国より海を渡り京畿一帯に勢力を伸長させている三好家であった。幕臣たちの中には、義輝を見限り三好家へ奔る者が続出しており、現在の義輝に侍る臣は藤孝を含めわずか四十名ほどであった。
とはいえ、将軍が京を逐われるのはこれが初めてではない。義輝は幼少期から戦乱の渦中に身を置かされ幾度となく洛外へ避難していたし、義晴はじめ前代の将軍たちも同様に他国へ身を置くことが少なくなかった。しかしそのたびに、力を蓄え反撃、あるいは敵対者との和睦の道を選び、華の京へ舞い戻っていたのである。将軍の帰洛を受けて幕府へ帰参した臣も多くあった。
将軍家直属の兵は二千から三千ほどあったが、離京にともない現在は数百程度に減ってしまっている。そのため、数万規模の動員を可能とする三好家へ反撃するとなればどこぞの大名家の助力が必要となるが、先代と親密な関係にあり義輝の避難地からほど近い南近江の六角家からは期待する返事は得られなかったし、幕府への忠誠を誓い今にも出兵せんと願っている越後国の長尾景虎は、信濃の地を荒らしまわる甲斐国の武田家とそれへ属する国人衆の対応に手を焼いており余裕がない。ゆえに幕臣たちからは和睦の声が多くあがっており、三好家からそう持ちかけられるのは願ってもないことであった。
「…しかし、てっきり義維あたりを立てるものかと思うておったが」
書状を開き目を通す義輝と、それを見守る藤孝。二人の貌が険しいものに戻る。
「零落の身であれど上様は歴とした征夷大将軍、無用な争いを避けるためでしょう。将軍職を逐われるも十五年の雌伏を経て返り咲かれた義稙公の例もありますれば」
「そうさな」
足利義維は将軍家の一族で、義輝の伯父にあたる。阿波国に居を置いており、三好家が義輝追放後に新将軍として擁立するものと噂されていたが、どうにもその動きは見られなかった。
「我らと三好家の対立は管領である京兆家の後継者問題が始まり。上様へ刃を向けるは本意でなきものと」
「とはいえ度重なる離京を強いられたことは事実。余が剣を修めておらねば、どうなっておったかわからぬぞ」
「餓鬼の餌になる上様、見てみとうございましたな」
「ならぬが」
「はい」
即答する義輝へ藤孝は間の抜けた返事を飛ばす。
「まあよい。奴らのせいで退屈せぬし鍛錬にもなる。ゆえに不問としておく」
言い終わると書状を放り投げ、場を仕切り直すように脚を組み直し、腿で頬杖をつく。
「…余は、此処で来る日を待っておってもよかったのだが」
「将軍は京の平和の象徴。それがいつまでも不在となれば民たちも不安でありましょう。我らも上様とともに帰洛できんことを願っておりまする」
「どうであろうな。あやつらにすれば戦の火種が帰ってくるのだぞ」
義輝の茶化したような態度に構わず藤孝は続ける。
「三好は幕府を守り上様の矛となり盾となる所存、と申しておりまする。精強な三好軍を飼いならすことが能うのならば、こうしていつおとずれるかわからぬ滅びを待つより上策かと。互いに手を取り合う道であれば、京が戦火に包まれることもなくなりましょうし、民の平穏も、上様の京での暮らしも守られまする」
「幕府の矛となり盾となる、か…。奴らがそう言うのであれば余も将軍として、そうされてやってもよい」
言いながら寝転がるように身を斜め後ろへ伸ばし、床の間へ置かれているものを掴み投げる。
「しかしわかっておろうな」
「無論」
自身へ飛んできたそれを藤孝は両手で抱くように受け取り、障子の隙間から差し込む光へかざしてみせる。拳大の石が、黄金色の輝きを放っていた。
「幕府に霊石は要らぬ」
三好家が戦に霊石を用いているとは義輝たち幕府にも知られている話であった。義輝が近江国へ遁れる折、追ってきた兵らが荒ぶるあやかしと同じ深紅の眼であったこと、うち半数ほどが今にも装具を突き破らんとするほどに盛り上がった筋肉を有する腕であったことから、ただの人ではないと感じた。半月ほどして、避難先の屋敷に現れた三好軍の使者を問い詰めたところ、一切悪びれる様子もなく霊石の使用を首肯したのである。
「しかし如何いたしましょう。かの件を話したとて、上様が妬みから虚言を吐いているなどと一蹴されかねませぬ」
「妬んでおらぬとは言えぬがな。当主である長慶自身の才覚と器量は言わずもがな、奴を支える三人の弟や一族の者も粒ぞろいであると聞く。そして松永兄弟をはじめとする有能な臣たち。奴らの実力、悔しいが認めねばなるまい」
「…三好家の強さは霊石に依るものではない、と仰りますか」
霊石を左右の手で投げ合いながら訊ねる藤孝へ、義輝はやや不機嫌そうに、しかし認めざるをえない事実を述べてゆく。
「ああ…。霊石にて武の面は強化できようが、智の面はそうもいかぬであろう。親の仇を討つどころかそれに仕え密かに牙を研ぎ、機を見て味方につけた国人衆とともに噛みつくなぞ、智と忍耐があればこそ。領土の検地や水論の裁許を精力的に行ない、民からの支持を得ておるらしい点も評価できる。
武家の当主として乱世を生き抜くには、ただ武に秀で、合戦にて多くの兜首を取ればよいというものではなかろう。ゆえにこうして栄えておる三好は…斯様な石に頼らずとも十分強いのではないか」
「なるほど」
頷きながら続きをうながす。
「かつて没落した家、少なき兵により強大な力が求められたやもしれぬが、今や長慶の差配ひとつで十国を超える四,五万の兵が動くときく。日ノ本に比肩する者がおらぬほどの大勢力ではないか。これ以上なにを求めよう」
「お言葉、全て彼らへ伝えてさしあげましょうか」
「要らぬ」
あからさまな不快をあらわした貌に藤孝はくすりとしながら返す。
「拙者にとっては上様から賞賛のお言葉を頂戴するなど、この上なき誉れでありまするのに」
「うむ…世が文武に秀で我が臣として諸国へ疾り忠を尽くす藤孝のような武士ばかりであらば、天下も治めやすかろうがな」
「彼らは実が伴っておらねば動かぬでしょうから」
「忠によって動いておれば、余も今のような目に遭うてはおらぬ」
吹き出す藤孝に構わず義輝は文机の筆をとり、ゆっくりと動かしてみせる。
「ひとまず当主長慶、弟実休、そして松永…久秀あたりへ適当な官職を与るか。修理大夫、弾正少弼、相伴衆に御供衆…。長慶嫡子の孫次郎へは偏諱を与るとする…これでよかろう」
挙げられた名と与えられる栄典がつらつらと紙に並べられてゆく。一通り書き終えたところで、筆を持ったままの手がぴたりと止まった。
「…実、か……」
筆先から紙へ、じわじわと墨液が流れ込み薄黒い染みを拡げてゆくなかで、先ほどの藤孝の言葉を反芻する。たしかに官職や偏諱を賜るは武士にとって誉れ高きことであろうが、征夷大将軍という名すらも地に落ちた現在、その〝誉れ〟の価値はいかばかりか。紙切れと同等か、あるいはそれ以下やもしれぬか。ならば価値のある〝実〟とは何か……。
そう考えたとき、首は床の間のほうへ向いていた。じっと一点を見つめ、やがて小さく頷き、止まった手が再度動き始める。硯に溜まる墨液をすべて吸い取らせた筆が紙上で踊る。書き終えて筆を置き、ふたたび頷いた。
「加えて、大般若長光を出そう」
「な…」
藤孝は吃驚の声を洩らした。
「よろしいのですか? 上様が幼き頃よりともに過ごされてきた、相棒にも等しき御刀ではありませぬか」
「ゆえに価値がある。現在の京の実質的支配者は三好、どのみち無傷で帰れるとは思うておらぬ。なれば此方から過剰な条件を提示しておき、和平の儀を有利に進めるも悪くなかろう。我が足利将軍家に代々伝えられ、余が愛したこの刀…それで奴らを抑えられるならば安きことよ」
動揺の色を見せる藤孝に義輝はあくまで落ち着いた体で返す。墨で刻まれた愛刀の名が、乾くを知らず黒々と煌めいている。
「…代わりならばいくらでもおる……」
床の間に置かれた刀架。そこへ掛けられている大般若長光へ背を向けながら、ぼそりと呟く。当家に伝えられる宝剣はこの一振りだけではないし、諸大名から献上された名刀も数多保有している。そのため義輝が差料に困ることはない。しばし考え込むように眉間へ指を置きつつ俯き、少ししてゆっくりと顔を上げる。
「…あとは藤孝に任せる」
「重責ですな。しかし牛よりは軽いでしょう」
義輝が決めたことならば何も言うまいと、深々と頭を下げながら放たれる返事には彼らしい軽口が戻っている。
その直後、はっと何か思い出したように頭を上げる藤孝は、遊び飽きて脇に置いていた霊石を拾い上げ、自身の右目にかざしてみせる。
「ところで上様、霊石といえば…奴は、現れ申したか」
輝きを放ちながら、複数の面が瞳を映し出し増殖させている。奴とは他でもない、義輝が山で出会った僧形の男のことである。玩具にされている霊石は奴が置いていった。一人のときを狙っているのか、藤孝はその姿を目にしたことはないが、よく話をきかされていた。義輝は顎に指を置き記憶を掘り返す。
「いや、奴も奴で忙しいらしい。余らが朽木谷へ来てからは一度しか見ておらぬな。まだ霊石を使っておらぬのかと言いたげであったか」
「左様でしたか。ともあれ幾度現れようと上様のご決意は変わらぬのでしょう」
「うむ、次出た折には仕合うてやろうかと思うておる。余の良き対手となろうて」
「はは、それは妙案かと。しかし上様は幻術の類が不得手であったと記憶しておりまするが」
「戦場ではそうも言ってられぬだろう。それにそちらのほうが戦り甲斐もある」
からからと笑う藤孝に向かって右手の薬指と小指を折り、印を切るような仕草をしてみせる。義輝は幻術を嫌っていた。操る者の問題ではなく、単に幻は刀で斬れないためである。しかし同時に、幻を見てしまう自身の精神に問題があると解釈し精進を続けるのだった。
「…ぬしはどう見る」
改まった貌で訊ねる。
「と、申しますと?」
「奴の目的が幕府の滅亡ないし崩壊であったらば、よもや三好家の霊石使用は奴の入れ知恵であるまいかと思ってな」
「ふむ、ないとは断言できませぬ」
現当主・長慶の父である元長も畿内で大暴れし幕府の脅威とみなされていた。しかしそれを怖れた主君に討たれ没落した。そのような過去をもつ三好家、かつての栄華を取り戻せとでも謳えば、霊石による莫大な効果が期待できるとみるのではなかろうか。
「しかし難なく上様の背後を取るような者。斯様な回りくどい手を使わずとも直接始末できるのでは」
「させぬが」
「はい」
流れるようにからかう藤孝には慣れたものである。
「余の剣技を怖れておるのか」
「…あやかしは原来人へ害を与えぬものといいまする。それが戦乱の瘴気を浴び凶暴化し、人を襲い、ときには喰らう存在に成り果てると」
話が逸れぬよう適当にあしらいながら続ける。義輝も少しばかり不服そうな色を浮かべただけですぐに本題へ戻る。
「ああ。室町三代将軍義満公の治世に於いては奴らも穏やかであったときく。鹿苑寺の舎利殿建立に際して、あやかしの力を借りたとの話も伝わっておるしな」
「上様は、かの編笠の者は人でなくあやかしの類いであろうと仰せでしたね。ならば我々を滅ぼさず三好家と争わせ続けることで凶暴なあやかしを増やし、世を混沌の渦に陥れることが目的やもしれませぬな。上様の御前へ現れたのも三好家へ対抗する力を与えんとするためではと、この藤孝愚考いたしました」
「戦が長く続けば人は減り、あやかしは増える。新たにあやかしが支配する世を創るとでもいうか…大それた話よな」
腕を組み小首をかしげる義輝は、文机に置かれた紙を見つめていた。
「だが、ないとも断言できぬ」
自身より強大な力を持つ者たちを従え、この世から戦を無くす…という義輝の望みも、奴の望みかもしれぬそれと同じほどに大それた話である。ならばありえぬことではないと頷いた。
「この世は、人だけのものではありませぬから」
あやかしの望む世とはなんであろうか。人の争いに乗じて、無力な人へ殺戮を繰り広げることであろうか。それとも泰平の世を人とともに穏やかに暮らすことであろうか。あやかしでない義輝にはわかりかねるが、あの僧形の男の成そうとせんとすることがあやかしの総意でないことは確かであろう。
「…しかし三好は余を害さずに居るし、和睦を持ちかけてきておろうが」
「三好も何者かの傀儡となるをよしとせぬのでしょう」
言いながら藤孝は笑みを向ける。傀儡…精強な大名におんぶにだっこな〝お飾り将軍〟から脱却しようと奮闘している義輝には馴染みの深い言葉であった。思わず笑い返してしまう。
「ようわかる」
「奴の目的はどうあれ、上様は上様のなすべきことをなされませ。将軍が京へ戻られ、三好がそれを護りつつ近隣諸国に目を光らせる。京畿はそれで多少なりとも穏やかになりましょう。しかし上様のお役目は、京畿の平和を守るだけではあらぬかと」
「…ああ。やらねばならぬことは山積みよな」
幕府復権を果たし、天下の兵をより多く将軍の名のもとに従わせ、戦なき世へ導かねばならぬ。こたびの和睦はそれへの第一歩となろうと二人は考えている。
「上様は牛より重きものを背負っておられるのですから」
「致し方あるまい。余は、将軍ゆえな」
その短かなやりとりにすべてが込められている気がした。笑みを交わす者たちの前途は多難である。
「…さて、景気づけに酒でも持ってまいりましょうか。それまで上様はゆっくりお休みくださりませ」
返事を聞くよりも速く、藤孝はそそくさと部屋を出ていってしまった。ぴしゃりと閉じられた襖の音を合図に、義輝は糸が切れたかのごとく両腕を伸ばしごろんと背をたおす。飾り気のない天井がこちらを見つめている。
「…ふう」
どこか落ち着かぬといった様子で首をまわせば、仄かな畳の香りが鼻腔を刺激する。同時に、置き去りにされたままの霊石が視界へ入った。
「望み…か」
それを拾い上げ身体を起こす義輝の脳裡には、僧形の男と初めて出会った…まだ己れが元服直後の少年だった頃の記憶が甦っていた。
「将軍として、余は……戦わねばならぬ」
忌々しいその姿をかき消すように立ち上がり、霊石を床の間に置く。代わって刀架の大般若長光を手に取ると、障子を開き庭へと出た。
「…頼むぞ」
抜き放たれた刀身が、義輝へ言葉を返すように煌めく。泰平の世への嚆矢となる光…それを受けて目を細める貌には、寂寞と喜悦とが混ざり合っていた。鞘を置き、大上段に構える。東の空へ浮かぶ陽を斬るように刃が振りおろされ、遅れてひゅんと唸りがあがる。別れを惜しむ愛刀の哭き声が、風に載り遠くへ流されていった。
三好家との和睦が成り、義輝が帰洛を果たしたのは翌年のことであった。
【続】