Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    Shiori_maho

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 🌻 💚 💜 🌠
    POIPOI 16

    Shiori_maho

    ☆quiet follow

    フィガファウ未満、からの現代転生フィガファウ♀です。(大学生設定)
    現代フィガロがモブの女の子とキスをしている描写があります。
    モブの友達もでてきます。
    過去などいろいろ捏造しています!

    #フィガファウ
    Figafau

    リンカネーション 幸福を手にしても、それがいつか確定的に失われることを知っていた僕は、そうと自覚せず臆病だった。
    「ああ、」
     すべてを悟った顔をしたあなたは、南の国の花畑に降るあたたかな陽だまりのような眼差しで僕を見つめた。そうして僕へと伸ばされた指先。師匠と弟子、ふたりで暮らすこの部屋に差し込む光を反射して、繊細にあえかにきらめいた。はっ、と僕は息を呑む。
    「……フィガロ、」
     あなたの名を呼ぶ声はふるえていた。それに呼応したように、僕はふるふると首を振る。目を見ひらいて、僕へ伸ばされたきらめきに怯えるように後退った。けれどもきらめきは僕の前髪を梳き、そのままこめかみ、耳の後ろを撫でてうなじごと僕を引き寄せる。とん、と倒れ込むようにあなたに抱きとめられた僕の、鼻先があなたの温度にぶつかる。ひりつくように偉大で、それでいて大らかで穏やかな、馴れた香油の匂いが僕を包み込む。
    「ファウスト。きみが俺の弟子でよかった」
     空間に溶けてゆくように、静かに沈んでゆくように、そっと落ちたあなたの声は笑みを含んでいた。笑みがはらむのは、自分の人生を僕に手渡した達成感。ちがう、まだだ。まだ、僕はあなたに。僕より幾分か背の高いあなたを見上げて、僕はくちびるをひらいた。それなのに、からからに乾いた口からはひとつも言葉が出てこない。ほのかな光を宿したあなたの親指が、僕の目の縁をなぞる。その指先はまだ、ちゃんと温かいのに。
     あなたの指先に、草葉の露のようにしずくがきらめいていた。それが自分の涙だと悟った途端に、堰を切って頬を伝う涙の感触。濡れた眼差しで見上げるあなたが、ほんのわずかに眉を寄せた。痛みを堪えるように。
    「笑って、ファウスト」
     切実な声であなたが僕に願う。あなたの願いを叶えたかった。けれども、
    「笑えない……っ」
     僕は激しく首を振った。嗚咽にまみれた息を吐きだして、あなたのシャツにきつく縋りついた。涙が次から次へとこぼれてゆく。いやだ。いやだ。いやだ、
    「いやだ、フィガロ……っ」
     自分の叫びが耳に届いたまさにその刹那、身体のもっとも中心に込み上げてきた後悔。あなたのシャツを掴む指先ががくがくとふるえる。いったんは分かたれたものの、ふたたびあなたを師と仰いだ人生。尊敬していた。あなたの知識を、経験を。呪文を紡ぐ明瞭な声を。本の頁を捲る迷いのない指先を。――けれども、それだけではなかったのに。
     朝日を浴びた横顔。ティーカップにシュガーを落として、くるくるとかき混ぜる気の抜けた手つき。南の子供たちからの差し入れをひろげる緩んだ表情。湯浴み後の髪の匂い。
     ――師匠としてだけじゃない。僕は、あなたに。
     はっと目を見ひらいた。本当はずっと以前から知っていたのに。この感情の存在を知っていたのに。今になってようやく認めるなんて。
     眼差しに涙を溜めて、あなたを見上げた。グレイの瞳を見つめた。そうしてあなたを呼ぼうとした。けれどもあなたに追い抜かされた。
    「ファウスト。俺は……」
     目を眇めて、ぎゅっと眉根を寄せた苦しそうな表情。それに愕然として息を止めた僕の、頬にあなたの影が落ちる。あなたの前髪が僕の前髪と触れ合う。きらきらと陽光を反射する手のひらが僕の頬を包んだ。そうして、祈るようなあなたの声が、僕のくちびるの上で。
    「俺は、きみに――」
     かしゃん、と綺麗な音がして、縋りついていた温度と質量が砕けた。僕の指先をすり抜けて、あなたが身につけていた聴診器、白衣、シャツ、ベルト、スラックスが床に落ちてゆく。それと一緒に、きらきらと、無限の色でかがやく石が。
     履き込まれた革靴にきらめきが降る。それに綯い交ぜになって、涙がぽたぽたと落ちていった。


         *      *     *


     私が入学する直前、春期休暇中に完成したというこの真新しい学食の、開放感のある大きな天窓からガラス越しに陽光がきらきらと降り注ぐ。学食の隅にある四人用の丸テーブル、その隅でランチバッグをひろげる私のもとにも。手製のオムレツの最後のひとくち、それを口に運ぶシルバーのフォークがきらめく。繊細に、あえかに。こんなふうに春めいた穏やかな日差しが降る日は、また――。
     がしゃん、と何かが割れるような音がした。はっとして、思わずそちらに目線を向けた。離れたテーブルに陣取っている賑やかなグループのうちのひとりが、食器をひっくり返した音らしかった。学食の食器は安価で丈夫なプラスチック製なので割れてはいない。私はそっと息を吐いて、ランチバッグを片付ける。
     学食を出ると、風が髪をふわりと攫った。腰近くまで伸びた髪が私の顔の前にひろがる。反射で目を瞑った。うなじを撫で上げる風がつめたい。それでも、冬に特有の肌を刺すような鋭さはない。
     風が収まったのち、乱れた髪を手櫛で梳く。指先に絡む癖毛を耳の後ろにかけて、眼鏡の位置を直した。私の歩みに従って揺れるベージュのスカートの裾が、ブロックタイルにゆらゆらと影を落とす。目指す先は敷地の中心に堂々と位置する医学部棟だ。といっても、私の所属は医学部ではない。
     私が所属する文学部の学部棟は、改装工事の真っ只中だ。学部棟が完成するまで、文学部の講義は他学部の講義室を借りて行われることになる。一コマ目の第二外国語は経済学部棟、二コマ目の文学概論は理学部棟というように。そして本日の三コマ目、文学史は医学部棟のP2-4講義室で行われる予定なのだけれど。
     ――P2-4ってどこ。
     私は初めて足を踏み入れる医学部棟で迷子になっていた。2-4だから二階かと見当をつけたけれど違ったか。私は先程上ってきた階段まで戻り、横の壁に設置された敷地図を見つめた。一階から六階まで、医学部棟の全体を図示している敷地図なのに、P2-4の文字は見当たらない。トートバッグ――一人暮らしを始める前に妹からもらった猫のキーホルダー、それがついている以外はシンプルなものだ――から時間割を引っ張り出す。文学史、医学部P2-4講義室で間違いない。それなら、P2-4は24講義室のことだろうか。
     とりあえず、24講義室に行ってみることにした。両脇に講義室が並ぶ薄暗い廊下を進んでゆく。人気のない空間はひやりとつめたくよそよそしい。叡智を司る矜持が、部外者を威圧しているかのようだった。
     無機質な足音を伴って辿り着いた24講義室。ドアの上部にはめ込まれたすりガラスからは、明かりや人の賑わいは感じられない。それでも、ドア越しに小さな物音が聞こえた。少し躊躇ってから、つめたさの染みたドアレバーをおずおずと押し下げた。静かに、重々しくドアがひらく。
     ふわ、と甘く華やかな匂いが鼻をかすめた。それに僅かに目を見ひらくのと同時に、鼻にかかったような、ぐずるような、女の甘えた声が聞こえた。声のほう――講義室の奥を反射で振り向いた。
     そこでは、一組の男女がキスを交わしていた。学生用の長机に浅く腰掛けた男の上に、女が跨るようにして絡まっている。思わず後退った私のパンプスの踵がカコンと床を踏む。男が、ブルーグレイの前髪の下から、視線だけをこちらに寄越した。気だるげな眼差しだった。それを受け止めた私の瞳は、石を投げつけられた水面のように大きくふるえる。
    「……あ、」
     愕然とした声が出た。それを合図にしたように、女のほうもこちらを向いた。私の癖毛とは違う、コテで綺麗に巻いた髪を片手でかき上げて、不機嫌そうに私を睨み付ける。彼女のブラウスのボタンは上から二番目までが外れていて、その隙間から白い肌と彩度の高いピンク色の繊細なレースがちらりと覗いていた。私はこめかみまで勢いよく血が上るのを感じながら、踵を返す。急いで講義室を出ようとしたら、閉まりきる寸前のドアにトートバッグが挟まった。肩紐を力任せに引っ張ってバッグを回収し、這うような気持ちで講義室を離れた。
     ばたばたと足音を立てながら階段のところまで来てようやく、私は立ち止まる。ごく短い距離を走っただけなのに息が上がっていた。とん、と階段と反対側の壁に背中を預け、ほとんど無意識に胸の前で手を組んだ。私に寄越された彼の視線を思い返したら、胸の奥でぎゅっと心臓が縮こまったから。
     あの眼差しは、かつて『僕』に向けられた眼差しとは全然違った。けれど、かつて『僕』に向けられた瞳と寸分違わず同じだった。きみが俺の弟子でよかった、と『僕』に微笑んだあなたの声。笑って、と『僕』に願ったあなたの息遣い。堰が決壊したように、私の頭に流れ込んでくる。あなたの瞳は、慈雨を降らす空のグレイ。あの頃も、つい先程も。けれどそれを上書きするように、ちかちかと瞳の奥で明滅する。白い肌と、鮮やかなピンク色のレースが。ぎゅうと目をつむる私の胸の奥に込み上げる苦しさは、果たして怒りか、それとも悲しみなのか分からない。
     女好き、と。
     吐き捨てるというには力なく呟いた。けれど、そう詰ることが正当ではないとも分かっていた。だって、私には今の私の名前と人生があって、もう『ファウスト』ではないのだから。同じように、グレイの瞳を持つあなたも、もう『フィガロ』ではないのだ。 

     自分の前世は魔法使いだ。そんな告白を、信じてくれるひとは一体何人いるだろう。
     サティルクナート・ムルクリード。物心ついた頃、私はその呪文で意志と結果を結び付けられないことに戸惑いを感じていた。同じように、「約束」を拒めば周りの大人や友人が不満げな顔をすることにも。心と自然を繋げること。心に誠実であること。それは幼い私のなかに明確に根付いた生き方であったのに、私を取り巻く世界とうまく符合しなかった。そんな場面に何度も直面した結果、やがて私は、記憶だと頑なに信じていたものは迷夢だったのだと自分を納得させるしかなかった。そう納得すれば世界は明快だった。時折――たとえば、春めいた穏やかな日差しがきらめく日。別世界へ迷い込んだようにせり上がる、記憶というには曖昧な光景。それらはすべて、私が想像力で作り出した夢。そう結論付けて、今日までつつがなく生きてきた。約束だって、ぎこちなくとも相手に微笑んで結んで生きてきた。
     それなのに。
     彼と出会ったその瞬間から、激しく押し寄せてきた明瞭な光景は、迷夢というごく常識めいた容れ物に押し込もうとしてもたやすく溢れ出した。儚い花びらと子猫。土埃と血の臭い。流星雨の降る雪夜。燃え上がる灼熱の炎。精霊のさざめき。古色蒼然とした呪い道具。頭上に迫る大きな月。身体から立ち上る毒々しい煙。夜闇に浮かび上がる処刑の丘。魂の彷徨う墓地。夜空を舞う黒い鳥の影。揃いの正装。テーブルに並んだ二十一人分の料理。欲望の渦巻くカジノルーム。多頭の怪物。月影に浮かび上がる聖堂。酌み交わした酒の深い紫色。鬱蒼としたいばらの城。さざ波の打ち寄せる砂浜。書物を捲る迷いのない指先。夜空の高さから見下ろした街並み。気の抜けた微笑み。ふたりぶんの食事。あたたかな差し入れ――そして、綺麗な音を立てて砕けたきらめき。
     縋りついていた温度と質量が砕けた日に、言葉にすることが叶わなかった思いまでも明瞭に思い出した。もう、これらすべてを迷夢と片付けてしまうことはできない。私は、――僕は、ファウスト・ラウィーニアとして前世を生きた。そうして前世の僕はグレイの瞳を持つ魔法使いに、フィガロ・ガルシアに恋をしていた。

     P2-4講義室は、医学部の敷地の端にあるプレハブ棟のうち、2号棟にある4番講義室のことだった。事務室の職員に尋ねて、ようやく講義室に着いたときには始業時間ギリギリだった。とても講義を受けられるような精神状態ではなかったけれど、大学から奨学金をもらっている身なのだから講義を休むことなどできない。カードリーダーで出席を登録して、空いていた一番前の席に腰掛ける。教壇に立って話し始めた教授の声に耳を傾けながら、トートバッグから教科書やノート、ペンケースを取り出す。そのときに気づいた。妹からもらった猫のキーホルダーがなくなっている。どこかで落としてしまったのか。
     もしかして、24講義室。バッグが、ドアに挟まったときに。
     ひどく気は進まなかったものの、講義がすべて終わったあとに24講義室まで戻った。ドア越しに様子を注意深く窺ってから中に入った。室内はがらんとしていた。床を慎重に見回してみたものの、猫のキーホルダーはどこにも落ちていなかった。事務室に、落とし物が届いていないかも確認しにいった。けれど猫のキーホルダーは届いていないということで、私は意気消沈して事務室を出る。そうして、間違っても彼と出くわさないように、周囲に気を付けながら医学部棟を出た。

     その日の夜に夢を見た。ぱち、ぱち、と爆ぜる暖炉の火。ふわふわとした室内履きを履いた足元は毛足の長い絨毯に沈んでいて、身体は肌触りの良いローブに包まれていた。僕はあたたかなミルクの入ったマグを、豪奢な刺繍の施されたソファのクッションで寛ぐひとへ差し出した。ありがとう、と偉大な声が言う。窓の外では、雪が音もなく降り続いていた。――ああ、ここはフィガロ様の屋敷だ。
     ほら、フィガロ様のシュガーだ。グレイの瞳をゆるやかに細めて、おどけたふうにフィガロ様は笑った。長い指先から僕のマグへ、ぽとんと落ちたシュガーはゆっくりと乳白色の液体の中に沈んでゆく。ありがとうございます、と僕も笑った。
     今日は特に頑張ったね、さすが俺の弟子だ。フィガロ様が、僕の癖毛を梳くように撫でる。それに心が高鳴った。刹那、暖炉の火が勢いよく弾けた。
     燃え上がる火。すべてを焼き尽くす灼熱の炎。フィガロ様の屋敷にいたはずなのに、周囲は果てのない暗闇に変貌していた。フィガロ様、と僕は手を伸ばした。けれどもフィガロ様は穏やかに微笑んだまま炎の向こうの暗闇へと去ってゆく。フィガロ様。フィガロ様。フィガロ様。伸ばした指先が炎に呑まれる。闇色の灰になって、ぼろぼろと崩れてゆく。手首も、腕も、肩も、僕のすべてが。――僕が。
     僕が、不出来な弟子だから。

     はっ、と瞼を見ひらいた。瞳にぼんやりと映ったのは白。天井だ。肩で息をしながら何度か瞬きを繰り返し、ここがつい二週間前に住み始めた一人暮らしの部屋だと理解する。私はのろく上体を起こした。そうして、身体の前に手のひらを持ち上げ、何の変哲もない肌色をしていることに息を吐く。ベッドから起き上がり、狭いワンルームを裸足で通り抜け、キッチンでグラスに水を汲む。それを飲み干せば、気分が少し落ち着いた。汗で身体に貼りついた肌着を着替えなければいけないなと思った。
     アパートを出発する頃には、気分はある程度落ち着いていた。清々しく爽やかな風が吹き、心地の良い日差しが降り注ぐなか、昨日と同じ通学路を歩き、大学まで辿り着く。一コマ目の講義が行われる理学部棟に向かった。入学式翌日のオリエンテーションで、席が隣だった子を見つけた。おはよう、と挨拶を交わしたけれど、彼女は他の友達と一緒だったので、私はいつも通り一番前の席で講義を受けた。講義が終わるころには、ほとんど平静を取り戻していた。
     医学部棟で講義があるのは昨日の文学史だけだ。週に一回だけ、注意深く気を付けて、まっすぐP2-4講義室に行けばいい。そうしたら、彼にはもう会わずに済むだろう。私の人生はこれまで通り、つつがなく流れてゆくはずだ。
     そう、思っていたのに。
     次の必修が行われる経済学部大講義室。そこへ辿り着いたとき、入口の横の壁に背中を凭せかけて、彼が立っているのに気がついた。私は目を見ひらいて息を呑んだ。後退ろうとした。けれどそれより早く、ふっ、と彼がこちらを向く。長い脚を操って、凍りついたようにその場に立ち尽くす私のもとへやってくる。ブルーグレイの前髪の下、私を見下ろすグレイの瞳。どうして、あなたが。
    「やあ。ひとり?」
     驚愕で言葉を失う私に、あなたは口端だけを持ち上げるようにして微笑む。
    「仕方なく? それとも好んで?」
    「答える、必要はないかと思いますが」
     懸命に応じた声はふるえていた。あなたは目を細めると、人当たりのいい笑顔を私に向ける。けれど、その眼差しはどこか尊大めいていた。
    「ひとりだなんて寂しくない? そしてこんな天気のいい日に講義なんて退屈だ。俺と一緒に出かけようよ」
    「……っ、失礼しますっ」
     あなたから眼差しを外して、講義室へと入ろうとした。けれど手首が、あなたの手に捕まった。振りほどこうとしたけれどできなかった。あなたは私の手首を掴む手に、それほど力を入れている様子はないのに。私は眼鏡越しにきっ、とグレイを睨み付ける。それをあなたは飄々とした表情で受け流すと、瞳と同じグレイのトレンチコートのポケットから、何かを取り出した。
    「これ、何だと思う?」
     私の眼前で軽く振られたそれは、私が失くした猫のキーホルダーだった。
    「……返してください」
     眼差しを強める私を愉快そうに見下ろして、あなたはキーホルダーを手のひらに握り込む。そうして、主導権を得た傲慢な微笑で私に告げた。
    「返してほしかったら、俺とデートして」
     
     講義をサボるのは気が進まない? なら、終わってからでもいいよ。
     私はグレイの瞳を睨み付けたまま、分かりました、と応じた。大事なキーホルダーなんだね、と傲慢な微笑を保つあなたに、妹がくれたものです、と答えたなら、そう、と興味がなさそうな短い相槌が返ってきた。
     授業は三コマまで? じゃ、三コマ終わりに正門で。
     約束だ、とふたたび私の眼前でキーホルダーを軽く振って、あなたはひらりと踵を返す。トレンチコートの裾を翻して去っていく背中を睨むのも忘れて、私はあなたが発した「約束」という言葉に怯んでいた。
     もうきみの期待は裏切らない。約束したっていいよ。
     かつて一度だけあなたが私に――ファウストに、約束を提示したことがある。当時のファウストはあなたの言葉を信用しなかった。約束『したっていい』。逃げ道を確保した、その場限りのいい加減な台詞に思えたから。けれど、あなたをふたたび師と仰ぐようになって、あなたがあの台詞に込めた思いの重さを垣間見ることがあった。
     俺が、きみに捨てられたような気持ちだったんだ。それが、きみを見捨てた弁解になるとは思わないけど。
     月の光が窓辺から美しく差し込むある夜、ワイングラスを片手にあなたが言った。あなたの手元で揺らぐワインの深紅が月光に艶めいて、まるで血のように思えた夜だった。
     僕がどうしてあなたを、と反駁しようとした言葉をファウストは呑み込んだ。苦く微笑んだあなたの瞳が、傷心の瞳だったから。
     ファウストはあなたの言葉の意味を理解できなかったけれど、あなたの哀傷をひしひしと感じた。あなたはきっと、ファウストを見限って軍を離れたわけじゃない。あなたの心にもたらされた何らかの悲痛に耐えかねて、ファウストのもとを去ったのだ。不意にそれを理解したときに、思い出されたのがあの台詞だった。もうきみの期待は裏切らない。約束したっていいよ。
     あの約束の提示は、きっとあなたにとって切実なものだった。それでも、約束を即時成立させるものではく、慎重な言い方になったのは、約束というものが魔法使いにとって重大な意味を持つものだから。魔法は心で使うもの。心を裏切れば魔力を失う。だから、魔法使いは約束をしない。
     ――でも、あなたは。
     あなたの温度の残る手首を見つめながら思い知る。
     あなたはこんなに簡単に約束を結べる。
     やっぱり、あなたはもうフィガロじゃない。

     三コマ目が終わって、約束通り正門へ向かった。帰宅する学生の群れのなか、校門に寄りかかっていたあなたは私を認めると、人当たりの良い笑顔で私に片手を上げる。私はにこりともせずにあなたの前に立った。
    「ちゃんと来てくれて嬉しいよ」
    「キーホルダーを返してもらわないといけないので」
     グレイの瞳を睨み付けたけれど、そうだね、とあなたはまったく悪びれない。行こうか、と私の肩に腕を回してくる。いかにも高級そうな、華やかな香水の匂いが強く香る。それを振り切るように、あなたの腕からすり抜ける。鼻腔に残る甘い匂いに、よみがえるのは昨日の光景だ。女の人とキスをする、あなたの。
    「私と出かけたりして大丈夫なんですか?」
    「どうして?」
     心底分からないという声だった。だって昨日、と眉を寄せる私の声のほうがよっぽど戸惑っている。小首を傾げて私を見下ろしていたあなたは、ああ、と合点がいったというように声を上げた。
    「昨日のあれ? 何だか向こうがそういう気分だったみたいだから」
     声音自体は穏やかなものの、まるで他人事のような、一切の興味を感じさせない冷めた声。
    「……交際しているわけでは」
    「ええ? ないよ、全然」
     絶句した。交際していない相手とあんなふうにキスをするなんて。二の句を継げない私にあなたが問う。
    「どこか行きたいところはある?」
    「……」
    「あはは。俺が無理矢理誘ったんだもんね」
     明朗に笑うあなたはやっぱりまったく悪びれない。じゃあ俺に付き合って、と歩き始めたあなたの斜め後ろを不本意ながら付いていく。前から春めいた風が吹いた。ふわ、とあなたの髪が温みにそよいだ。繊細に、あえかに。日の光に透けてきらめくブルーグレイ。眼差しを奪われたようにそれを見つめていたら、かしゃん、と綺麗な音が耳の奥で。
    「あ、」
     急にあなたが立ち止まった。私を振り返ったあなたと眼差しがかち合って、はっと意識を引き戻される。
    「自己紹介をしていなかったね」
     紳士的な笑みを浮かべたあなたが、私に軽く一礼する。
    「俺は――」
     薄いくちびるが明瞭に音声を紡ぐ。そうして告げられた名前はフィガロ・ガルシアではなかった。医学部三年だ、という自己紹介の続きを聞きながら小さくこぼれた息は失望か、それとも安堵か。

     乗り換えが面倒だから、とあなたは当たり前のようにタクシーを拾った。戸惑う私を車内に引き入れて、あなたが運転手に告げた行先は。
    「きみは、こういうところが好きかなって思って」
     タクシーを降りた私たちが立つのは、古書店がずらりと立ち並ぶ大通り。世界最大とも言われる古書店街だ。
    「来たことある?」
    「……いつか行きたいと思っていました」
    「じゃあ丁度よかった」
     あなたは口端を上げて笑むと、国文学専門だって、と私を促して斜め前の書店に入った。あなたの後ろについておずおずと店内に入ると、本の匂いが私たちを包んだ。少し埃っぽいけれど、懐かしさを覚えさせる、叡智の蓄積された本の匂いだ。
     狭い通路を、奥へ進む。右も左も、書棚からあふれた本が天井近くまで積み上がっている。気持ちが高揚していくのを感じながら、不意に見つけた見知ったタイトルの背表紙に触れてみた。先日の講義で取り上げられていた本だ。天井に向かって横積みにされた本たちの、丁度真ん中あたりに積まれている。これはどうやって取ればいいのだろう。
    「その本が気になる?」
     店内だからか、小声で囁くようにあなたが問うた。耳元だったので、びくと肩をすくめた。
    「講義で紹介されていて……」
    「じゃあ、取ってもらおうか」
     入口近くのレジに座っている初老の店主へ、あなたは優雅な会釈で目くばせをする。無表情でこちらへやってきた店主は「どれですか」と不愛想にあなたを見た。
    「こちらの本をお願いしたいのですが」
     綺麗にそろえた指先で、あなたが本を示す。店主は積み上がった本を慎重に脇に避けると、目当ての本をあなたに差し出した。ありがとうございます、とあなたがにこやかに会釈する。慌てて、私も会釈をした。
    「はい」
    「……ありがとうございます」
     何となく釈然としない気持ちになりながらあなたにお礼を言って、本を受け取った。ぱらぱらとページを捲っていって、奥付まできたところで思わず声を上げた。
    「初版だ」
    「その本、初版は内容が大幅に違うんだっけ。出版社が自主規制をしたから」
    「そうです。二版からは、当時の政府が望ましくないと判断した描写を大幅に削除して」
     答えながら、奥付にもう一度視線を落とす。そうして、そこに貼付された値札を見て愕然とした。とても買える値段ではない。がっくりと肩を落としながら本を閉じる。すると店主から、読み終わったらそこに置いといて、と声が飛ぶ。はい、と本を手近な棚の上に置いた。けれど、それをあなたの手がふたたび取り上げる。戸惑う私をよそに、あなたはその本をレジに持っていって会計を済ますと、行こうか、と私を促して店を出る。
     店を出たところで、あなたは購入したばかりの本を私に差し出してきた。
    「え……っ、」
    「本当は欲しかったけれど、値段で諦めた。違った?」
    「……そうですけど」
    「なら、これはプレゼントだ」
     プレゼントだ、と言われても。値段を知っているし、そもそもあなたからプレゼントなんてされる理由なんてない。
    「とてもお支払いできるような値段じゃないし、受け取るわけにはいきません」
    「お金なんていいのに」
    「そういうわけには」
     固辞する私を見下ろして、あなたはふっ、と目を細める。まるで、懐かしいものを愛おしく見つめるように。
    「真面目なままだなあ」
     ひとりごとのように呟かれた言葉。え、と私は目を見ひらく。あなたも目を見ひらいた。あれ、と首を傾げている。
    「真面目だなあ、って言いたかったんだけど。……ま、単なる言い間違えか」
     あなたはひとりごちると、トレンチコートのポケットから私のキーホルダーを取り出した。
    「これは迷惑料だ。今日はきみの私物を人質にして、強引に誘ったからね」
     キーホルダーと本を私の手に握らせて、あなたは笑う。私はされるがままにそれらを受け取った。きらり、とキーホルダーの金具が夕やけの光を反射してきらめいた。
    「ほら、本を仕舞って」
     あなたに促されて、私はぎこちない手つきで本をトートバッグに仕舞った。キーホルダーは元通り、バッグの持ち手のところに付け直した。そうして、ありがとうございますとあなたに小さく頭を下げる。そのあいだずっと、まるで夢の中にいるようなぼんやりとした心地だった。
    「今日は楽しかったよ。送っていく」
     そう言って、あなたは私に背を向けた。不意に、燃えるような夕やけを背景にしたあなたの背中が真っ暗な闇色に染まる。まるで、影に呑み込まれたように。見ひらいた目の奥で、夕やけのオレンジがちかちかと明滅する。それに立ちすくむ私の脳裏に過るのは、残酷に燃え盛った灼熱の炎。炎があなたと僕を隔てる。ごうごうと天まで焼き尽くす、一切の容赦のない炎が。
     はっ、と気づいたときにはあなたのトレンチコートの袖を掴んでいた。肩越しに振り返ったあなたはわずかに驚いた顔をして、私の名前を――今の私の名前を呼んだ。そうして私に向き直って、私の顔を覗き込む。
    「どうかした?」
     眼差しと眼差しがかち合う。私を見下ろす瞳は、慈雨を降らす空のグレイ。ぽつん、と炎に優しいしずくが落ちた。もうひとつ、もうひとつ、もうひとつ。しずくは連なり雨となる。さあさあと降りしきる慈雨は、炎を宥め、鎮火に導く。
    「な、……何でもありません」
     掴んでいた袖を手離して、眼差しを逸らして、眼鏡の位置を直そうとした。けれど、指が眼鏡に触れる前に、あなたに手首を掴まれた。そのままぐいと引き寄せられて、華やかな香水の匂いが強く香った次の瞬間には。
     くちびるにやわらかな感触が触れた。しっとりとしていて、ほんの微かにつめたかった。あなたとキスをした、と理解が追いついたのはくちびるがわずかに離れてからだった。
    「――ね、俺と付き合おうよ」
     くちびるの上で、あなたは私に囁いた。
    「は……!?」
     私は後退り、あなたとの距離を確保する。あなたの温度の残るくちびるを手で覆い、きっ、とあなたを睨んだ。けれど、その眦に熱が灯っているのが自分でも分かった。それを的確に見透かしたあなたは、少しだって怯まず私に畳みかける。
    「キス、嫌だった?」
     問う口元には傲慢な微笑が浮かんでいる。眦を染めていた熱が、一気に頭までせり上がる。
    「……っ、失礼しますっ」
     私は踵を返し、大股でその場から離れた。カツカツとアスファルトを打つパンプスの音を聞きながら人波に紛れて、地下鉄の駅の前まで来たところでようやく歩をゆるめる。走ったわけではないのに、はあはあと息が上がっていた。息を長く吐いて、地下鉄の入口へ潜る。夕やけを逃れて、無機質な蛍光灯の明かりの下にかくまわれながら、私はちゃんと気づいていた。嫌だった、とあなたに問われて、嫌だったと答えられなかったことに。
     だって、と弁解をするように心中で呟いた。いったい誰に向けての弁解なのか分からないまま、よろよろと階段を下りる私の脳裏に閃くのは最期の光景。笑って、ファウスト。そう僕に願ったあなたの。無限の色に輝く手のひらで僕の頬を包んで、祈るような囁きで僕に何かを伝えようとしたあなたの。

     もうあなたには関わらないつもりだった。キーホルダーだって取り戻したし、もうあなたに従う理由はない。夕やけのオレンジに唆されてあなたの袖を掴んだり、そのあとの展開だったり。あんなふうにまた心をかき乱されるのは御免だと思った。あなたと出会うまで、前世の記憶らしきものは迷夢と結論付けて、つつがなく生きていけていたのだ。平穏な日常を取り戻したいと思った。――けれど私ひとりがそう決意したところで、それは全うされないのだということを思い知った。

     二コマ目の必修が終わって、学食へ移動をしているときだった。
    「やあ、」
     前から歩いてきたあなたが、慣れた声音で私の名前を呼ぶ。私はため息を吐いて、あなたを追い抜かして足を速める。最近行動を共にするようになった友人が、いいの、というようにちらと私を窺った。
    「行こう」
     友人に声をかけたけれど、彼女があなたに捕まった。何か言葉を交わしたあと、「えー、すごい! 一途なんですね!」あなたを見上げる友人がはしゃいだ声を上げる。ちょっと待った、いったい何の話を。狼狽する私を、友人が満面の笑みで振り向く。
    「私はいいから。先輩と一緒にご飯行ってきなよ!」
    「は? ちょっと……」
     頑張れ、と友人は私に言い置くと、手を振って駆けていった。残された私は、あなたを睨み付ける。
    「彼女に何を吹き込んだんですか」
    「ええ? ありのままを話しただけだよ」
     俺がきみに一目惚れをして、振られても諦めきれずに思い続けてるってこと。そう続けたあなたの笑みは、胡散臭いことこの上ない。
     どうやらあなたは、文学部一年生の必修講義をシラバスで調べ上げたようだった。今日のように、必修の講義が終わったあとに高確率で現れる。初めはあなたの登場に、律儀に戸惑ってみせたりした。けれどもう五月の初め。こう何度も登場されてはいちいち戸惑ってもいられない。
     私は気を取り直して、ひとりで学食へ向かおうとする。ついてこないでくださいね、と言い放って。それでも、あなたがまるで何も聞こえていないというふうについてくることは分かっている。グレイの瞳を睨み付けても、俺もこっちに用があるだけだよ、と飄々と返されるだけだ。
     結局、今日で通算何度目か、あなたと学食で向き合うことになった。私は持参したランチボックス、あなたは学食で安価に提供されているミートソースのパスタ。学食の料理なんてあなたには不釣り合いな気がするけれど、反対になじみ深いような懐かしさを覚えるのは、南の魔法使いとなったあなたと、ともに過ごした時間のためか。――などと、つい思考が前世へと漂っているのに気づいて、私は眉根を寄せる。
    「いつも美味しそうだね、きみのランチボックス」
    「夕飯の残りを詰めたり、簡単なものですが」
     こうして、あなたと他愛もない会話を交わしているのも不本意だ。あなたにはもう関わらないつもりだったのに。私は昨夜の夕飯だったガレットの切れ端を口に運ぶ。あなたは綺麗な手つきでパスタをフォークに巻き取った。開放感のある天窓からは、初夏の爽やかな日差しが降り注ぐ。きらきらと舞い落ちたそれは、あなたの握るステンレスのフォークを繊細にきらめかせた。
     食事を終えて、学食の出口で。次の講義へ向かおうとする私に、またね、とあなたが笑った。またなんてない、と思いたかったけれど、今日と同じ調子で学食で向き合うはめになることは容易に想像できた。私は眼差しを険しくしてあなたを見つめた。傲慢さを宿したグレイの瞳を。
    「……どうして、私に構うんですか」
     あなたと――今のあなたと、24講義室で出会った日を覚えている。コテで綺麗に巻かれた髪を揺らす、私とは全然雰囲気の違う女子学生とキスをする姿。その、気だるげな眼差し。たとえいっとき何らかのきっかけで私に興味を持ったとしても、すぐにそれを失ってもおかしくないのに。
     どうせ、一目惚れだとか運命だとか、軽薄な台詞を胡散臭い笑顔で並べ立てるのだと思った。けれど私の予想とは裏腹に、あなたは虚を突かれたような表情をして、グレイの瞳を揺らした。一瞬の無音。そののちに、小さく息を呑む音が聞こえた。
    「――さあ、どうしてか分からないけれど」
     そこでいったん言葉を切ったあなたの声音は、普段の軽薄さを一切失した声だった。私を見下ろすグレイは慈雨を降らす空の色。とくん、と私の胸が小さな音を立てる。
    「気になるんだ、きみのことが」
     胸の前に右手を添えて、軽く一礼をするように優雅にあなたは微笑んだ。その微笑を瞳に映した途端、いつかのように眦に熱が灯るのが分かった。私は咄嗟に顔を背けて、そうですか、と短く言った。そうしてくるりと踵を返して次の講義が行われる経済学部棟へつま先を向ける。カツカツとパンプスが鳴る。風を切って足を速めたけれど、今度はあなたがついてくることはなかった。

     その日の夜、本棚の端に仕舞って今日までひらかずじまいだった本を手に取った。古書店街で、あなたからプレゼントされた本だ。あの日の記憶を遠ざけるみたいに視界にも入れないようにしていたけれど、読まないままでいるのは本にたいして申し訳ない気がした。
     セピア色に変色した表紙をひらくと、微かにノスタルジックな匂いがした。ざらりとした手触りの頁をめくる。眼差しで文字を追う。心を行間に沈めてゆく。そうして美しい言葉をかき分けながら、眼前にひろがる残酷で、それでいて情け深い世界を進んでいった。それはとても幸福な時間だった。
     ぱたんと本を閉じて、私は長く息を吐く。素晴らしい物語を読了したあとの高揚感にしばらく浸ってから、本を通学用のトートバッグの中に入れた。休憩時間や空きコマに、もう一度読み直したいと思ったから。ついでに明日のぶんの教科書やノートの準備もしながら、あなたにも改めてお礼を言わなければならないなと思った。素晴らしい本をプレゼントしてくれたことにたいして。どうせ、明日か明後日の必修のあとにまた現れるだろうから。ものすごく――それはそれはものすごく――不本意なことだけれど。

     ――そう思っていたのに、翌日もその翌日も、あなたは現れなかった。そのまま一週間が終わって、金曜日の夕方になった。私は猫のキーホルダーのついたトートバッグを肩にかけて帰路につきながら、どうして、と面食らっていた。そう思ってから、はっと気づいて小さく首を振る。何考えてるの、いいことじゃない。もうあのひととは一切関わらないで、平穏な生活を取り戻そうって思っていたんだから。そう気を取り直して、アスファルトを踏む靴先に心持ち力を込める。
     スーパーで夕飯の材料を買って帰宅した。じゃがいもときのこのオープンオムレツと野菜のスープで、簡単に夕飯を済ませてから、私はデスクに向かった。選択科目で取っている数学の自習をしなければならないからだ。
     大学図書館で借りてきた、「分かりやすい!」という文字が表紙に堂々と印字された参考書をひろげて、教科書の記述と突き合わせる。今日の講義でどうしても理解ができなかった定理の理論を明らかにしようとしてみるけれど。
    「……」
     私は首をひねって、今度は参考書をノートの板書と照らし合わせてみる。それでも、ふたたび首をひねるばかりだ。参考書の数式を丁寧に追うけれど、まったく頭に入ってこない。その横に添えられた解説も同じくで、文字列が脳に一瞥もくれずに素通りしていくような感じだ。どうして、と途方に暮れる感覚を久しぶりに味わった。高校では文系クラスにいたけれど数学は苦手なほうではなかったし、受験時も数学の自己採点は満点に近かった。理路整然と解答を求めていく数学は自分の性格に合っているとすら思っていたのに、今は洗練された定理の一行目からまったく理解できない。高校と大学では難易度がこれほど違うのか、と愕然としながら必死でデスクに向かった。
     結果として、休日の丸二日を数学の自習に当てたけれど、定理を完全に理解することはできなかった。分かったかもしれない、と思う瞬間は数度あったものの、解説文を読み直したり、演習問題を解いてみたりしようとすると、途端に理解は崩れてゆく。途方に暮れた感覚は、次第に焦りに変わっていった。大学から奨学金を受け取る権利を維持するためには、ひとつだって単位を落とすわけにはいかない。それなのに、こんな初歩的なところで躓いていたら、これから先の授業についていけなくなる。
     月曜日、すべての講義が終わってから大学図書館に向かった。様々な参考書を持って、館内の学習スペースの一角に陣取る。そうして、参考書を読む、ノートにペンを走らせる、を黙々と繰り返し、どれだけの時間が経っただろう。
     とん、と軽く肩が叩かれた。後ろを振り向くと、数冊の分厚い本を腕に抱えたあなたが、微笑を浮かべて立っていた。声も出せずに息を呑むと、久しぶり、とひそやかに掠れた囁き声であなたが言った。そうですね、と私は低い囁き声で返す。
    「しばらく実習だったんだ。寂しかった?」
    「は……!?」
     思わず声のトーンが上がり、しっ、とあなたが微笑んだまま自分の口元に人差し指を当てる。妙に様になっているその仕草が腹立たしくて、私はふいっとそっぽを向く。そのままデスクに向き直ったけれど、あなたがデスクに手を突いて、私のノートをのぞき込んできた。
    「苦戦してるみたいだね」
    「だったら何ですか」
     それには答えず、あなたは私が書棚から持ってきた参考書をぺらりと捲る。そうして、ふうん、と鼻を鳴らしたかと思うと、参考書の頁をごく軽く指ではじいた。
    「解説、しようか」
     は、と私はあなたを見上げる。
    「俺のほうがその本より、分かりやすく解説できると思うよ」
     微笑むあなたを、警戒する眼差しでしばし見つめた。あなたはグレイの瞳を少し俯かせて、困ってるみたいだからさ、と静かに付け加えた。睨み合うというには頼りなげな沈黙ののち、お願いしてもいいですか、と私は小さく頭を下げた。えっ、と驚いた声を上げるあなたよりももっと、私はそんな返答をした自分に驚いていた。

     ゆるやかなピアノ曲がBGMで流れている。その旋律に乗るように、ふわりと優しく漂ってくるコーヒーの匂い。それから、隣のテーブルに運ばれてきたガトーショコラの甘い匂い。私たちが入ったのは大学からほど近いカフェだ。穏やかで洗練された空間で、あなたの声が静かに響く。
    「まず、定理のことを考える前にこの定義をそのまま覚えて」
     長い指が、教科書のなかの一行を指し示す。言われたとおりに、定義をノートに書き写しながら記憶する。
    「うん。それじゃあ、この定義を使ってこっちの証明を解いてみよう。教科書を見ながらでいいから」
    「はい」
     頷いて、ペンをノートに走らせた。覚えたばかりの定義を使って、複雑に絡み合った定理を紐解いていく。すると、つい先ほどまで雁字搦めになってまったく先に進めなかったところを解く糸口が見えた。私は逸る気持ちでペンを走らせる。そうして三分ほどで定理を証明することができた。
    「……できた」
     思わず小さな声を上げた。あなたは私の手元をのぞき込むと、うん、ちゃんと証明できてるよ、と頷いた。
    「少し補足するけど、これは二次行列の行列式の定義だ。行列式の値は――」
     あなたの数式へのアプローチは、教科書や講義で解説された方法と少し違うように思えた。けれど、すらすらと流れるように紡がれる解説を最後まで聞けば、教科書や講義と同じ説明にたどり着いた。途端に、いくら読み込んでも脳を素通りするだけだった定理が、意味を持った文字列となって脳に刻まれた。私は感嘆の息を吐く。あなたが微笑んで、私に問うた。
    「それじゃあ問題だ。この行列式の性質は?」
     私は迷わずにペンを走らせた。そうしてあなたへノートを差し出して、書き記した数式を見せれば、正解だ、とあなたが明朗に笑った。
    「きみは、理屈をきちんと理解して自分の中に落とし込むタイプだね。だからちょっと不本意かもしれないけど、まずは機械的に定義を覚えて。外国語の単語のようなものだと割り切って」
    「はい」
     頷きながら、ノートにメモを取ろうとすると、あははと笑いながらあなたがそれを制した。
    「メモを取るほどのことじゃないよ。まったく、真面目なんだから」
     口元に笑みの名残を置いて、あなたは言葉を続ける。
    「演習問題を解きながら、それぞれがどう関連付いているのかを意識するようにして。そうすれば、自ずと理解が追いついてくるはずだ」
    「……はい」
     頷いた私はペンを置いて、きゅっとくちびるを引き結んだ。そうして、あなたの瞳を見つめて、ありがとうございました、と頭を下げた。
    「ええ、そんなにかしこまらなくてもいいのに」
     少し面食らったように、けれどそれでいておどけたように笑うあなたの声を聞いて、不意に、カメラのシャッターを切るくらいのほんの一瞬。脳裏に、あなたと過ごした談話室の光景がよみがえった。魔法舎と呼ばれた場所の談話室だ。シャンデリアの暖色の光が穏やかに降るそこで、東と南、それぞれの生徒たちに向けた答案用紙を作ったことがある。知識の豊富なあなたに、答案の小さな瑕疵を指摘されたりしながら。そういったとき、ありがとうとお礼を言ったなら、あなたは――。
     名前を呼ばれた。今の私の名前だ。瞬いた瞳が捉えるのは、数式が書き込まれたノート。けれどつい今しがたよみがえった記憶から意識を完全に引き戻せていなかった私は、何、とファウストの口調であなたに応じた。あなたが目を見ひらく。
    「……何ですか」
     言い直した。けれどあなたは、いいよ、敬語なんて使わないで、と返す。そうは言われても、年長の人物相手にぞんざいな物言いをするのは気が引ける。そういうわけには、と躊躇する私を見下ろして、あなたはまた、おどけたように笑った。
    「そのほうが、何だか気を許してるって感じがするじゃない」
    「――別に、気を許したりしてません」
     ぴしゃりと言い切った。
    「そう、残念」
     さほどそう思っていなさそうな声であなたが言う。けれど、まばたきをする寸前のグレイの瞳が、ほんの少しだけ切なげに見えたような気がしたのは気のせいだろうか。私が目を瞠ると、次の瞬間には、あなたは切なさなんて何にも感じさせない表情を見せる。やっぱり気のせいだったのだろうか、と思ったところで、あなたがテーブルに伏せていたスマートフォンを手に取った。
    「連絡先、教えてくれる?」
     咄嗟に、戸惑いの眼差しであなたを見つめた。言葉を返せないでいると、分からないところがあったら、いつでも聞いてくれていいからさ、とあなたが続けた。私は目の前にひろげたノートと、数学の教科書、そしてあなたに視線を彷徨わせる。
    「……分かりました」
     小さな声で言って、足元の荷物置きのトートバッグからスマートフォンを取り出した。普段あまり使わないメッセージアプリの操作に少々手こずりながら、あなたと連絡先を交換した。そうしてから、あなたに言わなければいけないことがあったのを思い出す。
    「あの、ありがとうございました」
    「……え?」
     あなたの瞳を見つめながら、私は説明する。
    「先日、あなたにいただいた本。とても、素晴らしかったです」
     最後は俯きがちになった。眼差しがトートバッグについた猫のキーホルダーを捉えて、やっぱり少し不本意な気持ちになったけれど、本が素晴らしかったことには変わりがない。少し口を曲げてあなたの返事を待つ。あなたが、息遣いを緩める気配がした。
    「きみが喜んでくれて、俺も嬉しいよ」
     息遣いとともに緩んだ眼差し。その瞳は、慈雨を降らす空のグレイ。

     その日から、毎週数学の講義があった日の夕方に、あなたに数学を教えてもらうようになった。教授の説明を聞いても上手く噛み砕けなかったところや、問題演習で躓いたところを、あなたは初めの日と同じように分かりやすく解説してくれた。それを数回経ると、数学の勉強の仕方のコツが掴めてきた。講義を聞いて分からないと感じることが減り、自身で行う予習復習もはかどるようになった。
     その日も、あなたとの授業の日だった。
    「うん、よく理解できているよ」
     ノートに向けていた眼差しを起こして、あなたが微笑む。ほっ、と私が表情を緩める。それじゃ、今日はこのくらいにしようか。そうあなたが言って、ありがとうございました、と私が頭を下げた。あなたは入店したときに注文したコーヒーをひとくち飲んだ。私も、カップに半分ほど残っている自分の紅茶を飲む。すっかり冷えてしまっているけれど、鼻に抜けた風味は十分に香り高い。
    「随分夏らしくなってきたね」
     六月も半分を過ぎた。店内は冷房が効いているし、窓の外では抜けるような青空から太陽の熱をため込んだ光が降り注いでいる。そうですね、と相槌を打ったら、夏の休暇は何をするか決めてるの、と尋ねられた。
    「……特に決めてないです」
    「じゃあ、今から考えるのが楽しみだ。きみは、海が遠い地方の出身だったよね」
    「そうですけど……」
    「なら、海ではしゃいでみるのもいいんじゃない」
     あなたとの授業が終わってから、飲み物を飲み切るまでの短い時間。そこで交わした他愛もない雑談で、私のことを知られたのと同じくらいに、あなたのことを少し知った。あなたは首都生まれで、高校は国内でも有数の名門校。サークルには入っていない。週に二日、家庭教師のアルバイトをしている。
     私は紅茶を飲みながら、カップの縁越しにあなたを一瞥する。コーヒーを飲み終わったあなたは、カップをソーサーに置いて、穏やかな表情を浮かべた。そうして緩やかにくちびるをひらいて、また、他愛のない雑談を。
     あなたの話に相槌を打ったり、質問に短い言葉で答えたりしていたら、私もとっくに紅茶を飲み終えていた。
    「そろそろ出ようか」
     あなたに促されて、私は自分のぶんの紅茶代を、伝票を持つあなたへ差し出す。いいのに、と毎回いったんは受け取りを断られて、授業をしてもらったうえに払ってもらうことはできません、と私が返すのがいつものやりとりだ。そのあとに、根負けしたようにあなたが笑うのも。
     カフェを出ると、空がほんのりとオレンジ色に染まっていた。足元から伸びる影も少しだけ長くなっている。あなたが空を見上げて、日が長くなってきたね、と言った。
    「アパートまで」
    「結構です」
     送ろうか、と言われる前に返したら、相変わらずつれないなあ、とあなたが苦笑する。ほのかにオレンジがかった光に輪郭を縁取られながら、あなたは眼差しをやわらげた。
    「気を付けて」
    「……はい」
    「じゃあ、また来週もここで」
    「よろしくお願いします」
     私が小さく頭を下げると、あなたは口端を上げるようにして笑った。そうしてあなたと別れ、私はアパートへの帰路を辿った。

     あなたの授業を受けるようになって毎週定期的に会うようになったからか、必修の講義のあとにあなたが現れることはほとんどなくなった。たまに、「一緒にランチしようよ」と顔をのぞかせることはあるけれど(そのたびに、友人には頑張れと笑顔で送り出される)。交換した連絡先もほとんど使っていない。一度、「講義が長引きそうだから先にカフェに行っていて」とあなたから連絡が入っただけだ。私の人生は、完璧にとは言えないまでも、それなりの平穏を取り戻しているのかもしれなかった。
     ――などと、思ったそばから。
    「今からデートでしょ?」
     四コマ目の必修終わり、目を輝かせてそんなことを言ってきたのは友人だ。は、と私は頓狂な声を上げる。
    「……違うけど」
     私は教科書やノートをトートバッグに片付けながら否定するけれど、友人は聞く耳を持つ様子がない。
    「一緒にカフェなんてデートだってぇ。ほらほら、ちょっとあっち向いて」
    「は? ちょっと、……は?」
     私は友人に髪の毛をがしっと掴まれた。何、と思う前に友人はどこからか取り出したヘアブラシで私の髪を梳くと、頭頂部あたりの髪だけを取ってヘアゴムで結んだ。そうして何やらぐいっと頭皮を引っ張られるような感覚。できた、と声を上げた友人が私にファンデーションのコンパクトを寄越す。その鏡で自分を見てみると、ハーフアップの髪型になっていた。頭頂部の髪を軽くねじったようなハーフアップだ。
    「最後にコレね!」
     そう言って結び目につけられたのは繊細なレースがあしらわれたペールブルーのリボン。戸惑う私をまったく意に介さず、友人はうんうんと頷いている。「ほら、今日の服ともばっちり」私は自分の服装を見下ろした。先程つけられたリボンより少し濃いブルーのサマーカーディガン、ホワイトのリボンタイブラウス、ネイビーのスカート。
    「清楚でいい感じでしょ」
    「でも、このリボンは私には可愛すぎる」
    「ええ、似合ってるって! ……ちょっと、外しちゃだめだよ!」
     友人に怖い顔を向けられて、私はぴくりと手を止めた。そうこうしながら、「ほらほら、もう時間でしょ」と満面の笑顔の友人に送り出されて、あなたとの待ち合わせの正門に向かった。
     私より先に正門に来ていたあなたは、私を認めるなり、小さく目を見ひらいた。そうして、紳士的な笑みを浮かべて、その髪型似合ってるよ、と私を褒めた。
    「……友達が、」
     言い訳するような私の声音は尻すぼみになる。
    「友達がやってくれたんだね。センスのいい友達だ」
     まったく隙のないその台詞に、少し悔しいような気持ちになった。そっぽを向くように俯けた私の眼差しが猫のキーホルダーを捉える。
     じゃあ行こうか、とあなたに促されていつものカフェに向かった。ところが、いつも程よく空いている店内はテラス席まで満席だった。どうやらソファ席の一帯を貸し切って、何かの集まりが行われているらしい。小綺麗なスーツやドレスに身を包んだ女性たちが、楽しげに談笑していた。あとの席は、同じ大学の学生らしきグループや、学校終わりの女子高生グループ、数組のカップルで埋まってしまっている。
     私たちはカフェを出て、横断歩道を渡った道向かいにある別のカフェに向かった。けれど最初のカフェから客が流れてきているのか、こちらも満席だった。どこか他に入れそうな店がないかあたりを見回した。
    「そこの角を曲がったところにファミレスがあるけど……ちょっと騒がしいかなあ」
     あなたの言葉に、そうですね、と頷く。他に近くにあるのは、ファストフード店、カレー専門店、ベーカリー、パティスリー、書店、美容室、不動産屋。あなたはスマートフォンを取り出した。
    「少し歩いたところにカフェが……あ、駄目だ。ちょうど今、臨時休業中だって」
     うーん、と小さく唸ったあなたが、どうする、と私に訊いた。
    「今日はもうやめとく?」
     そう続けられて、私はいったいどんな顔をしたのだろう。あなたは驚いたようにわずかに目を瞠ると、でも毎週やってることだしね、とつい先程の台詞を撤回した。私は眼差しを泳がせて、けれどくちびるは何も言えずに引き結ぶ。
    「諦めてファミレスに行く? ……あ、それか」
     いったん言葉を切ったあなたは、少し考えるような間を置いてから続けた。
    「俺の家に来る?」
    「は……、」
     思わず上がった声は、警戒と戸惑いのあいだのような声をしていた。
    「ここからすぐなんだ。ファミレスよりはずっと静かだよ」
     なんて、まるで無害みたいな微笑を浮かべてあなたは言うけれど。24講義室での光景。夕やけのオレンジのなかでの記憶。それらが脳を過って、私の眼差しは険しくなる。そんな私の表情を見て、あはは、とあなたは笑った。
    「警戒されても仕方がないけど、何もしないって約束、」
     そこまで言ったあなたは、不意に口元から笑みを消し、グレイの瞳をふるわせた。まるでたった今、私に見えない何かが見えたかのように、何もない空中で視線を彷徨わせる。そうしてから、はっと気づいたように私に焦点を合わせた。
    「あはは、ごめんね。約束なんて、気軽に口にするのは不誠実かなあって思ってさ。……何だか急に、そんな気がして」
     あなたの言葉に、今度は私が瞳をふるわせた。魔法使いは約束をしてはいけないよ、と教えてくれた威厳のある声が脳裏によみがえる。魔法は心で使うもの。心を裏切れば魔力を失う――あなたのグレイの瞳を見つめて、私は何も言葉を返せずに立ち尽くす。
    「――さて、改めて。俺はきみが嫌がることは決してしない。そのうえで、俺の家に来るのはどう?」
     紳士的に、誠実に。紡がれた言葉が心を伝える。あなたの心に触れた私の心が、身体の中で小さく脈動する。それに促されるように、私は小さく頷いた。そうして、お邪魔します、と小さく呟いた。

     スーパーで紅茶の茶葉と焼き菓子を買ってから、あなたがひとり暮らしをするマンションに向かった。おずおずと足を踏み入れた部屋は1LDKで、リビングだけで私が暮らすワンルームの三倍くらいのひろさがあった。ぴかぴかの黒いタイルが敷かれた玄関でもそうだったけれど、つやつやとした白いフローリングを踏むのが躊躇われる。ひろさに比して、物が少ない部屋だ。南向きの大きな窓から、レースカーテン越しに光が差し込んでいる。壁や天井は白で、フローリングも白。壁際に設置された細い脚の白のデスクには、ノートパソコンと数冊の本が置かれている。部屋の中心にはグレイのソファ、そして同系色の毛足の長いラグ。ラグの上には、ガラスのローテーブル。テレビ台もグレイで、私の実家のものよりも大きなテレビが設置されていた。呆気に取られる私に、そんなに緊張しないで、と笑ったあなたは、スーパーのレジ袋を持ってキッチンに向かう。私は頼りなげな足取りであなたを追った。
    「確かこの辺りに……」
     呟きながら、あなたはコンロと反対側の壁に備え付けの戸棚をのぞいている。あった、と声を上げたあなたは、ティーポットとティーカップを手に持っていた。
    「手伝うことは……」
    「じゃあ、紅茶を淹れてもらえる?」
     はい、と頷いて私はあなたからポットとカップを受け取った。
     あなたが、コーヒーメーカーにコーヒー豆を入れる。どうやら全自動のコーヒーメーカーらしく、かりかりと豆を砕く音がしはじめた。そのあいだにあなたはウォーターサーバーから電気ケトルに水を汲んで、お湯を沸かす準備をする。私はあなたから渡されたティースプーンで、ポットにさらさらと茶葉を入れた。
     淹れたてのコーヒーと紅茶を持ってリビングに戻る。ガラスのローテーブルを挟んで向き合って、ラグの上に座った。コーヒーと紅茶をそれぞれひとくち飲んでから、じゃあ早速始めようか、とあなたが言った。お願いします、と私は小さく頭を下げる。
     あなたが、教科書の記述を指で示したときだった。
    「……うん、ここはその理解で合ってるよ。ただこっちが――」
     私の前にひろげたノートに、あなたのかたちの淡い影が落ちてはっとした。思わず眼差しを上げると、あなたのブルーグレイの前髪がすぐそこにあった。そうか、カフェよりも距離が近いのか、と気づいた途端に心臓がぎゅっと縮こまったような気がした。揺らぐ瞳をどうにか俯けて、あなたの声と教科書の記述に意識を集中させる。けれど、ひとつ。あなたの解説を聞き逃した。すみません、今のところ、もう一度訊いてもいいですか。自分を情けなく思いながらおずおずと尋ねたら、ふっ、とあなたが笑みをこぼした。そうして、ほんの少しからかうような声音で。
    「今、緊張してるでしょ」
    「別に……、」
     咄嗟にそう返したものの、瞳の揺らぎや眦に灯った熱を、きっとあなたは見透かした。そう、と言葉では引き下がりながらも、グレイの瞳に含ませた笑みを消さない。私はカップを手に取って、紅茶を飲むことでそれをやりすごそうとした。カップの縁に眼差しを落として、あなたの笑みから逃れる。それで幾分気持ちを落ち着けたはずだった。けれど、私がカップを置くと同時に。
    「俺は緊張してるよ」
     あなたの言葉が、私の瞳をふたたび揺らがせる。声も表情も仕草も、まったく緊張しているようには思えないのに、その言葉が本当であるのだと何故だか私は理解した。そうですか、と応じる声が瞳と同様に揺らぐ。ペンを握る手に力がこもる。私たちを包み込む沈黙が、ほんの微かに熱を帯びたような気がした。

     あはは、ごめんね。何だか変な空気にしちゃったね。
     そう笑ったあなたは、さあ、続きをしようか、と教科書に眼差しを落とした。それからは私も気持ちを切り替えて、数式に意識を集中させた。
     それから三十分ほどで授業は終わった。私たちはカフェでそうするように、飲み物の残りを飲んだ。買ってきた焼き菓子も一緒に食べる。そうしながら、私は今日あなたに言おうと思っていたことを切り出した。
    「今日の数学の講義で、先週にあった小テストが返ってきました。満点でした」
    「へえ、すごいじゃない」
     あなたは感嘆の声を上げる。私は不本意を表すように口を曲げてから、言わなければならないことを続けた。
    「あなたが教えてくださったおかげです。なので、何かお礼ができたらと思うのですが」
    「お礼?」
    「はい。……いただいた本のこともありますし」
     私の言葉に、あなたは少し目を大きくした。「別にお礼なんていいけど……」そこまで言ったところで、あなたは私の瞳を見て笑った。
    「きみは、それじゃ納得しなさそうだね」
     グレイの瞳が、相変わらず真面目だなあ、と言いたげなのが分かった。私は少し決まりが悪くなって、あなたから眼差しを逸らす。
     そうだなあ、とあなたが顎に手を当てて考え込んだ。沈黙した空間に、カチカチと時計の針が進む音が響く。やがて、あなたが思いついたというように口をひらいた。
    「きみの料理が食べてみたいな」
    「……料理」
     今度は私が考え込んだ。幼い頃から母の手伝いをしてきて、料理はそれなりにできるつもりだけれど、果たしてそれはお礼になるほどのものだろうか。黙り込んだ私に、気が進まないならいいよ、とあなたが言う。
    「きみのランチボックス、いつも美味しそうだからさ。ちょっと食べてみたいなあって思っただけ」
     私はあなたのグレイの瞳を見つめた。そうしてまた少し考えて、分かりました、と応じた。
    「え、いいの?」
    「あなたが、私の料理でよければ」
    「もちろんだ」
     はっきりと言い切られて、私は少々面食らいながら、あなたの好物を聞いた。うーん、カルパッチョなんか好きだけど、とあなたは答えた。その答えは、まるでパズルのピースが嵌まるように、私の心にかちりと符合した。――好きだったな、あなたは。透明な川魚と、かぼちゃサイズのトマトで作るその料理が。魔法舎の食堂で、あなたをふたたび師と仰いだあとに二人で暮らした小さな家で。あなたはその料理を、表情を緩めて食べていた。
    「……じゃあ、来週」
     私は前世の記憶から意識を引き戻すように、言葉を発した。
    「来週、私のアパートに来てください」
     私の言葉にあなたは目を丸くした。たじろいだような雰囲気も見せる。嫌ならいいです、と私は眉根を寄せて言葉を撤回しようとする。けれど、あなたが慌てたようにこちらに身を乗り出した。
    「そうじゃないよ! でも、アパートまで送らせてもくれなかったのになあって」
     今度は私がたじろぐ番だった。そうあなたに指摘されて初めて、あなたをごく自然に自分のアパートに招こうとしていたという事実に私は驚く。だって、と私は誰にそうしていると分からないまま内心で弁解した。今、私はあなたの部屋に来ているんだから。だったら今度はその反対に私があなたを招いたって――。
     眉根を寄せ、眼差しを伏せ、黙りこくる私に、あなたの声がかかった。嬉しいよ、と。
     その声におもむろに顔を上げた私の瞳を、あなたのグレイの瞳が見つめる。そうしてあなたは胸の前に右手を添えて、軽く一礼をするように優雅に微笑を浮かべて言った。
    「お招きありがとう。喜んで伺うよ」
     私はそれに答える言葉を思いつけず、あなたから眼差しを逸らして紅茶をひとくち飲んだ。
     俺は緊張してるよ、と先程あなたが言ったときみたいに、沈黙がふたたび微かな熱をはらんだ気がした。

     今度はあなたは、沈黙に灯る微熱を撤回しなかった。私たちは言葉を交わさず、ただそれぞれの飲み物を静かに飲んだ。カップを口に運ぶときの、衣擦れの音がやけに大きく聞こえる気がする。身体の中でどくどくと上擦る心音も。一刻も早くこの場を後にしたかった。私は紅茶を飲んだ。ひとくち、もうひとくち、最後のひとくち。
     傾けきったカップをソーサーに置く。そうして、ごちそうさまでした、とそれらをまとめてキッチンに持っていこうとした。
    「ああ、いいよ。そこに置いておいて」
     あなたにそう制されて、私は素直に従った。今日もありがとうございました、と頭を下げて、トートバッグに荷物を片付ける。送っていくよ、とあなたが先に腰を上げた。
     いえ、大丈夫です――そう断ろうとしたときだった。
    「……っ、」
     立ち上がった途端に足元ががくんと崩れた。バランスを崩した私は顔面からフローリングへ。ぶつかる、と思ったところで、力強い腕に抱きとめられた。
    「……大丈夫?」
     顔をのぞき込まれるけれど、羞恥で答えられない。「ずっと正座だったの?」その問いには、かろうじて頷いた。
    「まったく、真面目なんだから」
     あはは、とあなたが明朗に笑う。私は足元がびりびりと痺れる感覚に眉を寄せながら、うるさいです、とそっぽを向いた。
    「……もう、大丈夫ですから」
     私を支えている腕を振りほどこうと、あなたの胸を押した。けれどそうしたときに、とくん、と脈打つあなたの鼓動を指先が感じた。それにおののいて、思わず顔を上げたのがいけなかった。
     あなたは私を見下ろしていた。見ひらかれたグレイの瞳がすぐそこにあった。それは、私の頬にあなたの影が落ちる距離だった。夕やけの古書店街の景色がよみがえる。微かにつめたかったあなたのくちびるの温度も。どくん、と心臓が激しく跳ねるのが分かった。
     私たちはしばし見つめ合った。短いような長いような沈黙ののち、あなたが私の頬に手を添えた。あなたがまとう華やかな香水の匂いが、強く香る――。
     前髪と前髪が触れ合った。その距離で、あなたはひたと動きを止めた。
    「きみが嫌がることは決してしないと言ったから。――きみは、嫌?」
     あなたの低い囁きがくちびるの上に落ちる。私は眦まで熱が上ってくるのを感じた。
    「……何を、今さら、」
     懸命に眼差しを逸らしながら、私は吐き捨てるように言った。言ったつもりだった。けれど声は熱を宿して上ずっていた。それに愕然とする私の身体の中で、心臓がうるさいほどに早鐘を打つ。
    「それは、嫌じゃないと捉えてもいい?」
     微かに笑うあなたの口元に傲慢さがのぞく。きっ、とあなたを睨んだつもりだったけれど自分で分かっていた。眦に熱を灯した私の瞳じゃ、睨んだところで何の効果もないのだということを。それどころか、むしろ。
    「嫌だったら、突っぱねて」
     最後の宣告。私は瞳をふるわせながら、あなたのシャツをぎゅうと握りしめた。
     ――そのとき。
     熱を切り裂くように、軽やかでのどかなメロディが鳴った。びくっ、と肩を跳ねさせて私はあなたを突き飛ばす。軽く一歩、後ろに下がったあなたは両手を肩の高さまで上げた。
     メロディの正体は私のスマートフォンだ。トートバッグを探り、スマートフォンを取り出す。母だった。出てもらって構わないよ、俺のことは気にしないで、とあなたから声が掛かる。会釈をして、あなたに背を向けて通話ボタンをタップする。
     実家に奨学金に関する書類が届いた、という話のあと近況を尋ねられた。元気にしていることを伝え、母と妹も身体に気を付けるよう言って電話を切った。
    「すみませんでした」
     スマートフォンをトートバッグに仕舞いながら、私はあなたを振り返った。あなたは眩しいものを見るような、ほんのわずかな痛みを堪えるような、微妙な表情をしていた。私は思わず、あなたの名前を呼んだ。あなたはそれに微笑で応じた。その笑みには、もうさっきの表情の名残すらなかった。
    「あはは、俺のほうこそごめんね。また変な空気にしちゃった」
     変な空気――たった数分前のことが鮮明に思い出されて、私の頬には今日何度目か血が上り、眼差しは泳ぐ。私はさっき、あなたのシャツを掴んで――。
    「送っていくよ」
     あなたの声に、上ずった声で頷いた。そうしてから、断るつもりだったのに、と思った。あなたはもう、玄関へとつま先を向けている。私はトートバッグの肩紐をぎゅっと握り締め、小さく息を吐いてから、駅まででいいですから、とあなたと決して目を合わさずに言った。

     自分のアパートに戻って、冷蔵庫にあったもので適当に夕飯を作るあいだ、私はずっと上の空だった。気づけば、ガレットと、玉ねぎのスープができあがっていた。そこでようやく我に返り、料理をよそってテーブルまで運んだ。
     夕飯とその片付けを終え、シャワーを浴び、明日の準備も済ませたあと。テーブルの前に座った私は、ひどく緊張した面持ちで片手に持ったスマートフォンと向き合っていた。料理のレシピを調べるだけなのにこんなに緊張するなんて変だ、と分かっているのに私の身体からはまったく力が抜けない。きっと、思い出してしまうからだ。たった数時間前に、あなたのシャツをぎゅうと掴んだことを。
     ぶんぶんと首を振って、数時間前の光景を頭から追い出して――けれど完全にはそうできないまま――私はスマートフォンのブラウザで「カルパッチョ レシピ」と検索する。すぐに、様々なレシピが検索結果として表示された。画面をスクロールして、あなたの味の好みを思い出しながらレシピを眺める。前世のように、透明な川魚とかぼちゃサイズのトマトで作ることはできないけれど、なるべく似たレシピを探した。最終的に、白身魚とトマトと玉ねぎを使うものを選んだ。その作り方を、ルーズリーフに書き留めた。
     翌日の土曜に、書き留めたレシピで試作してみた。刺身用の白身魚を薄く切って、トマトと玉ねぎと一緒にバランスよく盛り付けて、レモン汁とオリーブオイル、塩で作ったソースとコショウをかける。味見をしてみると、ソースの味はまとまっていたものの、魚の歯触りが少しボソボソとしていた。どうして、と思ってスマートフォンで調べてみると、そぎ切りをするときに包丁を往復させてしまったからみたいだ。綺麗にそぎ切りをするには、刃元を刺身に当てて手前に引くように一度で切らなければならないらしい。む、と眉を寄せた私は翌日の夕飯もカルパッチョにすることに決めた。
     果たして、日曜日。自分としては満足のいくカルパッチョができあがったけれど。
     これはあなたを満足させられる出来栄えなのだろうか、という疑念が私を不安にさせる。だってあなたが普段身につけているものも、一昨日に訪れた部屋も、明らかにハイクラスで洗練されている。あなたは美味しいものを食べ慣れているに決まっているのだ。私が作る平凡な料理では、あなたを満足させられないかもしれない。あなたが私の料理でよければ、と比較的簡単に請け合ってしまったけれど、やっぱりお礼は別のものがよかったのではないか。
     ――という不安を、うっかり友人にこぼしてしまったら。
     何言ってるの、好きな子が作った料理なんだよ? 喜んでくれるに決まってるよ! ――真面目な顔でそう言い切られて、違う、好きな子なんかじゃない、と私はたじろいだ。どうしてか分からないけど気になるだとか言われただけで、家に行ったといっても数学を教えてもらっただけ――けれどそれをいくら説明しても、友人のテンションは上がっていくばかりで、結局あなたとの約束の当日も、うきうきとしながら私の髪を編んでくれた。
    「ほら、可愛いよ!」
     友人に寄越されたコンパクトで、私は自分の姿を確認する。髪を片側に寄せて頭頂部から編み込みにしてある。まるで、童話の中のプリンセスのような仕上がりだ。ほう、と思わずため息を吐いた。
    「料理をするときに邪魔になりにくい髪型にしたんだけど。どう?」
    「……可愛い。ありがとう」
     素直に称賛してお礼を言えば、でしょ? と得意げに友人は笑った。
    「じゃあ、おうちデート頑張って! 私はバイトに行くから」
     だからデートじゃ、と私が訂正する前に、ひらひらと手を振りながら友人は行ってしまった。ひとり空き講義室に取り残された私は、先程とは違う種類のため息を吐いた。
     あなたとは、四コマ終わりに正門で待ち合わせて、スーパーで食材を買ったあとに私のアパートに行く予定になっていた。けれど先程あなたからメッセージが来ていて、それが変更になった。実習の説明があって講義が長引きそうだから、悪いけど先に帰ってて。アパートは、住所を送ってくれたら行くからさ。――との内容だった。
     私はトートバッグを肩にかけて講義室を出る。そのまま正門へと歩き出したけれど、ある思いつきが私の足を止めた。その思いつきがやってみる価値のあるものだと判断した私は、踵を返して医学部棟に向かう。
     医学部棟に着くと、私はスマートフォンを取り出して大学のホームページをひらく。その中から学生向けのページをさらにひらいて、医学部のシラバスを表示させた。金曜日の四コマ目は病理学の講義だと、何かの拍子であなたが言っていたはずだから。
     シラバスで調べた、病理学が行われている講義室は24講義室。ほんの一瞬、私は眉を寄せたけれど、それも含めてちょうどいいと思った。私は、24講義室であなたと出会ったあの日から、いつもあなたに戸惑わされてばかりだった。だから今日は反対に、あなたがほんの少しでも戸惑えばいい。先に帰っているはずの私を見つけて、ほんの僅かでもあなたが目を見ひらいたなら――もしもそれが成功したなら、とても気分がいいだろうと思えた。私は微かな笑みを口元に浮かべて、24講義室のある二階へと向かった。
     二階に上がると、前回ここに来たときと同様に、薄暗い廊下が伸びている。24講義室の場所は覚えているので、そちらまでまっすぐ向かう。辿り着いた24講義室の中からは、ドア越しに教授と思われる女性の話し声と人の動く音が聞こえてきた。私はドアの横に立って、講義が終わるのを待つ。
     やがて、ドアの向こう側のざわめきが大きくなった。そうかと思ったらドアがひらいて、白衣を着た教授が講義室を出てくる。少し遅れて、学生たちも。その中から、私はあなたを探した。けれど講義室を出る学生の人波が途切れても、背の高いその姿は現れない。あれ、と戸惑ってから、おずおずと講義室のドアをあけてみる。すると、あなたの名前を呼ぶ、甘えたような女の声が聞こえた。
     細くひらいたドアの隙間から、あなたの後ろ姿が見えた。あなたと向き合っているのは、コテで綺麗に巻かれた髪を揺らした、先日と同じ女子学生だった。彼女は背伸びをして、あなたの頬に手を伸ばしている。そうして、あなたに何かを囁いた彼女の瞳が、ふっ、と私のほうを見た。
     その瞳が、笑みのかたちになった次の瞬間だった。
     私は息を呑んだ。彼女があなたの頬を両手で包んで、顔を近づけたから。それは、前髪と前髪が触れ合って、くちびるとくちびるが合わさる距離。私は後退る。弾かれたようにドアレバーから手を離して、くるりと踵を返して駆けた。
     ばたばたと足音を立てながら医学部棟を出て、正門までつながる並木の道まで来て、私は立ち止まる。肩で息をしながらスマートフォンを取り出して、あなたの連絡先をひらいた。
     私のほうも用事ができたので、今日はもう来ていただかなくて大丈夫です。
     ふるえる指先で文面を組み立てて、送信ボタンをタップした。そうしてから、私は呆然と正門まで歩き出す。踏み出す一歩一歩の足先が、まるで薄氷を踏んでいるかのように慄き、ぐらつく。ともすればその場にくずおれそうになりながらよろよろと歩いて、正門を出た。それからアパートまでどうやって帰ったのかは、よく覚えていない。
     何かあった? 気を悪くしたら申し訳ないんだけど、もしかして何か怒ってる?
     あなたから、そんな返信が届いていた。私はその文面を虚ろな目で見つめて、滑り落とすようにスマホを手離した。床に座り込んで膝を抱えた。友人が編み込んでくれた髪が、膝頭の上に力なく垂れる。
     しばらくそうしていたら、スマートフォンが軽やかでのどかな音を鳴らしはじめた。あなたからの着信だった。あなたの名前が表示された画面をただぼんやりと瞳に映していたら、やがて着信は鳴りやんだ。ぎゅっとくちびるを噛んで、膝頭の上に顔を俯けた。
     どうして、私はこんなふうに座り込んで顔を俯けているのだろうと思う。まるで、傷ついているみたいに。痛みを堪えているみたいに。
     あなたが、何とも思っていない相手とキスができることなんて、とっくに知っていたことじゃない。女好きであることなんて、とっくに知っていたことじゃない。そもそもが、ああいう出会いだったのだから。
     けれどそう言い聞かせようとするそばから、目を瞑った瞼の裏によみがえる。夕やけのオレンジ。私を見下ろしたグレイの瞳。傲慢な微笑。
     耳の奥によみがえる。まったく、真面目なんだから、と笑った声。嫌じゃないと捉えてもいい? と問うた傲慢な声。微熱を切り裂いた軽やかでのどかなメロディ。――あのとき、母からの電話がなければ私はきっと。
     私は膝を抱える腕に力をこめた。太腿を胸に押し付けて、低く響く心音を抑え込もうとした。だって、あなたにとっては、どちらも大して意味を持たないことなのだ。夕やけの下でのキスも、マンションでのキス未遂も。
     だから、私だって気にすることはない。まるで傷ついているみたいなポーズをする必要はない。痛みを堪えているみたいなポーズをする必要はない。そう理解しているのに、ぎゅっとくちびるを噛む私の脳裏に閃くのは。
     気になるんだ、きみのことが。そう微笑んで、優雅に軽く一礼をしたあなたの眼差し。
     長い指先で教科書の記述をなぞり、明瞭な声で数式を解説するあなたの眼差し。

     どれだけの時間、俯いて座り込んでいたのだろう。
     レースカーテン越しに、窓からオレンジ色の光が差し込みはじめた頃、私はようやく顔を上げた。そうして、友人が編んでくれた髪をほどいてゆく。癖毛が指に絡む感覚を呆然と感じながら、昔のことを――それはつまり前世の記憶を――思い出した。ファウストが嵐の谷で呪い屋をやっていた頃の記憶だ。
     嵐の谷に迷い込んで怪我をした力の弱い魔法使いを助けたときの記憶。織って布にすれば、覆うものを透明にする繊維が採れる木を探しに来たというその魔法使いは、ファウストの名を聞いて顔を強張らせた。
     ファウストって、北のフィガロの弟子の……?
     違う、とファウストは眼差しを背けた。すると魔法使いはほっと安堵の息を吐いて、フィガロについての噂を話し始めた。
     そうですよね、あなたは清廉で、北のフィガロとは似ても似つかない。知っていますか、あの強大で尊大な魔法使いは土地をひらいた見返りに、部族長に娘を全員差し出すよう求めたそうですよ。
     結局その噂は、旅の一団のリーダーが開拓を手伝ったフィガロへの感謝のしるしに、娘を全員嫁にやると言った話が曲解して伝わったものだったとずっと後に分かったけれど。
     毛先まで緻密に編み込まれていた髪は、うなじのところまでほどけた。それにやりきれなさを覚える私の思考は、また別の記憶へと飛ぶ。フィガロが賢者の魔法使いになってしばらく後の記憶だ。大いなる厄災を招こうとした者との戦いにも決着がつき、ふたりで晩酌をすることがそれほど珍しくなくなったある夜の。
     まあ、そこに住むつもりがなかったから断ったけど、みんな美人だったから勿体無かったかなあ。
     酒のグラスを傾けながらそんなふうに笑ったフィガロに、ファウストは絶句した。
     えっ、ちょっと待ってよ。断ったって言ったじゃない。前に賢者様にも微妙な反応をされたけど、俺、何か変なこと言った?
     自分が放った言葉の問題点が分からないらしい。尊敬できるところがないことはない、と言ってもやっぱりこの男は女好きなのだ、とファウストは小さなため息を吐いた。
     ――その小さなため息の音を、今、鮮明に思い出した。
     編み込まれていた髪はすべてほどけて、いつも通りの私に戻った。私はひとつまばたきをして、足に力を込めて立ち上がる。夕やけの下でのキスも、マンションでのキス未遂も、全部全部振り切らなきゃ。だってあなたにとっては、きっと息をするのと同じくらいに当たり前で何でもないことなのだ。キスの相手が、私であろうと、他の誰であろうと、あなたにとって女ならすべて同じこと。あなたが私に興味を示した理由はただひとつ。私が女だから、それだけだ。
     気になるんだ、きみのことが。そう言ったあなたの瞳の揺らぎに意味なんてなかった。約束なんて、気軽に口にするのは不誠実かなあって思ってさ。あなたが約束を躊躇ったことにも意味はなかった。もしかしたら、綺麗な音とともに砕けた日々の続きがもういちど始まるのかもしれないだなんて、そんな期待を一瞬でも持たなかったと言ったら嘘になるけれど、すべては私が女だから生じた幻惑に過ぎない。きっと今の私が男として生まれていたのなら、あなたは『僕』にひとかけらの興味すら持たなかったはずだ。
     ――だったら、やっぱり。
     ファウストの頬にあなたの影が落ちて、あなたの前髪とファウストの前髪とが触れ合う距離で。きらきらと陽光を反射する手のひらでファウストの頬を包んだあなたが、ファウストのくちびるの上で言おうとしたこと。
    『俺は、きみに――』
     その続きは、『僕』と同じだったのではないかと信じていた。『僕』の中で、それは確信めいた事実となっていた。けれどやっぱりそれは『僕』の切実な願いがもたらした幻惑で、あなたの心はそうではなかったのだろう。『僕』はあなたの弟子だった。それ以下でも、それ以上でもなかった。
     すべては『僕』の独りよがりな恋だった。
     今の私と同じように。

     自分の中の恋を認めた。認めた瞬間に、その恋を失った。だからもう今度こそ、あなたと関わり合いになるのは終わりにしたかったのに。もう会いません、今までありがとうございました。決意を込めたメッセージだって送ったのに。あなたは月曜日の必修の講義終わりに現れた。
     講義室の出口で、トイレに行くと言う友人と別れてすぐだった。あなたの姿を認めた瞬間に後退って逃げようとした。けれど、大股でこちらに向かってきたあなたが私の手首を掴むほうが早かった。離してください、と怯えたように首を振る私の声に重ねて、あなたが私の名前を呼んだ。
    「もう会わないってどういうこと? 俺、きみに何かした?」
    「……離してください」
    「きみが答えてくれるまで離さないよ」
     私はあなたを睨み付けて、腕を激しく振って手首を振りほどこうとした。けれど、あなたは私の手首を掴んだまま表情すら変えない。女に生まれた私の力では敵わないのだ。そう思った途端にどうしようもない悔しさがこみ上げる。私は奥歯を噛んで、せめて眼差しをもっと険しくしてあなたを睨み付ける。私の眼差しを、あなたは静かな瞳で見下ろしている。それがどういった表情なのか測りかねた。癇癪を起した子供を諭すような表情にも見えるし、困惑をかろうじて抑え込んだ途方に暮れた表情にも見える。しばらく互いに見つめ合ったのち、場所を変えようか、とあなたが言った。行きかう学生の人波が私たちに注目していた。
     あなたに手首を掴まれたまま、連れていかれたのは階段近くの空き講義室だ。中に入って、ドアを閉めたあとも、あなたは私の手首を離さなかった。
     睨み続ける私と対照的に、あなたはほんの少し表情を緩めた。
    「きみに何かしてしまったのなら謝りたい。だから、何に怒っているのか教えて?」
    「別に怒ってなんかいません」
    「うーん。それには頷けないかなあ」
     小さく首を傾げたあなたは、上体を前屈みにして私に顔を近づける。そうして、グレイの瞳で私をじっと見据えた。まるで、まじまじと私を観察するように。
    「きみは、俺にある程度の好意を持っていると思っていたけど」
     私はあなたから眼差しを逸らした。けれど空いているほうの手で、あなたが私の顎を掴んだ。そのままさらに顔を近づけられて、私は瞳をふるわせる。あなたがまとう香水の匂いが強く香る。
    「違った?」
     私はぐっとくちびるを噛んだ。それきり何も答えられず、口を噤む。けれどあなたは私の心を見透かして、ひどく傲慢に口端を上げた。窓から差し込む光が、室内の空気をきらめかせる。陽光を透かしたあなたの髪も、繊細にあえかにきらめいた。逆光の表情を影色に染めて、あなたはグレイの瞳で私を見つめた。慈雨を降らす空のグレイだ。ゆっくりとあなたのくちびるが動く。誘うように、惑わすように。低く掠れた甘やかな声が囁く。
    「前にきみのことが気になると言ったけど。それだけじゃないよ。俺は、きみに恋をしていた」
    「……っ」
     あなたの言葉を聞いた瞬間に脳裏によみがえった表情。目を眇めて、ぎゅっと眉根を寄せた苦しそうな表情。あの日、それに愕然として息を止めた僕の、頬にあなたの影が落ちた。あなたの前髪が僕の前髪と触れ合った。きらきらと陽光を反射する手のひらが僕の頬を包み、そうして祈るようにあなたがくちびるをひらいて。
    『俺は、きみに――』
     あなたはそう言った。けれどその続きを言い切る前に、かしゃん、と響いた綺麗な音。それとともに砕けた温度と質量。僕の指先をすり抜けた聴診器、白衣、シャツ、ベルト、スラックス。そして、無限の色でかがやく石。――鮮明に込み上げる。あの日の光景が、感触が、匂いが、温度が、思いが。
     名前が聞こえた。ファウストではない――僕ではない。なら、これは。これは、これは、これは――今の私の名前。あなたが困惑した声で私の名前を呼んだのだ。はっと意識を引き戻された私は、自分の頬を伝う涙の感触に気づく。
    「どうしたの、」
     私の頬に伸ばされた指先。それがあの日のように、繊細にあえかにきらめいたように思えた。
    「嘘だ……っ」
     私は強く首を振った。それと同時に腕を振れば、今度はあなたの手を振りほどくことができた。その勢いのまま踵を返して、ドアを身体で押しあけるようにして講義室を出た。待って、と後ろで声が聞こえたけれど振り返らなかった。だって、24講義室であなたは。
     廊下を走った。階段まで来た。後ろからあなたの足音が聞こえた。「待って!」必死に追い縋るようなあなたの声も。振り返らなかった。泣き顔をこれ以上あなたに見られたくなかった。あなたの言葉の続きに勝手な期待をしたくなかった。私は縺れそうになる足元で階段を駆け下りる。
    「待って、待って、……待って、」
     あなたの言葉が一度途切れた、その次の一瞬。
     周りのすべての音が消えたように思えた。
    「待って、ファウスト!」
     え、と私は足を止めた。振り返れば、階段の一番上の段に片足をかけたあなたが、呆然とした顔で私を見下ろしていた。
    「……ファウスト」
     あなたは自分の言葉に怯んだようにグレイの瞳を揺らした。愕然と目を見ひらいた私は、一歩階段を上がる。それと同時。
    「っ、」
     顔をしかめ、手で頭を押さえたあなたの身体がぐらりと崩れた。咄嗟に手を伸ばした私の指先のすぐ向こう側を、あなたのシャツがすり抜ける。あなたの身体は階段を転がり落ち、そうして。
    「……フィガロっ」
     あなたが倒れた踊り場に鮮血が散る。かしゃん、と綺麗な音がどこか遠くで響くなか、私はぐったりと手足を投げ出すあなたのもとへ駆け寄った。

     ――かしゃん、と響いた綺麗な音。嗚咽を何度繰り返しても、耳の奥に佇むその残響は消えなかった。肩で息をしながらよろよろと木目の床に膝を突いて、きらめく石を拾い集めた。ふるえる指先で、あなたの衣服を丁寧に畳んだ。そうしてから、テーブルの上で小さな山になったそれのなかからひとつ、大切に掬い取るように石を手に取る。あなたの温度を一切失したつめたい石は、けれども北の国に降る細氷のように荘厳に、南の国の花を芽吹かす陽光のようにやわらかに輝き、確かにあなたの生きた証を宿していた。堪らず、石をぎゅうと握りしめた。そうして、フィガロ、と悲痛に囁く。けれども、返事が返ってくることは当然なかった。

     あの日の悲痛がよみがえる。額から流れる血の赤が、踊り場に力なく投げ出された手足が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。あなたに応急処置を施した、大学の保健センターの医師は大丈夫だと言ってくれたけれど。頭部には血管が集まっているから、小さな傷でも出血が多くなるだけだ、って。打撲と軽い脳震盪だからすぐに目を覚ますはずだ、って。
     けれど保健センターの待合席に腰掛ける私の頭の中では、あの日の悲痛が何度も再生されていた。あなたに伝えられなかった言葉。あなたが言いかけた言葉。砕けた温度と質量。それらが、つい先程あなたに届かなかった指先と重なる。また、あなたは砕けてしまうのかもしれない。私の指先をすり抜けてしまうのかもしれない。その思いが、私の身体を小刻みにふるわせる。あなたはもう魔法使いではないのだから石にはならないと理解しているのに、私の指先をすり抜けて床へきらめきが落ちてゆく光景が、瞳の奥に貼りついて剥がれない。
     やがて、保健センターがにわかに慌ただしくなった。医師や看護師が、このあたりで一番大きな病院の名前を言っている。それにはっとして顔を上げれば、窓から差し込む光がオレンジを帯びていた。腕時計を確認すれば、五コマ目の講義が終わる時間だった。
     あなたは目を覚まさなかった。保健センターにやってきた専用車で、病院へ運ばれていった。私は心臓が冷えてゆくような感覚を覚えながら、その光景を見て立ち尽くしていた。
     スマートフォンには、私が講義に現れなかったことを心配した友人から連絡が入っていた。メッセージが一件と、着信が一件。ふるえる指先で画面をタップし、電話を折り返した。嗚咽を挟みながら、途切れ途切れに事情を説明すれば、友人が保健センターまで迎えに来てくれた。私は彼女に付き添われて、ようやくアパートまで帰った。その夜は食事も睡眠もまともにとれなかった。
     翌日、ようやくの思いで大学に行けば、友人が私の顔を見てすぐ、帰ったほうがいいよ、と言った。
    「でも、昨日も欠席したのに」
    「代返しとくから。その様子じゃ、講義に出たって何にも頭に入らないよ」
     でも、と力なく繰り返す私に、友人は別の提案をした。
    「だったら、病院に行っておいで。せめてそばにいれば、今よりは安心できるよ」
    「……でも」
    「いいから。レジュメは私がもらっとくし、後でノートも見せてあげるから。行っておいで!」
     友人の声音は、ほとんど追い出すような声音だった。私は力なく頷いて、来たばかりの道を戻って大学を出た。そうして、頼りのない薄氷を踏むような足取りで、電車で二駅のところにある病院へ向かった。
     面会の受付をしてから、少し待たされて病棟に通された。病院独特の匂いを感じながら、私はあなたの名前が記された個室の引き戸をノックする。
    「はい」
     返事があるとは思っていなかったので、私は愕然と目を見ひらいた。ふるえる手で引き戸を引く。次の瞬間、見ひらいた私の目に、真っ白なベッドの上で半身を起こしたあなたの姿が飛び込んできた。私を認めて、あなたはわずかに目を瞠った。
    「あれ、今はきみ、必修の講義じゃなかったっけ」
     私はしばらく言葉を失って、部屋に入ってすぐのところで立ち尽くしていた。ややあって布が擦れる音が聞こえて、もしかして心配して来てくれたの、と額にガーゼを貼ったあなたが言う。そこでようやくはっとした。つかつかとあなたの前まで歩いて、あなたを思いっきり睨み付ける。
    「心配したに決まってます! あんなに血を流して、手足だってぐったりさせて……目を覚まさないし、大きな病院に運ばれるし……」
     最後のほうは涙が混じりそうになった。それをごまかすために、私はあなたを睨む目つきを強める。
    「ごめん、ごめん!」
     あなたが慌てたように謝る。そうしてから、弁解するように説明が加えられた。
    「頭は血管が集まってるから出血しやすいんだ。でも、ただの軽い脳震盪だよ。午後からもう一度検査を受けるけど、問題はないはずだ」
     それは保健センターで医師から聞いた説明と同じだった。途端に、これほどまでに取り乱した自分が恥ずかしくなる。
    「それに、この病院に運ばれたのは、ここが俺の親族が経営してる病院だから。俺の後見人になっている叔父に連絡がいって、そのままここに入院ってことになったみたい。何か大きな検査が必要だからってわけじゃないよ」
     何も言葉を返せないでいると、どうぞ座って、とあなたに促された。あなたの手のひらで示されたベッド脇の椅子に、俯きながら腰掛ける。膝の上で、ぎゅっと両手を握り合わせた。
     ベッドのシーツが擦れる音がした。あなたが私のほうへ上体を向けたのだ、と影の動きで分かった。ふっ、とあなたが笑う気配がした。
    「心配してくれてありがとう」
    「……一緒にいたんだから、当然です」
    「それでも、きみが俺のことを気にかけてくれて嬉しい」
     しみじみと喜びを嚙みしめるような声音だった。それに面食らって思わず顔を上げたなら、あなたのグレイの瞳と眼差しがかち合った。しばし見つめ合うような時間が流れたのち、あなたがゆっくりとくちびるをひらいた。
    「一晩目を覚まさなかったのは、長い夢を見ていたからだよ」
     私は背筋を緊張させる。あなたも私を見つめる眼差しをわずかに緊張させた。あなたのくちびるが、ひらいて、いったん閉じられた。そうしてもういちどひらいたとき、暗闇を探るように心細げな――けれど確信を持った声が私に問うた。
    「ファウスト、だよね」
     私は眼差しを揺らした。様々な感情が綯い交ぜになって胸を埋め尽くす。流星雨の降る雪夜の覚悟。偉大なる魔法使いへの心からの尊敬。灼熱の炎の中で覚えた絶望。再会の日の当惑。寿命を知った夜の狼狽。不信感と、再構築される信頼。酒を酌み交わすささやかな幸福。心を満たす歓喜。少々いい加減な師匠への気負いのない尊敬。あなたを失った悲痛。そして、伝えられなかった恋。
    「――フィガロ?」
     ふるえる声で、私は問い返した。
    「長い夢が、確かに記憶であるなら」
     静かな声で、あなたは答えた。私は呼吸を上擦らせて、あなたに正面から向き合った。グレイの瞳が私を見つめている。かつてファウストとして生きた日々に、あなたが僕を見つめた瞳と同じだ。夢じゃない、と僕はあなたの瞳を見つめて首を振った。
    「夢じゃない、記憶だ。だって、僕もあなたを覚えている。フィガロ・ガルシアを覚えている」
     声の最後は涙に溶けた。見つめる先のあなたの姿が、潤んで、揺らぐ。涙が頬を伝う――と思った瞬間にベッドから降りて立ち上がったあなたに抱きしめられた。いつもの香水の匂いはしなかった。そんなはずはないのに、ひりつくように偉大で、それでいて大らかで穏やかな、あの頃あなたが好んでつけていた香油の匂いが香ったような気がした。
    「ファウスト」
     頭の上で、よく知っているあなたの声がする。僕も立ち上がって、あなたがまとう入院着に縋りついた。とくとくと、心臓が動いている音がする。僕はあなたの名前をうわごとのように繰り返す。フィガロ。フィガロ。フィガロ。そのひとつひとつに、あなたは返事をしてくれた。ファウスト。うん。ここにいるよ。
     あなたは僕の髪を梳いて、ごめんね、と謝罪した。
    「俺は、またきみを泣かせてる」
     ちがう、僕が、勝手に泣いてる。そう言いたいのに、嗚咽は言葉を押し込む隙間を与えてくれなかった。僕はせめてあなたの胸で、ふるふると首を横に振る。あなたは僕の髪を撫でながら、ゆっくりと話しはじめた。
    「昨日、きみの泣き顔を見て思い出したんだ。きみを最後に泣かせたことを」
    「ぼく、が、勝手に、泣いた。あなたは、笑って、って」
    「そうだけど……笑えないよ、あんな状況じゃ」
     あなたは苦笑をもらして、また僕の髪を撫でた。
    「俺だって笑えてなかった。最期だって本当に悟った瞬間に後悔したんだ。臆病だったことを」
     あなたの言葉に僕は目を見ひらいた。瞳を覆っていた涙が散る。ごく間近で、眼差しと眼差しがかち合った。あなたはグレイの瞳に微苦笑を浮かべた。
    「きみはよく出来た弟子だった。俺のすべてを、きみに手渡せたと思って満足していた。弟子として、きみをとても大切に思っていたよ。でも、本当はそれだけじゃなかったんだ。どうせ石になるときに失うんだからって、気づかないふりをしていたけど」
     とくん、とあなたの心臓が脈打つのを感じる。僕はまっすぐにあなたの瞳を見つめて、あなたの次の言葉を待った。
    「俺はきみを、ただ、きみとして大切に思っていた。俺は、きみに恋をしていた」
     その言葉を聞いた瞬間に、あの日綺麗な音とともに結晶した光景が動き出す。あの日、――今日まで何度だって思い返したあの日。僕の頬に落ちたあなたの影。触れ合った前髪。僕の頬を包む、きらきらと陽光を反射する手のひら。僕のくちびるの上で、祈るようなあなたの声が『俺は、きみに恋をしていた』と言って。そうして、あなたは僕にキスを。
     あなたは、僕に恋を伝えるつもりだったのだ。僕と、まったく同じように。
     今度は僕の番だと思った。手の甲で涙を拭い、あなたのグレイの瞳を見つめてくちびるをひらく。
    「僕も、あなたに恋をしていた。師匠としてだけでなく、あなたがあなただから、僕はあなたに恋をしていた。それをあなたに伝えたかった。……僕も、臆病だったんだ」
    「ファウスト……」
     あなたが切なげに瞳を眇める。その次の途端に、強く強く抱きしめられた。僕もあなたを抱きしめた。ふたりぶんの鼓動が重なり合う。互いの体温が交じり合う。ファウスト、とあなたが甘く掠れた声で僕を呼んだ。その声に導かれるように、僕は顔を上げた。あなたの影が僕の頬に落ちる。僕の前髪とあなたの前髪とが触れ合う。あたたかなあなたの手が僕の頬を包んだ。
    「――好きだよ」
     もう少しで、くちびるが。
     そこで、はっと夢から醒めたように。
     僕は――私は、今のあなたの名前を呼んだ。あなたがぴたりと動きを止める。あなたは少し困惑したように瞳を揺らした。
    「ファウスト……?」
     私はあなたのグレイの瞳をまっすぐに見据えてから、聞いてくれますか、とあなたに問うた。あなたは小さく頷いた。私はひとつ息を吸って、覚悟を決める。
    「私は、今も、あなたのことが好きです」
     あなたの瞳をまっすぐに見たまま言った。あなたが僅かに目を瞠った。私はもうひとつ息を吸って、続きを話す。
    「本当は言わないつもりでした。だって、見込みのない恋を伝えたって、みじめになるだけだと思ったから。でも、あなたが階段から落ちて、血を流して、目を覚まさなくて……。また、あの頃と同じように伝えないままになるのは嫌だって思い知ったから。だから、あなたに聞いてほしいと思いました。私は、あなたのことが好きなんだって」
    「待って、ええと……」
     あなたが何かを言おうとした。けれどあなたの言葉を聞いてしまえば覚悟が揺らいでしまうと思ったから、私は眼差しであなたを制して続きを話す。
    「今のあなたには、今のあなたの人生があることを理解しています。あなたの前世がフィガロだからって、私の前世がファウストだからって、その続きで何か責任を取っていただこうとは思いません。今のあなたに、他に恋人がいるならそれで構わないし、恋人を作るつもりがないのならそれでも構いません。ただ、私は今も、あなたに恋をしているんだって伝えたかっただけなんです」
     そこまで言い切ってから、私はあなたから一歩後退った。
    「聞いてくださって、ありがとうございました。それから、今までありがとうございました。それでは、どうかお大事に」
     あなたに一礼して、部屋を出るつもりだった。けれど――、
    「待って、待って、」
     あなたに手首を掴まれた。離してください、と腕を振ったけれど振りほどけない。
    「待って、どうして失恋したみたいな話し方をするの」
     もう片方の手首も掴まれて、あなたと向き合うような体勢になった。だって、と私はあなたから眼差しを逸らして言い募る。
    「あなたが私に興味を持ったのは、私が女だから」
    「え、」
    「それなら、私じゃなくても誰でもいい」
    「待ってよ、そんなことないよ!」
     あなたが強い口調で言い切った。けれど私はそれに怯えるように、ふるふると首を横に振る。あなたが傷ついたような顔をした。
    「どうして……さっき言ったじゃない。好きだって」
    「それはファウストの話で……」
    「ならもういちど言うよ。俺はきみが好きだ」
     その言葉が放たれた一瞬、すべての音が消えたような感覚に陥った。甘やかな歓喜が身体中を駆け巡って、私を必死に見つめるグレイの瞳に、すべてを委ねたくなる。私を誘惑するそれに懸命に抗った。だって、と私は強く首を振る。
    「先週、24講義室で。女のひととキスしてました」
     え、とあなたが目を丸くする。
    「あれ、見てたの? じゃあ、ドアの音はきみだったんだ」
     眼差しを険しくする私に、「……あっ、待ってよ違うそうじゃなくて!」あなたは慌てたように言葉を重ねた。
    「してないよ! してない。寸前のところで避けたから」
    「え、……でも」
     私は動揺した声で言い募る。
    「前にも、同じひとと24講義室で」
    「それには言い訳のしようがないけど」
     苦い顔をしたあなたは、でも先週は、と不意に眼差しを真剣にした。
    「きみ以外とこういうことをするのは違うなって、思ったんだ」
     それは素直な声で、率直に結ばれた言葉だった。でも、を噤んだ私は、あなたの瞳を注意深く見つめた。しばらく、にらめっこのような沈黙が続いた。
     やがてあなたが、掴んでいた私の手首を手離した。私は後退らなかった。
     あなたが私の名前を――今の私の名前を呼んだ。私はそれに眼差しで応えた。
    「きみのことが好きだよ。さっきの言葉を訂正させて。恋をしていた、じゃない。俺は、今もきみに恋をしている」
     真摯に、一途に、切実に。あなたの言葉が私の心に届いた。けれどそれでもなお、私は何かに怯えるように、慎重にあなたに問うた。
    「……それは、私がファウストだから?」
    「きみはきみだよ」
     あなたは迷いなく答えた。そうして、
    「俺が俺であるのと同じように」
     胸の前に右手を添えて、軽く一礼をするように優雅にあなたは微笑んだ。それは、よく知っているフィガロ仕草。けれど同時に、あなたの仕草でもあるのだと私は理解した。

     抱きしめていい、とあなたが問うた。私はおずおずと頷いた。あなたは微笑んで、私の身体を引き寄せた。とん、と鼻先があなたの胸にぶつかる。ぎゅ、とあなたの腕が私の背中に回る。ふたりぶんの心音が身体中に響くなか、俺と付き合って、とあなたが言った。はい、と私は頷いた。
     あなたが私の髪を梳く。輪郭横の髪を耳にかけて、あなたが私に顔を近づけた。あなたの影が私の頬に落ちる。そうして、あなたの前髪と私の前髪とが触れ合って、あなたが私の頬を手のひらで包んで、――もう少しでくちびるが重なるというところで。
     とんとんとん、と部屋の引き戸がノックされた。私はぴんと背筋を跳ねさせて後退る。入ってきたのは看護師の女性だ。てきぱきとあなたに近づいて、午後からの検査について簡単な説明をしてから(ついでに、あまり立ち歩かないようにとあなたに注意をして)、また部屋を出ていった。かちゃん、と引き戸が閉まる音がしてから、あなたが私に小首を傾げる。
    「続き、する?」
    「……結構です」
     そう、残念、とあなたは口元に余裕げな笑みを浮かべて、ベッドに腰掛けた。
    「大学に戻ります」
     私は熱を持った頬を隠すようにして、あなたから顔を背けた。けれどぐいっと手首を引かれて、私の身体はベッドに腰掛けるあなたへと倒れ込む。そのまま腰を抱き寄せられて、キスをされた。私は目をひらいたままだった。
    「……っ」
     思わず口元を手で覆うと、ごめんね、とあなたが悪びれずに笑った。
    「俺がしたかったんだ」
     ひどく幸福そうにあなたが目元を緩めるから、私は何も言い返すことができない。さっきよりももっと頬を熱くして、あなたから目を逸らすことになった。

     あのあと、もう二回くらいキスをしてから、私は大学に戻った。講義室で友人を見つけ、あなたが目を覚ましたこと、あなたと交際することになったことを報告した。まるで自分のことのように喜んでくれる友人にたじろぎながらもお礼を言って、友人と一緒に必修の講義を受けた。
     その日の夕方、アパートに帰ってスマートフォンを確認すると、あなたからメッセージが届いていた。『退院したよ。検査も問題なかった。心配かけてごめんね。』そのメッセージに返信をすると、すぐにあなたから返信があった。

     そうして翌週、私のアパートにて。
     私はローテーブルの角を挟んで、あなたと向かい合っていた。私の眼差しの先で、あなたのフォークが口に運ばれる。あなたの頬が動く。その様子を、私は緊張しながら見守っていた。頭の中では、料理の手順を反芻して。そぎ切りはちゃんとできたはず、玉ねぎもできる限り薄くスライスした。レモン汁とオリーブオイルと塩もよく混ぜ合わせた。トマトの盛り付けだって彩りよくできたはずだし、最後に振りかけたコショウも適量で――。
    「――うん、美味しい」
     あなたの言葉に、私はほっと息を吐く。よかったです、と呟いて、私もカルパッチョを口に運んだ。咀嚼して、小さく頷いた。ちゃんと満足のいく出来上がりだ。
    「こっちのガレットも美味しいね」
    「好きで、よく作るんです」
     変わらないね、とあなたが懐かしそうに目を細めたのは、きっとファウストを思い出してのことだ。私はカルパッチョを見やって、あなただって、と微笑む。
    「記憶は、どれくらい戻ったんですか」
    「どれくらいかなあ。随分思い出したけど、全部ってわけじゃないと思う。何といっても、二千年分だからね」
     そこまで言ったところで、あなたは苦い顔をした。
    「思い出せば思い出すほどそう思うんだけど、俺ってかなり面倒くさい男じゃない?」
     私は思わず噴き出した。フィガロの人生を今のあなたが振り返るとそんな感想になるんだ、と思ったからだけれど、笑い事じゃないよ、とあなたがほとほと困った様子で声を上擦らせる。
    「きみが、俺に呆れるんじゃないかなあって思ったりしてさ」
    「今さら何を」
     フォークを止めたあなたとは反対に、私はガレットを切り分けながら言葉を続ける。
    「そんなあなたに僕は恋をしたし、私は恋をしているんです」
     流星雨の降る雪夜の覚悟。偉大なる魔法使いへの心からの尊敬。灼熱の炎の中で覚えた絶望。再会の日の当惑。寿命を知った夜の狼狽。不信感と、再構築される信頼。酒を酌み交わすささやかな幸福。心を満たす歓喜。少々いい加減な師匠への気負いのない尊敬。あなたを失った悲痛――決して美しく素晴らしいことばかりではなかったけれど、あなたと心を通わせるなかで、感情は恋に帰結した。
    「――それを、疑わないで」
     そう言い切れば、あなたがくしゃっと眉を下げて、まるで泣く寸前のような顔をした。カシャン、とカトラリーを置く音がする。
     私の手から、フォークとナイフが滑り落ちた。あなたが飛びつくようにして、私を抱きしめたから。びっくりした、という私のささやかな抗議は、おののきの息に呑み込まれた。私を抱きしめるあなたの腕は、微かに、小刻みにふるえていた。
    「きみが好きだよ」
     切実な声が耳元に落ちる。私はあなたを抱きしめ返した。そうして、私もあなたが好きです、と心からの恋をあなたに伝えた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭💘💘🙏😭😭👏😭😭😭😭👏👏👏💖💖💖💖💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    Shiori_maho

    DONEほしきてにて展示していた小説です。

    「一緒に生きていこう」から、フィガロがファウストのもとを去ったあとまでの話。
    ※フィガロがモブの魔女と関係を結ぶ描写があります
    ※ハッピーな終わり方ではありません

    以前、短期間だけpixivに上げていた殴り書きみたいな小説に加筆・修正を行ったものです。
    指先からこぼれる その場所に膝を突いて、何度何度、繰り返したか。白くきらめく雪の粒は、まるで細かく砕いた水晶のようにも見えた。果てなくひろがるきらめきを、手のひらで何度何度かき分けても、その先へは辿り着けない。指の隙間からこぼれゆく雪、容赦なくすべてを呑みつくした白。悴むくちびるで呪文を唱えて、白へと放つけれどもやはり。ふわっ、と自らの周囲にゆるくきらめきが舞い上がるのみ。荘厳に輝く細氷のように舞い散った雪の粒、それが音もなく頬に落ちる。つめたい、と思う感覚はとうになくなっているのに、吐く息はわずかな熱を帯びてくちびるからこぼれる。どうして、自分だけがまだあたたかいのか。人も、建物も、動物も、わずかに実った作物も、暖を取るために起こした頼りなげな炎も。幸福そうな笑い声も、ささやかな諍いの喧噪も、無垢な泣き声も、恋人たちの睦言も。すべてすべて、このきらめきの下でつめたく凍えているのに。
    8766

    recommended works