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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者タミオチャンの炭魘③です。相変わらずなんでも許せる人向け。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    ジョハリの箱庭・Ⅲ『秘密』

     話題を変え、他愛ない近況と無駄話を交わしているうちに、とっくに陽は落ちていた。
     炭治郎の部屋を出た民尾を、また白い廊下が出迎える。白熱灯が低い音を鳴らして、廊下を照らしている。窓から見える森の影は夜空に溶けて、平坦な黒い矩形へと変わり果てていた。目を凝らせば、枠内の上三分の一くらいにほんの薄明るい星が申し訳ばかりに鏤められているのが見えたが、それだけだ。
     黒と白の濃淡だけを塗り込めた夜を、民尾は足早に過ぎていく。
     これで今日の業務はあらかた終わった。あとは鬼舞辻所長と数人の同僚達に報告のメールを送れば、明日まですることは何もない。現在炭治郎ひとりしか患者のいないこの施設の資金源は、専ら外部での講演と製薬特許だった。よって院長並びにその全員が民尾より先輩に当たる同僚達は大体が外を飛び回るか、あるいは別フロアで研究に没頭している。調理や清掃のスタッフを除けば、患者のケアに当たる実働隊の医師は実質民尾一人だった。
     こんな山の中に娯楽なんてある訳もないし、インターネットへの接続も特定のサイト以外禁止されている。なら、コレクションである鉄道グッズの整備をして、今日もとっとと寝てしまおう。それが、この施設で定められた自分の日常なのだから。廊下の突き当たりにある自室を目指して、ただ機械的に足を動かす。
     四〇四号室の前を通ったときに、ほんの少しだけ胸が騒いだ。あのレールと車体の擦れる音が、記憶の中から脳の襞を擦り始める。無論、現実には既に扉は閉じていたし、よしんば未だ部屋の中であの列車が無限に軌道を走り続けていたとしても、あんな小さな音が分厚い金属の扉を通して聞こえてくるはずもない。
     そう、言い聞かせても、民尾の内に萌芽した一抹の不安は消えなかった。そう、不安。自分は不安を感じている。不安、安心でない。落ち着かない。全てが停滞を定められたこの場所では、未知はただ日常を掻き乱すものでしかない。いつから、こんな風になってしまったのだろう。民尾は口の中で小さく舌を打つ。かつての自分であれば、他人の平穏を狂わせることを快感と覚えてすらいたのに。
     殆どの場合、変化とは退化である。
     それが、鬼舞辻所長の持論だった。
     この療養所に赴任した初日にそれを聞かされたときには、なんとなくその言葉の上っ面だけをなぞって頷いたばかりの民尾だったが、今ならその真意は痛いほどに分かる。妄想から解放されて退院していく者よりも、悪化していく患者の方が遙かに多い。同僚のひとりがここは一種の収容所だと吐き捨てたのも、むべなるかなと言った風情だった。
     慣性にもつれそうになりながらも足を止めて、扉を検分する。あのとき自分が閉め直したままで、開く気配はなかった。念のためドアノブに指先をかけてみる。触りたくもなくて、やっとのことで人差し指と親指だけを動員して。慎重に下に回してみようとしても、ほんの少し遊びがある程度で鍵が邪魔をした。がちりと固い感触と、一瞬の音。
     僅かに安堵の息をついて、民尾は後ろに一歩下がった。あまり、この扉の近くに長居したくはなかった。唐突に扉が開いて、その内側に飲まれてしまいそうな気がして。
    ありえない、と自嘲が意識の表層を撫でる。
     唇を引き攣らせて、民尾は笑う。
     そうして、思い出す。白い部屋の男の話。装飾も何もない、真っ白な内装の部屋に閉じ込められた男はどうしたか。頭がおかしくなってしまった。目の前に無を突きつけられたら、己の内側を指向するしかないから。白い廊下と白い床が民尾を包む。黒い窓が申し訳程度に並んでいても、駄目だ。
     窓は黒い。
     民尾の髪だって黒い。
     自と他とを分けられない。
     この施設すべてが裏返って民尾の内面になる。
     白い廊下、白い床。空白の心。
     勿忘草色の瞳が、はくと震えた。目に映る景色が刻まれていく。何十分の一、何百分の一。それでも拍動する白は何の変化もない。どれだけ微細な時に分解されようと。進化も退化もせず磨き上げられた完璧な白。それはいずれ民尾の全てを飲み込んで、そして。
     振るう怖気を払って、民尾は勢いのままに踵を返した。そうして再び自室へのルートを辿っていく。カツカツとわざとらしく足音を立てて、リノリウムの床へ影を映して。
     扉から離れると、ほんの少しだけ冷静さが戻ってきた。不安の正体をなんとか説明づけようと、言葉を弄して理論を形作る。まるで悪鬼を屠る銀の弾丸のように、正体不明の感情に言葉を撃ち込む。
     おしなべて、人間は未知のものに遭遇したときに恐怖を覚える。そこに例外などなく、ただ生物としての本能でしかない。直面した対象が危機に繋がらないとも限らないし、それを判断している間も惜しい。だから、危機回避のためのプログラムとして恐怖が生まれた。臆病者ほど長生きする。それはある種の真実だった。民尾は肩を竦める。未知を警戒し、何事も慎重に事を運ぶ自分が、その恐怖に飲まれるなど。
     だからこそ、今此処できっちりと分析し、境界を作り上げなくてはならない。今回の場合、其処にあるはずがないと普段合点しているものを見て、動転した。それだけのこと。撃ち込まれた言葉は恐怖を上書きして、既に証明された感情の機微へとただちに変えていく。
     それでも。
     民尾はほんの少しだけ首を傾ける。恐怖の根源は、何故かあの無限に軌道を走り続ける列車にあったような気がしてならなかった。
     列車、列車は好きだ。大分長い間帰っていないが自宅は鉄道模型や撮影した写真でいっぱいだし、この山奥に赴任してくるときにも壊されても買い直せるものをいくつか選ってきて自室に飾っている。
     けれども、あの八六二〇型の模型は、何故か持っていなかった。無意識に忌避していたといってもいい。何故なのかはわからないけれど。
     確か、幼い頃はそうではなかった気がする。小学生の時分には、あの型と同じ鉄道模型を民尾も持っていた。深く黒光りする車体と美しいフォルムは子供心に憧れで、散々にねだってやっと誕生日の贈り物としてリボンをかけられてやってきたのだったか。手にした経緯と、嬉しかったという想い出だけはいやに鮮明だったが、それがいまどこにあるのかはとんと見当がつかなかった。
     どうして、手放したのだろう。
     何も思い出せない。ただ、それが失われたという結果と、深い喪失感だけがあった。まるで真っ白なタブローにぽつりと落とされたインクの染みのように。
     じくりと染む痛みにも似たそれは何色だろうか。
     いずれにしても、この白い建築にはおよそ似合わない感傷だった。
     気づけば、廊下の突き当たりまで来ていた。他の病室のドアと大して変わらないそこが、民尾に宛がわれた研究室兼住居だった。手早くテンキーに四桁の暗証番号を入力し、小さく開いた隙間に滑り込む。途端に、溢れんばかりの色彩が民尾の目の前に溢れ出した。部屋の四方は殆ど棚で埋まり、そのうち入り口から見て右手側が資料やカルテを収めた書籍棚で、他は殆どが趣味の鉄道グッズで埋め尽くされている。
     色も形もとりどりの車体たちを眺め回して、民尾はようやく深い息をついた。仕事さえしていれば趣味のものをどれだけ蒐集しても咎められないのが有り難い。かつて無頼放蕩に時を消費していた自分を拾い上げてくれた所長には、それも含めて深い感謝を覚えていた。
     机の上に置かれた支給品のノートPCのスリープを切り、メールソフトを立ち上げる。テンプレートに沿って今日の炭治郎とのやりとりをかいつまんで入力していく。最後の備考欄には、ほんの少し迷ってから四〇四号室の一件を書き込んだ。鍵が開いていたためセキュリティのチェックを要請する、とだけ。
     そこに民尾の意志が介在する余地もないし、あのとき眼前に迫った不穏な感情をかたちにするのはどうにも憚られた。
     一通りの誤字チェックをして送信ボタンを押そうとしたとき、インターホンが鳴った。リクライニングチェアから身を起こして、民尾は立ち上がる。わざわざ部屋に入ってくることを知らせる殊勝な人物など同僚達の中にいるはずもない。夕食まではまだ間があるから、多分調理スタッフでもない。とすると、誰か。
     訝しげに首を傾けて、民尾は立ち上がった。大股で数歩の距離にあるモニターホンに向かい、応答ボタンに手を伸ばす。指がボタンを押しきる前に、画面に映った人影が目に入る。癖の強い髪に、赤い瞳。
     まさかと思う間もなく、揺れる耳飾りと痣が荒い画素の中でそれでも克明に浮かぶのがわかった。話の内容を伝えるためだけの擦り切れた音質が、少年の柔らかい声を鑢で削ったようにざらざらと伝達する。
    「あの、民尾先生」
    「炭治郎くん?」
     思いも寄らない訪問者に、民尾は思わずぽかりと口を開けた。
    「どうしたの、というか部屋の鍵は」
     問い詰めるような口調になってしまったのを自覚して、民尾は口を噤む。炭治郎はそれを過敏に感じ取ったのか、些かしおらしく下を向いた。弾けるような緩慢な動きでざわめく液晶画面。
    「ごめんなさい、開いていたので出てきちゃいました」
    「……開いてた?」
    「はい、もしかしたら民尾先生が戻ってらっしゃったのかなって思って廊下を覗いても誰もいなくて、しかも一度閉めたら開かなくなってしまったんです。で、どうして良いか分からなくなって……」
    「ここに来たの?」
     話を急いて、民尾は言葉を継いだ。結論を先取りして聞いてしまうのは精神科の医師としては失格もいいところだけれど、それよりも現状を確認したいという意識が先に立った。
    「はい……階段は鍵がかかってましたし、ドアに民尾先生の名前があったので」
     どうしていいかわからないという風情で、炭治郎は両手を胸に当てた。その動きからすると、凶器は持っていない。入院着にはポケットがないから、両手が見えればそれはほぼ確実だった。荒い音質からでも嘘をついているようには聞こえない。
     それを充分に確認してから、民尾は扉を開けた。混乱はまだ大きいが、彼をこのままにしておいて不測の自体があれば、責任は全て自分にかかってくる。失態を犯して所長に見限られるくらいなら、精神錯乱を起こした少年にこの場で殺される方がまだマシだと思えた。
    「とりあえず、中に入りなよ。鍵のことについてはいま上に聞いてみるから」
     炭治郎は深く頭を下げて一礼してから、民尾の部屋へと足を踏み入れる。所在なげな彼を、民尾は来客用のふたり掛けソファに座るよう促した。部屋のどこからも目を遣れる位置にあるそれに彼が素直に腰掛けるのを待ってから、身体を半面だけパソコンへと向けてキーボードを打つ。
    「ちょっと待ってて。メールだけ送っちゃうから」
     放置されていたメールの末尾に炭治郎の部屋の鍵が開いて彼が外に出たことと、施錠システムの調査を強く要請する旨を追記して、送信ボタンを押した。メールの内容を見られないよう、何もアイコンのない青一色のデスクトップ画面に切り替える。そううしてから改めてチェアに座り直すと、床を蹴って回転させ炭治郎の方へと向き合う。
    「すみません……こんな、お手数おかけして」
    「別に、君が悪い訳じゃないよ。設備についてはこっちの不手際だから気にしないで」
     全くだと悪態をつきたいのを押し込めて、民尾は柔らかく微笑んだ。折角独りでいられる時間がこれで台無しだと、立場さえ許せば口汚く罵っていたかも知れない。それを知ってか知らずか、炭治郎は終始所在なさげに曖昧な表情を浮かべていた。
     問診の延長にある当たり障りのない会話を繰り広げている内に、パソコンからメール通知を知らせるポップアップ音が伸びた。ちょっと待って、と炭治郎に向けて掌を突き出してから、メール画面を立ち上げる。鬼舞辻所長からだった。そこには簡潔な文面でセキュリティのチェックを明日行うことと、その間炭治郎は民尾の部屋で様子を見るように、との用件が綴られている。
     それを理解して、民尾は唇を噛んだ。所長の命令であれば従う他ないが、まさかこのガキと同じ部屋で寝泊まりしろだなんて。反射的に顔を歪めてから、すぐに弛緩させる。画面の照り返しで表情を見られていないとも限らない。どうしても、この部屋にいると気が抜けてしまう。民尾は眉間に皺を寄せて、もういちど己に向けて念を押す。此処は自室であっても、患者は目の前にいるのだから、と。
     そうして振り返る民尾の表情からは、もうすでに険は拭い去られていた。
    「セキュリティの故障みたいだから、明日には点検業者を入れるって。その間、君は俺の部屋に寝泊まりして良いよ」
    「いいんですか?」
    「だって、しょうがないでしょ。それとも俺と一緒は嫌?」
    「いえ、そんなことないです。むしろ、置いて頂いてありがとうございます」
     照れくさそうに笑う少年に届かないよう、口の中だけで、民尾は舌打ちした。
     食事は定時に二人分、運ばれてきた。小さなテーブルにトレイを向かい合わせにして、炭治郎と食卓を囲む。誰かと会話をしながら食事を取るのも久しぶりだった。だからといってなにか感慨のようなものがある訳ではない。
     元々独りは好きだ。食べながら他人とコミュニケーションを取るなど、民尾にとっては寧ろ食材に余計な雑味を混じらせるものでしかなかった。だとしても、この場でそれを口にする訳にもいかない。口に食べ物が入っているから、という言い訳ができるようなるたけゆっくりと咀嚼しながら、合間に話しかけてくる炭治郎の言葉に首だけで相槌を打っていく。
     そろそろ寝ようという段になって、炭治郎はベッドに腰掛けたまま動かなかった。早々に見切りを付けて白衣を脱ぎ、身体を横たえるには短めのソファに身長を押し込めていた民尾は、不審げにそれを眺めやる。
     うつらうつらと首が傾き始めたのを、無理矢理に押し留めるように時折身体が跳ねる。過眠の症状に身を任せて、さっさと眠ってしまえばいいものを。
     けれども眠気を振り払うようにして、炭治郎が重たそうに口を開く。
    「あの……先生」
    「なあに」
    「こんなにご迷惑掛けて、そのうえ本当に申し訳ないんですが……」
     切れ切れの声は、既にもう少年の意識が大分薄れかけていることを暗に教えて。
    「ええと、一緒に寝て頂けないでしょうか……なんというか、怖くて」
     その提案に、思わず民尾は目を丸くする。表情の変化を機敏に感じ取ったのか、少年は慌てて両手をばらばらに振った。
    「あ、別に嫌とか、お医者様がそういうことするわけにいかないとかならいいんです!」
    「いいよ」
     一も二も無く、民尾は頷いた。
     患者と必要以上に接触することは確かに禁じられているが、もう既にこの部屋に招き入れてしまった時点でそんな軛はないも同然だろう。所長からの許可も出ているし、それに患者の申し出を拒むことでスイッチが入り、事が荒立つ場合もないではない。
     そんなもっともらしい理由を立ててはいるものの、内心では彼の申し出を歓迎すらしていた。
     あの廊下で呑まれそうになった言い知れぬ不安が、まだ民尾の心には根深く残っている。電気を消してしまえば、ここは黒一色になるだろう。白と黒、与える印象は異なっていても、究極的にはふたつの間に大した差異はない。どちらも色を奪い、自他の境界を眩ませるものなのだから。相手がこの面倒なガキだったとしても、今は、今だけはあの色彩のない世界にひとりで身を沈めたくはなかった。
     ソファから身を起こしてベッドへと転がるように腰掛けると、炭治郎は身体を小さくして掛け布団の中に潜り込んだ。あとに続いて、民尾もその隣に身体を横たえた。ベッドは広くはなかったが、ふたりがそこそこに余裕を持って寝られるくらいの幅はある。それでも間近に感じる息遣いと熱を受け止めながら、民尾は照明のスイッチに手を伸ばした。
    「消すよ」
    「はい、お願いします」
     声とほぼ同時に、電源が落とされる。途端に黒一色が視界に降りてくる。色の足りなすぎる世界へと放り出された分、そのほかの感覚がいやに鋭敏になってくる。身じろぎしているうちに探り当てた炭治郎の指が、遠慮がちに引っ込められた。その一瞬だけ触れた体温が、いつまでもじくじくと肌の上で燻っていた。
    「すみません、ほんとに……」
    「良いって言ってるでしょ。ほら、大分眠そうなんだから、おねむり」
     布団の上から、民尾は少年の背中を優しく叩いてやる。緩急を付けて、心臓の鼓動と同じくらいのリズムを掌に繰り返す。炭治郎ははじめのうち緊張のためか身体をこわばらせていたが、すぐに安心しきって弛緩し、あっという間に夢の世界へと落ちていった。
     彼が眠りについたあとも、民尾はしばらく彼の背を叩いてやっていた。薄手の夏布団から伝わるあたたかさは、掌が離れても放散されるまでには時間がかかる。
     ああ、こんな夜に一人じゃなくて良かった。
     さっきまで散々心の中で悪態をついておいて自分勝手な感傷だとはわかっていても、そう思わざるを得なかった。変化は怖い。その意図を図りかねるのも怖い。
     そんな弱った理性では、夜の黒さを耐え切れない。
     規則的な寝息が闇の中から伝導してくるのを茫洋と捉えているうちに、いつしか民尾の意識も夜にまどろみ始めていた。
     その晩、民尾は夢を見た。
     誰かと話をして、笑っていた気がする。懐かしかった気がする。昔何処かでなくしてしまったものを、ようやく見つけたような。
     そんな、愛おしさの混じった、恐怖だった。
     そう、何故か民尾はそれを怖いと感じていた。何十年も、どこに押し込められていたのか。自分の知らない時間を、どのように吸収して在ったのか。何も、わからない。
     だから、怖い。
     大事なものが自分の手を離れている内に何か別のものへと変質しているのではないかという猜疑心が、民尾にただ狂おしいまでの恐怖を与えていた。夢の子細を手放してしまったせいで、何故そんな印象があったのかは詳らかではない。
     ただ、その夢の中心にはあの四〇四号室で見た汽車が在ったということだけは、確かだった。

         *

     かはりと開いた唇が、大きく空気を吸い込んだ。目を開ければ、白い天井が嫌に近い。まるで、夢に吸い寄せられたみたいに。目脂が張り付いて軋む瞼が、眠りの余韻を伝えてくる。民尾はゆっくりと深呼吸をして、身体を起こした。
     段々と明瞭になる視界。コレクション棚にノートPCの乗ったテーブル、いつもの風景なのに、その端に見慣れないものがある。目を擦って確かめれば、炭治郎が振り返る姿が像を結んだ。
    「あ、おはようございます。昨日はありがとうございました、先生」
    「あれぇ……起きてたんだ。おはよう」
     先に起きていた彼は、どうやら民尾のコレクションを見物していたらしい。四方の棚をぐるりと振り仰いでから、民尾に向き合う。
    「昨日もびっくりしましたけど、やっぱりすごいですね。こんな立派でかっこいいのが、たくさん」
    「興味ある?」
    「はい。どれがなんて名前か、とかは全然分からないんですけど。でも、すごく綺麗で、大事にされてるなぁって思います」
     いささかピントのずれた返答。まあ、寝起きだし、治ってきたとはいえ元々頭のおかしいこのガキに正確な返答なんて期待していない。
     そんな殆ど侮蔑に近い民尾の視線に気づきもせず、炭治郎は棚の一つ一つを丁寧に見やっていた。触れないように細心の注意を払って顔を近づけては、ほうと感嘆のため息をつく。そうして下の方のディスプレイを見ようと屈み込んだときに、彼があ、と小さい声を上げた。
    「これ、なんだか他のと違いますね」
     振り返った炭治郎が指す先を見定めようと、民尾はベッドから降りた。スリッパをつっかけて彼の隣へ座ると、他の模型とは異質な、やけにポップな色調が見える。
    「ああ……」
     それは掌に載る程度の大きさをした人形の家だった。直角になった二方だけの壁と床で構成されていて、窓やチェストなどの家具はすべてシールで平坦に表現されている。床にはいくつかの穴が空いていて、無くしてしまったがこれに人形のかたちをしたピンを刺すことが出来るはずだった。
     空中やや上向きに視線を走らせて、民尾は記憶を探る。確か、療養所に来る直前にバーガーショップで貰ったおまけだったか。小腹が空いた程度の腹具合だったから、量を少なめにと子供用のセットを頼んだのだっけ。
     文字情報で思い出される記憶は具体性に欠け、特になんの感慨ももたらさない。そんな不確かな回想よりも、床の部分に貼られた家具シールの中にある鉄道模型の方が、民尾がこれを貰った理由を何より雄弁に物語っていた。俯瞰の情景なのに横から見た汽車が描かれた歪なキュビズムを気に入った訳でもないだろうが、おそらく当時の自分には琴線に触れたのだろう。コレクションの片隅に飾っておく程度には。
     ただし、いまこれに改めて意識を向けるまではそんなことはすっかり過去の彼方だった。透明ケースに入れられて念入りに封じ込められている他の鉄道模型とは違い、この小さな家が裸のままで埃を被りかけていたのもそういった無関心の表れだろう。
     けれど、隣に座る少年はといえば、そんなことには構いもせず一心に、掌に載るような他愛のないこの玩具を見つめ続けている。先程まで他の鉄道模型を見ていたときとはまた違う、熱っぽいまなざし。まるで、それが存在していること自体がどうにも羨ましいとでもいうように。
     その横顔を見ている内に、なんとはなしにその羨望が正しいような気すら起こってくる。きっと、この家は彼を待っていたのだと。正しいものが、正しい場所へ辿り着く。自分はその為に選ばれた中間宿主でしかないのだと、そんな錯覚すら覚えてくるほどに。
    「あげるよ。よかったら」
     そう声をかけると、炭治郎は弾かれたように顔を上げた。赤くなった頬が、ちいさな吐息を含む。
    「いいんですか? 民尾先生の大事なコレクションじゃ」
    「うーん、なんだけどねぇ。ちょっと持て余し気味というか、たくさんありすぎてさ。ひとつひとつを大事にしきれてない気がするんだ」
     それはある種の事実だった。とはいえ、それはこの思いがけず手に入った他愛のないおもちゃと、意識して民尾が集めたコレクションという大別において、だが。
    「だから、それは君にあげる。大切にしてくれるなら」
     民尾は人形の家を持ち上げると、軽く埃をはたいて炭治郎に手渡した。
    「はい、勿論です。ありがとうございます……!」
     こわごわと両手に受け取ったそれと民尾の顔を見比べて、少年は何度も瞬きを返す。ちろ、と顔の動きに合わせて、耳飾りが鳴る。そういえば、寝るときに彼はこのピアスを外していただろうか。そんな疑問が浮かんで、すぐに消えた。
     この上なく嬉しそうな笑顔を浮かべて、炭治郎は深々と頭を下げた。それに微笑みを返しながら、民尾はどうにも忸怩たる思いを追い払えずにいた。
     どんなに時が流れても、彼の本質は変わらない。正義感と、深い慈悲。例え家族の死という悲劇を経て、その意志が向く先に狂いが生じても尚。停滞を運命づけられたこの療養所の理に馴染みながらも、それでも輝かしいまでに周囲の人間を信頼し、微笑みかける。そもそも、前後不覚のまま民尾に暴力を振るったのだって、彼の正義感の強さからくる行為だった。その迷いのない善良な想いが、民尾にはどうにも眩しすぎた。
     だから彼にマトモじゃないとレッテルを貼ることで、どうにか自分を優位に立たせている。そんな気さえ起こさせるほどに、少年は民尾とは相容れない存在だった。
     民尾は胸の内に沸き上がったものを振り払うように立ち上がると、炭治郎の肩を軽く叩いた。
    「ああ、折角起きたんだし今日の問診、しちゃおっか」
    「え……でも、まだ時間じゃないですよね」
    「イレギュラーな事態が起きてるんだから、時間だってイレギュラーにしたっていいでしょ」
     その返答に、炭治郎は眉をねじ曲げて首を傾けた。
    「そういうものなんですか?」
    「そういうものさ」
     鷹揚に頷く民尾。
    「それに、夢は新鮮なら新鮮なほどいいからねぇ。眠りから覚めればどんどん色を失っていくものだからね、夢っていうのは」
     曖昧な言葉。
     意味としても、誰に聞かせるかにしても。
     本質的なベクトルを欠いたその言葉を、それでも炭治郎はしっかりと受け止めて、頷きを返した。促されるままにソファに腰掛け、テーブルを挟んで向かいのチェアに座る民尾を見据える。その間にも、膝の上には民尾から貰った人形の家が載せられていた。
     普段通り、体調と服薬の確認をしたのちに、夢を見たか、と念を押す。それに炭治郎は軽く首を引き、声を押し出し始める。
    「えっ……と、夢の中の俺は、電車に乗ってました」
    「電車に?」
    「ええ、民尾先生のコレクションを見せて頂いたせいかなって思います。その夢の中に、先生も出てきましたし」
    「へえ、また?」
    「ええ、でも今度は鬼じゃなくって、人間でした」
    「人間だった?」
    「そうなんです。でも、今みたいなお医者さんと患者の関係じゃなくって、なんでしょう……なんていうか。でも、仲が良い感じではなかったです」
    「ふうん、興味深いなぁ。具体的には?」
    「えっと、民尾先生……と同じ顔をしたひとが、こう……電車の中で……あ」
     すみません、と唐突に炭治郎は俯く。
    「……言いたくない?」
     問われた言葉に、炭治郎は部屋のあちこちに視線を巡らせた。膝に置かれたドールハウスを指の先でこねくり回して、まるでなんとか言葉を作り上げようと練り上げているかのように。それをしばらく繰り返した後、観念したように短く頷いた。
    「はい……ちょっと、すみません」
     大きく首を引いた炭治郎の頬は、僅かな隙間からでも分かるほどに赤く染まっていた。そのままの態勢を崩さずに、ほんの小さな声色でお尻が、と彼が呟いたのを、民尾は聞き逃さなかった。何かに関係するやもとカルテに書き留めようとして、やめた。なんだか、それが猛烈な悪口のように聞こえて。なぜだか分からないが、これは自分の頭の中だけに留めておいた方がいいだろう。
     その間も、炭治郎は民尾から貰った玩具を手放そうとはしなかった。二方の壁を掌で包み込み、まるで卵を抱く親鳥のような案配で。よっぽど返せと言おうかとも思ったが、やめた。何故か、あの家は彼の元にあるべきだという確信が消えなかったし、何より、思い出してしまいそうだったから。
     民尾はカルテを書く振りをして、ちらりと炭治郎の膝元を見た。壁側が炭治郎のほうに向けられているから、こちらからはドールハウスの内装がすぐにわかる。床の上にある扁平な四角、その中に敷かれたレールと、黒く小さな車体の絵が。
     そこから目を背けて、民尾は意識を紙の上に集中する。かつて見た光景が想起されないうちに。思い出さないうちに。
     そう、あの四〇四号室で見た、レールの輪の上を走り続ける汽車のことを。
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    MAIKING精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。『ジョハリの箱庭』本編の裏で起こっていたことをタンジロとむざさま+上弦が解説してくれる話。長いので複数回に分けての投稿です
    Lycoris radiataの生活環・Ⅰ「こんな山奥に、よく来たなぁ。疲れたろう?」
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     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
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