夜中と呼ぶべきか、早朝と呼ぶべきか、迷うような時間帯だった。作業を終えてリビングに出ると、暗闇の中に大きなまるい固まりが見えた。
夕飯を終えて部屋に戻った時にはなかったそれを不思議に思い、近づいてみる。
「…あ」
ルカだった。
まるいのはコートで、ルカはそれに埋もれて、ふー、ふー、と息をしていた。表情は伺えない。けれど、真っ白だったコートが黒く汚れていて、ああ、何かあったんだなということだけ察せられた。
ソファに腰を下ろして、ルカを眺めた。ふー、ふー、という息遣いは変わらないまま、それでも僕を意識して、わずかな緊張感が彼を包んだように見えた。
「おかえり、ルカ。遅かったね」
「………」
返事はない。まあ、それくらい別に気にしない。返事をすることすら面倒なときもあるだろう。特にルカは、僕みたいに一人で完結できる仕事でもないし、ほら、人間関係とか、いろいろ。
ルカが僕にどうしてほしいのかはわからない。でも僕は、少しだけルカに寄り添っていたい気がして、…というより、こんなルカを初めて見たから、好奇心が勝ってしまったのかもしれない。
部屋に戻る気はさらさらなくて、静かに、ルカの次の言葉を待った。
「………シュウ」
数十秒か、もしかしたら数分くらい経ったかもしれない。ルカの声は、低く掠れていた。ああ、『ボス』のときはこういう声で働いてるのかな、なんて思わせるような、高圧的な声だった。
「うん?」
極力何もないような声で答えた。だって僕たちは上司と部下の関係じゃなくて、対等なパートナーなわけだし。ひれ伏す必要はないでしょう?
「………今オレ、気が立ってて」
「………うん」
「ああ、その………キミに、何するかわからない」
「それで?」
「それでって…! だから!!」
気が立っているというのは本当みたいだ。
ルカは拳を床に叩きつけ、強く僕を睨みつけた。誰か起きてきちゃうんじゃないかというほどの音がした。幸い、誰も起きてこなかったけれど。
菫色の瞳は、僕を殺さんばかりの勢いで、僕の身体を射抜いた。確かに、普通の人間だったら…おしっこの一つや二つ漏らしてたかもしれないな。
でも、僕は残念ながら、普通の人間ではないので。
「…んは、ははっんふふ」
「………なんで、笑うの」
「あはは、ごめんね。だってその…」
少し、意識を集中する。部屋がにわかに明るくなる。光源は僕の背中だ。白とも紫ともとれる炎が、ゆらゆらと背中で浮かんでいる。
ついでに、と式神を使役してみる。ついと指を宙で揺らすと、彼らは音もなく現れて、僕の周りに円を作った。僕をルカから守るように。いつだって、ルカへ攻撃できるように。
炎に照らされたルカの表情から、少しずつ殺意が消える。瞳は伏せられて、拳は解かれた。ルカは座り直して、自分の髪をぐしゃぐしゃにした。
「ただの〝人間〟に何かされるほど、僕は落ちぶれてないつもりだよ」
「そう…そうだった。うん、ごめんオレ…どうかしてた」
「いいよ。ほら、彼らも心配してる」
「はは…」
ルカがソファにもたれかかり、完全にリラックスしたところで、僕の式神たちからも緊張感が抜けた。ルカの周りを、心配するように浮遊している。一人はルカに撫でられて、少し嬉しそうにさえ見えた。
ルカのスーツには、コートとは比にならないくらいべったりと黒い汚れがついていた。ああ、仕立ての良いスーツが勿体無い。汚した人、責任とか取ってくれるのかな。
「あー…シャワーでも浴びてこようかな。みんなが起きてくる前に」
「んはは、いい案かもね。みんなはまだまだ起きてこないだろうけど」
「シュウはこんな時間に何してたの? 起こしちゃった?」
「いや、寝ようかなと思ったところだったんだ。ちょっと出てきたら、君がいて」
「そっか」
沈黙。気まずくはない。けれど、僕の眠気の問題もあったので、僕は先に部屋に戻ることにした。
ルカの問題も解決したので。デモンストレーションで出しただけの炎と式神を仕舞って、ソファから腰を上げる。
「じゃあ、僕は寝るね。おやすみ」
「あ! 待って」
手首を掴まれる。その手のひらにも乾いた血がベッタリとついていて、生きているものを相手にするのっていろいろ汚れて大変だななんて少し思った。
「シャワー浴びたら、部屋行ってもいい? その、寝ててくれていいから。シュウと寝たいんだ」
「もちろん。いつでもどうぞ」
「ありがとう」
ルカの表情が緩む。それだけで、わざわざリビングに来て、ルカを見つけられて良かったと思えた。ルカを困らせたやつのことは、また起きてから考えよう。