【#05】背伸びをしても届かない第5話「青臭い価値観」
タイオンの仕事はそれなりに忙しいらしく、終電近くに帰ってくることも多かった。
夕飯は作り置きしてもらえれば自分で温めるから気を遣わなくていいと言われていたが、本当は一緒に食べたい。
遅くまで起きて待ってみるけれど、結局眠くなっていつも寝落ちしていしまう
そんな生活のせいで、ユーニがまともにタイオンの顔を見れるのは学校に行く前の朝くらいだった。
一緒に住んでいるにも関わらず、同じ時間を共有できる機会はあまりにも少ない。
ユーニがタイオンの家に居座り始めて2か月ほどが経過したある日のこと。
その日は珍しくタイオンの仕事が休みで、1日中家で暇を持て余しているようだったから買い物に付き合ってもらうことにした。
最初は“デートがしたい”と強請ってみたけれど、普通に却下された。
だから苦し紛れに“日用品の買い出しに付き合ってほしい”と言い分を変えると、タイオンは渋々首を縦に振った。
ただの買い出しとはいえ、休みの日にタイオンと一緒に外へ出かけられる貴重な機会であることに変わりはない。
行く先は近くの商店街だが、ある意味デートのようなものだ。
上機嫌で足取りも軽いユーニとは対照的に、隣を歩くタイオンはどこか呆れた様子を見せていた。
「シャンプー、洗顔、柔軟剤……。ほかに必要なものはあるのか?」
「いや、これで全部だな。付き合ってくれてありがとな、タイオン」
「まぁ、家事を任せているとはいえ僕の家のことだしな」
基本、日用品や食品の買い出しは家から徒歩10分圏内の商店街に行っている。
屋根付きのアーケード街であるその商店街は、古めかしい雑貨屋やチェーンの薬局、スーパーなど、いろいろな店が軒を連ねている。
薬局のビニール袋を互いに片手にぶら下げながら並んで歩くふたりは、事前に記しておいた買い物メモに視線を落としていた。
ユーニの右手にぶら下がっているビニール袋にはシャンプーや洗顔など軽いものしか入っていないが、タイオンが持っているほうのビニールには洗濯洗剤や柔軟剤、飲み物のペットボトルなど重いものばかり入っている。
自然と重いほうのビニール袋を持ってくれたのは、タイオンの優しさからくる行動だろう。
こういうさりげない優しさを忘れないところは、昔から変わっていない。
「あれ、タイオン君?」
不意に、正面から歩いてきた見知らぬ女性に声をかけられた。
といっても、名前を呼ばれたのはユーニのほうではなく、隣を歩いていたタイオンのほう。
無言で顔を上げたタイオンは、真正面に立っていたその女性の姿に一瞬驚いたように目を見開き固まった。
きっと顔見知りなのだろう。それも、ただの知り合いとは思えない。
一瞬にして気まずそうな顔をしたタイオンの表情が、その事実を物語っていた。
「久しぶりだね」
「あぁ……」
「タイオン君も買い物?」
「まぁな」
「そっか。家、この辺だったもんね」
穏やかに笑うその女性は、誰がどう見ても清楚な人だった。
ミディアムロングの黒髪に、白く透き通った肌。
ミモレ丈のスカートに白のカットソーを身に纏ったその恰好からも、品の良さが伝わってくる。
年齢はおそらく20代中ごろ。タイオンよりは年下だろうが、ユーニよりは断然大人だ。
そんなザ・清楚な女性は、タイオンの隣に立っているユーニへ一瞬だけ視線を送ると、不思議そうな顔で問いかけてくる。
「そちらの子は?妹さん?」
「いや、従妹だ。しばらくうちに滞在することになってな」
「そうなんだ。タイオン君にこんなに可愛い従妹がいたなんて知らなかった。女子高生たぶらかしてるのかと思って不安になっちゃった」
「僕がそんな人でなしに見えるか?」
「まじめ風な人ほど裏の顔があるってよく言うでしょ?」
「おい」
「ふふふっ、冗談冗談」
タイオンとその女性は、随分と打ち解けているように見えた。
二人を取り巻く空気が、どうも大人びているように感じる。
ただの知り合いとは言い難い空気感に、なんだかモヤモヤしてしまう。
「じゃあ、もうタイオン君の家では会えそうにないね。また今度飲みに誘ってね」
「あぁ。機会があればな」
「あー、それ絶対誘ってくれないやつだ」
清楚な笑顔を絶やさず、件の女性は“それじゃあ”と手を振りながら去っていった。
妙に引っかかる会話だ。
あのいい方から察するに、あの女性はタイオンの家に来たことがあるということだろう。
子供ならともかく、一人暮らしの男の家に同世代の女が遊びに行くなんて、何もなかったとは思えない。
去っていく女性の背中を横目で見送ると、じっとタイオンを睨み上げる。
その視線に気まずさを覚えたのか、タイオンはこちらを一切見ようとはせず眼鏡を押し上げながら再び歩き始めた。
あの目は間違いない。絶対あの女と何かあったんだ。
「なぁおい。アタシになんか言うことねぇの?」
「ない」
「あるだろ。言い訳しろよ。あの人はただの同僚なんだ!とか、ただの友達なんだ!とか」
「そういう無駄な嘘はつかない主義だ。それに君に言い訳をする理由もない」
「んだよそれ。じゃああの女はお前の何なんだよ 嘘つく気がないなら正直に答えろって」
「以前のプロジェクトで一緒になった協業他社の担当者だ。何度か一緒に飲んだことがある」
「ホントにそれだけ?」
「……」
「タイオン!」
足早に前へ前へと歩みを進めるタイオンの服の袖を引っ張り、強引に気を引こうとするユーニに、彼は深くため息をついた。
そしてようやく足を止め、こちらを振り返ることなく気怠そうに真実を教えてくれる。
「一度だけうちで飲んだ時、そういう流れになった。付き合ってはいない。その夜だけのことだ」
その口から淡々と語られる真実は、ユーニの心を容赦なく傷付ける。
いわゆる“ワンナイト”と呼ばれる関係が世の中にはあるという事実は知っていた。
けれど、アイオニオン時代の記憶を保持しているとはいえまだ10代のユーニには、そんな大人のインモラルな関係はやけに汚らわしく感じられた。
見知らぬ誰かの話だったなら普通に聞き流せたのかもしれない。
あの真面目で堅物だったタイオンが相手だったからこそ余計に受け入れがたかった。
「はぁ?なにそれワンナイトってこと 最低!無理!キモイ!なんでそんなことしたんだよ!」
「なんでと言われても」
「あの人のこと好きだったの?付き合いたかったけどフラれたの?」
「いや別に。ただ向こうがその気で、僕も悪い気はしなかったから乗っただけだ」
「それって結局好きでも何でもない奴とヤッたってことだろ 信じらんねぇ!アタシの知ってるタイオンはそんなことするような奴じゃなかったのに!」
聞きたくなかった。
タイオンがほかの女と。自分以外の女とそんなことしてたなんて。
言い知れぬ嫌悪感と怒りが湧き上がってくる。
無遠慮にその感情をタイオンの背中にぶつけると、少し苛立ったのか鋭い視線を向けてくるタイオンと目が合った。
「あのな、僕はもう30近い大人だぞ?君たち10代の青臭い価値観を押し付けないでくれ」
「でも……!」
「それとな、君の中にある空想上の“タイオン”と僕を一緒にされても困る。君の理想から外れていたからと言って、文句を言われる筋合いはない」
あまりにも冷たい言葉だった。
まるで“子供のお前には大人である自分のことなどわかるはずもない”と突き放されているかのよう。
確かに、ユーニとタイオンの年齢には開きがある。
アイオニオンにいたころのように同い年だったなら、もっと分かり合えたのだろうか。
好きでもない人と体を重ねるのは、大人として普通のことなの?
よくあることなの?非難されるようなことじゃないの?
だとしたら、大人という生き物はなんて汚いのだろう。
そんな汚い世界に、あの清廉潔白だったタイオンも足を踏み入れているということか。
だとしたら、大人の世界を汚いと思ってしまう自分には、どう頑張ってもタイオンの隣に立つ資格なんて手に入らないのかもしれない。
生まれた年が10年違うというだけで、こんなにも価値観や考え方に相違が生まれてしまうなんて。
この先、10年という開きはどんなに時がたとうとも埋まることはない。
自分とタイオンの心の距離も、このまま埋まることなく平行線をたどる羽目になるのだろうか。
そう思うと、たまらなく怖くなった。
***
オフィスのレンジで温めた弁当を取り出し、たまには外で食べようと近くの公園のベンチに腰掛け蓋を開けた瞬間、思考が停止した。
いつもは色とりどりのおかずが詰まっているはずなのに、今日は黒一色。
弁当にぎっしりつまった一面の白米のうえに、ひじきだけが敷き詰められている。
あまりにも色味のない、まるで嫌がらせのような弁当の内容に、タイオンは思わず息を吐く。
いや、“まるで”もなにもこれはれっきとした嫌がらせなのだろう。
喧嘩をした夫に弁当で抗議する新妻のような行動は、正直困ってしまう。
心当たりはある。
昨日の日曜日、ユーニとちょっとしたぶつかり合いがあった。
以前同じプロジェクトを任されていた協業他社の担当者と久しぶりに再会したのだが、彼女と一夜を共にした過去があることを打ち明けたところ癇癪を起されたのである。
正直、このぶつかり合いはタイオンにとってそこまで大事とは思っていなかった。
だが、1時間たっても半日たっても1日たっても、ユーニの機嫌は一向に直らない。
むくれた顔で視線を逸らし、話しかけても完全に無視。
約束通り家事はこなしているものの、必要最低限のコミュニケーション以外は断絶されている状態だ。
いつか時間が解決してくれるだろうと思っていたが、どうやらこれは長期戦になりそうだ。
件の女性と夜を過ごしたのは、もう3か月以上前のことで、あの日以降全く連絡を取っていなかった。
彼女は別にこちらに好意があったわけではない。おそらくお互いに“なくはない相手”だったというだけのことだ。
その場の流れでそうなったわけだが、あの夜のことは特に後悔していない。
自分に交際相手はいなかったし、相手もフリーだったことは事前に確認してあった。
同意の上での行為だったし、きちんと避妊だってした。
大人が自ら責任をもって決めた行動だ。28歳にもなればそういう機会があってもおかしくはないし、他人に、それも10代の未成年者に非難される謂れはない。
おそらく彼女はまだ恋に恋する純粋な年齢だから、体だけの関係を汚らわしく思うのだろう。
そんな青い価値観を、とっくに錆びついたアラサーの大人にあてはめないで欲しい。
キスをするだけでときめくだとか、好きだから付き合うだとか、そういう純粋無垢な段階はとうの昔に通過してしまったのだから。
とはいえ、このまま同居人にぷりぷりへそを曲げられていては居心地が悪い。
このまま放置していればいずれ解決へと向かうだろうが、長引かせるのは精神衛生上よくない。
なるべくさっさとユーニの機嫌を直さなければ。
10歳も年の離れた小娘の機嫌の取り方がわからず、タイオンは考えを巡らせながらひじき弁当に箸を入れた。
「意外に旨いな」
彩りが絶望的なことに目をつむれば、味は悪くない。
これはこれでありだなと考えていると、ふと足元に珍しいものを見つけた。
葉が4枚ついたクローバー、いわゆる四つ葉のクローバーである。
世間的に珍しいとされているこの植物をありがたがるほどロマンチストではないが、それを見た瞬間、反射的に手を伸ばしている自分がいた。
これはユーニが好きに違いない。
そんな何の根拠もない考えが思い浮かび、地面から引きちぎった綺麗な四つ葉をスーツのポケットにしまい込む。
その行動にためらいや迷いはなかった。
冷静に考えればこんな葉っぱ1枚でユーニの機嫌が上向くはずなんてないのに、これさえあれば平気だろという謎の確信があったのだ。
ひじき弁当を平らげたタイオンは、四つ葉のクローバーをポケットにしまい込んだままま、公園を後にした。
***
その日、家に帰ってこれたのは9時過ぎのことだった。
タイオンにしてはいつもより早い帰宅である。
鍵を開けて部屋の扉を開けると、ソファに膝を抱えるようにして腰掛けスマホをいじっているユーニの姿があった。
いつもはタイオンが帰ると目をきらめかせながら“おかえり”と言って駆け寄ってくるが、今日の彼女はやはり機嫌が悪いようだ。
こちらにちらっと視線をよこしたが、むっとした表情のまま無言で目を逸らす。
まだ先日のことを怒っているらしい。
正直、このユーニというこの少女との距離感を未だ掴めずにいる。
本気なのか冗談なのか計り知れないが、かなり頻繁に気を持たせるような言動を繰り返しているが、大人として彼女の言動を真に受けるわけにはいかない。
女子高生である彼女に熱を孕んだ視線や言葉を向けられるのは、はっきり言って困ったものだった。
もし、今の不機嫌な態度が幼い嫉妬からくる現象なら、かなり厄介だ。
その嫉妬心を和らげるような行動をとれば、妙な期待を持たせてしまうかもしれない。
そんな無責任なことはできない。
かといって放っておくわけにはいかない。
だからこそ、無難に機嫌を取るためのアイテムを入手してきたのだ。
「これ、食べるか?」
差し出したのはコンビニで買ってきたスイーツたち。
プリンにエクレアにシュークリームなどなど。目に入ったものは片っ端から買ってきたわけだが、袋の中身を見た彼女は少し複雑そうに唇をすぼませた。
スイーツ自体は欲しいようだが、まだ苛立ちを残しているため素直に受け入れられないのだろう。
無言でむっとしたまま見つめてくるユーニの前に袋を置くと、タイオンは首元のネクタイを緩め始めた。
「あっ」
すると、背後からユーニの声が漏れ聞こえてきた。
振り向くと、袋の中から一本の四つ葉を取り出しているところだった。
4枚の葉がついたクローバーを不思議そうに見つめている彼女に、タイオンはそのクローバーとの出会いを口にする。
「たまたま見つけたんだ。好きだろ、四つ葉のクローバー」
「えっ、なんでアタシがコレ好きだって知ってんの?」
「なんでって……」
指摘されて初めて違和感に気が付いた。
言われてみれば何故だろう。
ユーニから四つ葉のクローバーの話は一度も聞いたことがなかったのに、彼女はこれを気に入るに違いないと確信していた。
まるで最初から、ユーニの好みを知っていたかのように。
どこにそんな確信があったんだ?
子供じゃあるまいし、どんなに夢見がちな女子高生でも四つ葉のクローバーごときで機嫌は治らないだろう。
冷静に考えればわかることだ。なのにどうして――。
自らの根拠のない確信に初めて疑念を抱いたタイオンは、思わず言葉を喉の奥に詰まらせた。
珍しいものを見つけて柄にもなく舞い上がってしまっていたのかもしれない。
失敗した。そう口にしようとした瞬間、4枚の葉を優しいまなざしで見つめるユーニの表情が視界に入った。
その目は、まるで懐かしい思い出をなぞるような、そんな愛おし気な瞳だった。
「気が利くじゃん。ありがと」
「本当に好きだったのか、それ」
「うん。好き」
クローバーを見つめるユーニの優しい顔を見ていると、妙な感覚に陥ってしまう。
はるか昔、この柔らかな表情を見たことがあるような、そんな懐かしい感覚だ。
おかしい。ユーニとはまだ知り合って3か月程度しか経っていない。
懐かしさを覚えるほどの仲ではないはずなのに。
胸が、心臓が、心の奥が、急速に締め付けられる。
本能が、失われた何かを訴えるように、この心を渾身の力で握りこんでいるかのようだった。
今まで一度たりとも味わったことのない不思議な感覚に戸惑っていると、不意にユーニから名前を呼ばれる。
“タイオン”と囁かれたその声はかすれていて、弱弱しい声が一層心を締め付ける。
呼ばれた名前に“ん?”と反応すると、彼女はクローバーを手に持ったまま熱っぽい視線を向けてきた。
「アタシとデートして」
「は?」
「映画とか水族館とかじゃなくて、半日以上一緒にいられる場所に行きたい」
「いや、何を言って……」
「そうだ。ドライブ行きたい。日帰り旅行的な。もちろん2人っきりで」
「ユーニ」
咎めるように彼女の名前を口にすると、ユーニはまたむくれた顔で黙り込んだ。
何がデートだ。行けるわけがない。
自分は28歳の立派な大人で、彼女はまだ18歳の高校生だ。
“デート”なんて甘い言葉を使っていい立場じゃない。
緩めたネクタイをしゅるりと首元から解き、タイオンはユーニからの淡い要求を突っぱねる。
「そういうのは同世代の男と行ってくれ。誘う相手は僕じゃない」
「やだよ。アタシはタイオンと行きたいんだよ」
背を向けながら腕時計のベルトを緩める。
背後から聞こえてきた震え声に、嫌な予感がした。
「この前会った女には付き合ってもないのに簡単に手出したくせに」
やっぱりその件で怒っていたのか。
青い嫉妬を向けられても受け入れてやれる器はない。
そもそも20代半ばの“女性”と18歳の“女の子”を同じ土俵で見ろというのは無理がある。
「たった10コ歳が違うだけじゃん。大人ぶんなよ」
残念ながら28歳は誰がどう見ても大人だし、なんなら人によっては“おっさん”と揶揄されてもおかしくない年齢だ。
“大人ぶるな”と言われても、実際に大人なのだから仕方ない。
「アタシがもっと大人だったら、少しは変わったのかな」
どうしようもないことを言われても困る。
そりゃあ変わるだろう。大人同士だったなら躊躇する理由もない。
まっすぐな好意をぶつけられれば、相当気が乗らない相手でなければ受け入れていた。
だが、彼女はどうあがいても子供だ。その事実だけは変えられない。
「アタシがもっと大人だったら、普通にえっちとかしてたのかな」
思わずぎょっとして振り返ってしまった。
馬鹿なことを。最近の子はそういう隠すべきことを簡単に口にしてしまうほど恥じらいがないのか。
叱ろうと口を開いたが、窘めの言葉はまた喉の奥に引っかかってしまった。
ソファに腰掛け両膝を抱えるユーニが、肩を震わせうつむいているのを見てしまったから。
女という生き物は実に姑息で卑怯だ。
何かあれば、涙という必殺技を見せれば大抵のことは何とかなってしまう。
そうやってさめざめしく泣かれたら、これ以上拒絶できなくなってしまうじゃないか。
あぁもう!と癇癪を起したくなりそうな気持を必死で抑え、タイオンは観念したように息を吐いた。
「ドライブな。はいはいわかった。適当に鎌倉あたりでいいか?」
「えっ、いいの?」
「あぁ。ちょうど会社からも働きすぎだと注意されたところだ。たまには遠出もいいだろう」
「っしゃあ!」
突然背後から聞こえた男らしい叫び声に、思わず肩がはねた。
驚き振り返ると、きらきら輝くような顔でユーニが急速に詰め寄ってくる。
その顔は、先ほど泣いていた少女と同一人物には思えない。
「言ったな 絶対だからな ドライブデート確約な」
「あ、あぁ……。いや、これはデートとかじゃなく単なる遠出で……」
「デートっ、デートっ」
「おい聞け!人の話を聞け!」
うきうきとスキップしながら浮かれているユーニは、こちらの話をまったくと言っていいほど聞いていない。
上機嫌な様子で“おやすみ”と手を振りリビングを出ていく彼女は、先ほどのしおらしさが嘘のように爛々とした笑顔を浮かべていた。
楽しそうなその笑顔を見て、怒りとともに嫌な事実を察してしまう。
ウソ泣きだったのかあの小娘。
額に青筋が浮かぶ。
今からでもドライブの話をなかったことにしてやろうか。
いや、それではまたへそを曲げられる。
一度口約束を交わしてしまった以上、後戻りはできない。
「はぁ……。だから子供は苦手なんだ」
突然の爆弾発言やウソ泣きで容赦なく振り回してくるユーニに、10歳も年が上であるタイオンは哀れに翻弄されていた。
一方、リビングから出たユーニはまっすぐ一直線にトイレへと駆け込んだ。
用を足しに来たわけではない。気分を落ち着かせるため、今は一人になりたかったのだ。
閉めた扉に寄りかかると、ようやく安堵する。
タイオンから冷たくされるなんてこと、あの頃は一度だってなかった。
あったとしても、それは出会ってすぐのころのことで、記憶の中にいるタイオンはいつだって優しいし、ユーニを拒絶なんてしなかった。
だからこそかもしれない。タイオンに少し突き放された程度で、めそめそ泣いてしまうなんてらしくないことをしてしまったのは。
十代である自分と必要以上に境界線を引こうとする彼はだれよりも大人で、だれよりも真面目な男だ。
そんな彼の前では、さめざめ泣いたりなんてできない。
そんなことしたら、きっとまた子供だと呆れられてしまうから。
だから必死で取り繕い、無理やりテンションを上げてウソ泣きしたように振舞ってしまった。
多分あれで正解だ。
タイオンには、弱くて繊細な子供だとは思われたくはない。
瞳からあふれる涙をぬぐい、ユーニは必死で笑顔を作るのだった。
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