変装 試験期間でもない放課後、図書室は閑散としていた。新たな本との出会いを求めて棚のあいだをゆっくりと歩き回る生徒の姿や、返却や貸し出しの手続きのためにカウンターへ並ぶ人影はまばらだ。大きな長机が並ぶ閲覧スペースや自習コーナーも、ところどころにしか生徒がいない。ゆっくりと参考書のページをめくる音や、咳払いをする音なんかが、遠くの方から遠慮がちに聞こえてくる。
校舎の端の方に位置している図書室はひっそりとしているけれど、緊張感を強いるような静けさじゃないのが気に入っている。目の前のことに集中できるし、勝手知ったる空間は居心地がいい。こっそり伸びをしてから、もう一度手元の資料に目を落とした。
「やあ。随分と熱心だね」
すぐ近くから降ってきた声は、随分と親しげな調子だった。でも特別聞き取りやすくもなければハリのあるわけでもない、ぼんやりとした響きをしていた。
ルーズリーフに書き込んでいたシャープペンを止めて顔を上げる。すぐそばに立っていたのは、学ラン姿をした獣人の生徒だった。
自分が言うのもなんだけど、取り立てて特徴のある外見をしてはいない。体毛は曇ったようなベージュ色だし、何か特徴的な柄――例えばドット模様とか縞とか――が散ってもいない。目鼻立ちも普通で、人目を引くほど整っているとか、目力の強さが印象的だとか、そういうこともなかった。
空席だらけの自習スペースなのにわざわざ私の隣の椅子に腰を下ろしたということは、きっと私に何か用があるか、私のことを知っているんだと思う。でも私からすると、さっきの声に聞き覚えもなければ、彼の顔に見覚えもないのだった。
「ええと……。あの、宿題でもなんでもないんだけど……」
しずかな閲覧スペースの端で、視線をさまよわせながらひそひそと答える。そうやって時間稼ぎをしている間に何か思い出せたりしないかと悪あがきをしたのだけど、あいにく記憶から引き上げられた思い出は何もない。
目を逸らし、無駄にあーとかうーとか唸っているうち、得意気に笑う気配がした。
「ふふ。僕の変装は、今回も完璧だったようだね」
余裕綽々と言わんばかりの台詞はさっきと声そのものが違っているように聞こえて、思わず耳を疑う。弾かれるように顔を上げた。
私の真横、悠々と椅子に腰かけていたのは、さっきとはまるで別人だった。吸い込まれるような瞳はエメラルド色に輝いている。通った鼻筋が凛々しい。ビロードのようになめらかなこがね色の毛並みには、染めつけたようにくっきりとしたダイヤの柄が散っている。――どこからどう見てもオセだった。
まさか学校の中でオセと出会うなんて。呆けたようにいつまでも固まっている私を目がけて、ウインクが飛んでくる。
「こんにちは、ボス」
ここぞとばかりに囁いてくるものだから、声の艶がますます際立って敵わない。くらくらしないようにと、慌てて首を振って深呼吸を繰り返した。
「ちょっと……。オセ、どうしてこんなところにいるの」
身につけているものだけは、さっきと変わらない学ランだった。いったいいつどこで調達してきたのか――高校生の制服を拝借するか仕立てさせるくらい、オセには造作もないことだろうけど――ちゃんとこの神宿学園の制服であることを示すデザインが入っている。
平静を保とうと、シャープペンを握り直し、ルーズリーフに向き合おうとする。でもひと文字も書かないうちから、オセの吐息に耳をくすぐられて飛び上がった。思わず顔を振り仰いだものだから、待ち構えていたようなオセの微笑みにまんまと捕まってしまう。
「どうしてって、そんなこと決まってるじゃないか」
わざとらしく目を丸くしてみせるやり方も、計算され尽くしたものに決まっている。ひょっとしたら、ううん、たぶんきっと、私に見せている顔の角度さえも。
「ボス、きみに会いに来たのさ」
とってつけたように、余裕たっぷりの微笑を披露してくる。
「……甘いことばっかり言って」
なんとかオセから視線を引き剥がして机の上を確かめてはみたものの、どの問題をどこまでどう解いていたのか、もう何も思い出せなくなっているのだった。