夢に落ちる ぽたぽた、ぽたぽた、と。水滴のしたたる音は聞こえるか聞こえないかと言うくらいのかすかなもので、けれどきりもなく続いている。いったいいつからその音が聞こえ始めたのか、サモナーには思い出すことができなかった。
少なくともここ数日、昼となく夜となく聞こえ続け、耳の底にこびりついたようになって離れない。教室に入ってくるなり繰り広げられるシロウとケンゴの漫才じみたやり取りを眺めている時も、授業の残り時間に思いを馳せながら教師の板書を黙々と書き写している時も。
どこかで水が、こぼれ続けている。またあるいは、水から上がってきた生きものが、濡れた体もそのままに、陸で何かを探し続けている。
ホームルームを済ませた副担任を見送って、教室はにわかにざわめき出す。勇んで部活動へ向かう者、友達を誘って街へ遊びに行く者。放課後、クラスメイトたちの過ごし方は様々だ。
「相棒?」
ふいに声をかけられて、サモナーは机の正面へと視線を移す。そこに立っていたのはケンゴだった。いぶかしげな表情を隠そうともせず、まっすぐにサモナーを見つめていた。
「いったいどうしたってんだよ。さっきからキョロキョロしてばっかだぞ」
「どこかで水漏れしてない?」
「は?」
思いもよらない問いかけに、ケンゴはいよいよ顔をしかめた。
「なんか……ぽたぽたって、音がする」
水漏れといっても、魚や水草の入った水槽を置いているわけでもないこの教室の、いったいどこで水漏れがするというのだろう。エアコンか、あるいは壁の向こうや天井裏を這っている水道管だろうか。
口をつぐんだケンゴはじっと耳を澄ませた。
「ほら、やっぱり……」
困ったように呟くサモナーの声以外、しかしケンゴには何も聞こえなかった。
シロウがそばにやってくる。眉のあたりをこわばらせ、幼なじみと友人の様子をうかがっていた。
「水の音、シロウには聞こえない?」
「そう、だな……。だけど俺には……」
他ならぬ友人が聞こえると言っているのだから、無下に否定するのははばかられる。とはいえ、シロウにも水漏れらしき音は聞こえなかった。
「きみ、耳鳴りに悩んでいたことはあるかい?」
ややして、ひとつの問いを投げかける。相手は、よく分からないというように首を傾げた。
「耳鳴り? って、こんな音なんだっけ?」
「人によって違うらしいんだ。きーんという高い音が聞こえる人もいれば、虫の羽音のようなものが聞こえる人もいるらしい」
シロウの仮説を前に、サモナーはじっと考え込む。特段、心身に不調は感じない。ひとつだけ気になることがあるとするならば――
「最近、決まった夢ばっかりを見るんだ。いつもおんなじ……海の夢」
海といっても、例えば浜辺に座り、波打ち際を眺めているわけではない。視点は毎回、海の中だった。
晴れ渡った空だ。夢の中、陽光はさんさんと降り注ぐ。波打つ海水が、ひとりきりで波間を漂うサモナーの体を優しく揺さぶった。
たぷたぷと揺れる音が耳に優しく、冷たい水の流れは気持ちがいい。うっとりしているうち、平衡感覚も失っていく。こわばっていた体がほぐれ、手足から力が抜ける。沈み込むようにして、ゆっくりと水の底に引かれていく――
ケンゴが眉をひそめた。
「それ、溺れてねぇか?」
「うーん、状況だけ考えたらそうかもしれないんだけど。でも苦しいとか怖いとかは感じないんだよね」
恐怖どころかあれは抗いがたい誘惑だったと、サモナーには思えた。優しく手を引かれて、静かに海底へといざなわれていった。
「あまり眠れていないのかもしれないね」
優しい声で、シロウは言う。
「今日は早めにベッドに入った方がいいんじゃないかな。……よく休んで」
「いいか相棒、なんかあったらオレに言えよ。すぐ飛んでくからな」
いつになく真剣な表情を浮かべ、ケンゴは力強い言葉と共に寄り添ってくれる。
二人の顔を交互に見つめ、サモナーはありがとうと繰り返した。
いつも自分を気遣ってくれる友人にすすめられた通り、その晩、サモナーは早々と室内灯を消した。
窓際のベッドに潜り込み、目を閉じる。寝付きはいい方だ。依然としてぽたぽた音がすると考えながらも、すうと眠りに引かれていった。
どれくらい経ったのか分からない。ふと意識が浮かび上がった時、部屋の中にはちゃぷちゃぷという音が響いていた。
その音は頭の周りと言わずベッドの下と言わず、部屋のそこらじゅうから聞こえてくる。さすがに驚いたものの、サモナーは依然として眠気に覆われていた。こうして驚いたことも、きっと朝には忘れているだろう。何より今は、ひどく眠たい。力の抜けた手足で、のろのろと寝返りを打った。
「ちゃぷちゃぷ」は今や、こぽこぽ、とぷとぷと、異様な音へ移行している。夢の中で聴いている音なのか、現実世界で鳴り響いている音なのか。睡魔に――あるいは別の「魔」に――囚われているサモナーには、もう判別することができない。
「――やっと見つけた」
ふと、声がした。低い中に甘さをまとったその響きは、随分と楽しそうに笑っていた。
「こんなところで、眠っていたのだね」
声は、近いようで遠い。
サモナーはすでにひどい眠気に包まれて、指の一本も動かせない。今夜もまた、夢の中で、ゆっくりと海の底へ沈んでいく。
まぶしい光が踊る水面付近とは違い、沈んでいく先はひどく静かだ。視界は群青に染まり、時おり泡の立ちのぼる音が耳をくすぐる。静寂に閉ざされた、平穏な世界。そこへ抱き止められるように、サモナーはゆっくりと落ちていく。
水の遊ぶ音の合間、ぐじゅ、と何か、粘性を持ったものが這うような音がした。