【片想いギャラリー】一、四番目の男四番目の男
初めて好きになったのは、小学校の 同級生。
太陽みたいに明るく笑って、「一成!」って昼休みのたびに駆け寄って来るのが好きだった。
彼と、その時初めてバスケットボールをした。ルールなんてまだよくわからなかったけれど、とにかく走って、ボールを追いかけるのが楽しかった。それから少しして、地元のミニバスチームに入った。彼も一緒だった。
二人目は、中学のバスケ部の先輩。中学に上がってから、周りとうまく馴染めなかった自分をいつも気にかけてくれる優しい人だった。笑った顔は可愛いのに、部活ではとても頼りになるところが好きだった。バスケも上手かった。彼は三年になって、キャプテンになってすぐ、彼女ができた。思えばあれが、初めての失恋だったのかもしれない。
三人目は、中三の時の同級生。
「オレ、深津のこと好きなのかも」
少し照れたように笑う温かい笑顔に射抜かれた。妙にスキンシップが多いなとは思っていたから、その言葉を聞いて、なるほど、と納得した。自分はそれまで彼をそんなふうに見た事は無かったけど、たったそれだけの言葉で、浅ましくも一気に恋愛対象として意識した。やはり自分は、男を好きなのだ、とその時にはっきりとわかった。
でも彼はすぐに、隣のクラスの一番可愛い子を彼女にした。これが二回目の失恋だったのだと思う。そして気付く。みんな女の子が好きなんだ、と。
思えば、ずっと片想いだった。
それが普通だった。三人目の時はタイミングが違ったから、厳密には片想いではなかったかもしれないが、彼に彼女が出来てから自分は明確に彼が好きで、なぜあの時頷かなかったんだと酷く後悔したから、あれも片想いだ。
どうやら他の人の普通は、女の子を好きになる事らしい。男を好きになるのは世間一般ではアブノーマルらしい。自分のように。
それに気付いてから、深く悩んだり強い自己嫌悪に陥ったりもしたが、ある日を境に、自分の中に「別にいいじゃないか」という諦めにも似た感情が生まれた。
どうせ男が男を好きになるなんて、叶うはずもないんだから。この瞬間を楽しむべきだ。
この醜く、報われない想いを声に出してはいけない。十分気をつけていれば、向こうが気付くこともない。いずれ彼には、女の恋人が出来て、自分とは違うレールに乗っかって、追いつけない所まで行ってしまう。
じゃあそれまで、楽しませてもらおう。ちょっとした触れ合いや、心の通う瞬間を大切にして、胸の奥にしまって、大事にしよう。
それでいいじゃないか、そういう人生だ。
決心してから、人生は薔薇色になった。肩の力を抜き、短い恋、叶わない恋を全力で楽しむ。
成長するにつれて、感情を表に出さない術を身につけて、それもまた有利に働いた。
頭の中でどんな事を考えていても、顔に出さなければ分からない。自分の気持ちは自分だけのもの。
同級生たちが、彼女だなんだと騒いでいるのを一見冷めた目で見ながら、頭の中では自分も恋をしたい、次はどんな片想いができるだろうと思っている。
浅ましくて愚かな自分。だけどそうするしかない。どうやら、今までもこれからも自分の恋愛対象はずっと男のようだから。
また素敵な片想いをしよう。そして、大事な思い出にしよう。いつでも取り出して見返せるように。それはまるで、小さな頃に友達と隠した宝箱のように、自分の心の奥にそっとしまっておけるような、思い出のギャラリー。
三人目の彼への片想いが中学の卒業式と共に終わった時、予感めいたものが湧き起こる。
四人目もきっと、報われない。けれど、今度こそうまくやってみせる。なるべく気付かれないように、けれど幸せな時間が長続きするように。今までの片思いの経験を踏まえながら、四人目の好きな人ができたら、その人との思い出をたくさん保存しよう。
頭の中にあるのは、他人からしてみると何て事ない記憶ばかりだが、間違いなく宝物だった。
眠る時、不安な時、心細い時。いつもそのギャラリーを訪れて、明るくキラキラした思い出に浸る。中には、思い出すのが辛い記憶もある。全てが失恋に繋がっている。でも、少しでも心躍る思い出に浸れれば、その瞬間だけは満たされた。
それはある種の癖のようなもので、厳しいバスケというスポーツ競技の中で生き抜いていく上で、絶大な効果を発揮する精神安定剤だった。
きっといつか、このギャラリーに飾られる4人目が現れるのだろう。叶わない恋がまた始まって、終わっていく。
高校生活は順調だった。
バスケ部では、一年生ながらレギュラーを任された。毎日の体力作りと栄養管理された学食で、この強豪校に相応しい練習についていけるよう、自分の体がどんどん逞しくなっていく。先輩方から吸収できることはとても多くて、あっという間に練習が終わってしまう。この感覚を逃したくない。いま出来たことを試合でもやりたい。そう思えば、一日があまりに短く過ぎていってしまう。青春時代は短いと大人達は言うが、その通りだと心底思った。
寮生活は大変だった。距離感の近い男同士の生活。もしかしたら、友人達へ良くない気持ちが湧き起こってしまうかもしれないと自分自身が怖かった。けれど、そんなドラマチックなことは何も起こらず、友人は友人として、非常に健全な関係を築くにとどまった。誰でもいいわけじゃない、男だから皆好きになるわけじゃないと分かって、自分の事なのに安心した。
そんな時、ある男に出会った。あっという間に、山王工業に入学して一年が経った春。深津一成、高校二年生。後輩として入部した中に、輝くばかりの男がいた。
───沢北栄治。
あぁ、あの頃好きだった先輩に似ている。第一印象はそれだった。
でもそれよりもっと顔が可愛くて、泣き虫で、時折笑った顔は今まで出会ったどんな人より、太陽を思わせた。そして何より、バスケをしているところがカッコよかった。
好きになってしまうな、と思った。
入部初日はまだ長かった髪を、山王の掟で翌日には坊主にしてきた沢北だが、それでも顔の良さ、骨格の綺麗さが際立って見えた。素直に、深津の好きな系統の顔だった。そして、深津のパスを受けた時の目の輝き。動きの良さ。身のこなし。深津が投げたものを、その百倍良い形で返して寄越す。
こんな風に、心をかき乱されたことはない。
きっと好きになる。叶わぬ恋の予感は、いつも当たるのだ。楽しく切ない片想いが、また始まった。
本当に顔が好きだ、と思った。出会いから一年が経過しても、まだ初対面の印象を拭いきれずにいる。
二年になった沢北は、事あるごとに「深津さん!」と駆け寄ってくる。最初は先輩に向かって警戒心を剥き出しにしていた沢北も、河田や松本達とプレーするようになってから、大袈裟なくらい懐くようになった。
正直、可愛い。ニコニコしている顔も、泣きそうな顔も。絶対言葉にはしないし、顔にも出さないが自分は沢北の造形を、結構気に入っていた。
坊主頭で、綺麗な骨格がより目立つ。
誰にも聞かれないからこそ、心の中ではいつもこんなふうに沢北を観察し、分析していた。
可愛い。いつもは吊り目がちなのに、笑う時に少し垂れる目尻が可愛い。
普段からきゅっと上がった口角と、笑った瞬間にくしゃっと潰れるみたいになるのも可愛い。こちらが見ていることに気付かない沢北を、頭の中に焼きつける。切り取るのは一瞬だけで、他の誰かに気付かれないように、でもしっかりと記憶できるように身につけた癖。その笑顔が、自分だけに向けられたらどんなに良いか。この一年思い続けたが、やがて虚しくなり、期待するのはやめにしようと頭から振り払う。これもまた、身についたよくない癖だった。
「深津さん、オレの自主練付き合ってください!」
沢北は練習後、そう言って腕を引っぱった。まだ自主練している部員は数名いるものの、人もまばらな体育館に沢北の楽しそうな声が響く。
「毎日飽きもせずよくやるピョン」
昨日も一昨日もその前も、沢北はいつも自分と自主練をしたがった。練習中もほぼずっと同じチームで指導を受けているにも関わらずだ。
「オレが深津さんとじゃないと嫌なんです!」
その言葉に一瞬胸が詰まったけれど、深い意味なんて無いはずだとやり過ごす。
けれど、不意に握られ触れ合ったままの手が嬉しい。沢北が自分だけを頼るのが嬉しい。こんな事で喜んでいてはいけないと思うのに体は正直で、沢北と触れ合えて嬉しいと心臓が早鐘を打ち、頬が火照りだすのがわかる。
六月三日。沢北と手が触れた日。
絶対に言わないけれど、こうしてまた頭の中のギャラリーに沢北の思い出が残っていく。この指先の熱も、忘れないようにしようと思った。
「ね、お願い!」
「…お前、その顔すればオレが許すと思ってるピョン」
沢北が渾身のうるうるお願いポーズをする。顔の横に手を当てて、あざとさ全開だ。坊主頭の男がそんな事をしても可愛くないはずなのに、沢北の顔が整っているせいで様になっていた。
こんな風にあからさまなかわい子ぶりっこよりも、沢北の素の表情が好きなので、ちょっと呆れてため息をついてみせる。
「オレのこういう顔、好きじゃないんすか?」
「そもそもお前の顔はそんなに好きじゃないピョン」
もちろん嘘だ。本当は好き。
でもこんな風に、猫がじゃれ合うみたいに、沢北を揶揄うのも好きだった。その上、あまりに分かりやすい態度を取ってしまって自分の気持ちに気付かれるのが怖い。楽しい片想いに油断は禁物。バレたら即終了のゲームでもある。下手をすると熱くなり過ぎてしまうこの恋心を、適度に冷やしながら、甘やかしながら、絶妙なバランスを保っていく。
「いつもオレのことを見てるのに」
不意に、それまでの声音とは違う音で紡がれた言葉を不思議に思って振り返るが、次の瞬間には沢北はいつもの顔に戻っていた。
「じゃあ、どんな顔が好みなんですか深津さんは」
「河田みたいな男らしい顔ピョン」
「ええー、全然系統違う…」
「当たり前ピョン、河田に並ぶなんて百年早い」
デコピンをかまして、若干涙目の沢北に向き直る。腰を低くして慣れた姿勢を取り、沢北の持つボールを手で弾いた。
「ほら、付き合ってやるピョン」
「はい!」
沢北がくしゃっと笑う。そういう、生き生きとした顔が一番好きだ。心の中でシャッターを切る。今日の収穫量はすごい事になった。このままでは保存できる容量を超えてしまう。
練習後の体は少しの疲労と、心地よいアドレナリンが身体中を巡って悪くなかった。相手が沢北なら尚更。
あぁ、幸せだ。
この時間がずっと続いて、沢北が彼女を作らずに、自分の浅ましい気持ちに気付かずに、卒業まで楽しませてほしい。
自分が先に卒業して別れる日が来ても、素敵な思い出を見返して生きていけるくらいにしておかないと、好きな気持ちに押し潰されそうで怖かった。いつか終わると分かっている。それならせめて、小さなギャラリーいっぱいに沢北を詰め込んでおきたかった。
六月の雨はシトシトと降るから好きだ。普段から曇天の多い秋田でも、梅雨前線の本領発揮とばかりに雨の日が続いている。
蒸し暑くて正直辟易とするが、これでも関東と比べたら湿度が低いらしい。松本が今朝方、打ちつける雨を見て教えてくれた。
「髪がうねるから嫌だピョン」と言ったら、「坊主なんだから関係ないだろ」と突っ込まれた。笑って欲しいところだったのに真面目な松本らしい。
そんな事を思い出しながら、三年の昇降口で空を見上げる。今朝から降り続く雨は、昼を過ぎたあたりから本降りとなり、夕方十七時を過ぎた今でも止む気配がない。
一学期の中間テストで、六月下旬は校内の部活のほとんどが休みだ。
だが、全国でも強豪と名高く夏のインターハイを控えている山王工業バスケ部は、一日休むだけで体が鈍ってしまうのを理由に、一時間だけの自主練習が許されていた。
もちろん、強豪校といえど本分は勉強。テストの成績が悪い者は問答無用でテスト勉強に向かわされるのだが、幸い自分は勉強すればそれなりの点数が取れた。
自主練習なのでミニゲームなどは出来ないが、軽く体を動かすくらいはできる。いつものシュート練習をするだけでも体がじわじわと温まった。運動すれば頭が冴え、寮に帰ってから勉強の集中力も高まる。
引退したら逆に勉強できなくなりそうだ。高校卒業後の未来のことを考えるのは、少し億劫だった。
明日は、一番苦手な現代文のテストがある。いつもより早めに自主練を切り上げたのは、キャプテンが赤点を取るわけにはいかないためだった。中途半端に動かした体は、まだ不完全燃焼のようでムズムズする。ついさっき後にした体育館からは、まだボールの弾む音が聞こえてきて、羨ましさに引き返したくなるのをグッと堪えた。テスト範囲が終わったら走りにでも行こうかと思いつつ、傘を取ろうとして、あ、と気付く。
置いてきた。三階の、三年の教室に。
いまから三階まで戻るのも面倒だ。先程までバスケがしたくてウズウズしていた身体は、忘れ物を取りに戻ると考えた途端、重しが乗ったようにだるかった。
頼みの綱の河田は、今日は先に帰ってしまった。河田もおそらく、明日が一番苦手科目が多いからだろう。真面目な松本なら傘をニ本持ってるかも、と思ったが今日に限ってまだ自主練中だ。
(あいつは文系も理系も点数取れる奴ピョン)
その上バスケでもエース級なのだから恐れ入る。自分は、昔からバスケばかりでろくに勉強してこなかったツケが回ってきている。平均点を取るのに必死だ。
しとしとと降り続く雨雲を見上げ、思考を巡らす。学校から寮まで徒歩数分。雨足は結構強いが、走って帰ればなんて事はない。
行くか。
せめて濡れる範囲が小さくなるよう、教科書の入ったリュックを前側に抱きしめ、踏み出そうとしたその時。
「───深津さん」
ス、と影が伸びて背後に誰かが立った。
「入ります?傘」
振り向いた先には、美しい沢北の顔があった。濃い睫毛で縁取られた綺麗なアーモンドアイが、親切そうに細められている。人を虜にする魔力のようなものが出ている気がする、といつも思う。
「…ここは三年の玄関だピョン」
必死に平静を装って、声にした。二年の玄関は別のはずなのになんで背後から来る、という意味を込めたのに、沢北は微笑んで「知ってます」とだけ答えた。
「まさかこの雨の中、走って帰ろうとしてました?大雪の日に同じ事して、風邪ひいたの忘れたんですか」
妙に温かな言葉の響きに、少し反応が遅れた。昨年の冬、雪が降り始めたばかりのことである。あの時、四十度近い熱を出して寝込んでしまい、チームメイトや同級生、沢北も心配してお見舞いに来てくれた。
まるで、心配してくれてるみたいだ。あの時みたいに。
じんわりと胸が温かくなって、いや、まさかと考え直した。自分に都合よく考えるのは、やめたほうがいい。
自主練をせずに先に帰ると聞いていたのに、なぜいるんだろう。そう考えている間にも、沢北はビニール傘を広げ、雨の中に踏み出した。
「入らないんですか?寮戻ったら、数学教えてくださいよ、オレに」
振り向いて笑った顔に、胸がきゅっと締め付けられた。傘に打ち付ける雨の音が強くなる。
「…なんで俺がお前に教えるピョン」
そう返した言葉とは裏腹に、まさか片想い相手と相合傘で帰れるなんてと心の中で浮かれていた。もちろん顔には一切出さずに。
沢北の所まで踏み出し、隣に立つ。たった一歩でも、自分にとってはとても勇気のいる一歩だったことは、もちろん向こうは知るはずもない。
「濡れそうだピョン」
「くっつけばいいでしょ」
沢北がイタズラっぽく微笑んだ。
あぁ、今のいいな。
沢北の表情といい声のトーンといい、なんだかただの部活の先輩と後輩よりも、もっと距離の近い関係になったような気がする。
今の声は、脳内にある記憶媒体に録音して、保存しておく。いつでも取り出して、見直せるところに飾っておく。
こうやって、保存してきた幾つもの思い出がある。この後も、しっかり保存しておけるように目に焼き付けておこう、とその瞬間に心に決めた。
「俺が持つピョン、傘」
「いいですって、オレの方が背高いし」
「マウント取るなピョン」
「はは、怒んないでくださいよ」
沢北が楽しそうで、こっちまで嬉しくなってきた。一つの傘に入るなんて事、友人同士では当たり前のことなのに、邪な気持ちを抱えた自分にとっては願ってもない幸運だった。
傘の柄を持つ、沢北の骨ばった指先が視界に入る。
沢北は、隣に立つと自分よりも数センチ背が高くて、肩幅も思っていたより広くがっしりとしている。いつも河田や野辺と一緒にいると感覚が麻痺してくるが、しっかりと鍛えられた体は、高校生らしからぬ逞しさだ。話すたびに少し体を縮めて、顔を近づけようとする、その一瞬の距離が照れくさい。
雨に混じって時々香るシトラスのような香りにドキッとしながら、こんなチャンス二度とないぞと醜い恋心が囁いてくる。
───少しなら近付いてもいいんじゃないか?
───バレない程度にニオイを嗅いだら?
───濡れてしまうからと言って、腕を回してみたらどう?
今までだって何度も聞こえてきた言葉だ。けれど、それを実行した事はなかった。一つ欲を出すとさらに欲しくなる。すると態度に出る。顔に出る。そしてバレる。この恋心に勘づかれて、楽しい片思いが終わってしまったらどうする。
少しでも長続きできるようにするんじゃなかったのか。
そう冷静な自分が、全ての欲を押さえつける。そして、結局何もできずに終わるのだ。
狭い傘の中、沢北との距離感を楽しみながら、校門から寮までの道のりがそう遠くない事を今だけ呪った。
「試験勉強、進んでます?」
「まあまあピョン。沢北は、赤点回避できるピョン?」
「ギリギリっすね」
「ギリギリじゃ困るピョン」
中身のない会話を少し交わして、普段のじゃれ合いが嘘のように静かに肩を並べて歩いた。
「帰ってから、深津さんの部屋行っていいですか?」
「…何しに来るピョン」
「数学で教えて欲しいところがあって」
「教えたいのはやまやまだが、あいにく俺も明日一番苦手な現代文ピョン。そんなに時間はかけられ──」
「あ、深津さん、肩濡れてる」
と、沢北がそう言って、突然腰を抱いてきた。え、と思ったがもう遅い。体は言うことをきかず、素直に抱き寄せられてしまった。
いつもの自分なら、「近い離れろ」とグーで殴ってごまかすのに、この時ばかりは一瞬一瞬に浸っていたから完全に油断していて、沢北の手を振り解けなかった。
「さ、わきた…ちょっと近い、ピョン」
「濡れるでしょ」
さらにグッと抱き寄せられる。足を止めた沢北はその上、顔を覗き込むように体を乗り出してきた。
視界に入った沢北の肩は、傘の端から落ちた雨粒でしっとりと濡れていた。
「そっちの方が濡れてる──」
ピョン、まで言えなかった。沢北が顔を寄せてきて、まぶたまで綺麗なのか、と思った時には唇にも柔らかい感触があって、一瞬呼吸が止まる。
あれ、と思っていたら、沢北が目の前で、はぁ、と熱い息をこぼした。下唇に熱があたる。真っ直ぐな瞳の中に、自分の間抜けな顔が映っていた。
これはなんだ、何が起こったんだ。
呼吸が止まっていた。初めてのキスに時を止められ、惚けたままぼうっと沢北の顔を見上げる。
「深津さんも、オレのこと好き?」
「……は?」
そのまま、もう一度唇が重なった。二回目のキス。けれどそんな事は頭になくて、沢北の一言が、頭の中で響く。
終わった。楽しい片想い。
いつバレたんだ。こんなことをして、何がしたいんだこいつは。
というか。
「も、ってなんだ」
ピョンを忘れた。どうでもいい。
「だって深津さん…」
「最悪だ」
「え?」
沢北に群がる女子生徒たちが脳裏に浮かぶ。きゃあきゃあと黄色い声で群がる女子達を羨ましいと思ってしまった事を思い出した。そっち側だったら、と何度も思って、そんなのは不毛だと気怠さが襲う。
何もかも終わった。最低最悪だ。また綺麗な思い出にして、額縁に入れてしまっておける最高の片想いにするつもりだったのに。もう少し、あと少しと欲張りになりすぎたのが良くなかった。
本人に気付かれた上に、馬鹿にしたようなキスをされるなんて。
やるせなさで力が抜けるようだった。コンクリートの地面に、両足がめり込んでいく気がする。
楽しく片想いをしたいとは思ったが、弄ばれてこんな風に見下されて、オモチャにされたいと思った事はない。そんなのはまっぴらごめんだった。
「こんな事されたくないピョン」
強い力で、沢北の腕を振り解いた。さっきは出来なかったのに、今度はうまくいった。
「え、だって深津さんもオレのこと…」
「なんで」
「なんでって、キスしたこと?そりゃ深津さんが」
「こんなことして欲しいなんて、俺がいつ言った?」
我ながら冷たい響きだった。沢北の目がハッと見開かれる。こちらからの拒絶に気付いたのだ。
「悪かったピョン、もういいピョン」
「…悪かったってなに?」
「もう関わらないピョン、お前に迷惑もかけない。無かったことにしろピョン」
「ちょっと待って深津さん、違うよ。オレの話聞いて」
「いい、聞きたくないピョン。これ以上惨めにさせるな」
沢北が何を言いたいのかは分かっていた。きっと、この汚れた気持ちを暴いて、こんなことしたかったんでしょと笑って、どん底に突き落とすのだ。
淡く輝く片想いが、こんなふうに終わるとは予想していなかった。彼に彼女が出来た時も、彼が卒業した時もまさしく心は傷ついていたけれど、こんな形で失恋する未来は、自分の中には無かった。
沢北の傘から飛び出して歩き出す。激しい雨は肩、額、首筋を濡らし、じっとりと制服に染み込んでくる。
「オレの気持ちがどんなものか、知りもしないくせに!」
背後で沢北が叫ぶ。振り向くと、今は一人の傘の中、沢北の眉毛がへの字になって、唇を噛み締め目元に涙を浮かべていた。
その顔も好きだ。好きだった。
さよなら、楽しい片想い。
こうして、四番目の男はその日、いなくなった。