ブロークンハート彼氏と別れた。良い男だったが、浮気していた。深津が把握しているだけで5回目だった。
なるほど、この人は本物じゃないな、と思った時に、自分の気持ちももう彼には無いと確信して、別れた。
一年の付き合いだったが、別れた話の直後はそれなりに落ち込んだりして、感傷に浸ったりもしていた。
車を走らせて海辺に来てしまうくらいには。
深津は滲んだ目元を拭う。
夜の海は風が冷たくて、波の音だけがして静かで不気味だった。
「1番あいつに似ていた…」
こぼれた言葉は風に巻き上げられて消えていく。
あいつ、と、1人きりなのにいまだに名前を声に出すこともできない。
この海を挟んだ、大陸の先にいる男。
ずっと、深津の心の中にいる男。
沢北への恋は叶わないのだ。
何か決定的なことが起こったわけでは無いが、あいつはもともと女が好きで、これからも男を好きになることなんて無いのは明らかだった。
大学時代、アメリカからの一時帰国から戻った時に山王工業のバスケ部で集まったことがあった。
その時に、「彼女ができたんすよ」と見せられた写真には、人懐っこい可愛らしい笑顔を浮かべた明るい髪色のアメリカ人の女と、肩に腕を回して笑う沢北。
その時は、特に衝撃もなく、そうだよな、当たり前だよなと思った。
そうだ、それでいい。
アメリカで、バスケして、有名になって、可愛いモデルみたいな彼女と付き合って、日本なんて小さい国の自分のこと、あっという間に忘れていく。
そうなるんだろうと何度も思った。
ひきつるような胸の痛みには気付いてないふりをして、「お前にはもったいないくらい可愛いピョン」と言ったら、少し照れて「そうなんすよ、ほんと」とはにかんだ。
ああ終わったんだな、良かった。
こうして、見せつけてもらった方が、自分の気持ちに区切りがつけられるから良い。
いっそのこと、いまの深津の胸の痛みを残したまま、ズタズタに切り裂いて欲しかった。
「もっとないピョン?写真」
やけになっている自覚はあった。自分で自分を傷つけるように仕向けているとも。けれど、その感情は深津の声には乗らなかったし、沢北も気づかなかった。
ありますよ!と意気揚々と他の写真を探してスクロールするその指先を、遠い場所から眺めるような気持ちで見て、ふう、と息を吐いた。
俺ももう、こいつのことは諦めて、身の丈にあった恋人を探そう。
大学2年の秋だった。
別れた男は、深津の人生で交際した中では3番目の彼氏だった。元カレ3人、元カノは2人。
大学2年の秋に、恋人を作ろうと思ってからアラサーの現在に至るまで、思ったよりもいろんな人と付き合えたな、と他人事のように思った。
また探すか、と海辺の真っ暗な空を眺めて思う。
元カレと付き合った時に、マッチングアプリは辞めて欲しいと言われて消してしまったから、また登録しなければ。
もっとも、元カレは深津に消せと言ったマッチングアプリで浮気しまくっていたわけだが。
浮かない気分でスマホを取り出す。
元カレとの写真がまだ写真フォルダに入っていて、選別するのも面倒で一括削除した。
と、画面が切り替わって着信画面になった。
画面には「沢北 栄治」の文字。
こんな時に、と思った。
なんでこいつは、鈍感なくせにこんな時だけ鼻が効くんだとうんざりした。
…出たくない。
いつもは電話なんて滅多にかけてこない。
時々、元気ですか?なんてメッセージや、日本で沢北の広告を見つけた時に報告がてらやりとりするぐらいだから、本当に緊急の時ぐらいしか電話なんてしない。
それでも、連絡自体は途切れずこの5、6年続いていた。
沢北の彼女との進捗も含めて、だ。
着信は鳴り続けていたが、通話ボタンを押すのが億劫なまま見守っていたら、切れた。
特にやましい事があるわけでもないのに、少しホッとしてスマホの画面を暗くする。
泣きそうな顔の自分が映っていた。
と、ブルルルと再びスマホのバイブレーションがなって、さっきまでの画面と同じ名前がまた映し出された。
仕方なく、通話ボタンを押す。
「…はい」
『あ、出た。深津さん元気ですか?』
「元気じゃないピョン」
陽気な声に、ささくれだった深津の心が刺激されて、意味もなく苛立った。
『いまどこですか?家?』
「知らん海だピョン。」
『海?』
「そうだピョン、フラれたから」
『えっ、あの彼氏と別れたんですか?』
沢北は、深津に彼氏がいることを知っている。その前の彼氏も、その前の前の彼女も。
「別れた」
言葉にしたら、自分でも驚くほどスッと染み込んで、なんとなくスッキリした気がした。
『あの男、深津さんには合わなかったよね。ちょっと背が高いだけでしょ』
沢北の言葉に、深津はまた嫌なことを思い出す。なんで付き合ったかなんて、沢北に似ていて、背丈が同じくらいだったからだ。
「そこが良かったピョン」
『ええ〜背の高い男なんていっぱいいますよ、オレもそうだし』
なんで張り合ってくるのか。
お前は付き合ってくれないだろ、と喉まで出かかってやめた。
「お前と違って優しくて良いひとだった」
ウソだ、浮気ばっかりで深津を束縛して、しょうもない男だった。でも、好きだった。沢北と背丈が似ていたから。雰囲気も似ていて、今まで出会ったどの人よりも沢北に1番似ているな、と思ったから。
『なんでオレと比べるの』
突っ込まれたくないところを突っ込んできた。
お前に似てて好きだったからだよ、馬鹿。と言いたいのに言えない自分が1番馬鹿らしい。
「人が失恋してるところに無遠慮に電話かけてくるからだピョン。用事はなんだピョン」
口早に捲し立てて誤魔化した。
『そうだ、今度宮城が日本に戻るんすけど、沖縄でバスケの試合あるじゃないすか?深津さんのチームっすよね?』
本当に関係ない用事だったことにホッとしつつ、でもやっぱり、心臓が引き攣るような痛みを覚えた。
お前はやっぱり、俺が男と別れても、なにも感じないんだな。
沢北の言葉にほぼ事務的に答えながら、ボロボロになっていく自分の気持ちが、目の前で満ち引きしている波で洗い流せたらと思った。
タイミングよく電話をくれるのに、1番欲しいものはくれない沢北に、深津は何度目かわからないため息をついた。
深津がフリーになったのを、チームメイトも親しい友人もみんな知っていた。
あまり大きい声では言えないが、女だけでなく男もいけるのを知っている人も、数人ではあったがいた。
「紹介しようか?深津と仲良くなりたいってやつ」
練習終わりに着替えていたら、チームメイトが控えめな声で言ってきた。
「男?女?」
「女。男の方がいいか?」
「いや、もう男はいいピョン」
男だとイヤでも沢北に似たところを見つけようとして結局失敗するから、純粋に可愛い女の方が今の自分には良さそうだ。
もらった連絡先を早速登録して、よろしく、なんて当たり前の言葉を送信すると、大袈裟なくらい感激した返信が来て笑った。
人からの愛に少しだけ飢えているのを自分でも自覚していたから、イケそうならいっておくか、と思う。
試しにやってみて、合いそうだったら付き合うのでも悪くない。もういい歳だから、いつまでも高校時代の後輩への気持ち悪い恋心に縋っていては良くない。
こう思うのも、もう何度目だろう。
その度に、やっぱり沢北への気持ちが自分にこびりついて離れないのを確認して終わるだけなのに。
分かっていても、深津にはこれしかないのだ。
その女の子は、高校までバスケ部で、今は会社員をしながらバスケリーグの試合を見にいくバスケ好ファンだった。
深津の試合も何度か来てくれていたらしい。
ファンと付き合うのはちょっとな、と思っていたら、彼女の方から「そんな面倒なことしないよ」と言ってくれて、物分かりがいいなと感心した。
深津とのやりとりを、夢のようだと言ってくれて、直接会ってデートした時も、最初から最後まで緊張していて可愛かった。
沢北に似ているところは無い。
当たり前だ。バスケをしていたくらいで、性別も違うし顔も背丈も似ているわけがない。
でも、深津も男として彼女のことを可愛いなと思ったから、好きになれそうだった。
好きになろう、と思った。
「高校の時の深津さん、知ってましたよ」
昼に落ち合って、映画を見て、食事して、ウィンドウショッピングしてから入ったカフェで、彼女は深津にそう言った。
会うのは3回目なのに、彼女は深津をさん付けで呼ぶ。年上だからなのと、憧れの人だから、だそうだ。
「山王のキャプテン。有名だったし、月バスにも載ってましたよね」
「俺が載ってた月バスなんて読んでたのか?」
「姉が持ってたのを見ました。かっこよかったあ」
そんな人と一緒に今コーヒー飲んでるなんてね、と照れた顔には、少しの優越感も滲んでいるように見えた。
きっと、今日か次の時には付き合えると思っているんだろうな。
世の中の付き合う前のカップルはそんなものだ。
2、3回デートして、メッセージのやり取りをして、ちょうどいい頃に男から告白して付き合う。
やり方が決まっているし、彼女も満更でもなさそうだから、提示されたルートを何も考えずになぞればいい。
恋愛なんてこんなに簡単なのに、どうしてあいつとはできないんだろう。土俵にすら立たせてもらえない。
「深津さん?」
鈴を鳴らすような声で、目の前の彼女があいつと同じように深津を呼ぶ。
「出ようか」
もういい時間だった。決められたルートをなぞることにした。
駅まで向かう道は繁華街で、煌めくネオンが眩しく、居酒屋に引き込みたいキャッチがひっきりなしに話しかけてくる。
彼女は深津に寄り添いながら側を歩いていた。
このまま、人気の少ないところに抜けたら話そう。
付き合おうか、と言うだけで、簡単なことだった。雰囲気を出すために、ぶらぶらと下がった彼女の小さい手を引いて、繋いだ。
彼女は驚いた顔をしたが、嬉しそうに笑う。
ほら簡単だ、こんなもの。
この街の繁華街の1番大きな通りには、大型ビジョンがある有名なビルがある。そのビルを通り抜けると駅までの道で、少し静かになる。
大通りの信号待ちで、ビジョンをぼんやり眺めた。
本日のニュース。
どうせまたくだらない芸能ニュース、と思って見上げたら、そこには思いがけない文字が映し出されていた。
【NBA 沢北選手 年内にも結婚か】
心臓が、今度こそ引き攣った痛みではなく、鋭い刃物で突き刺されたように痛かった。
アメリカ、NBA、沢北栄治、年内、彼女、同棲、週刊誌の報道、写真、驚きの声、結婚、婚約者、親しい友人の証言。
何も情報は入ってこないのに、深津の頭の中に視界で捉えた文字が踊る。
頭がズキズキと痛い。耳鳴りもすごかった。
こんなふうにズタズタにしろとは頼んでない。
酷い男だ、ほんとうに。絶対に手が届かないと、絶妙なタイミングで深津に分からせるのだから。
「深津さん?青ですよ」
彼女が深津の手をひいた。信号が青になっていたらしい。大型ビジョンを見上げて固まっていた深津は気付かなかった。
「やめた」
それだけ言って、深津は彼女の手を引く。
「えっ。深津さんどうし…」
「今日は帰らない」
強く引っ張って、歩き出す。駅とは逆方向。
ラブホテル街へと。
彼女が戸惑いながらもついてくる。決まったルートじゃなくても、深津に従順なのが妙に癪に触った。
それでもいい、いまこの心の空白を埋めてくれるのなら。
出し切ったらスッキリするかと思ったのに、何度やっても結果は同じで、心の奥に溜まったドロドロは出てきてくれなかった。
彼女は疲れ切った顔で眠っている。
午前4時。
始発が動き出す時間だ。
チェックアウトは11時。彼女にはチェックインの時に言ったから、先に出ても問題ないだろう。
今日もチームの練習がある。一度家に帰ってシャワーを浴びて、同じ日常に戻ろう。
また、いつもの、沢北への気持ちを飼い慣らす日々に戻るのだ。もうどうでも良かった。
パンツはベッドのすぐそばにあった。靴下が片方無い。
どこにやったか分からないが、別にいいや、と片足だけ裸足でスニーカーを履いた。
行方不明の靴下だけが、深津が残した痕跡だった。
静かに、身を潜めながらホテルを出た。外はほんのりと明るくなってきている。
人が消えた繁華街の街はゴミだらけで、今の深津の荒れた気持ちにぴったりだ。
駅方面へ歩き出すと、ポケットの中でスマホが鳴った。
出て行く音で起きたか、気付くの早いな、と思って画面を見ると、「沢北栄治」の文字。
また、昨日の夜の頭痛が蘇った感覚がした。
「なんだピョン」
『わ、深津さん早起きー』
相変わらず陽気な男だ。声を聞くだけで、こっちは死にたくなるほど乱されると言うのに。
『なにしてたんすか』
「別に。たまには早起きしただけピョン」
『あれ、外?車の音がしますね。朝ランっすか?』
「そんなとこだピョン」
『ふーん』
また突然電話してきたのは、なにか用事があるのだろう。どうかあの報道の件ではありませんように、と深津は小さく祈りながら、沢北の次の言葉を待つ。
『あれ見ました?オレの、結婚報道』
神は非情だな、と深津は先ほどの祈りをなかったことにした。1番聞きたく無い話を、1番聞きたく無い奴から聞かされるのか。
駅までの、誰もいない街をトボトボと歩きながら、深津は耳に当てたスマホを殴り捨てたくなった。
聞きたくない、そんなこと。
お前のその報道のおかげで、俺は抱きたくもない女を抱いて、片足の靴下をなくして、朝帰りして、汚い街を歩いているというのに。
『深津さん聞いてます?』
「聞きたくねーピョン」
『そう言わないでよ、深津さんにはちゃんと言っておかないと、と思ったのに』
死刑宣告を受けているみたいだ。あとはいつ、死刑が執行されるのかを待つだけ。
大学2年の時、沢北の彼女の話を初めて聞いた時はあんなに普通に受け止められたのに、それがどんどん積み重なると辛くなっていく。
いっそ殺してくれ、と何度も思ったのに、いざやられようと言う時に怖気付く。
『あれウソだよ、結婚予定の相手なんていない』
助走もつけずに突然振り翳された、と思ったら、それは深津の首を切り落とさずにすり抜けていった。
なんだって?
『日本で報道出てから、友達とか知り合いから通知鳴り止まないからさ。深津さん言っといてくださいよ、ウソだってオレが言ってたって』
深津は何も言えなかった。
嘘で良かったという安堵なのか、まだ沢北が誰のものにもならないという嬉しさなのか、また自分の気持ちは生きながらえてしまったという絶望なのか、ぐちゃぐちゃになった感情が渦巻いていたから。
ふらふらと歩いていたから、転がっていた空き缶につまづいた。その衝撃で頭が少しはっきりした。
「…言っとく、ピョン」
『あーよかった、深津さんが言うならみんなも信じるもんね。じゃ、それだけです。』
また連絡しまーす、と言って、あっさりと沢北は電話を切った。
ツー、ツー、と機械音が響いたままのスマホを耳から離せずに、深津はフーッと長く息を吐き出す。
さっきつまづいた空き缶を蹴り上げたら、カンッと高い音がなって道の端っこに転がった。
隣を歩いていたサラリーマンが、深津を変な目で見て抜いていったが、気にしなかった。
ああ良かった、まだ生きている。
沢北への浅ましい気持ちが、まだ深津の中で生きていいと宣告された。
もうこんな苦しい気持ちになるのはごめんだ、と思うのに、浅ましい自分は確かに喜んでいて、相反する感情に心地よさすら覚えた。
いつか確実に、深津のこの気持ちに、死刑が執行される日は来る。
でもそれは、今日ではなかったということだ。
ホテルを出た時よりも軽快な足取りで、深津は駅への道を歩いた。
その時またスマホが鳴って、名前を見るとホテルに残してきた女の名前が表示されていた。
「いいスパイスだったピョン」
拒否、を押してそのまま着信拒否設定をした。微塵も罪悪感を感じなかった。
好きな人に振り回されるのは気持ちがいいぞ、と思った。
簡単なルートをなぞるだけなんて面白くない。
ずっと、こうやって生殺しなのだ。
深津の人生は、沢北に出会った時から、そうなっている。決まったルートなんて、存在しているはずがなかった。