猫っ毛に見えて、実際は想像してるよりも硬い髪質だと知っている。そのごわつく茶髪がテーブルの上に散らばった。勢いがつき、額とテーブルが接触するときに鈍い音が鳴ったが、当の本人はそんな事を気にする余裕はない。
「なぁー」
「なんだ」
「なーあぁ〜こーじぃ〜…」
「だから、なんだって」
「いい加減さぁ〜はいって言ってよ、もういいじゃん俺でぇ〜」
12のときバッサリと切り落とした黒絹は、人生最長の長さまで伸びていた。なぜまた伸ばしだしたのかを、当時長髪仲間として話を弾ませていた泉が問うたら「なんとなく。まあ慣れだな」とあっけらかんと言ってのけた輝ニの髪は背中の半分までになっていた。普段は一本に纏めているのだが、気のおける友人と兄の傍ら楽さが勝り、クリップで後頭部に一纏めにされている。そのクリップも、目の前の酔っ払いの駄々により外されて、シャンプーの香りを漂わせながら首筋を覆っていた。
拓也が机に頬を押しあてながら、アルコールで熱くなった手で一束すくい上げた。
「なーああーーーこうじぃいーーー」
「…はぁ、うるさ…」
「ね?俺と付き合お?」
そう言った口で絹糸にキスを贈ろうとするのがわかったから、手を払い除け、代わりに特大のため息を吐き出した。
またか。輝ニはそう思った。
輝ニが自分の恋愛対象が同性だと気づいたのは高校生の時だ。級友たちが興奮気味に話すアイドルや女優たちの話に関心が持てなかった。自らが禁欲的思考の持ち主なのかと思っていたが、下半身が重く気だるくはなる。恥を忍んで、成人済みの兄がいるというクラスメイトから借りたAVを見てみるが全くそそられない。いや、それは語弊があった。興奮した。誤魔化しようがないぐらい痛く腫れあがった熱の塊は、きんきんと喘ぐ組み敷かれた柔らかそうな女体ではなく、抱え込む太い腕と引き締まった腹筋、くぼんだ尻と赤黒くグロテスクなモザイク越しのものに反応を示していた。吐き出した体液を拭った数枚のティッシュをゴミ箱に入れる気力すら起きず、そのティッシュに負けないぐらい顔をぐしゃぐしゃに歪め、輝二は声を押し殺して泣いたのだ。
デジタルワールドでの濃い1年弱を共に駆け巡った仲間達にそれを告げた時の反応は三者三様、五者五様だった。双子の兄には事前に伝えており、共に悩み、共に泣き、共に感情を分かち合っていた。泉と友樹は一瞬目を丸め、「そうなんだ」と言ったあと、心配そうに「変な男に捕まっちゃだめだからね」と釘を刺し、純平はというと「ライバルが1人減った」と高らかに笑った。
そして、拓也。実を言うと、彼からの反応が一番気になっていたのだ。親友から同性愛者とカミングアウトされ、裏切られたと思われたらどうしよう、気を使われるようになったら…。いっそのこと、気持ち悪いと一蹴してくれたらなと考える。
だが輝ニの不安は、想像を遥かに超えた返答でバッサリと消え去った。
「俺!輝ニの事が好きなんだけど!付き合おうよ!」
そこからかれこれ数年に渡り、拓也のアタックは続いているのであった。
その場では混乱から、そんなに気を使わせたのかと涙を流してしまったのだが、そんな輝ニをみて「…すげぇ可愛い。俺のために泣いてる輝ニ………やばいな」と、思春期の有り余った欲が乗った瞳で見つめられ、瞬間別の心配が湧いて出た。余計なことを言ってしまったと思いつつも、軽蔑や哀れみを向けられなかった事に安堵する。そして『早まったんじゃ…』と、捕食者のように目をギラつかせた拓也と距離を取ろうとじりじりと後ずさった。
「何度も言うが、付き合うつもりはない。いい加減しつこいぞ拓也」
「いい加減しつこいのは輝ニでしょーがぁ!」
「…酔っ払いめんどくさい」
3%と記された缶を煽り、握ったままテーブルへと底をつけた。鈍い音がほとんど減ってない容量を告げている。脇に目をやれば、半透明の瓶が転がっている。たっぷりと詰まっていた日本酒は、目の前の酔っ払いと、キッチンで上機嫌に料理をしている兄の体内に収まった後だ。
「なんでダメなの…そんなにタイプじゃない?」
「……」
タイプかどうか聞かれたら、正直言うと、ドストライクであった。あまり身長差がないのを拓也は気にしているが、180近くあるのだから十分だろうと輝二は思っていた。それよりも、並んだ時の身体の厚みや、張った肩幅に何度喉が鳴ったことか。性格も、破天荒に見えて理性的で、玉に瑕にも見える幼稚な面も心をくすぐられる。
だが、認めてしまうのは癪なのだ。好意を寄せられていることは純粋に嬉しいが、本来彼はノンケのはず。小柄で可愛らしい女の子か、年上で落ち着きのある女性か…少なくとも、男である自分なんかが拓也の隣に居座ってはいけないと考えていた。
「……そうだなぁ、ゴリゴリの筋肉質で、俺よりも頭1個分身長高い人が好みだな」
「っかぁ~~~ッ!身長はもう伸びねぇよぉお~~」
このぐらいの意地悪は許されるだろう、口元で笑いを浮かべもう一度缶を煽った。2本目のそれは大分ぬるくなっていて、美味しかと聞かれたら微妙なところだろう。己があまり酒類に強くないことを理解している輝二のスピードは亀の歩みのよう。
「ウェイト増やすか…?」とぶつぶつこぼした拓也が、人肌まで温まった缶ごと輝二の手を握った。
「無理すんなよ、俺飲むよ」
「…すまない、頼めるか?」
「おー」
するりと抜け出た手を目線で追ったあと、半分ほど残った中身を空ける。ごく、ごく…と、水を飲むかのように一気にその容量が減っていき、喉仏が合わせて上下する。夢中でその様を見つめてしまったと、アルコールで火照った頬を手の甲で冷やした。
「はい、ごちそーさん」
「悪いな」
「輝二さぁ、無理して飲まなくてもいいんだぜ」
「拓也も輝一も、一緒に飲みたがるだろ?…俺だけお茶ってのは気が引けるし、それに…」
寂しいじゃないか、と呟きにもみたない声はしっかり拓也へと届いていた。
「……ー、好きだぁ」
「…はぁ」
酒の匂いと感情がたっぷり乗った声が、厚めの唇から零れ落ちた。
「あははっまたやってるよ」
「…面白がってるだろ、お前」
「だって面白いじゃないか実際」
くすくすと肩を揺らしながら、両手に皿を乗せた輝一が弟の隣へと腰を下ろした。所作を見ていれば落ち着いた優男の様にも見えるが、この蟒蛇が拓也が家に来る前にすでにパックのワインを開けた後だと知っている。若干引き気味で揃った肩を握った拳で小突いた。
「今の拓也見てると、あの頃の純平みたいだな」
事あるごとに、ブロンドの彼女にハートを飛ばしていたふくよかな少年を頭に思い浮かべた。青年に変わった今、彼の隣にはかの少女…もとい、大人の女性になった泉が並んでいる。
「純平と一緒にすんなよ!俺はまだ振り向かせられてねぇってのに…!あんにゃろ、のろけばっっっか言いやがる!」
はぁやだやだ!と、輝一が持ってきた香辛料たっぷりのチキンへと手を伸ばした。前日から拓也のためにと漬け込んだタレが艶やかに乗った皮は、香ばしく食欲を誘う。ぱりっと音を鳴らしたあと顔を綻ばせる拓也を見て、俺も食べたいと手を伸ばしかけたとこに輝一が「俺たちはこっち」と、別の皿を指さした。タイミングよく、さすが兄だなと、礼を告げながら赤くないチキンへ手を付けた。
「ん~~~っ!やっぱ輝一のご飯って最高だな!」
「そ、そうか…?そんなことないよ」
照れ笑いを浮かべた後、輝二にならってもう一つのチキンを箸で掴んだ。謙遜する輝一に拓也が、いかに料理が美味しいものか力説しだす。あの時の一品はよかった、味付けがすごく好き、食いすぎて太っちまうな、いくらでも食べたい。身振り手振りで伝えようとする姿を面白く思わない男が一人。
「あっしまった!オーブン余熱してたの忘れてた!輝二待っててくれ、パンケーキ焼いてくるから」
色違いのスリッパをぱたぱたと鳴らしながらキッチンへと消えて行った兄の背中を確信した後、身をキレイに食べ終わり残った骨を皿にカラリと投げた。指はタレと油でギラギラと光っている。
「…あー、汚れた…俺も箸使えばよかった」
人差し指の腹をぺろりと舐める姿に、正面に座っていた拓也が目を丸めた。視界の端で確認した後、わざとらしくリップ音をたてながら人差し指と中指へ唇を寄せる。
「…こーじの意地悪」
「はっ…なんのことだ?」
「うっわ…わっりぃ顔しやがって…」
んーっと声を伸ばしながら、2本指を口内へと招き入れる。じゅっと音をたてた後引き抜いて、一度思案するような顔をしながら拓也のほうを見やった。
「…食うか?」
そう言って、親指を突き出した。
「…ああ、ほんッと!意地悪い!」
「心外だな、あんなべた褒めした輝一の別の味を味見させてやろうって気遣いじゃないか」
別の形でその気遣いを見せて欲しいと思いつつ、思い焦がれた相手への普段じゃできない接触を断ることなんか出来るわけもなく。座りだした目でじとりと睨みつけた後、日本酒の匂いをさせた口を開けた。
「んっ…」
「…んっ…輝二、おっまえさァ!」
「悪い、その…ふふっ、くすぐったくて」
一瞬漏れ出たくぐもった声音に、拓也の悲痛な声が上がった。ふにゃりと笑って見せる輝二の柔らかい表情に、彼も十分酔っ払いなんだと悟った。
「…こーじくん、酔ってるんですか?」
「ー…少し、な」
二人分の唾液で濡れた指をティッシュで拭きながら、再び顔をほころばす。拓也が、今だったらいけるんじゃないかと、密かに企んでいた願いを口にした。
「ちょっとさぁ、輝二にお願いがあんだけど…」
「ん、なんだろ…なんだ?」
「…輝二って、つくづく猫っぽいなって思ってたんだよね」
「俺が猫ぉ?」
むっと顔をしかめ発言者を睨みつける。実際その目はとろりと溶け、怖いものでは全くなかった。鋭く睨まれたとしても、輝二に泥酔している拓也は「可愛い、好きだ」と思って終わる。
「なっなっ…一回でいいからさ、こうっ…にゃあって言ってみてよ」
「はァ?」
そう、輝二もだが拓也もアルコールに酔っ払っているのだ。セットされてない髪をくしゃりと押えつけながら、手首を頭上につけ耳の様に立て小首を傾げて見せた。落としどころのない振りをしてしまう原因は床に転がった一升瓶。
一度考えるそぶりをして見せた輝二が、口の端をにやりと歪め、シャンプーとヘアオイルの匂いをさらりと溶かしながら首を傾げた。
「たーくやぁ…俺、ジューサーが欲しいんだにゃあ…毎朝、それで甘いジュースが飲みたい、にゃあっ」
「よし、どれが欲しいんだ」
「おいこーいちィ!拓也がジューサー買ってくれるってさ!」
二人と違い、酒で焼けてない声で「ほんとー?」と間延びした返事が返ってきた。呆れを浮かべながら、ふかふかのパンケーキを数枚重ねた皿を手に声の主が顔を出す。
「またお前はぁ…あんまり拓也をいじってやるな」
「コイツは嬉しそうだぞ」
「…すまない拓也、俺にはどうしようもない…」
申し訳無さそうに告げた謝罪は当の本人には届いておらず、それどころか満足そうに笑いながらスマホを手に「どれがいいだろ〜」と乗り気。上機嫌に顔の周りに音符マークを飛ばす拓也のすぐ側に移動して、肩に腕を置き至近距離で「それはどうだろう」「あっ、それも気になるな」と口を挟む輝二の姿に、兄輝一は今日一番のため息をはきだした。
輝一は、この片割れの幸せを心の底から願っていた。恋愛だけが全てではないが、愛し愛され、たくさんの笑顔を見せて欲しい。兄として、家族として、仲間として、考えない日はなかった。そこで現れたのが神原拓也という男。仲間たちを鼓舞し、励まし、傷つき、支え合い、共に戦ってきた男が。拓也以上の人間がいるのだろうか、いや居ないなと、密かに考えていた。
こいつは何を意地張っているんだか…。オンラインサイトをみながら会話を弾ませている輝二へと目を向ける。本当に付き合うつもりがないのなら、拓也が足繫く輝二のもとに通っているのを断ればいいのに、昨日も「明日拓也が家に来るから、あいつが好きだって言ってた料理作ってくれないか?」と頼み込んでくるしまつだ。声音が明るいことは、輝一だから気が付けた。
「これでいい?注文するぞ」
「なんでだよ、今度一緒に買いに行けばいいだろう。わざわざネットで買わなくても…」
もう一度目を丸めた拓也が、普通逆なんじゃ…?と思いつつ、わざわざ口にしなかった。自ら”デート”のお誘いを台無しにするわけにもいかない。財布へのダメージはあるが、棚ぼたで取り付けられた約束にほくそ笑んだ。
またお前は拓也で遊んで…と口にはするが、実際は一緒に居たいというのを知っている輝一は、水でも飲ませてやろうと腰を上げた。
「楽しみだなぁ…」
「そんなジューサー欲しかったの?」
「…あ、ああっ…ジューサーな。うん、欲しかった」
「そっか~…こーじが喜んでくれて、俺も嬉しい」とへらり笑う拓也が、輝二の言葉の真意に気が付くのはまだ先になりそうだ。