道ぐだ【サンプル】遥か遠い世を生きたあなたへ 一.
朝のひんやりとした空気に誘われて瞼が開く。
ぱちぱちとまばたきをして、ぐぐっと伸びをする。鼻先が少し冷たい。
几帳の向こうに見える空はもう、日が昇り始めているようだ。
褥から出て、衾を畳む。几帳の陰から出ると、黒の長い巻髪と白の特徴的な長髪を持つ男が座禅を組んでいる。
声をかけていいものか迷うと、気配に気づいて男が立香へと振り返った。しゅるりと長い髪が揺れる。
「起きましたか。おはようございます」
「……おはようございます」
彼は――――この時代を生きる蘆屋道満だ。
時は、少し遡る。
『特異点が発見された』
そういって立香が呼び出されたのは、昨日のことだ。
「また平安京ですか」
「うん。もうリンボは倒したから、別要因だろうけどね」
そう、リンボを倒してしばらく経っている。色々――本当に色々あったが、直後に召喚された道満がカルデアに馴染むほどには、経っている。
立香は隣の長身の男をチラリと見上げた。
「リンボ時代に残していた爆弾とかは」
目が合った男はにこりと胡散臭いうすら笑いを浮かべる。
「はて、拙僧に聞かれましても」
何しろ拙僧、リンボとやらではありませぬので、と続ける道満を、そういうのいいからと一蹴する。
「まあ、本当に心当たりはありませぬよ。あったらやられる前にお出ししておりまする」
その言葉には非常に納得感があって、誰もが思わず頷いた。そもそもあの最後の時も、往生際悪く何かやろうとしていたところを倒したのだ。もう少しいい手があれば先にそれをやっているだろう。
よって、それ以上追求する者はいなかった。
「まあリンボ関連じゃなかったら行ってみないとだよね」
「ああ、いつも通り頼むよ」
ダヴィンチが頷いてにっこりと笑った。立香も微笑みを返す。
それで、今回の適正サーヴァントなんだけど……とダヴィンチが言い淀む。
マシュがチラリと立香の隣に立つ男を見上げた。
信用のまるでなさに、立香は苦笑する。
「道満、ですね」
ダヴィンチも苦笑して頷いた。
「立香ちゃんなら大丈夫だと思うけど……蘆屋道満、正直君には各所から不安の声が上がっている。君しか同行できない事と、その状況へ、ね」
何しろリンボの記録は持っているわ、バレンタインにはマスターたる立香を呪おうとするわ、過去二回――例え片方には事情があったとしても――夏に問題を起こしているのだ。良い心象がまるでない。自業自得とはいえ。
しかし、当人は気にした様子もなく、いつもの笑顔で頷いた。
「ご安心くだされ。今回につきましては、拙僧一切存じ上げておりませぬので。マスターの御命、我が命に変えてでもお守りいたしますとも」
その様子をじぃっと立香は見る。
浮かれてるわけでもなく、無理にテンションを上げているわけでもない。投げやりになっているわけでもなく、いつも通りの道満だ。先日もアシスタントとして何も問題を起こさずに働いていたのを見ている。これは大丈夫だろう、と微笑む。
それを認めたダヴィンチが肩をすくめた。何しろ道満専門家の判断だ。
「大丈夫そう、だね」
「うん、大丈夫」
いざとなったら令呪でなんとかしまーす、と言うと、おっいいですねェと言い出してこらっと叱る。
それでも立香は、道満と目を合わせると互いに微笑み合う。
立香が道満を信頼している理由は他にもある。正確に言えば、ある程度信用していない部分もあるが、その強さと立香を想う気持ちだけは信頼している。道満の左手の薬指に光るバディリングが、その証左だ。
道満はカルデアを裏切っても立香のことは裏切らない。そして、立香はカルデアを裏切ることはない。道満は立香の期待に応えたい。そうなると、カルデアを裏切ることはない、となるのだ。
ただし、こうして何か問題を解決しなければいけない時、に限るが。暇で構ってほしい時ならば当然のように裏切るだろう。一回目の夏のように。
「じゃあ二人とも、頼んだよ。時代は前回の平安京より後の頃だ。とはいっても、その時代の蘆屋道満やその他顔見知りがいる可能性が高い。その辺りは気をつけてくれたまえ」
「わかりました」
「先輩、お気をつけて」
心配そうにぎゅっと手を握ってくる後輩の手をぎゅっと握り返す。大丈夫だよ、と気持ちを込めて。
「ありがと、マシュ。行ってくるね」
マシュに笑顔で頷いた後、もう一度、道満と目を合わせて頷く。
そうして、平安京へのレイシフトが行われた。
すとん、と地面に着地する。降り立った先がきちんと着地できる高さだったことに、ほっと安堵する。
(道満は――)
振り返る。周囲を見渡す。が、いない。
立香は唇を噛む。もし道満がレイシフトに失敗していた場合、はぐれサーヴァントを探すしか手立てはなくなる。あるいはこの時代の人達を頼るか。
兎にも角にも状況を、と通信機を起動した。
『立……ちゃん!』
ザザっとノイズは多く、途切れがちの通信。
「ダヴィンチちゃん、道満が見当たらないの。レイシフト、失敗してる?」
『いや、成功……てる。彼は、結界………飛ばされ………たいだ。今、座標を……』
(道満だけ飛ばされた?)
ピピッと送られてきた座標は、ほど近い京のはずれ……いや、京の外かもしれないあたりだった。
「ありがとう。探してくる!」
『気を………………い、そこ……』
プツッと通信が切れてしまう。
(マシュ、何か注意を促してた……?)
二回目の平安京。今は夜。化生の類か出るのはよく理解している。簡易召喚機能は問題なさそうとはいえ、一人で戦うのは得策では無い以上、見つからないに越したことはない。
この場所は人目を避けて指定された、空き家の建つ空き地のようだった。
周囲を警戒しながら、通りに向かって歩き出す。
大丈夫、土蜘蛛や小鬼はいなそうだ、
「カルデアのマスター殿とお見受けする」
「っ」
背後から急に話しかけられ、とっさに横に飛び退く。
(うそ、影だってこの瞬間まで――)
ばっと振り向くと、そこには。
「……道満」
男はぴくりと眉毛を揺らす。
見覚えのある、緑色の僧衣。カラフルな袈裟。それらはきちんと着込まれてはいるが、見間違いようがない。頭は白の頭巾で覆われているが、黒の巻き毛と白の特徴的な髪の毛が覗き見えていた。
(違う、この人は――)
「確かに、拙僧はその名に間違いはございませぬ。しかし、貴女の呼ぶところの存在とは違うでしょう」
立香も頷いた。
「そうみたい。ごめんなさい、気安く呼んでしまって」
「いえ、結構にございます」
立香のこめかみを冷や汗が流れる。どうして、当世の蘆屋道満がカルデアの存在を、自分の存在を識っている。
先程急に背後に立っていたのは、式神か……否、道満の使う神足通か。生前に修験道を修めたと聞いているから、当世の道満が使えてもおかしくはない。
否、否、それより。
――どうして、当世の蘆屋道満が、カルデアのマスターに殺意を向けているのか。
「どうして、カルデアを識っているの?」
道満は薄く笑う。
「はて、どうしてでしょうなァ」
その瞳は、笑みは、声色は、どこまでも冷たい。
「教えて、道満法師。私は貴方と理由もなく戦いたくない」
再び、法師の眉がぴくりと動いた。
「語る必要はございませぬ。拙僧は邪魔されとうない。ただそれだけにございます」
「……っ!」
立香は歯噛みをする。話をしたいが、道満に話し合う気はないようだった。このまま戦うしかないのだろうか。
でも、と立香は眉を寄せる。どうしても戦う気にはなれなかった。
サーヴァントのように、別の場所で召喚された別人ならまだ慣れている。
しかしこの人は元の本人なのだ。正直、敵対したくない。
逡巡していると、ふっと殺意が和らぐ。
全身にかかる重みが消えたような気がして、立香は知らず、息をついた。
「ただ、ええ。殺すのはやめましょう。見たところ、貴女は術の一つも使えないようだ」
「それは……っ」
ぐっと唇を噛む。事実だ。
英霊の影を呼ぶことはできるが、強力な術者と一対一で戦うのは無謀が過ぎる。
「此方へ」
(あ――)
また音もなく間合いを詰められ、そのまま意識が闇へ溶けていく。
目が覚めると、褥に横たえられていた。
ばっと起きて立ち上がると、几帳越しに道満の姿が見える。几帳をよけて外へ出た。
巻物を広げていた道満は巻物を置き、立香を見る。
「起きましたか」
「ここは……」
「拙僧の邸です。貴女にはある呪いが終わるまで、こちらで過ごしていただきます」
それから道満は何事もなかったかのように夕餉を用意し、食べさせた。
毒等はありませぬよ、という道満に首を振り、礼を言ってありがたくいただく。
食べている立香に、道満は軽い邸内の説明をした。
「敷地から出なければ自由にしていて構いませぬ。ああでも、庭は結界が少し薄くなるので、拙僧のいない時は出ない方がよろしいかと。何かあっても責任は取れませぬ」
立香の箸が止まる。
「何か、って……」
道満は薄く笑う。その笑みに立香は目を見張る。
「拙僧も陰陽師の端くれなれば、様々なモノが飛んでくるのですよ」
それは、かつて平安京の内裏で見た、あの諦めたような寂しげな微笑みだった。
「……そっか」
立香は眉を下げる。
カルデアの道満の言葉がふっと浮かぶ。
『人を守る事もありました、人を害する事もありました』
その通り、様々なことをやった結果なのだろう。たとえ貴族からの依頼だったとしても。
力のある道満ならば、同僚からのあれやこれやもあるのかもしれない。
「それは……大変だね」
道満はすっと目を細める。
「そういった話はされぬのですか。カルデアのマスター殿は」
拙僧の影法師とやらがおるのでしょう、道満は続ける。
立香は首を振った。
「道満はあんまり生きてた頃の話はしてくれないんだ。聞いてもほとんどはぐらかされちゃう」
「……そうでしたか」
道満は淡々と返す。感情の色は読み取れなかった。
立香はふと箸を止める。
「道満さんはご飯食べた?」
今更だけど、ともごもごと口篭りながら言う立香に、道満は唖然とする。
「はい?」
「いや、これ道満さんの分だったんじゃないかって……」
半分以上食べてから言うことじゃないけど、とバツが悪そうに見上げる立香に道満は目を丸くすると、袖で口を抑えて肩を震わせる。
「えっなに」
「これはこれは……ンン、カルデアのマスターは面白き御方だ」
笑われているのだと気づいた立香は、むうっと口を尖らせる。
「安心なされ、夕餉は済んでおりまする」
「……よかった。道満さんの分だったのにもらっちゃったのかと」
くすくすと笑っていた道満は、すっと笑みを消すと袖を離す。
「仮にそうだったとしても、拙僧がお連れしたのです。貴女が遠慮なさる必要はない」
「それはまあそうだけど……そうだとしても人のを取って食べるのはちょっと」
「はあ。お優しゅうございますなァ」
呆れたように微笑む道満。しかし、その空気が少し和らいだのを立香は感じた。
箸を置いて、背筋を正す。
「私、藤丸立香です」
道満はぎょっとしたように目を丸くした。そのことに立香も驚く。
「はい?」
「名前、名乗ってなかったな、と……」
おそるおそる言うと、道満はため息をついて渋面になった。
「拙僧は陰陽師ですぞ。軽々に名を明かしてはなりませぬ」
「え、」
立香は戸惑って眉を下げる。
「教わってはおりませぬか。陰陽師に名を明かすということは、生殺与奪を握らせるようなものです。強力な呪になるのですよ」
呪詛を暴く時にも使うほどです、と道満は続ける。
立香は薄く微笑んだ。
「……それでも、貴方には知っていてほしかった。ずっと『カルデアのマスター殿』なんて呼ばれるのも……」
道満はため息をつく。
「では、星見草殿、と。星見台から訪れたのですし、良いでしょう」
「星見草?」
「菊のことです。貴女の御髪の色が似ておりますので」
立香は少し目を張って頬を染める。
(さすが平安時代、なのか……)
道満はついと立香を見下ろし、たしなめるように続けた。
「陰陽師の邸は、常より言霊の呪が効きやすい場所です。不用意なことは口にされぬよう」
その瞳は、確かに立香を心配していた。立香は眉を下げる。
「……ごめんなさい」
「お判りいただければよろしいのです。……しかし、あれは何もお教えしておらぬようで」
眉を寄せる道満に、立香は首を振る。
「道満さんも最初言ってたように、私そういう才能ないからじゃないかな……」
と、はっと口を抑える。
「ごめんなさい、呼び方変えた方が……?」
道満は少し目を見張ると、首を振った。
「いえ、自分の身は守れますので。この方が呼びやすいでしょう」
あまり連呼されるのは困りますが、と続ける道満に、立香はふふっと笑う。
「じゃあ普通に呼ばせてもらいます」
立香はほっとして、置いていた箸を取った。
「才能、いえ、できるかできないかに関わらず知っておいた方が良いことは多くありまする」
「そっか……帰ったら聞いてみるかな」
道満は少し目を見張ると、薄く笑う。
「帰れないかもしれない、とは思わぬのですね」
立香は頷く。
「絶対帰るって決めてるから」
「……強い御方だ」
さすが人理を修復されただけある、と続ける道満に、立香は眉を寄せる。
「……その……何故、私のことを知っているの?」
道満はつい、と目を細めた。
「はて。どうしてでしょうなァ」
「カルデアのことだけじゃなくて、カルデアにいる道満のことも知ってるよね」
道満は頷いた。
「ええ」
「それは、何故」
「はて」
道満は薄い笑みを崩さない。
(表情が読めない……)
カルデアの――否、アルターエゴの道満も中々表情を隠す方だ。特にリンボ時代は冷たい微笑みで隠していることが多かった。それでも微妙な機微はそれなりに出るし、隠していない時や溢れた時は思いっきり出る。
しかし、この道満は布で覆うように隠してしまう。ずっと冷たい目からは何も読み取れない。
宮中は魔界だかんね、という諾子の言葉を思い出し、ちくりと胸が傷んだ。
(あんなに屈託なく笑える人なのになぁ……)
とりあえず、今これ以上聞いても無駄ということだろう。
立香は残っていた食事を食べ終わり、箸を置いた。手を合わせる。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
「片付けます」
膳を持って立ち上がろうとしたところを制される。
「いえ、結構です。式神にやらせておりますので」
その言葉通り、さっと一つ目の式神が現れて何処かへ片付けていく。
「もう夜も更けております。拙僧の邸は他に対屋はありませぬので、狭くてご不便おかけしますが、またその几帳の影でお休みくだされ」
「……わかった。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
几帳の影に入ろうとして、はたと気づく。
「……この褥、道満さんのじゃないの?」
「ええ、そうですが。お嫌でしたかな?」
立香は首を振る。
「そうじゃなくて、私に使わせるってことはこれだけなんじゃないの?」
「そうですが、何か?」
「一個しかないなら、私が使うのは申し訳ないよ」
「ン……」
ふっと冷たい笑みが刷かれる。
「お優しいですねェ、星見草殿は。己を拉致した者へこうも情けをかけられるとは」
「そう言われると……そうなんだけど」
立香は困ったように笑う。
オリジナルとはいえ、アルターエゴの道満と彼は別の存在だ。それはわかっている。
それでも、否、それだからこそ。この男へどうしても割り切ったようには接せないのだ。
すっと道満の目が細められる。唇の片端だけさらに上がる。
「それとも、共寝の誘いでしたかな?」
「違う!」
嘲笑うような響きに、キッと睨む。が、やはり表情が崩れることはない。
すっと表情を消すと、道満は言った。
「では、お気遣いは不要です。板の間で寝るのも慣れておりまするので」
「……わかった。ありがとう」
もう一度おやすみなさい、と告げて立香は几帳をよけてその陰へ入る。
向こうからは律儀におやすみなさい、という声が聞こえた。
二.
それから、二人の奇妙な共同生活が始まった。
日中道満はどこかに出かけることもあれば、邸で何やら作業をおこなっていることもあった。塗籠に籠っていることも多かった。
民間の陰陽師として仕事をしている道満は、依頼にくる者も多い。京に住む一般の民の依頼は、ちょっとしたまじないごとから薬師のような依頼もあり、よく頼りにされている雰囲気が伝わってきた。一方で、人目を避けた訳ありそうな貴族もそれなりに来ていた。
道満は立香が他の民には見えないように隠形を施したため、立香が民たちと関わることはなかったが、何故かこちらを見てにっこりとされることもそれなりにあった。道満に問うと、どうやら式神に見えるようにしたということだった。
立香は掃除などの家事を手伝おうとしたが、式神にやらせているので、と断られてしまった。何やら術式を仕込んでいるところもあるらしく、そう言われてしまっては引き下がるしかない。
朝晩道満は座禅をしている。そのことに気づいて三日目の朝から隣に並んで座禅をし始める。道満は特に何も言わなかった。
明け方から日が昇るのを感じつつ、早朝のすずやかな空気を吸う。清少納言が冬は早朝と書き記していたのがわかる。心地が良い。
交わす言葉はなくとも、共に座禅をするうちに少し距離が縮まっていくものだった。
式神が支度を始めた気配を感じ、どちらからともなく目を開けて姿勢を緩める。朝餉の時間だ。
立香はこのごはんの時間が好きだ。
貴族ではありませぬので、と出された雑穀混じりのごはんに焼き魚、野菜を煮たり蒸したりしたもの。雑穀は後世ではむしろ高級になっていると言うと大層驚いていた。まあ、立香ももやしが高級食材だと未来の人に言われたら驚く。
精進料理の原型に魚を追加したような雰囲気の食事は、当然ながら同じ国の立香にとって食べやすい。醤という醤油の元になったらしい調味料も、塩辛さは感じるがどこかなつかしさを覚えてしまう。僧籍だからなのか肉が出ることはないが、ろくに動いていない以上、カロリーが低いのも助かる、なんて思っている。
魚は食べるんだね、と言ったら、陰陽師は体力勝負ですので、という言葉が返ってきた。なるほどだからあの体躯なのか、としみじみと感じてしまう。実際によく身体も鍛えていた。一度共に同じメニューをやってみたが、全然ついていけない。立香も鍛えている方だと自負しているが、体格も含めちょっとやそっとでは超えられない差を感じた。
(って、馴染んでる場合じゃないんだよね)
どうしても知った顔だから――いや、深いつき合いをしている者と同じ魂を持っている人だから。どうしても、生前の彼と過ごす時間というのも少し楽しんでしまっているところがあるのだ。
立香はカルデアの道満とつきあっている。だからこそ違う存在だとは思うが、共通点も違うところも興味深いのだ。
とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。
一人でここを出るのは難しいだろう。アルターエゴとしての歪みがない道満は思慮深く、きちんと計画性もあるようだ。立香の行動を制限していないということは、絶対に出られない自信があるということだろう。
つまり、やるべきことは。
(なんとかして道満と連絡を取らなきゃ)
レイシフトしてきた時のことを思い返す。道満は京の外れの方に転移していた。
京を覆う結界に弾かれたとしたら、この時代を生きる安倍晴明のものだと考えるのが妥当だ。理由は。
(属性悪だから?それともアルターエゴとしての道満の霊基を弾くようにした?)
特異点の記憶はなくなるはずだが、未来視の千里眼を始め色々規格外のような晴明ならありえそうにも思う。ただ、そうすると疑問が残る。
何故、カルデアの道満を弾くようにしていたのか。
さすがに今回は問題ないと通される方が妥当な気がするのだ。
そうすると、妥当なのは。
(道満さん、か……)
会った瞬間に思い出したと言っていた。特異点の修復作用を考えると、それでも特殊と言ってもいい。
しかし、もし。
記憶が残っているうちに結界を張り、ただ必要なものとして結界を維持し続けていたとしたら。
(道満さんならありえなくない、と思う)
そうなってくると、道満は京へ入れているのか。そもそも入ることは可能なのか。
(でもレイシフト適正は道満だった)
であれば、それに意味はあるはずだ。
(もう一回カルデアと連絡を)
室内ではとれないことは実験済みだ。
しかし、庭なら。
道満が出かけてる今、試してみる絶好のチャンスだ。
(真昼間から呪いとかそんな……ないと思いたい)
立香は深呼吸する。
意を決し、庭へと踏み出した。
すうぅと何かを通り抜ける感覚。空気が変わる。結界だろう。
「!」
庭に降り立った瞬間、何かが飛んでくる。ゴーストのような黒い靄。
(道満……みんな……お願い!)
「簡易召喚、起動!」
立香は簡易召喚を展開する。
ぱぁっと光が走ると、見慣れたサーヴァントたちが顕れた。
アルターエゴの道満、ルーラーのスカサハ=スカディ、キャスターのスカサハ=スカディ。あくまでその影だ。
「スカディ、二人とも道満にスキル1と2お願い!道満はスキル1を使ってそのまま宝具撃って!」
「「ああ」」
「もちろんですとも」
ドンドン、と道満が足を鳴らし、敵に弱体化と呪いをかける。スカディたちの強化を受けると、ずんっと魔力を開放し宝具を起動させる。
「顕光殿、お目覚めを!」
数多の目がある黒い太陽が空に浮かぶ。
道満は口上を唱えながら目を伏せ、印を組みだす。
強大な魔力にあてられて、立香はびりびりと肌が震えるのを感じる。同時にざぁっと自分の魔力を持っていかれる、まるで痛みのない献血のような感覚が走る。宝具使用の時の独特の感覚だ。通常の戦闘にも魔力はある程度持っていかれるが、規模が違う。
道満が目をカッと開いた。
それは、宝具の準備が整った合図。
「狂乱怒涛、悪霊左府!」
靄が異形化してのたうち回る。一体しかいないから、共喰いの相手はいない。
「ギャアアアアッ!」
パァンッと霧散し、消えていく。
立香はほっと息をついた。
「ありがとう、みんな」
そうねぎらって、サーヴァントたちの方に向き直る。
影とはいえ、馴染みの顔ぶれだ。誰とも会えていない今、数日とはいえとても懐かしく感じる。
しかし、彼らはあくまで影だ。ずっと召喚したままにしたところで戦闘以外のことはあまりできるものでもないし、無駄に魔力を消費するわけにもいかない。
名残惜しいが、簡易召喚を終わらせようとした時。
「っ!」
目の前に、一つ目の式神が飛んでくる。
思わず顔を腕で覆ったが、式神は立香に触れることなく、ビュンッと耳の横をすり抜けていく。
はっとして振り返ると同時に、式神がバンッと靄を弾いた。
「危ないですぞ」
そう言いながらぐいっと道満が立香の腕を引き、自らの背後に促す。
立香は少しよろめきながら、慌てて小走りに後ろへ回った。
「、ありがと、道満」
先程弾けたはずの靄が、より巨大になってそこにいた。
気配に全く気づけなかったのは勘が鈍ってしまったのか、敵がアサシンクラスだからか。
「キィィィィィィッ!」
再び靄が襲ってくる。全体に魔力の塊がぶつけられる。
ダメージは大きくないが、防御力が下げられていく。立香は眉を寄せた。
「道満、もう一回宝具!スキル3使って!」
「ええ」
高笑いを上げながら道満がチャージを上げ、呪いを靄にかける。
宝具が起動され、再び血を抜かれるようなあの感覚。
今日は魔力が十分にみなぎっているから、あと数回は余裕だ。とはいえ、この一撃で倒せるだろう。
「狂乱怒涛、悪霊左府!」
「ギャアアアアアアアッ!」
叫び声と共に、今度こそ靄は消えていった。
立香は念のため周囲を警戒し、何もないことを確認して肩の力を抜く。
「みんな、今度こそありがと」
告げると、それぞれの表情で立香に微笑みかける。スカディたちは慈愛のこもった笑み。道満は、――――ドヤ顔。
影とはいえ、そういうところは同じだ。久しぶりに見る道満の表情に、立香は自然と頬が緩んでいく。賑やかで、自信満々で、褒められたがり。戦闘に特化した影ではなく本人だったら、そうでしょうそうでしょう、とさらなる誉め言葉を要求してきただろう。
立香はうなずき、簡易召喚を終わらせた。サーヴァントの影たちが、きらきらと光になって消えていく。それを名残惜し気に見届けた。
ふう、と一息つく。
さて、本題の通信だ。繋がるといいのだが。
立香はごそごそと通信機をウエストポーチから取り出す。
通信状況を確認しようと画面を見、
「なるほど、斯様な闘い方ができるので」
「っ!」
突然耳元で声がする。立香はばっと振り向いて飛びずさる。いつのまに現れたのか。真後ろに道満が立っていた。
「道満さん、」
道満はかがんでいた身を起こす。ついと目を細めた。警戒の色。
「これは少し認識を改めた方がよろしゅうございますかな」
術の一つも使えない小娘。確かに本人の力では一切何もできないが、外部の力を用いてはるかに強い者達を呼び寄せるのだ。か弱い雛鳥の一声で狼や熊がやってくるなど、詐欺もいいところだろう。十二分に警戒すべき力だ。
道満の手が伸ばされる。
「まって!カルデアに連絡させて!」
立香は慌てて後ずさり、叫ぶ。懇願する。
「みんな心配してると思うし、それに」
「……リンボ、ですか」
ぐっと道満の眉根が寄る。立香は首を振った。
「本人という訳じゃないの。リンボ時代のことも記憶じゃなくて記録で知っているけど、なんというか……微妙に違うんだ」
上手く言えないんだけど、と立香は苦笑する。この道満がどこまで英霊の概念を識っているのかもわからない。一から説明するにはなんとも説明が難しい概念だ。
道満の眉間の皺がさらに深まる。
「……今貴女を解放することで計画に支障を出す訳には行きませぬ。申し訳ございませぬが、「道満さん」
立香はぎゅっと道満の袖を掴む。
道満はぎょっとして、目を見開く。ばっとそれを振り払った。
「っ、拙僧に触れてはなりませぬ」
「あ……」
勢いよく払われて、立香の瞳が揺れる。それを見て、道満がしまった、というように慌てて付け加えた。
「拙僧は常人とは色々違いまするので」
「……そっか。ごめんなさい」
立香は眉を下げて微笑み、首を振る。
道満も慌てていた。何か事情があるのだろう。
改めて口を開いた。
「私、道満さんと話したい。本当に敵対しなきゃいけないのか、そうだとしても何か違う道はないのか。……私たちは特異点を修正にきたけれど、何が原因でどうしなきゃいけないのかはまだわからないの」
道満は目を瞑る。
ふわり、と一筋の風が吹く。道満の白と黒の豊かな髪をしゅるりと揺らす。着物も微かに揺らしていく。
ややあって道満は頷いた。
邸内に入ると、立香は円座に座った。この数日でそれはすっかりなじみとなっている。板の間は固く少し冷え込むため、ありがたい。道満も向かい合うように自分の円座に座った。
一呼吸の後、立香から口を開く。
カルデアという組織のこと。一度焼却された人理を修復したこと。今また漂白という形で人理が脅かされいること。この平安京はこのままにしておくと、人理が戻った時にまた人理を脅かす要因になるところだということ。
道満は時折頷きながらも、静かに目を伏せて聞いていた。
「なるほど、カルデアなる組織は人理を救う組織である、と」
「うん、だから必ずしも道満さんの邪魔をすることになるとは限らないんだ」
「左様でございますか」
道満は微笑みを浮かべる。が、それはとても表面的なものだ。
「人理を正すためには聖杯を回収する必要があるのですね」
「うーん、必ずしもそうとも限らないとは思うんだけど、聖杯が原因になって特異点になることが多いから、基本聖杯は回収することになってるかな」
最初はゲーティアによって各特異点に置かれたものだが、揺らぎとして発生している微小特異点はゲーティアによるものではない。人為的だったり自然発生だったり色々だ。稀に、閻魔亭の時のように聖杯が原因の特異点ではないこともある。
道満は笑みを深める。
(あ、)
立香は目を見張る。これは、知っている。アルターエゴの道満も浮かべる、人を煽るような、良くない笑顔。その瞳はどこまでも冷たい。
道満は口を開いた。
「では、聖杯は拙僧が所持している、とお伝えしても?」
「…………」
立香は眉を寄せて考える。道満がこれを伝えてくる意図はなんだ。
「道満さんは、聖杯を使って呪術をおこなおうとしているの?」
道満の表情は読めない。笑みを唇に貼り付けたまま。
「ええ、まァ。そうですなァ」
「それは……聖杯がないとできないものなの?」
「はて、いかがでしょうなァ」
立香の眉がさらに寄る。こうなると答えてもらえないのは、きっとアルターエゴの道満と共通するところだろう。蘆屋道満という人がそうなのだ。
「いずれにせよ、拙僧は呪いが終わるまで聖杯をお渡しすることはできませぬ。よって、これ以上話し合うことはないかと思いまするが、いかがですかな」
話は終わり、とばかりに道満が切り上げようとする。
「まって、」
立香は慌てて言い淀む。まだ、道満の話を何も聞いていないのだ。
「道満さんの話を聞かせてほしい。何故聖杯が必要なのか。聖杯を使わずに済む方法はないのか」
道満は軽く首を振る。
「なりませぬ。これからおこなう術式を話す、等、愚の骨頂ですので。自ら失敗しにいくようなものです」
そう言われると立香には何も言えない。何しろ、専門外だ。そもそも聞いて分かるものでもない。言葉を誤ったと、唇をかむ。
「聖杯を使わずに済む方法、もありませぬな。使わずに済むのではなく、拙僧が使いたいと思って使うので」
ぐっと唇を噛む力が強くなる。言葉を選ぶ。
「道満さんほどの人だったら、聖杯がなくても成功するんじゃないの?」
道満は少し目を見張ると、呆れたように嘲笑を浮かべる。
「聖杯、とは力の源なのでしょう?力は多くて困ることはありませぬ」
言葉を切ると、ふと目を伏せる。どこかに想いを馳せるように。長いまつげに彩られるのは、憂いの色。
視線を戻すと、道満は口を開いた。
「この京には晴明殿がおりまするので。……晴明殿に勝つるためには、手段は選んでおられませぬ」
立香はきゅっと唇を結ぶ。晴明との対決であれば、道満が引くことはないだろう。なんとかしてほかの手段を探すしかない。
「……わかった。ありがとう」
立香は引き下がるしかなかった。
道満も薄く微笑みを纏う。
「こちらこそ。ご期待に沿えず申し訳ございませぬ」
ほんとに、と言いたい気持ちが若干混じりつつも立香は微笑んで首を振った。
立ち上がっていずこかへ歩いていく道満を、ぼんやりと見つめる。
(道満のこと、聞きそびれちゃったな)
集中すると、微かに道満とのパスを感じる。だから、少なくとも退去するような事態にはなっていないのだろう。今はそれだけでも少しほっとする。
道満側からうまくやってくれてこの状況を打開することを期待できるのかは、正直見えない。自分のことだから、どういう状況なのかは目星がついているだろうが、だからこそ立香に危害が及ばないと判断すれば様子を伺うくらいに留めているかもしれない。時代が時代なだけに、あまり目立つこともできないはずだ。
それに、自分の術式であれば解けるものなのか、逆に無理なものなのかもわからない。
それよりも、気になるのは。
(晴明さんとの、どの対決なんだろう)
その疑問は、ざわりと胸を騒がせる。
宝具の光景が頭をよぎり、立香は静かに目を伏せた。
単なる術比べならまだともかく、あの大術式ならなんとしても止めなくてはならない。民が巻き込まれてしまう。
(でも、どうしたらいいんだろう……)
叫びだしたくなる気持ちをこらえて、立香はため息をついた。
次の日の朝。立香は覚悟を決めた。このまま何もせずのうのうと過ごすわけにはいかない。
朝餉の後、どこかへ行こうとする道満を止める。
「道満さん、私と戦って」
道満は立香を見下ろし、怪訝な顔をする。
「はい?」
立香は決意を込めた瞳で道満を見上げた。
「私が戦って勝ったら、私に自由に行動させてほしいの」
「はあ。では、儂が勝てば?」
「これまで通り大人しくしている」
道満は薄く笑って肩をすくめる。何を言っているのか。
「それでは儂に利点はないのでは?」
立香はニッと笑う。そう言われるのは想定済みだ。
「そうね。でも、勝負に乗ってくれなかったら、私はひたすら逃げようとする。それは道満さんの邪魔になるんじゃない?」
道満は唇から笑みを消す。空気が冷たくピリッとしたものに変わる。
「そうですか。では、お誘いに乗らないといけないようで」
再び浮かべた笑みは冷酷なもの。
立香はごくりと息を呑んだ。拳を握りしめる。自分から振った話だ。
「一応確認するけど、これはあくまで勝負。命のやり取りはなしで、ね?」
道満は頷く。道満とて僧籍の身だ。悪性を元に歪んだ形で作られたアルターエゴの道満と違い、無駄な殺生を好む性質ではない。
「ええ。構いませぬとも」
二人は庭に出る。どちらからともなく距離を取った。
「先日のように貴女ではなく、影に戦わせるので?」
立香は頷いた。
「うん。道満さんが見抜いた通り、私自身に戦える力はないから」
肉弾戦はできるといえばできるが別に得意ではないし、仮に挑んだところで道満には間違いなく敵わないだろう。
活性アンプルを取り出し、二本まとめて打つ。後でバレて怒られるだろうが、今は必要な時だ。
「みんな、お願い!」
六人、召喚する。
メイヴ、エウリュアレの男性特攻を持つサーヴァントたちを軸に、彼女たちを支援するアルトリア・キャスター、レディ・アヴァロン、光のコヤンスカヤ、オベロン。
あえて、道満の影は呼ばなかった。
道満は何枚か符を携える。
深呼吸をして、立香は道満を見た。
目が合って一呼吸、同時に動き出す。
「キャスター、アヴァロン、オベロン、コヤンスカヤ!メイヴとエウリュアレに支援を!メイヴとエウリュアレはスキル使って宝具お願い!」
それぞれが応え、二人は宝具詠唱を始める。
同時に何かを唱えていた道満が、符をアタッカー二人に放つ。
「っ!」
二人の詠唱が止まる。
「だめ、宝具使えないわ!」
「もう!私も!」
「っ、キャスター、宝具使える?」
「まだです!」
その瞬間、音もなく道満がエウリュアレの目の前に詰める。
「きゃあっ!」
バリッと道満が虚空を掻く。それがそのままエウリュアレへダメージを与える。
「エウリュアレ!」
がくり、とエウリュアレが膝をつく。回復しようとするが、間に合わない。
「臨める兵闘う者、皆陣烈れて前に有り!」
道満が早九字を切ると、エウリュアレは戦闘不能となって消えていった。
「まだまだっ!」
その間に復活したメイヴが、今度こそ宝具を繰り出す。立香の魔力がざっと引く。
「チャリオットマイラブ!」
同時に、キャスターとレディアヴァロンも宝具を使い、防御体勢を整える。一気に魔力が持っていかれてぐらりとするが、拳をぎゅっと握って耐える。アンプルは効いている。
しかし、道満はメイヴを一瞥すると一瞬でその場から消える。
「っ!」
馬車を避けきったと思うとメイヴの裏手に回り、星印を描く。
「きゃあああ!」
悲鳴をあげてメイヴが蹲る。
「コヤンスカヤ、アタック!キャスター、アヴァロン……っ!」
コヤンスカヤに攻撃させている隙に、二人にメイヴを回復させようとする。
が、突然立香の喉元に符を突きつけられる。
いつの間にか道満は、立香を羽交い締めにしていた。
「あ……」
(だめだ、道満さんの神足通、こんなにも……っ)
「なるほど、影がこれだけいても貴女の命がないと何も動けぬようですな」
「……っ!」
立香はぎりっと歯噛みをする。
完全に間違えた。
アタッカーの数をしぼって宝具を使わせるより、基本の攻撃が強いサーヴァントで構成し、最低限の司令で地道に削るべきだった。
最も、それでもどこまで通用するかはわからない。
本気で戦うなら、やはりある程度自分で動ける影ではないサーヴァントがいないと無理だろう。
あまりにも、強い。
影とはいえ、サーヴァントと当たり前にやり合えるのだ。
「一人一人倒しても良いですが……ええ、ここらで幕引きはいかがですかな?貴女もそれなりに体力を奪われるのでしょう」
立香は渋々頷く。問いかけられてはいるが、この状況では頷く以外の選択肢はない。
手をかざすと、簡易召喚を終わらせていく。
(みんな、ごめんね)
「では、中へ戻りましょうか」
「……はい」
こうして、逃げる機会は完全に失われてしまった。
三.
それから、立香は大人しく過ごしていた。
空や庭を眺め、身体を鍛え、読んでいいと言われた書を読み、道満がいる時にはその話をしたりする。
こっそりと通信機は試すが、やはり室内では繋がらなかった。
大人しくする、と言った以上、立香にできることは道満との対話だ。
まずはきちんとコミュニケーションを取って、道満の姿勢が軟化するのを待つ。
その甲斐あってか、二日後には大分話ができるようにはなっていた。
目の端に何かが動いた気がして、立香は読んでいた書から目を上げる。案外明るく照らす燭台のおかげで、夜でもなんの支障もなく本が読めている。
動いていたのは、うつらうつらとした道満のようだった。
「道満さん、風邪ひいちゃうよ」
道満は文机にもたれかかったまま目を瞑っている。自分で動く気配はない。
その袖から隠れ見える大量の符に立香は眉を顰める。
カルデアの道満も二臨の時は大量に札を貼っている。
本人に聞いた時ははぐらかされたが、鬼一が教えてくれたことがある。
あれは無茶をしていた頃の姿だ、と。
一度札を剥がそうとした時に、身体が崩れますぞ、と脅されたが、あれは冗談ではなかったのかもしれない、と戦慄したのを覚えている。
この時代の道満も見るからに何かを無理して背負っていた。
カルデアのことを思い出したとはいえ、立香とこの道満は初対面と言っていいはずだ。ここに連れてこられてからはまだ幾日か。
リンボ側の記憶として敵対した記憶はあるはずだが、人となりがわかるような会話をろくにした覚えはない。
そんな得体の知れない相手を放置するようなタイプには見えないし、どちらかというとあまり気にしている余裕がないようだ。
庭に出た時気づかれたことを鑑みるに、逃げようとしたりすると感知できる術式でも組んでいるのだろう。
眠る顔にくっきりと浮かび上がる隈も、彼が生身の人間であることを示している。
元々肉付きが薄い頬だが、それにしても細い線を浮かび上がらせ、陰影を色濃くしていた。
そっとゆり起こそうとして、立香は躊躇する。
人の気配にも気づかずに寝てしまっている道満を、起こしたくなかった。
何かかけるものを探して室内を見渡す。部屋の隅に、几帳面に畳まれた着物を見つける。
立香はそっとそれを取って、道満の元へ戻る。そっと肩に着物をかけた。
その肩が見慣れた肩のラインより細いのは、生身の人間だからなのか。それとも。
(何かできたらいいんだけど……)
道満にはここへ閉じ込められて困っているし、道満の話からすると敵対している状態だ。
それでも、こんな疲れ果てて寝てしまったような姿を見て何も思わない性格ではない。知らぬ人だとしてもそうだし、ある程度知っているから尚更だ。
立香は自身の手のひらを仰向け、目を落とす。
こういう時癒しの魔術の一つも使えない自分の身を無力に感じる。
肩を落とすと、そっと息を吐いた。
それにしても、寝ているというのに眉が寄ってしまっている。
疲れのせいか、夢見が悪いのか。
せめて、夢路くらいは穏やかについてほしい、と思ってしまう。
目を細めてそっと頭を撫でた。
艶やかな黒髪に触れた、その時。
「……え」
どくん、といやな鼓動が耳に響く。
どく、どく、どく、どく。
跳ね上がる鼓動と共に視界で明滅する赤、黒、赤、黒。
立香は、目を見開いた。
「あ……ああ……ぁ……」
指先から凍りつくように身体が硬直する。ざぁっと血が下がっていく。
触れたところから流れ込んでくる、負の想念。呪い。
カタカタカタカタと身体が震えだす。
べたべたべたべたべたべた。
目が、真っ黒な手に、覆われていく。
足元からも、何かがぞわぞわと這い上がってくる。
ガッと何かが首を掴んだ。
「…………っ!」
ぎゅうううっと首が締められる。
払いのけたいのに、凍りついた手は動かない。
ぞろぞろぞろぞろと何かはどんどん増えて、喉を掴んで締めてくる。
「…………ぁ…………っ…………」
息が、できない。
ばたん、と立香が道満に倒れ込む。
その衝撃で道満ははっと目を開けた。
衝撃が降ってきた方を振り向く。
「…っ!」
ぎょっと目が見開かれた。慌てて立香を抱える。
「立香殿!」
目を見開いてカタカタと震える立香は、呼吸ができていない。喘ぐように開いた唇が震えている。
その身体を黒いモノが覆っている。特に首が濃い。
道満はバッと懐から符を取り出し、それにふっと息をかけて立香の首を撫でる。
その符を払うと、見向きもせずに術を放つ。符がばっと燃えて消える。
ひゅっと立香の喉が鳴って、呼吸が戻った。しかし、まだ浅く速い。身体も強ばったまま震え続け、酷く冷たい。
道満はぐっと眉を寄せると、立香を抱えたままダッと走り出す。
屋敷から走り出ながら、式を放って牛車のような車を出す。引き手はいない。
さっとそれに乗り込むと、車は音もなくひとりでに走り出した。
車内で道満は、立香に向かって早九字を切る。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」
『ァアアアアァァアアアア…………!』
がくっと立香が跳ねると、覆っていた黒いモノたちが散っていく。
「神火清明、神水清明、神風清明」
星印を描きながら唱える。
『ォオオォオオオオ…………』
車の中が清浄な気で満たされ、苦しそうに黒いモノたちが蠢く。
「オン アボキャ ベイロシャノウ」
『ギャアアアァアアアァアアアアア……ッ!』
刀印で斬りつけると、断末魔の叫びと共にそれらは消えていく。
目を閉じてがくりと力の抜けた立香を、がっちりと抱き込む。
真言を唱え続けると、立香の強ばりが少しずつ解けていく。身体の温度も少しずつ戻る。
ほどなくして車が止まる。
道満は立香を抱え直して外に出ると、川に向かって走る。
清流、鴨川。
道満は躊躇なくその中へ足を踏み入れる。
ざぶざぶと進むと、中程に向かって立香を放り込んだ。
ゆらゆら。ゆらゆら。
揺れながら、ひんやりとした心地よい感覚に包まれている。
まるで頼光に抱きしめられ、背中を撫でられているような安心感。頼光と違い冷たい感覚だが、不思議と同じような温かみを感じるのだ。
その何かは、身体に貼りついていた黒いモノたちの残滓をすぅっと溶かしていく。
呼吸が楽になる。頭が軽くなる。身体がほどけていく。
ふぅ、と息をつくと、白んでいく意識に身を任せた。
ふわり、と目を開けると、薄明るく照らしている三日月。
遅れて、身を包む冷たい感覚を自覚する。
先ほどから感じていた冷たくも温かい感覚はこれらしい。そう、例えばプールで背泳ぎしてる時のような。
(プールで背泳ぎ……あれ)
立香は、ぱちぱちと瞬きをする。
前方には夜空。つまり、仰向けになって空を見上げている。
そして、背面は。
そろそろと下向きに手を動かす。
抵抗を感じたのはわずかで、手はどこまでも沈んでいく。ちょっとあったかい。プールみたいに。
要するに。
水に、浮いていた。
「えっ」
慌てて身を起そうとしてざぱっと水に沈む。
ゴボリ、とむせ込んだ。
(うそ、どうしよう……)
水泳の心得がない訳ではないが、身体が泥のように重くてうまく動かない。
とにかく浮かなければ、と思うが、焦って身体に力が入ってしまっているのか、全然浮かない。
(やば、溺れ……)
かすかに揺らめく水面の月に向かって手を伸ばす。
その手を、ぐいっと大きな手に引っ張られた。
じゃばっと顔が、身体が、水から上がる。
「ケホッ、ケホッ」
水を吸った肺で一気に空気を吸い込み、咳き込む。
支えられながら立たされ、はっと足元を見る。水は腰くらいの高さだ。そんなに深い水中ではなかったのだ。
「ありがとう」
「お加減はいかがです?」
「大丈夫……ちょっと身体重いけど」
道満はふぅ、とため息をついた。
「呪詛の後遺症です。手荒ですがきちんと祓いましたので、明朝には良くなっているでしょう」
鴨川には良き気の流れがありますので、と続けるが、立香の頭には入らない。
「……え?」
呪詛。どこで、何故。確かに邸にいたはずだ。
立香の疑問を察したように、道満は目を細めた。
つい、と自らの黒髪を指し示す。
「拙僧のこの髪は人の悪意や呪詛を溜め込んでおります故」
立香は絶句する。
この艶やかな髪に、呪詛が溜め込まれているというのか。
ぎゅっと胸が締め付けられて、立香は胸を押さえる。
そんな立香を冷ややかに見下ろして道満は続ける。
「常人とは事情が違うのです。……ですから、拙僧に触れるなと言ったはずでしょう」
「ごめんなさい……こんなことになるとは思ってなくて」
立香は唇を噛む。
そういえば、カルデアの道満も最初の頃は、拙僧にあまり触れてはなりませぬぞ、なんて言っていたことを思い出す。
しかし、道満に触れるようになっても特に問題は起きていなかったため、すっかり忘れていた。
その思考を読んだかのように、道満はため息をついて言った。
「……貴女の側にいる奴は調整を行っているのでしょう」
「え?」
何を言われたかわからず、立香は小首をかしげる。
「貴女に触れられたいと思っているのですよ、あやつは」
ぱちり、とまばたきをし。
意味を理解して、立香は真っ赤になった。
あせあせと手を振る。
「か、カルデアでは子供の姿のサーヴァントの相手してあげてたりするから、そういうところもあるのかも」
「そう、子らと……」
そう言うと、道満は目を伏せて僅かに口角をつり上げる。
「……あやつはやはり、拙僧でもあるのですね」
「……え?」
思わぬ言葉に、思わず立香が聞き返すと、道満は首を振った。
「いえ、なんでもございませぬ」
しかし立香は、ああ、と納得する。
「……そっか、道満さんにとって道満——リンボは自分だと思いたくないよね」
まだ会って短いが、道満から感じるのは善性だ。
立香を閉じ込めて、カルデアと敵対しそうな――要するに人理に逆らうことをやってはいるが、根本は善性を持っている。そう感じるのだ。
カルデアの——悪性を核にしたアルターエゴの道満とは纏うものが違う。
好きになった弱みもあってつい重ね合わせてしまうのだが、道満からすると、自分を嵌めて貶めた最低な悪性だ。
あの特異点の後だって、どうなったのか立香は知らないのだ。
リンボは内裏で色々問題を起こしている。修正力がどのように働いたかはわからないが、道満がその咎を負っていてもおかしくはない。嫌悪感があるのは当然だ。
でも根は同じ存在であることも事実で。きっと複雑な心境なのだろう。
しかし道満は、いえ、と言葉を続けた。
「ただしみじみと感じていただけでございます。……何故なら拙僧も同じことをしますので」
「同じこと……?」
立香はどくり、と鼓動が立てる音を感じる。
脳裏に浮かぶのは、道満の宝具。人を街を食らう、宝具。
「ええ」
道満は静かに口角を上げた。
「三日後、拙僧は京を喰らいまする」
四.
術によって身体や服を乾かしてもらった立香は、風邪を引くこともなく翌朝を迎えた。
アルターエゴの道満は、自身を多才だと自負していて、実際に多才だと思うことが多いが、つくづく器用な人だと思う。
道満の言っていた通り、もう重だるさは消えていていつも通りの体調だ。
しかし。
『拙僧は京を喰らいまする』
昨晩言われた言葉を思い出して、立香は眉を寄せる。
静かな顔で告げた道満は、何故という問いかけにも、やめてという懇願にも応えなかった。
ただ、もう止めることはできないし止める気もない、とだけ。
静かなその瞳は、確かな覚悟の光を宿していて。
同時に、深い諦観も孕んでいるように見えたのだ。
立香は庭に向かって腰を下ろし座禅を組む道満の隣に座って、同じように座禅を組んで目を閉じる。
いつしか共に行う日課になっていたそれだが、今日はぐるぐると考えてしまって、心が落ち着かない。
伝承によると、確かに道満が京の転覆を狙い、失敗して京を追われたり、呪詛返しによって命を落とすというものも存在する。
しかし、そうでないものもあるのだ。
この道満は善性を確かに持っている。
カルデアに召喚された道満が言うように、人を助けることもあれば害することもあったのだろう。
それでも失われていない、善性があるのだ。
民の平和を想う気持ち。弱き者を助ける気持ち。
依頼に来た、病平癒の祈願や守りなど快く引き受け、貧しい者からは対価を受け取らない。
貴族からの依頼を受けて帰ってきた道満は冷たい目をしていることが多かったが、民の平和のために行う依頼は温かい目をしてるのだ。
カルデアの——アルターエゴの道満のような、人をいたぶることに喜びを覚える様は、全く見受けられない。さらに言えば、行き当たりばったりさもない。
だからこそ、京を壊そうとする意図がつかめない。
どうして彼はそのような結論に至ってしまったのか。
「拙僧はあのお方をお諌めするべきだったのでしょう」
ぽつり、と道満が呟く。
まるで、思考が繋がっていたような内容だった。
はっとして隣を見上げると、いつのまにかその目は開かれ、何かを思い返すように宙を見つめていた。
あの方、と聞いてすぐにああ、と思い当たる。
「…顕光殿?」
道満の瞳がつい、と向けられた。
「よくご存知で」
その瞳には何も浮かんでいない。また感じる諦観。
すぐに視線は外され、また前方の虚空へと向けられた。
「しかし拙僧は共鳴してしまったのです。叶えて差し上げたかったのです」
ゆっくりと目が伏せられる。
「道満さん…」
立香はぎゅっと拳を握る。
その声には何も感情がのっていない。ただ、淡々と事実を告げている。
しかし。
「……これが失敗すれば顕光殿は反動に耐えられませぬ。しかし……そのようにせよ、とおっしゃいました」
これはきっと、懺悔なのだ。
告解。天草から聞いたことがある、キリスト教で神の代理人としての神父に自らの罪を告白し赦しを得るもの。
「神」という第三者に罪を告白することで気持ちが楽になるのでしょう、と身も蓋もないことを言っていたが、今道満が求めているものは、まさにそれなのかもしれない。
立香という、いずれ元の時代に帰還する、どうあっても交わりようがない者。
魔術の心得も才もなく、仮に全貌を話したところで何もできない者。
そんな、どうあっても第三者にしかならない者だからこそ話せているのだろう。
道満の口端にふっと自嘲が浮かぶ。
「拙僧も無事では済まないでしょう。何しろ、この京には——晴明殿がおりますので」
立香はぐっと手を握り締める。
告解をする神父は、ただ話を聞いて赦すだけだという。
しかし立香は神父ではないし、そんな心得はない。
だから——ただ黙っていることなんてできないのだ。
「じゃあ、そんなことやめてよ」
再び目線が立香へ向けられる。今度は、冷たい瞳。
「ですから「勝つ気がないならやめて!」
言の葉をさえぎり、立香が強い口調で言う。
虚を突かれたように道満は目を見張った。
が、すぐにぐっと眉が寄せられて眼光が強くなる。
「は、誰が――」
しかしその瞳に浮かぶのは動揺。立香にはこの程度、全然怖くなどない。
「だってまるで倒されたいみたいじゃない」
今度こそ、道満の目が見開かれた。
「前言ったよね、道満さん。陰陽師の家で軽々な言霊は慎むようにって」
初日に、名を名乗っただけでそう言われたのだ。忘れるはずもない。
「なのに失敗した時の話とかして、成功した話はしないじゃない」
京を喰らう、なんて言いながら、喰らってやるぞという意気は全然感じられないのだ。
むしろ。
「……後悔しているんでしょう?」
感情を揺さぶられて応えてしまったことに。
後悔して、その責を負おうとしているようにしか見えないのだ。
「陰陽師って本来、できるだけ自分にも依頼者にも、呪詛が跳ね返ってこないようにするらしいじゃない」
自分も依頼者も守れぬ等、よっぽどの賭けでなければただの三流ですぞ、と影とはいえ本人から聞いたのだ。
陰陽道に関しての彼の誇りは高いし、もちろん実力も高いのは間違いないのだろう、と素人ながらにも思う。
だからこそ、こういったことに関して嘘を言うことは基本的にはない。そう思うくらいの信頼関係は築いている。
「顕光殿に跳ね返ってきてもいいから強力にするように言われて、自分のこともその責を追うように守らないんでしょ」
道満は立香の目を避けるように横を向き、吐き捨てるように言った。
「は——くだらぬ。拙僧はそんな殊勝な人間ではございませぬ」
利用できる人間は利用するだけですので、と口の端を上げる。
立香は座禅を崩し、道満の方に向き直る。
その手をきゅっと握ると、ばっと道満は振り返った。
何か言いかけたのを制し、まっすぐに、真摯に見つめて言の葉を紡ぐ。
「だって道満さん……悪い人じゃないでしょ?ずっと——辛そうだよ?」
道満は息をのむ。微かに唇が震えた。
「うち根っからの悪人いっぱいいるからわかるの。本当に悪い人はね、ずっと笑顔だよ。悪事も、それで制裁を受けることすら楽しんでるの」
混沌悪タイプはある種、素直なんだと思ったこともある。
誰しも程度はあれど、悪いことをしたくなることはあるだろう。
それを悪いことだからと抑えずに、やりたいから楽しくやっているのが混沌悪だと思うのだ。
だからこそ悪びれることはもちろん、罪悪感を抱えることも恥じることもない。その在り方を楽しんでいるのだ、と。
「でも道満さん、全然心から笑ってない。……私がここに来てから、もう何日も経つのに」
本当に笑っていたのは、立香が来たあの初日だろうか。
すっとぼけたことを言った立香に笑っていた時くらいだ。
口角を上げることはあるが、それは表面だけだ。
カルデアの道満がする、立香の大好きな屈託のない笑顔は当然のこと、リンボが多く浮かべていた、残酷でいきいきとした微笑みもないのだ。
道満は俯いて目を伏せる。
はぁ、と深く息を吐いた。
薄く目が開けられる。
「……星見草殿は、不思議な方ですなァ」
「そう?」
立香は小首を傾げる。
道満は頷いた。
「最初にカルデアのマスターとお呼びした時……」
驚かれていましたよね、と続ける。
立香は頷いて続きを促す。
「……貴女を見た瞬間どういうわけか思い出したのですよ。拙僧とリンボが起こしたあの事件と共に」
「……そっか。でも、それは—」
「拙僧のせいではないと?ンンンン星見草殿はお優しいですねェ。——あの時、やはり我が因業……絶ってしまえばよろしかったのでしょう」
そう言いながら道満は首を押さえる。
いんごう、とくりかえすように立香はつぶやく。
一瞬遅れてその意味を理解し、瞠目する。
「そんな……っ」
続けようとした言葉は定まらず、唇が空回りをする。
あの後、自らの命を絶つことでリンボになる未来を止めようとしていた、なんて。
責任感が強すぎるのか、それほど絶望的な未来だったのか。
立香に構う様子もなく、道満は伏し目がちに目を細めた。
「此度も晴明殿は視ておられるはずなのに……どうして止めてくださらなんだか……」
止めてほしくない時には止めるのに、とつぶやく。
立香は口を開けかけて、閉じる。逡巡する。
なんと言えばいいのか。何を言いたいのか。自分でも定まらない。
結局口を開いて選んだのは。
「どうして晴明さんにこだわるの?」
そんな、言葉だった。
「……はて、どうしてでしょうなァ」
道満は薄く笑みを浮かべる。
カルデアの道満も、晴明に対してのことを聞いてもはぐらかすだけで碌な回答が返ってきたことはない。やはり道満という存在にとって、触れられたくないことなのかもしれない。
しかし、少し思案した道満が紡いだのは。
「貴女は何故あやつを選んだのです」
「……え?」
予想外の言葉に、立香はぽかんと口を開ける。
「カルデアにリンボなる悪霊の残滓がいるのでしょう?」
「あ……うん。でも、選んだって……」
今度は道満が唖然とする番だった。
「……あれだけあやつの気を纏わせておいてしらばっくれるので?」
立香はぱちくりと目を瞬かせる。
その意味をかみしめ、ぎょっと目を見開いた立香が瞬間的に真っ赤になる。
「はっ……なっ……」
「おや、気づいておいでではなかったので?」
大分薄れてはきましたがこんなに残してあるのに、と言われて目を白黒させる。
「あのね……道満さん……一般人にはわかんないんだよ……」
「はぁ。……もしや術が使えぬだけではなく、視る力もないと?」
立香は肩をすくめる。
「……おっしゃる通りです」
道満は信じられないといったように眉を顰めた。
「ンン……カルデアとはなんという……」
立香は少し目を伏せて微笑んだ。
「……私しかいないから。だから使ってもらえてるだけなんだ」
立香はあくまで補欠の、数合わせのマスター候補だった。他のマスターたちが無事であれば、ずっとカルデアの中で違うことをおこなっていただろう。
しかし、そんな立香を道満はじとりと見下ろす。
「……それだけではないでしょう」
「え?」
立香は驚いたように目を上げる。
見上げた先の道満は、不機嫌そうに目を据わらせていた。
「貴女には貴女にしかできぬことがある。他の者がどれだけ修行を積んでもできないことを、当たり前の顔でやっている。ンン……なんとも腹が立ちますなァ」
「ええっそんな」
少し眉を下げた立香は、少し口を噤む。
少し目を彷徨わせ、意を決したように口を開いた。
「でもそれは道満さんも一緒だよね?」
「は……」
道満は怪訝そうに眉を寄せる。
「晴明さんができないこと、いっぱいできるでしょ?」
道満はふぅ、と息を吐くと、ふいと目を逸らした。
「……あやつは人ができることなど大概できます。本人ができなくとも式神にやらせる力はあるので」
「そういうことじゃなくて。私も文字でしか話してないけど……きっと人の機微とかは道満さんの方がわかるよね?」
「それは……」
「逆に人の機微疎すぎるのも、負けてたまるかって思った原因の一つなんじゃないの?」
道満は息を飲んだ。
「……星見草殿は実に聡いようで」
道満は苦笑を浮かべる。
師として仰いだ男は、半妖だからか人の機微に疎く、端的に言うと余計な一言がとても多かった。才は誰もが認めているのに出世が遅いのもそのせいではないかとすら思う。
自身のことにもあまり頓着がなく、京を守る機関に進んでなることで様々なことを犠牲にしていた。
北の方や御子息の方々が悲しみますぞ、と言ってもなしのつぶてだった。
『北には昔言い聞かせている。子供たちはいずれ己の道だ』
大丈夫、うまく回っているさ、とどこか違うところを視て言うのだ。
晴明が未来を観ることができるのは、なんとなくわかっている。
しかしそれはあくまで事実であり、人の感情を考慮したものではないのだ。
そして、晴明が守っているのはあくまで京だ。京が日ノ本の中心としてきちんと機能している機構をこそ守っている。
そこに住まう民草は、その範囲外だ。
道満がそれを憂いていることはよくわからないようだった。
『京が機能していれば、時代の流れが変わるまでは問題ないだろう?民も京がなくなっては困るはずだ』
晴明はヒトとは視点が違うのだ、と理解したのはその時だったか。
ならば、自分がその機構を請け負い、民一人一人もきちんと守ってみせよう、と息巻いたのは若さ故とは思う。しかし、まだあきらめてはいない。
いないのだが。
その「京」こそが民を苦しめているのではないかという気持ちは、この京で年を重ねあらゆるものを見て思うことでもあったのだ。
だから、顕光の言葉に応えた。諫めることが顕光のためだったとわかっているのに。
それがどういうことなのか、見ないふりをして。
道満は口の端をあげて自嘲する。
ここ数日ですっかり、カルデアのマスターにほだされてしまった。
いや、目をそむけていたものと向き合わされた、というべきか。
静かに目を伏せた。
その道満の表情に、立香はそれ以上何も言えなかった。
立香も目を閉じる。ぱっと開くと、話題を戻した。
「カルデアの道満のこと、好きになった理由、かぁ……」
何とも難しいテーマに、少し考える。
敵対していたリンボ時代は、すごく嫌だった。
下総から始まり、インド、オリュンポス、と。人々を嘲笑いながら残虐な行いをしてきた敵勢サーヴァント。
武蔵の言うように端正な顔ではあるが、それを彩る表情は全く趣味ではなかったし、そもそも立香は面食いではない。様々なサーヴァントたちに囲まれているので、美男美女には見慣れてしまっているところも正直ある。
しかし、いざ訪れた平安京地獄界曼荼羅では、これまで見ることのなかった様々な表情を見せられた。
変なところこだわるくせに短気で。偉そうにふんぞり返っているのに、指摘されたミスについては素直で。開き直るわ、やけになるわ、諦めが悪くて手段を選ばないのに、なんだかんだうまくいかなくて。
そんなどうしようもないところは、カルデアの道満も同じだったのだ。
「なんかね……すっごい頭いいし器用で多才でなんでもできて」
道満は、何でもお願いすると軽くこなしてしまい、そのクオリティも高い。
立香にすり寄るためだろうが、事務仕事を買ってでてくれた時はそのクオリティと速さには驚いたものだ。それからすっかり甘えて、手伝ってもらいがちになってしまった。
いつかの夏もコロンブスに過酷な環境で働かせられていたが、量産型コロンブスを始めそれぞれのクオリティは高く、こちらとしてはとても迷惑したものだ。
「それなのに……ちょっとバカなの」
忘れられないコロンブスの卵事件。リンボ時代も、人類悪になれないことをうっかり忘れて自らを人類悪にしようとしていた。そういう、すこーんと抜けたところがある。
でもそれが。
「目が離せなくなっちゃって……気がついたらこうなってた」
立香は笑って肩をすくめた。どうかしているのは自分でもわかっている。周りにも散々言われた。
それでも、愛おしく思ってしまうのだ。
道満は言葉を失い、唖然としている。
それはそうだ、と立香は思う。そもそもこの本来の道満にはそんな残念なところはなさそうだし、あったとしてもそんなところが好き、なんて言われては嫌がりそうだ。
しかし、アルターエゴの道満ならばどんなところでも好きと言われると嬉しそうにしている。そういうところも違うのだろう。
眉間にたっぷりとシワを寄せた道満は、ぼそりと問いかける。
「……後悔、しておりませぬか?」
立香は微笑んで首を振った。
「してないよ」
後悔などしていない。むしろ、この関係性は気に入っている。
確かに思いっきり手を噛まれることもあるけれど、それが嫌ならばつきあおうとは思っていないから。
「ダメなところいっぱいある……いやダメなとこだらけだけど」
立香は言葉と裏腹に愛おしそうに微笑む。
「そんなとこも含めて好きになったから」
満開の花がほころぶような笑みに、道満は目を見張る。
口を開けて、何かを言おうとして。そっと頭を振って微笑んだ。まぶしいものを見るように目を細める。
立香は驚いて目を見開く。
(こんなに柔らかい顔で笑う人だったんだ……)
カルデアの道満でも見たことがない、冬の陽だまりのように温かくて柔らかで優しい微笑み。でもどうしてか、見ていると切なくなって、泣きそうに胸がぎゅっとしめつけられる。
道満はそっと立香の顔に手を伸ばす。
「もっと早く貴女と出会っていれば、あるいは……」
横髪に触れようとして、躊躇する。その手は立香に触れることなく下ろされた。
その手を思わずつかもうとして、立香も躊躇する。きゅっと拳を握りしめた。
道満は、思案するようにゆっくり目を閉じる。すきとおった風がそっと二人の髪を衣を揺らしていく。
やがて道満は、薄く目を開いて言った。
「明朝、ここを出て東の方へ行きなされ」
「え……?」
立香は目を見開く。
「もう、ここは危のうございます」
それだけ告げると道満は袂から何かを取りだし、立香へ差し出す。
「これを」
それは一枚の式神だった。
「都を出て少し行ったところに祠がございます。これが貴女を導くでしょう」
そう言うと、道満は少しだけためらうように言いよどむ。が、気持ちを振り切るように立香をしっかり見て言った。
「そこに……お探しの聖杯とやらがあるでしょう」
「え」
立香はさらに驚く。
頑なに聖杯を渡そうとしていなかった道満が、聖杯を渡すと言っている。
それは、なんだか。
「祠には厳重に結界をかけております。誰にも破られて等おりませぬ。……これを破れるとしたら儂のほかには晴明殿くらいですので」
「まって」
立香は震える唇で問いかける。
だって、そんなの。
まるで、何もかも諦めて。未来に希望を託しているようだ。
「まってなんで」
「使わないのか、と?」
道満は口の片端をつりあげる。
「はっ——拙僧が斯様なものを持たぬと勝てぬ、とでも?」
アルターエゴの道満もよくやる、不遜な笑みのように。
でも、違うのだ。
そんなギラギラと光を放った瞳ではなくて。
凪いだ水面のような静けさだ。
立香は泣き笑いのような顔で眉を下げる。
「……やっぱり道満さんは善い人だね」
「……ご冗談を」
道満は口だけで笑う。
立香は目を伏せ――かけて、はっとする。
「でもその……道満さんがついてきてくれないと、結界破れないんじゃ……」
立香一人では結界をどうすることもできない。
かといって解いておいてもらうのも、それはそれで少し不安がある。
もし取りに行く間によからぬ者の手に渡ってしまえば、また別な問題が発生してしまう。
しかし、道満はあっけらかんと言った。
「おりますでしょう」
「え?」
「儂と同じ術式を操る者が」
立香はぱちりとまばたきをして。はっとする。
「……え」
ぎゅっと両手を握りしめる。
「道満、いるの」
「はは、気づいておらなんだとは!——いえ、まあ。貴女では気づかぬのも無理もありませぬが。我が邸の結界はそれなりですので」
立香は唖然と口を開ける。
口惜しいですが京を覆う結界はやはり儂には荷が重かったようで、と言いながら苦い笑みを浮かべるが、立香の頭には入ってこない。
(え、なんで、)
「なんで道満来なかっ……いや、絶対面白そうだからって言うに決まってるな……」
『ええ、まあ。右往左往しているマスタァを見ているのも愉快でしたので』
にっこりとそんなことを言う姿が想像できてしまう。
ちゃんと助けてくれたらもっと早く解決したかもしれないのに、と頬を膨らませる立香を見て楽しむまでがセットだ。
でも。
「……本当に貴女が何故あやつに目をかけられているのか、わかりませぬなァ……」
呆れたように首をすくめる道満に、ふっと口元を緩める。
早く助け出されていたら、こうしてこの道満と言の葉を交わすことはなかった。
それに、解決までの道のりが、かえって遠のいていただろう。お互いに傷つく終わり方になっていたかもしれない。
無論、道満にそれらを避けようといった意図は一切ないだろう。
つまり、結果オーライ、というやつなのだ。
でも、そんなところがかみ合うのも相性がいい、というやつだと立香は思う。
「……なんだかんだいったけどね」
愛おしい姿を想って、目を細める。
「好きになるのに理由なんてないんだよ」
道満に向ってにっこりと微笑む。
その顔はとても誇らしげだ。
道満はやれやれと、再び肩をすくめた。
「……貴女も相当莫迦なようで」
立香も首をすくめてくすくすと笑う。
「あはは……似た者同士かもね」
顔を見合わせると、二人はくすくすと笑っていた。
咳払いをした道満が、しゅるりと衣擦れを響かせ立ち上がる。
「拙僧はもう禊に入ります」
ついと涼し気な顔で立香を見下ろす。
迷いのない、決意を燈した瞳だった。
「貴女と言の葉を交わすのはこれで最後でしょう」
立香はうなずくと、複雑な顔で眉を下げる。
「そっか……」
短い間だったが、濃い数日間だった。
別れは確実に訪れるとわかってはいるが、少し寂しくなる。
それに。
この人の行き先が心配でならない。
「道満さん」
立香も立ち上がり、精一杯背伸びをする。
「生きて、ね」
手を伸ばし、白い方の髪をなでる
道満は少し目を見張ったが、されるがままになっている。
目を細め、薄い唇でつぶやく。
「……はて。人は皆いずれ死する運命なれば」
立香はぐっと眉を寄せる。
「道満さん」
咎めるように呼ぶ。
しかし、道満は立香の手をそっと放すと、半歩後ろに下がる。
「……朝餉は用意させます」
立香の瞳がゆらりと揺れる。
「短い間ですが、貴女と過ごせて良かった。この記憶は持っていきたいものです」
そう言って、道満は優しく微笑む。
立香の頬をあたたかなものが静かに濡らす。
「……私も」
道満さんと過ごせて良かったよ、と立香は涙目で微笑んだ。
まるで心と裏腹のように、とても冷たい手だった。
五.
翌朝、立香は用意されていた朝餉をいただくと、邸の外へ足を踏み出す。
あんなに出られなかった邸から、あっさりと出ることができた。
そのことにほっとするべきなのはわかっているが、一抹の寂しさと心配が旨をよぎる。
立香はくるりと邸へ向き直ると、丁寧にお辞儀をした。
(ありがとう、道満さん)
改めて邸を背にすると、道満からもらった式神を取り出す。
見覚えのあるそれは、道満が戦闘中に使っている鳥型の式神だった。
教わった通り、ふぅっと息をかけると鳥は立体的になって飛びあがり、立香の向かうべき方向を指し示すように嘴を向けた。
(あっちが東なのかな)
立香はその方向に向かって歩き出す。
「おや」
背後から声が聞こえる。
「おさぼりマスター殿がようやく到着されたようで」
立香ははっと振り返った。
見慣れた長身。
先程まで共に過ごしていた人と同じで違う人。
立香にとっては、この人こそが慣れ親しんだ存在。
想いを向ける、人。
頬が、口元が緩む。胸が高鳴る。そっと手を伸ばす。
「道満」
大きな手を取り、確かめるようにほおずりをする。
間違いない、道満だ。カルデアの道満だ。
「ええ、あのような弱き者ではない貴女の道満にございます」
冷たい響きに、立香は驚いて道満を見上げる。
立香の感慨とは対照的に、道満は冷えた瞳で立香を見下ろしていた。
そんなことない、と言おうとして口をつぐむ。
アルターエゴはオリジナルを嫌うという話がある。
道満もそうなのかもしれない、とは思っていた。
なにせリンボ時代に、生きている頃の自分を壊してあのような特異点を作り上げたくらいだ。言っても仕方ないことだろう。
立香はむぅっと少し口を尖らせた。
「……もう。道満だって探しにきてくれなかったじゃん」
「いえ、探しましたとも。しかし随分とあの者と懇ろになられていたご様子でしたので」
ああ、これはだいぶへそを曲げている。
気を遣ったのか、オリジナルと顔を合わせない方がいいと判断したのか定かではないが、短気なこの道満がただただ待つのは中々苦痛だっただろう。
オリジナルの道満にああは言ったが、褒められたがりの道満だ。遠慮なく正面からぶち破ってでも助けにきて、褒めろとせがんでいてもおかしくなかった。
立香は苦笑して、手を伸ばす。頭は届かないから、肩にかかる豊かな黒髪を撫でる。
触れさせてくれる。いや、触れてほしいと思ってくれているらしいことに、目頭が少し熱くなる。
「……ごめん」
道満はにこりと微笑む。
「いえいえ。従僕の身で主人に意見する、等……とんでもございませぬので」
「本当に」
ぎゅっと抱きしめると、道満の手がそっと確かめるように背中に回ってきた。
「ご無事で何よりで」
「うん。ありがと」
二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。
道満と共に式神のあとを追うと、やがて街外れの小さな祠の前に辿り着いた。
「ここ、か」
「ええ」
役目を終えた式神は、その場をくるりと一回りするとふっと消えていった。
中へ進もうとすると、入れない。結界の影響だろう。
道満がすっと腕を上げて構える。
「ではマスタァ?これは破り去ってよろしいので?」
「まって」
立香はその袖をぎゅっと掴む。
「道満……あの道満さんを救えない?」
「はい?」
何を馬鹿なことを言っているんだこいつは、という言を隠さない顔で道満は見下ろしてくる。
しかし、立香も簡単には引き下がれない。
だって。
「あのまま術を行使したら、道満さんは……「それが?」
立香は息をのむ。
道満の瞳はとても冷ややかだった。
「あやつが望んだことでしょう?」
「それは……そうだけど……でも」
口の端を上げて道満は続ける。
「かわいそうだから、と瀕死の犬猫でも扱うようにお優しいマスタァは救おうとされるので?」
「……!」
立香ははっと目を見張る。
「ンン……流石救世主、カルデアのマスター殿ですなァ!」
「ちがう、私はそういうつもりじゃ……」
慌てて首を振る。が、立香ももうわかっている。
立香のやろうとしたことは、冷静に考えるとそういうことだ。
「大体救うとは如何に?拙僧が助太刀して一緒に京を転覆いたします?それとも、あやつをぶん殴って術を失敗させます?」
道満は両手を大仰に広げて嗤う。
「京を壊せば天晴、我らは新たな特異点を作って世界を壊す側になりましょうなァ!術を失敗させれば、あやつは反動をくらい、ただただ横槍を食らった無念のまま死んでいきましょうなァ……ンン、これは中々愉快かもしれませぬぞ」
「あ……」
立香はさらに目を見開く。
「ああまあ、京を壊そうとすれば晴明が飛んできて未然に防ぎましょうなァ。拙僧もあやつと戦ってマスタァをお守りする余裕はございませぬので、マスタァが殺されてあっさり我らは終わるでしょうねェ」
立香は顔を伏せ、無言で首を振る。
道満を見上げると、眉を下げて言った。
「ごめん、私……何も見えてなかった」
「ンン……今更お気づきで?」
道満は腕を下げると、立香の頬を指でそっと撫でる。
「マスターがあやつのことをこれ以上考える必要はありませぬ。さっさと聖杯を回収して帰りますぞ」
立香の目からはらはらと涙が落ちる。
「だって……道満さんだって道満だもん……こんなのって……「おやめなされ」
冷たい笑みを口に刷いて道満は言う。
「同情等、あやつも嫌いですぞ」
「……っ」
立香は唇をかむ。
ああ、彼もやはり道満なのだ。
「……うん」
涙を拭う。が、あとからあとからあふれてくる。
これはきっと同情ではなくて。
好きな人と同じく魂を持つ人に、幸せになってほしい。
ただ、そんな願いがある。
その立香の勝手な願いが、叶わない予感があるからだ。
「まったく、しょうがないマスターですなァ」
言葉とは裏腹に、優しい瞳で道満は苦笑した。
夜明け前。まだ日が空にない頃。
道長の犬によって術が露見した道満は、時が満ちるのを待たずに術を起動させた。
しかし、先を読んでいた晴明によって阻止される。
都のはずれの庵で。
呪詛返しをもろに食らった道満は、自らの吐き出した紅い海に包まれて、幽けき呼吸にのどを引きつらせていた。
「顕光殿も床に伏したそうだよ」
コツ、と狩衣に身を包んだ人影が浅沓を鳴らして入ってくる。
ひゅう、と喉を鳴らして霞みかけた瞳が頭上を見上げた。
「莫迦者」
ギジリ、床が鳴る。浅沓が止まった。
「何故、こんなことをした」
「そう……です……ねェ」
ひゅっ、と喉が鳴る。白い唇が震える。
「拙僧……悪人、に……は……なりき……れ、なか……った、よ……うで……」
「は——」
言葉が詰まった晴明に、ふっと微笑むと。
道満はゆっくりと目を閉じた。
遠くの空は少し白み始めていたが、庵の中へ光が届くことはなかった。
「さて、満足しましたかな、マスタァ?」
道満は乱暴に水を揺らし、遠見の術を終わらせる。
二人は祠の近くの池で、事の顛末を見ていた。
「う……っく」
立香は目を真っ赤にしてしゃくりあげていた。
道満はやれやれと肩をすくめる。
「まったく……さっさと帰還することを進言した拙僧を、見届けたいと押し切ったのはマスターですぞ?」
「……っ……ご、め……」
立香は袖でごしごしと目元を拭う.
それでも涙が止まらない様子に、ふっと微笑むと道満は左の袖でその涙を拭う。
「ほれ、さっさと聖杯を回収して帰りますぞ。邪魔だから早う帰れと晴明が言いに来かねませぬ」
「……うん、おねが……い……」
立香はしゃくりあげながら頷いた。
(でも、せめて)
立香は祈る。
どの神とかはわからない。どの神でもいい。
神様、道満さんを助けてください。
神秘の濃いこの時代なら、聞き届けられるかもしれない。
日本は八百万の神のおわす国なのだから。
一柱くらい、きっと。
道満が印を組み、何事かを唱える。
ふっとその場所を覆っていたものが消えるのが、立香にもわかった。
祠へと進み、聖杯を取る。
「これで任務完了、だね」
「ええ」
顔を見合わせて微笑む。
長いようであっという間だった。
微小特異点とはもっと軽いものも多くあるから、そういう意味では少し長い方ではあったのかもしれない。
道満は明るくなり始めた空を少し仰ぐと、目を細める。
かつて生きた時代の景色への感慨などはない。
ただ、この横にいる少女とこの景色を見るのは少し、不思議な心地だった。
立香を見下ろし、道満は口を開きかける。
「さて、カルデアに連絡を――「……道満も、ああだったんでしょ……」
「ン……」
道満は虚を突かれたように少し目を見張る。
立香は少し下を向いたままだ。
「はて、どうでしたでしょうなァ」
はぐらかすと、立香はようやく道満へ向き直る。じっと道満を見つめる。
無言の圧力に、道満は首をすくめる。
「ここはあくまで特異点ですぞ、マスタァ」
立香の視線を受け止める。しばらく視線を交わすと、立香は静かに頷いた。
「……そっか」
昇り始めた日の光が、立香の顔を照らす。
その顔はどこか悟ったような、吹っ切れたような顔をしていた。
ふっと微笑むと、立香は道満の袖を掴む。
「あ、どこか川あるかな。顔、洗ってから帰りたい」
道満はにやりと笑った。
「ンン……別にこのままでもいいのでは?」
そういって身を屈めると、ぺろっと立香の目元を舐める。
立香はもう、と言いながらどうまんの横髪を引っ張った。
「だーめ。マシュに心配かけちゃう」
むっと唇を尖らせる様子に、さらにニヤニヤと笑う。
「では鴨川にぶちこんでさしあげますぞ」
立香はあんぐりと口を開けた。
「そこも見てたの」
「ええ、拙僧、愛するマイマスタァのことなら全て見ておりましたぞ♡」
「もぉ…………」
なんで助けにこなったの、という言葉はない。
助けにきてほしかった気持ちは確かにあるが、それ以上にこれで良かったと思っているから。
むしろ、道満とああして話せていなかったらきっと後悔したのだから。
立香は通信機を起動する。
すぐに繋がった通信は、無事を確認する声から始まった。
ふわり、と優しい気配と共に、意識が浮上する。身体が随分と軽くなっている。道満は目を開けた。
少し視界が明るくなっている。日が昇ってきたようだ。
目の前には、少し驚いたような宿敵の姿があった。
「……晴明殿?」
よもや情けでもかけられたのか、と道満は眉を寄せる。
その表情に気づいたのか否か。晴明はふっと微笑んだ。
「いやはや。確かに、細い可能性ではあったが」
つい、と扇を扇ぐ。と、はらはらと花が舞い落ちる。
道満は怪訝そうに眉間の皺を深める。
「……良き縁を結んだようですね」
晴明はぱちりと扇を閉じる。その視線は花に向けられている。
道満も追うように花を見て、瞠目した。
差し込んだ光に照らされて浮かび上がる、その花は。
唇だけで、その名を紡ぐ。
艶やかな菊の花は、それを聞きとげるとふわりと消えていった。