黄昏時の蜃気楼「…それでは、以上で授業を終わります。ここまでの板書は終わらせておくように。」
ぱたん、と纏めたノートを閉じると同時に終業の鐘が鳴る。
誰かの号令で挨拶が終われば、途端に騒がしくなる箱の中で静かに本を開く。
私はどうにもこの騒がしい…学生らしいノリ、というようなものが苦手だった。
できることなら静かに休み時間は過ごしたいし、お昼はゆっくり自分のペースで食べたい。放課後の時間は好きに使いたいから、部活動にも所属していない。
だからといって学校が嫌いな訳では無い。私にとっての大切な時間は、この学校の中でもある。
「今日も委員会?この後一緒に新しく出来た喫茶店行こって話、いつものメンバーでしてたんだけど…」
「うん、ごめんね。次機会があったら、参加させて欲しいな」
わかった!と微笑む彼女は私の数少ない友人。私のことを理解して付き合ってくれる、優しい人。
そんな友人を見送ってから鞄に荷物を詰めて、足早に教室を出た。
―
大きな鞄を提げた運動部らしき人達とすれ違いながら、階段を上る。
登っていくほど、人の声は聞こえなくなって人気も少なくなって…たどり着いたのは、図書室。
「失礼します、委員会の仕事をしに来ました。」
ここは校舎の最上階に位置しているから、図書室に用がある生徒以外が訪れることはほぼない。
「今日も来てくれてありがとう。貴方のおかげで何とか運営ができてるから助かるわ。…他の人にもきちんと来るように言っているんだけど、困ったものよね」
図書委員担当の先生は名簿を眺めてため息をついた。
私の所属する図書委員会はそれぞれのクラスから2人ほど選出されている。この学校はそこそこ大きいからクラスも多いので10人以上は図書委員がいるはず…なのだけど。
部活だのなんだの理由をつけて、ほとんどの生徒がまともに委員会の仕事をしようとしないのが現状だった。
「いつも貴方にばかり任せてしまってごめんなさいね。悪いけれど…今日もお願いね。後であれ、準備しておくから。」
「気にしないでください。こちらこそ、いつもありがとうございます」
ぺこり、とお辞儀をすると先生は立ち上がり軽く会釈を返し、出ていった。
「…始めるか」
鞄をいつもの位置に置いて、決まった窓を開ける。
今日はほんの少しだけ風が吹いているようで、まとめられたカーテンが隙間から入る風で穏やかに揺れている。
運動部の声が遠く微かに聞こえる程度のこの部屋は、学校の中で私が安心できる数少ない場所。
少し古びた本の匂いに包まれて、大きな窓から入る落ちかけた陽の光を浴びながら…静かに仕事をする。
この時間が私にとっては大切な癒しの時間であった。
「これは、あの棚。…これは……?」
返却された本を元の場所に戻していると、ふと手に取った本の表紙に目が止まる。
ぱらぱらと中を見てみると、それは刀剣の歴史に関する本だった。
「……すごいなぁ」
私は幼い頃から、歴史が好きだった。はるか昔の出来事に思いを馳せ、受け継がれ今も残る宝物や絵、道具…本に書かれたその他様々な物からその時代を想像する。
膨大な歴史という情報の海を泳いでいる時間はとても心地よかった。
「……ぶぜん、ごう」
その本の中の1ページに載っていた一振の刀剣の名前に、文字をなぞる指がを止まる。
私はこの名前を初めて見たはずなのだけど、なんだか昔から知っているような…そんな不思議な感覚に陥った。
「この本ってどこにあるか知ってっか?」
「!?…あ、えっとすみません、少しお待ちください」
急に人の声が聞こえて意識が現実に戻り、慌てて本を棚に戻す。
この図書室に人が来ること自体珍しく、さらに声をかけられることなんて初めての経験で、思わず挙動不審になってしまった。恥ずかしい。
「悪ぃ、驚かせちまったか?」
「いえ、あの、すみません。本に気を取られてて…」
すまねーな、と申し訳なさそうに謝る彼は私が戻した本を見て「刀に興味があんのか?」と尋ねた。
「…私、昔から歴史とかが好きで…刀も、たくさんの歴史があるので、好き、です」
「へー、いいじゃん。」
そういう男性は優しい暖かな眼差しを私に向けている。
改めて相手を見ると、なんだか不思議な香りを纏った物凄く美人な方で…思わず息を飲んだ。
「…あ、えっと、本、探されてたんですよね。」
そーだったそーだった、と笑う彼から受けとった紙を見ると、それは私が作成したおすすめの本を紹介した紙だった。
「…ぁ、これ、読んでくださって…ありがとうございます。私が作ったものなので、嬉しいです」
「お、そーなのか!これ読んだら面白そうだなって思ってさ、気になって借りに来たって訳。普段あんま本とか読まねーけど…あんたの言葉選びが上手かったんだな。」
どくん、と鼓動が聞こえた。
今まで文章を褒められたことなんてなかったから純粋に嬉しかったのもあるけど、多分それよりももっと他の理由がある。
沈みかけた夕日に照らされた彼は、美しかった。
「あ、ありがとう…ございます」
「おう!これからも楽しみにしてるぜ。あぁ、名前を名乗ってなかったな!俺は豊前。よろしくな」
「よ、よろしくお願いします。私は」
名乗ろうとした刹那、突風が吹きカーテンに視界が遮られる。
「わぷっ…?!…………あれ…?」
風が収まりカーテンが視界から消えると同時に豊前さんの姿も消えており、まるで身代わりのように豊前さんの立っていた場所に桜の花びらが落ちていた。
「………こんなところに、桜…?」
桜の咲く季節にはまだ早いのに不思議なこともあるのだなぁ、もしかしたら、どこかではもう桜が咲いていて豊前さんがくっつけてきたのかも。そう考えると、少し豊前さんが可愛らしく思えて頬が緩む。
「…また会えるかな」
拾い上げた桜の花弁を生徒手帳の間に挟んで、仕事を再開した。
「今日もありがとう。さぁ、こちらにいらっしゃい。」
「お邪魔します。」
図書委員を担当してくださっている先生は茶道部の顧問もされていて、こうして仕事終わりに先生の手が空いている時はお茶を振舞ってくれる。
「……今日も美味しいです」
「ふふ、ありがとう。」
なかなか抹茶を飲む機会なんてないし、作法もあまり詳しくは分からないけど、いつも先生は楽しそうに私にお茶を出す。
お茶を立てている姿は美しく、普段のふわふわとした雰囲気とはまた違っていて…私はそんな先生の姿が好きだった。
「そういえば、今日は利用者がいましたね」
普通に考えれば図書室なのだから利用者がいてもおかしくないのだが、本当に滅多にこの図書室に人が訪れることはなく…もうかれこれ1年近くここで仕事をしているが、両手で足りるほどしか利用者は見ていない。
「……え、そうだったの?自分の席にはいたけど…気づかなかったわ。」
お茶の道具を片付けながら先生は驚いた顔をしている。
先生の机は図書室に繋がる廊下に面している場所にあるので、図書室に行く生徒は皆先生の机から見えるはず…
「…そう、ですか。」
気配がなかったのだろうか。確かに現れた時も声をかけられなければ気づけなかったかもしれない。
疑問をお茶で喉の奥に流し込んで、ご馳走様でした。と先生に伝えると先生は嬉しそうにお粗末さまでした。と言って笑った。
「ね、この本借りたいんだけど、図書室のどこにあるかわかる?!」
先日私を遊びに誘ってくれた友人が、珍しく私に本の相談をしに来た。
「どれ?…うん、分かるよ。すぐ荷物まとめるから、一緒に行こっか。」
「やった!!じゃあついでに、それが終わったらカラオケ行かない?!」
「いいよ、久しぶりだね。」
「やった〜!!ありがとー!!」
嬉しそうに笑う彼女に私も嬉しくなる。
私は1人ならそういうところには行かないから、友人が私を色々なところに連れて行ってくれるのにはとても感謝している。
「久しぶりに図書室行くなぁ」
「あはは、久しぶりならいいほうだと思うよ。多分1回も行ったことない人もいるんじゃないのかな」
「そんなこと……あるかもね……あそこってただでさえ行くのに階段を5階まで登らなきゃ行けないし、あのフロア図書室と先生の部屋以外ないもんね…」
友人はよく通ってるよ、なんて言ってくれるけど、私は辛いと思ったことは1度もない。あそこが私にとってとても落ち着く場所だからだろうか。
「…あ、あったよ。これで合ってる? 」
「うん!これこれ!ありがとう助かった!そろそろ電子で検索できるようにして欲しいよ…」
確かにそういった整備をすれば、もっと図書室を利用する生徒も増えるだろう。学校の経費上難しいだろうけど
「まぁまぁ、また何かあったら私が探すからいつでも言って?」
「ほんと頼りになる図書委員さんだよ〜!先生が一押しする理由も頷けるわ」
うんうんと首を振る友人の向こうに、前髪が長い男子生徒と、綺麗に切りそろえられた髪の男子生徒がいるのが見えた。また珍しい場面に遭遇したものだ。
「…そろそろ行こっか、早くつけばいっぱい歌えるし」
「うん!いこいこ〜!」
友人に手を引かれ図書室を出た瞬間、ふわりと不思議な香りがした。
「っあー!!楽しかった!!相変わらず歌上手いね!」
「そ、そんな事ないよ…でも、私も楽しかった。連れてきてくれて、ありがとう」
「んもぉー!!本当に可愛いヤツめ!!大好き!!」
私を抱きしめ楽しそうな友人に言葉を返そうとした瞬間、背後に気配を感じた
「ねぇ、君たち高校生でしょ?いーねぇいーねぇ!ね、俺たちと遊ぼーよ」
気づけば見るからに怪しい風貌をした男3人が私たちを囲んでいた。
「な…なんなんですか貴方達」
「そんなことどーだっていいだろ?それよりほら、こっち行こうぜ」
男の背後の道の先は、ホテル街だった。
誰がどう見ても怪しい。早く逃げなければ
「ね、早く逃げ」
「キャーッ!!!」
振り返ると友人が男のひとりに腕を捕まれ、抱き抱えられそうになっていた。
「離して!!!嫌!!!」
「うるせぇなァ!!!ちょっとは静かにしろっての!!」
「その子を離して!!!」
「あぁ?!うるせーなお前も一緒に」
男の1人の手が私に伸びる。やだ、怖い…!
「主に触れるな」
ふわりと不思議な香りがしたと思った瞬間、どこからともなく男性が現れた。
「あ?!なんだテメェ邪魔するっ………」
たった瞬きひとつの時間で、怪しい男は地面に倒れ伏した。何が起こったのか全く分からない。
「その子も返してもらおうか」
男性は低くドスの効いた声でそう言って、残り2人の男に詰寄る。
「わ、わかった……分かったから、落ち着けって!な??!!」
先程の光景を見て恐れを生したのか、残った男たちは大人しく私の友人を解放……した振りをして、2人で左右から男性に殴りかかった。
「!!!」
思わず瞑ってしまった目を恐る恐る開くと、仰向けになり倒れている怪しい男の仲間たち。友人は涙目で私の腕を握っていた。
「うっ…うぅ…っご、ごめ…!!」
「大丈夫、大丈夫だよ。…あ、あの!!」
私の声に私たちを助けてくれた男性は振り返りこちらへ駆け寄ってきた
「ん、でーじょーぶか?」
チカチカと点滅する街灯で照らされた彼はやはり、あの図書室で出会った豊前さんと同じ顔だった。見慣れない装束を身にまとっていて、本人かどうかは分からないけれど。
「はい!助けて下さって、ありがとうございました!!」
友人と2人で頭を下げると、彼はあんたらが無事で何よりだと言って笑った。
「さ、早いとこ帰った方がいいぜ。現代と言えど、夜は危ねーからな。」
「はい、そうします。本当にありがとうございました。…行こ?」
まだ上手く歩けそうにない友人に肩を貸しながら、駅の方へ向かって歩き始めた。
「あ、すみませんそういえば…」
名前を、聞きたかったんです。
そう伝えようと振り返ると、そこに人の気配はなかった。代わりとばかりにふわりとひとひらの花弁が宙を舞い、消えていった。