囚われの鳥は自由な空の夢を飛ぶ「「かんぱーい!」」
今日は金曜日。
長かった5日間の労働を乗り越えて、後輩からのお誘いに乗ってオシャレで映えそうな居酒屋さんに来ていた。
「今日はありがとうございます!!先輩とご飯に行けて凄く嬉しいですー!!」
「いやいや、そんな大袈裟な…私こそ、誘ってくれてありがとうね」
後輩はカシスオレンジを、私はメロンソーダを頼んだ。
ここは居酒屋ながらもノンアルコールのドリンクもかなり充実しているらしい。
私の頼んだメロンソーダにはアイスクリームとホイップクリーム、その上にちょこんとさくらんぼが乗っていた。
「んん、美味しい。」
「本当ですか!良かったです〜!ちなみに先輩の飲み物のバニラアイス、有名な所のアイスクリームを使ってるらしいですよ!拘ってますよね〜」
零さないようにゆっくりスプーンで掬って、口に運ぶ。
確かに…アイスクリームが濃厚で美味しい。
「…ふふ、今日は私が奢るから好きなだけ食べていいよ」
「えっ?!私から誘わせてもらったのにいいんですか?!ありがとうございます…!!このお礼は、いつか必ず!!」
いつもなら1人寂しく家に帰って適当に作り置いたご飯を温めて食べていたところだ。楽しい時間をくれた後輩に、少しは先輩らしいことをしたい。
「……そう言えばなんですけど、先輩って一人暮らしされてるんですよね?」
「?…うん、そうだよ。どうかした?」
飲み物を何度か入れ替えた頃、彼女は真面目な顔をしてこう尋ねた。
「そうなんですね…いや、先輩みたいな素敵な人なら…恋人と同棲とか……されているんじゃらいかとぉ…」
思わず飲んでいたオレンジジュースを吹き出しそうになった。
真面目な彼女が真剣な眼差しで言うものだから、何を言われるのかと真正面で構えていたのに…思わぬ方向からボールが飛んできた感じ。
「……今のところ、同棲以前にご縁がありませんね」
「えぇー!!私が男性らったら先輩みたいな素敵な優しい美人さんほっとかないですけろ〜!!」
お酒がかなり回っているのか、すごくグイグイ来る後輩を宥めながらお水のグラスに手を伸ばす。落とさないようにしっかり持たせて飲むように促すと、「ありがとぉございましゅ…」といいながらちびちびと水を飲み始めて、比較的大人しくなった。
私が男性なら、後輩みたいな可愛くて楽しくお酒が飲める子はとても素敵だと思う…けど、今それを口にすべきではないと判断して口を噤んだ。ちらりと時計を見ると、間もなく10時になろうとしていた。
「そろそろ帰ろうか。ちゃんと横になって休んで、疲れ取った方がいいから…ね?」
「んん…そうれす…ね…そうします…」
ハンガーにかけられた上着を着て、先にお会計に行ってるね。とだけ伝えると後輩は「わかりましたぁ〜!」と元気に返事をした。
「今日は本当にありがとうございました…!ご馳走様です!」
「いいんだよ。私こそありがとう!楽しかったよ。…ちなみに、ちゃんと帰れる?」
先程までよりかはましになったが、結構顔が赤くなっていてちょっと1人で帰らせるのは心配だった。
「あぁ、大丈夫です!兄が拾ってくれるらしいので…!」
「そうなんだ、それなら安心だね。」
「はい!何から何までありがとうございました!また月曜日からよろしくお願いします!お疲れ様ですー!」
「うん、じゃあ気をつけてね。お疲れ様」
「……ねぇ、ねぇそこの赤いカバンの君!」
「……私ですか?」
足取り軽く駅に向かっていく後輩を送り届けて、家に向かって歩いていると男性から声をかけられた。
お酒は飲まなかったけど、仕事の疲れが影響しているのか反応がかなり遅れてしまった。なんなら自分じゃないかとも思ったけど、見まわす限り赤い鞄を持った人は私しかいなかった。
「うん、そう!君。覚えてる?僕のこと」
「…………光忠?」
運命の神とやらは、何処までも気紛れらしい。
「…………へぇ、凄いね。昔からすごい才能持ってる人だなっては……思ってたけど。」
受け取った名刺を眺めながら言うと、彼は照れくさそうに笑った。
光忠は所謂”幼馴染”というやつだ。
容姿端麗成績優秀、おまけに老若男女問わず誰にだって優しい…まさに理想の男性という感じ。この若さで今はリーダー職についているらしい。
一方私は早い段階から就活に励んだものの、第一志望の会社には就職できなかった。それでも仕事につかないと生活がままならないため、必死に就職活動をしてなんとか内定を貰えた今の職場は人間関係も良好だし、1人で暮らしていけるだけの給料も貰えるし、ある程度自由に出来るだけの余裕はある。だから私は幸せ。恵まれている。
でも順風満帆な彼の話を聞いていると、そんな私の心に影が落ち始めた。
「そんなことはないよ!君の方こそ、昔から美人さんだったけど更に綺麗になったね。」
ちらりと目線をやると、彼は誰もが見惚れそうな美しい黄金の瞳を細め、私を見つめている。
その屈託の無い瞳に醜い心情を悟られまいと、貰った名刺をそそくさと仕舞って飲みかけの飲み物に目線を戻した。
「…ありがとう。貴方もすごく…かっこいいと思う。素敵な奥さんがいても納得するわ」
はっきり言って、人望も財力も全て持っている幼馴染が羨ましくて仕方なかった。
それは彼の努力によって支えられていることは理解している。しかし才能を生まれ持った人間が努力したなら、凡人がいくら努力して手を伸ばしても、同じ目線に立つことは難しいというのは…嫌という程経験して学んだことだ。
「!……ありがとう、でも僕は今ね…恋人はいないんだ。」
「……そう。」
半分くらい溶けて形の変わった氷をストローでくるりと回すと、カランと音を立てて氷が動く。ふよふよと浮いていたチェリーが動いた氷に挟まれて身動きが取れず、一緒に回っている。
別にあんたの自慢話なんかどうでもいい。今「は」いないなら困ってないんでしょう?
一つ気に食わないところが見えてしまうと全てが憎らしく思えてきて、一刻も早くこの男と距離を取りたくなった。
氷に挟まったチェリーをスプーンで掬って口に放り込んで、よく噛まずに飲み込んだ。
口を拭いている間も何故か彼の視線は私から動かない。そんなに見つめて何が楽しいのか
「ごめんなさい、そろそろ行かないと」
「まって、最後に連絡先だけ。いいかな?」
「……わかった」
正直言えば、ここでもうこの縁は終わりにしたかった。
でも幼い頃からこの男は変なところが頑固なので、多分粘りに粘られてどうしたって連絡先を交換させられるのだ。
それなら早いうちから諦めた方が賢明。無駄に体力を消費したくない。
どうせやり取りなんてほとんどしないだろうし、返さなければいいだけの話だ。
…と思っていたのだけど、連絡先を交換したその夜から彼からの連絡は始まった。
最初こそ既読無視をしていたものの、めげることなく話しかけてくる相手にさすがに私の良心が痛んでしまい、気づけば食事の予定が取り付けられていた。
どこで今の私の好みを知ったのか、誘われた食事の店はお洒落でお酒の弱い私でも楽しめるようなお店だった。
その後もズルズルと関係は続き、結局ほとんどの誘いを受けている。おまけに2人で食事に行く時、彼はいつも私に財布を出させなかった。
最初こそ申し訳なかったけど、私より稼いでるし。と1人納得して、彼の好意に甘えた。
「今日もありがとう」
「いいんだ。僕こそ、貴重な時間をありがとう。」
いつもならここで駅に向かう私を彼が見届けてさようなら、だったのに
「でもごめん、今日はもう少し時間を頂戴?」
珍しく無理やり手を引いて自分の車の助手席に私を押し込むと、彼は無言で車を走らせた。
「僕は君が好きだよ」
それからどのくらい時間が経ったのかは分からないけれど、高級マンションの駐車場に車を停めた彼はおもむろにそう言った。
「……そう」
「君の気持ちを聞かせて欲しい」
真っ直ぐと私を見つめるその瞳は、あまりに眩しすぎて
「…………あなたのことは、苦手」
しばらくの沈黙。気まずくて俯いていたけど、様子を伺うために視線をあげれば…今まで見た事のないほどに歪んだ彼の顔。
「どう……して?」
絞り出された声は震えていたけど、その理由は私には分からなかった。
「……私が欲しかったものをたくさん持っているあなたが、羨ましい。それだけよ」
自分で言っていても子供じみた理由で本当に嫌になる。
でも自分より優れた人間に嫉妬してしまうのは人として普通のことだと…思う。
「……くっ……ふふ、…ッ…あははははははははははは!!!!!!!」
突然狂ったように大声を上げて嗤う光忠。
彼との付き合いも短くは無い。けれどいつもビシッと決めている彼のそんな姿を見たのは、これが初めてだった。
「なぁんだ、そんなことか。…これは、ぜーんぶ僕が君を手に入れるために得たものなんだよ」
彼は私の顎に手を添えて視線を無理やり合わせた。
いつもキラキラと輝いていた黄金はその輝きを失い、酷く澱んでいる。
「……っは?」
ごちゃごちゃになった脳みそをフル回転させても、絞り出た言葉はその程度だった。それほどに、今目の前にいる男は私の知る彼ではないのだ。
「君は自分では気づいてなかったみたいだけどね…君っていつも他の男から人気だったんだよ」
初耳である。自分がモテていると感じたことなんて、生まれてこの方1度もなかった。
「………」
「ふふ、知らなかったって顔だね?…それもそうだ。だって君の周りにはずっと異性が居なかったもんね?…僕以外のさ…」
くすくすと楽しそうに笑う彼の腹の中があまりに分からなくて、不安と恐怖だけが募っていく。
「君は昔から綺麗で正義感が強かったし、優しかった。だから高嶺の花だと思ってる男が多かったのもあるけどね。…人気だったのに、周りに男はいなかった…どうしてか分かる?」
彼の口から綺麗と言われた瞬間、心臓がチクリと痛んだ。私はそんな綺麗な人間では無い。努力して成功を掴んだ幼馴染を、純粋に祝福することすら出来ない…そんな人間にかける言葉じゃない。
じくじくと心に刺さった棘が己を蝕むのを感じながら言葉を探していると、急に腕を引かれて彼の腕に閉じ込められた。
「なっ…?!」
「ふふ、簡単な事さ。…僕が君を守っていたから、だよ。」
恐ろしく優しい手つきで頭を撫でられて、ゾワゾワとした形容しがたい感覚が背中を伝う。
「大学まではどうにか一緒にいられたから、僕自身で見守ることが出来たけど…さすがに社会人になってからはそうもいかなかったから。…本当はあまり気が進まなかったけど、人を頼ったんだよね。」
「……ひと……?」
この1時間くらいの間の情報量で既に脳がパンクしている私には、もう何が何だか分からなかった。
結局この男は何がしたいんだ?どうしてこんなことになっている?
「この先が聞きたいなら、僕に着いて来るって言って?…ずっとここにいるって言うなら、それはそれでいいけど……流石に風邪をひいてしまうよ?春とは言えど夜はまだ冷えるからね」
突然私の体を離した彼は、まっすぐ私を見つめたままそう言った。
選択肢を与えているようで、私に取れる行動なんて限られている…というより、1つしかない。
仮にここにとどまったとしても鍵を締められてしまえば帰ることも出来ないし、彼の言うようにまだ夜は寒い。体調を崩すのは困るし、明日になればそのまま帰らせてもらえる保証もない。
「…ついて、いく」
「うん、じゃあ行こうか。」
それ以外の返答が来ることは全く考えていなかったらしい彼はスムーズに車の鍵を開けて、私の乗る助手席のドアを開けた。
「…さぁ、お手をどうぞ」
状況が状況じゃ無ければ、私じゃない女の子なら、ときめいて心臓が高鳴っていたのかもしれない。
しかし今の私の心拍数の上昇は、間違いなく不安や恐怖、焦りによるものだ。
抵抗しても屈強な彼に叶うはずもない、今は大人しくしておいた方がいいだろう…とほんの少しの冷静な思考回路を働かせて、内心を悟られないよう必死に表情を偽り彼について行った。
「ようこそ、僕の家へ。あぁ、自分の家だと思って寛いでくれて構わないよ。」
光忠は脱いだ靴を綺麗に揃えて、私の荷物を持とうと手を差し出してきた。
「あ…いや…大丈夫……」
いざとなったらすぐにカバンを持って逃げたいので、それは断った。
それは残念、もっと頼ってくれていいのに。と少し眉を下げている彼にほんの少し罪悪感が芽生えたものの、そもそもここに来た理由は脅されたからなのだ。気にしなくてもいい…はず。
「なにか温かいものを入れるよ。紅茶かココアか…珈琲もあるけど、何がいい?」
「……いい。いらない…」
それにもかかわらず、あまりに光忠の態度が普通に招いた客人に対するそれでやはり不気味だった。
こちらの緊張の糸は今にもちぎれんばかりに張り詰めているというのに。
「そう?また何か必要になったら言ってね。」
私が飲み物を断ったためキッチンからでてきた彼は、ダイニングの椅子に掛けられた上着をハンガーにかけてしまいながら笑った。
「……」
私としては一刻も早く先程の続きが聞きたいのに、彼は「少し待っていてね」とだけ伝えてのんびりとした様子で部屋を行ったり来たりしている。
もちろんこの家は彼のものなので家事をするのは当然だが、こちらとしてはそんな悠長にしてられるような状態ではない。
人を頼った、と言っていたので出来ることならその人物を聞き出して、なるべく距離を取れるようにしたい。
「…待たせてごめんね。お風呂の掃除を忘れていて…」
恥ずかしいな、と困ったような顔で彼はテーブルを挟んだ向かい側に腰掛けた。
「…別に気にしなくていいけど…それより…」
「あぁ、うん。そうだね、さっきの続きを話そうか。」
いまさっきまで呑気に部屋を往復していた家主が姿勢を正せば、がらりと空気が変わる。
「君のことを僕に教えてくれてた人はね…1人じゃないんだよ。」
その瞬間、吸い込んだ空気で肺が凍るかと思った。
…ひとりじゃない?
「………は?」
「1人からじゃ必要な情報全ては得られないからね。色んな角度から君を知るには、君を知る多くの人間と繋がる必要があった。」
「な、何言ってるのよ…どういう事なの」
「まずは、君の上司。実は君の会社はね、僕の会社との繋がりがあるんだよ。」
「え……」
そういえば、先日上司がまもなく大きな仕事を頼むから頑張ってくれ、と嬉しそうに言っていた。
まさか、それはこの男の計画のひとつだと言いたいのか。
「この地位を得るまでにはちょっと苦労したけど…お陰で、すんなり事が進んで助かったよ。」
ぺらぺらと楽しそうに今までの事を語り始める男に、体が震え始める。
「は………?あんた、わた、私のためにそこまで……?!馬鹿じゃないの?!?!」
「あっはは、だからさっきも言ったじゃないか。何もかも全部、君のために手に入れたものだって。この地位も、この家も全部………君のためのものなんだから。」
「ひっ……!!」
怖い、この男は、普通じゃない。
「あぁ、それから君の後輩の女の子。あの子からも君のことを知っていたんだよ。」
「…え………?」
突然身近な存在の彼女が話題にあがり、体が硬直する。
彼女も、この男に…?
「正確に言うと、彼女のお兄さんからなんだけど。お兄さんとは大学の友人でね。当時から兄妹仲が良かったから、妹さんの話も沢山聞いていたんだけど…まさか君の後輩になるなんて、意外と世間は狭いよね。」
彼女が直接知り合いだった訳ではなくて少しだけ安心した。けれど、そんな平穏は瞬く間に過ぎ去った。
「先月は職場から二駅行った先のフレンチレストランで食事を共にして、その前はこのちょっとお高めの和食を食べに行ったんだってね。いいよねぇ、僕も君ともっと出かけたいなぁ…」
いくらなんでも、知りすぎている。
本能的に後ずさると、リビングから廊下へ繋がるドアにぶつかる。
反射的にそばに置いておいた自分の鞄を掴み、勢いよくドアを開け廊下に転がり出た。
「…ッ……あ、開かない?!」
鍵と思われるものをガチャガチャとまわしても、ドアは開く素振りを見せない。
だんだん焦りが怒りに変わり、勢いよく振り上げた拳は彼の手により動きを封じられた。
「こぉら。…残念だけどね、このドアの鍵は内側からも鍵がないと開けられないんだよ。」
「ひぃ…ッ?!」
いつの間にか背後に立たれていた。鍵に気を取られすぎて全く気づいていなかった。怖い、怖い怖い怖い!!
そんな私の心情なんて知りもしない彼は優しく私を抱き寄せる。その瞬間、背筋を悪寒が駆け抜けていった。
「僕はね、どんな君も大好きなんだよ。幼い頃のあどけない笑顔を僕に見せてくれた君も、今の僕のことが苦手な君も、全部全部…君の見た目だけじゃないんだ。僕は君の中にある嫉妬も妬みも…全てを愛しているんだ」
「い、いや……出して!!!ここから出してよ!!!!」
こんなこと言ったところで、それなら出してあげるなんて事が進むわけがないのは分かっている。でも、心の底から恐怖に支配された人間が冷静な判断なんてできる訳がなくて。
「………そっか。…ねぇ、僕とゲームをしようか。」
「げえ……む………?」
上手く足に力が入らなくてよろめいたが、たくましい腕が私を支える。そのせいで耳元に彼の口が近づいてしまい、それすらも楽しむように彼は囁いた。
「鍵を見つけられたら、君を家に帰してあげる。見つけられなかったら…君はずぅっと僕と一緒に過ごす。ね?簡単でしょう?」
「………」
そんなの、やるしかない。
やらなきゃここで私という人格が壊れていくのを待つだけ…。それは絶対に嫌だ。
「わかっ………た」
「OK。それなら、制限時間は1時間にしよう。あぁでも、流石にこの家全てを探すのは難しいよね…着いてきて。」
言われるがまま連れていかれたのは先程までいたリビング。
「この中に鍵はある。ヒントは君がくれたあるものがついた鍵。この部屋を1時間探して、その鍵を見つけられたら君の勝ち。それならいいかな?」
「わかった………」
絶望に満ちた心に一筋の光が差し込む。どうかこの光が消えませんようにと祈りながら、呼吸を整える。
「ああ、ちなみにそんなに難しいところには隠してないから頑張ってね。じゃあ…よーい、スタート」
「…っ!!」
まず疑ったのは部屋の入り口にある木でできたチェスト。
引き出しを力任せに引き出すと、異様なまでに綺麗に整頓されている。
彼は初めからこのゲームを計画していたんだ。思いつきなんかではなく。
一つ一つ引き出しを開けていくも、この中に鍵らしきもの
はない。
「ない……なら」
チェストの引き出しはそのままに、次はテレビボードの引き出しを開ける。
その中には、さまざまなジャンルの映画やドラマのDVDなどが整頓されて収められていた。
始まる直前にそんなに難しいところにはないと言っていたことから考えても、こんなところに隠すとは思えない。一つ一つパッケージを開けていてはあっという間に時間切れだ。
「あと40分だよ」
必死に部屋を探し回る私を眺める光忠が告げる。
少しペースを上げなければまずい。
これまたさまざまな本が並べられた本棚、カーテンの裏、椅子のクッションの下などありとあらゆるところを探すも見つからない。ゴミ箱の中も探したけど鍵どころかゴミ一つ入っていなかった。
「…あと1分」
最後に目をつけたのは先ほどまでそばに座っていたローテーブル。
机の下にスペースが見えたので一応収納があるのだろう。
彼が座っていたところに回り込んでテーブルの下を覗き込むと、確かに小さな引き出しがついていた。
私の座っていた方からは見えなかったし、隠すのには適している気がする。ここにあるかもしれない。
はやる気持ちをそのままに開けられた引き出しを覗き込んだのと、光忠が手を叩いたのは同時だった。
「はい、時間だよ。…見つかったかな?」
「……………ない」
にんまりと笑う光忠の瞳には、きっと絶望に染った私の顔が写っているのだろう。
考えられるところは全て探したのに、見つけられなかった。一体どこに彼は鍵を隠していたというのだ。
「まずはお疲れ様。あちこち探し回って疲れたでしょう?ここにお茶を置いておくから良かったら飲んでね」
最後に探したローテーブルにマグカップがひとつ置かれる。もちろん手を伸ばす気になんてなれなくて、私はそこから動けずにいた。
「どこ……どこに……かぎ……?」
次第に潤んでいく視界の中で穏やかに笑う光忠に問う。
「あぁ、答えを教えてなかったね。」
彼はおもむろにシャツの胸ポケットに手を入れた。
「正解は、ここでした。……まず僕を疑うべきだったね?」
そこから出てきたのは、四葉のクローバーの押し花が入ったキーホルダーつきの鍵。
「あ………それ……?」
思い出した、小さい頃光忠を誘って2人で四葉のクローバーを探してだだっ広い野原を駆け回ったこと。
その日、帰る時間ギリギリに一つだけ見つけたものを光忠にあげたこと。
これは、その時の
「うん、あの日君がくれたものだよ。覚えていてくれて嬉しいな。」
呆然とする私を溢れる喜びの衝動のままに抱きしめる彼。
必死に呼吸を試みるも、上手くできない。脳が酸素を求めているのは分かっているのに、上手く酸素を得られない。
ただ一つ、そんな状況でもわかることはある。
今なら、あの手の中から私の希望を奪い取れるかもしれない。
「君がくれたこのお守りのおかげで、僕はどんな時でも頑張れたんだ…これはきっと、また僕と君を引き合わせてくれるって、信じていたから。」
光忠はきっと、油断している。
私はゲームに負けて混乱していると思っている、今この時だけが好機だ。
「……」
ゆっくりと呼吸を整えて、玄関までの道筋をちらりと見やる。
鞄も持って逃げれる場所にある。覚悟を決めるしかない。
「本当に、よかったよ…」
私に触れるためか、光忠が近づいてきた。
今だ、今しかない。
「…ッ!!!」
光忠の右手にある鍵に向かって、精一杯腕を伸ばす。
「…だーめ」
伸ばした手が掴んだのは、キーホルダーだった。
光忠が私の伸ばした手と反対に思いっきり腕を引いた時、キーホルダーと鍵を繋いでいた紐が切れた。
「あ……」
その瞬間、全てを悟った
バレていたんだ、全部
脱力した手からキーホルダーが滑り落ちて、四葉のクローバーを守っていたガラスが割れた。落ちた拍子に、中に入っていた四葉の葉の1枚がちぎれた。
「あぁ……ちぎれちゃった。」
少しの悲しさが混ざった声音で、光忠はぼそりとそう呟いた。
「でも……そっか、ふふふ。今までありがとうね」
光忠は床の上に散らばったクローバーと1枚の葉を拾い上げ、そのまま私を抱きしめた。
「君を手に入れられた、これ以上の幸福はないよ。」
この上ない幸福に満ちている、と言わんばかりの光忠に私はただ絶望することしか出来ない。
ここから先の一生を、この男と共に過ごすことが確定してしまった。
「あぁ、日用品とかは準備してあるんだけど…服があまりないんだよね…。明日、君に似合うものを選んでくるから楽しみにしててね」
さらりと撫でられた髪が服に落ちる音すらも聞こえるほど静かな部屋で、私はこれから生きていく…否、生かされていく。最初から、そういう筋書きを用意していたのだ。この男が、その人生すらをかけて。
「……やっと、僕だけの君になった」
逃がさない、と言わんばかりに光忠は力強く私を抱きしめた。