『再起の狼煙』
ああ、あのまま私の事なんか忘れてくれたら良かったのに。私の事なんか忘れて、そのまま…―。
「…酷い人ですね、君は。こんな遠方までわざわざ足を運んでまで、私を嘲笑いに来たのですか?」
夜は明け、旅は終わった。それでも、一度結ばれた絆は途絶える事なく。旅路を共にした皆と手紙のやり取りをして、機会があれば会って近状の報告やら世間話やらしたりして。
穏やかな日常だった、長く続くモノだと勝手に思っていた。そんな保証は、何処にもなかったのに。
「テメノス・ミストラルの名すら、他人のモノに成り果てた。私には、もう何もない。」
気付いた時には、手遅れだった。それは、随分と前から計画されていたのかもしれない。もしかしたら、教皇イェルクが死んだあの日から。
新しく教皇になった銀髪の男、その教皇がお忍びで旅をする際に使っていたとされた“テメノス・ミストラル”の名。私が築き上げた物全て、彼の物となった。異端審問官として世界を旅したのも彼、イェルク様の養子も彼、ロイと兄弟も彼…。それでも殺さなかったのは、慈悲だとでもいうのか。
名誉やら、権力やら、何も興味なんてなかった。私はただ、イェルク様が眠る地で、イェルク様とロイが愛した風景とそこに住む愛すべき人達を見守るだけで良かったのだ。何時ものように、子供達に紙芝居でも読み聞かせながら。
「私は、私という存在すら守れなかった。…違う、守ろうともしなかった。力無き人達が傷付くのを見たくなかった?私はそんな聖人ではありませんよ、残念ながらね。綺麗事をそれとなく並べて、ただ逃げただけです。」
私を守ろうとしてくれた人達がいた、戦おうとしてくれた人達がいた、異を唱えようとしてくれた人々がいた。
強大な権力に立ち向かおうとしてくれた人々、そして私は一人姿を消す事を選んだ。彼等の想いを、決意を、ただ踏みにじって。
「聖堂機関が、やっと人々の信頼を取り戻したと聞きました。やっと立ち直ったというのに、新たな火種を抱え込む気ですか?…この地で貴方は、誰にも会っていないし話してもいない。それで良いではありませんか、クリック・ウェルズリー聖堂機関長殿。」
迷える子羊だったあの子は、今では聖堂機関のトップに立つ存在だ。溜まった膿を抉り出し、腐った部分を切り落とし、潰すべきとされていた聖堂機関を見事に立て直してみせた。
困っている人々に救いの手を、弱き民を守る剣であり盾であれ。一番上に立つ彼が我先にとそれを実行しているらしい、というのを風の噂で聞いた。実に彼らしいとか、彼に着いて行く人達は大変だとか、思った様な気がする。すぐに、私は消えて正解だったのだという想いに塗り潰された。
私がいなくても、世界は勝手に良い方向に向かっていく。分かりきっていた事ではないか。
「…貴方の話は、それで終わりでしょうか?なら、次は僕の話を聞いてください。」
今まで何も言わなかった彼が、ここに来て初めて口を開いた。僕はただ、一人前だと認めてもらいたかっただけだと。
「道に迷い、信じるモノが揺らいだ時、貴方は僕を導いてくれた。行くべき道を示してくれた。そんな貴方の力になりたい、支える存在になりたい。いつしか僕は、そう思うようになっていました。」
聖堂機関を立て直したのだって、これを成し遂げれば認めて貰えるのでは?と思ったからだと言ったら、呆れますかと彼は笑う。行動理由なんて、結局はそんなモノではありませんかと。
全てを知った彼の友人からは、とりあえず殴らせろと一発殴られたらしい。ソレを絶対に口外するなよという、助言と共に。
「貴方は、並大抵の事では認めてくれません。やるなら、徹底的に。それこそ、もう一度世界を救うぐらいの気持ちで頑張らせていただきました。貴方に、頑張りましたねって言われる日を夢見て。凄いって微笑んでくれる日を夢見て。…けれど、貴方は姿を消した。姿を消す事を選択させてしまった。貴方が選びそうな事なんて、僕が一番分かっていたというのに。」
歪められた真実をそのままにする事を、良しとするとは思えない。けれど多くの犠牲が出ると事前に分かっていて、そのまま進むとも思えない。一旦衝突を回避するには、原因が最悪な形で姿を消すしかない。例えば、身分も地位も何もかも金で売ったとでも噂を流して。
彼が、私の前に跪く。止めて、今の私にその資格はない。
「貴方が窮地に立たされた時に、傍にいれずすみませんでした。貴方を一人にして、すみませんでした。…でも、もう大丈夫です。準備も手筈も、既に整ってまいす。全て、取り戻しましょう。」
私の手を取って、彼は笑う。テメノスさん、と誰にも呼ばれる事もなくなってしまった私の名を呼んで。
「今度は僕が、貴方を導いてみせます。」
頬を伝った涙ごと、強く強く抱きしめられて。何処にもそんな保証なぞないのに、もう大丈夫だと思ってしまった。