結局のところ、彼もあちら側なのでこの時期になると、とりわけ忙しくなる。
VTuberと呪術師というミスマッチな仕事を兼業しているシュウは、今日も珍しく外出していた。
依頼自体は簡単に終わったものの、ハロウィンが近づくといつもこうだ。あちらとこちらの境が曖昧になりかけるせいで、必ず依頼が頻発する。
朝から呼び出されていて、ようやくの帰り路。
街中から閑静な住宅街を抜けて帰ろうと思った時、それが目に入った。
《やあ!ボクのかわいいコウモリちゃん!》
たまに行く、落ち着いた雰囲気の喫茶店。
くすんだ赤煉瓦の佇まいに似合わず、その窓にどピンクのペンキで書かれたメッセージ。
ハロウィンの演出にしては芸がないから、いたずら書きか個人へのラブレターかな。
あくびを噛み殺しながらそう判断して、シュウは踵横の路地へ足を進めた。
2日後。また目に痛いペンキを発見して、呪術師はこてっと首を傾げる。
メッセージのペンキには、どピンクに赤がところどころ混ざり始めて尚の事読みづらくなりつつあった。やっぱりハロウィン用の装飾なのか、まるで血が混入したように思える。
《相棒の子鬼は元気かい?》
今度は窓ではなく道路に書かれたそれは、閑静な住宅街にはやや不相応に見えた。
「子鬼。……鬼、ねぇ」
鬼といえば、同僚の姿が脳裏に浮かんだけれども。決して子鬼と言えるサイズでも存在でもない。
「似合わない表現だなぁ」
やや面白がりながら、呪術師はメッセージを踏まないように横をすり抜けた。
そして、更に翌日。
ポストから郵便物を取るために、玄関から出た先で。道路脇の街路樹の幹に、それは書かれていた。
《君ったら黒猫みたいなアーモンド形の目をそんなにキラキラ輝かせて!》
どピンク色は、もう半分ほど赤に侵食されている。
血みたいだ、と思った呪術師の勘は間違っていなかったようで、微かな臭みが鼻を刺激した。
イタズラとしてもハロウィンにしても、行き過ぎている。
そもそも、この住宅街での最奥がこの家なのだ。
同僚に対してのたちが悪い害悪行為の可能性も捨てきれない。
郵便物を手にしながら、念の為皆に報告しようと思った。
は、とシュウは小さく息を呑んだ。
ここ数日は特に忙しくて、昨日もほぼ1日外に出ていた。泥のように眠って、目を擦りながら自室のドアを開ける。
この怠い感覚から抜け出すためにさっぱりと顔を洗いたくて。ああ、それともシャワーでも浴びたらいいかなと悩みながら。手が。何故か、玄関のドアを。開けていた。
夜の帳が下りた、ハロウィン。
この家には、室内にしかハロウィンの飾りは設置されていない。なのに、家の外には、溢れんばかりのジャック・オ・ランタンが光っていた。カブ、カボチャ、カブ、かぼちゃ、南瓜。どれもがひしゃげていて、萎れ、でも青白い光を灯しながらこっちを見ている。
それらに囲まれて、また、あのペンキが光っていた。
《路地裏ブラックでツインテールな君も新鮮だ!
服のテーマは廃病院かな?》
その時初めて、あの文字は自分にしか見えていなかったのだと理解した。
招待された人間ただひとり宛てのメッセージだったのだ。しかも、誰かに話そうとすれば忘れさせてしまう条件付き。
3回目に遭遇した際、シュウは家に戻った瞬間ペンキのことを忘れてしまった。
普段であればすぐ気づけたのに、だって、今はハロウィンの時期だから!
シュウのこの視えすぎてしまう瞳は、アチラ側の事象もこの世に在るが如く明確に映してしまう。
視て認識して、普通なら見破るべきところを、今回はその勝負に負けて相手を強化してしまった。
呪術師の動揺の間をつくように、文字が集まり、固まり、血色ののっぺりとした人のシルエットを形作った。
目と鼻と口があるべきところには、ただ黒い空洞があるだけ。
《会jouのモえta古木no洞マで一緒ni行kou!》
歪んだ三日月の形の口が高く叫んだが、断片的な単語しか理解できない。それはまだあちら側にシュウが侵食されきっていないということだ。けれども猶予は僅かだと呪術師の経験値が告げる。
(ちょっと、まずいかも)
体が、ぴくりとも動かない。
指一本たりとも。
嬉しそうにそれが、ずる、と蔦のようなものを伸ばした。手のようにうねりながら、腕の長さとは思えないほどに伸びて、シュウの体に巻き付きかける。
が、不意に血色の頭部らしき箇所が、人の手で鷲掴みにされた。
そのままもうひとつ手が増えて、真っ二つにめりっと裂いていく。裂かれていった場所からどんどんほろほろと燃えた紙屑のように崩れていき、呆気なく消え失せた。
あんなにあった不気味なランタンも、もうどこにもない。
「、は」
自由になった体は、深く息を吸い込んだ途端膝がかくっと折れた。石畳に倒れ込んだ体を、先程の腕が抱え込み、横抱きに軽く抱きかかえる。
彼のなめらかな長髪が頬を掠めて、間一髪だったところを同居人に助けられた呪術師はむっと口を尖らせた。
呪術師が、鬼に助けられるなんて。
腕を買われているだけに、格好がつかないじゃないか。
「…言っておくけど、僕はひとりででも、平気だったよ」
どうしようもない場面ではあったけれど、一応奥の手だってあった。
少しの虚勢を混ぜて、垂れてくる鬼の髪をふっと息でどかす。
子供じみた抵抗に、男はとろけるようにして笑った。
「ああ、わかっているとも。私が、来たかっただけだ」
鬼が、ヴォックスが、愛しげに目を細めながら甘やかすから、シュウはそれ以上の反抗心を見せづらくなる。
蜂蜜みたいにとろとろの愛を注がれることに、未だにまったく慣れることができない。
「さぁ。いいから、少し眠っておけ。今夜は皆でハロウィンパーティーだからな」
「あ、」
ああ、そうだった。
今夜は、同居人とパーティだった。
兄弟がすごく張り切っていたっけ。ルカも早く帰るって言ってたし、アイクはこのために締切を前倒してたな。
「おやすみ、ハニー」
人肌の温もりに微睡みながら、シュウはことんと眠りに落ちた。
次に目を開けた時には、シェアハウスのリビングルームだった。
ひとりがけのソファに深く座らせられていて、何故か、同居人全員に取り囲まれている状態。
真正面に、血糊を付けた薄汚れた白衣を着ているヴォックス。聴診器も首から下げて、ポケットから注射器も飛び出している。
左手の肘掛け部分には、床に膝をついた狼男コスチュームのルカ。髪色に狼耳カチューシャを合わせているせいで、狼というよりゴールデンレトリバー味がすごい。
逆の肘掛け部分にはミスタ。まるでゾンビのように顔色を悪くした、目元が不気味なシスターだ。動きやすさを取ったのか、貞淑さの欠片もなく長いスカートのあちこちがぼろぼろに引き裂かれている。
「アイク?」
1人見当たらなくて思わず名前を呼べば、背後からいるよと声が掛かって、髪がくんと引かれた。
まだ少しぼんやりしつつ首だけ回すと、そこにはスケルトン模様がついた黒い衣装を着た文豪の姿。今はマスクを外している状態らしい。
見渡せばもうとっくにリビングの飾り付けは終わっていて、テーブルにはグラスも軽食も並んでいる。
準備を何も手伝ってないことに思い当たって、バツが悪そうに皆を見ると、どうしてかにやにや笑っていた。
「ええと、?」
にやにや、にまにま、にこにこ。
特にヴォックスとミスタからの笑顔からは、とてもイヤなものを感じる。思わずすすっとルカの方へ身を寄せると、彼の首元のファーがもふっと気持ちいい。
「POG! シュウかわいいね! 食べちゃいたいくらい!」
「ええ…?」
「それはわかる。とってもわかるけど、ほら、仕上げがまだだよルカ」
「ごめん? ちょっと状況がわかってないんだけどむぐ」
「シュウ口、そう。軽く開けて」
「??」
ルカをいなしながら正面に回ってきたアイクが、シュウの顎をそっと指先で持ち上げる。そうしてから、唇の上を、そっとリップが滑っていった。
目を白黒させながら色を確認すれば、やや黒味がかった真紅で。
「えっ、え?」
「ルージュだけは、起きてからつけたかったんだよね。はい! 完成!」
文豪の言葉を合図に、まってました!と鼻歌を歌いながらヴォックスが姿見を運んでくる。
真正面から映し出された己の姿に、シュウは肺の底から重い息を吐き出した。
ヴォックスとまるで対のような、血糊付きの真っ黒なミニなナース服。髪は耳の上辺りでぴょこんと短めのツインテールに、少し血色悪くメイクされて付け睫毛を足され、儚げな垂れ目気味のアイライン。そして、ぽってりと塗られたルージュ。
「ミスタなら…ともかく……」
「シュウ?!?? そんな似合ってて説得力あるとおもってんの?! 兄弟のよしみでぇ〜一緒に女装してやったのにぃ〜」
「ひぇ」
ミスタが普通に仮装していたら、自分ひとりとんでもないアウェイだったかもしれないのか。
ぞっとする現実に、ぎゅっと探偵をハグしたら、腕の中からかわいい照れ笑いの声。
その時、ぱちん、と急に頭が覚醒する。
路地裏ブラック。
ツインテール。
廃病院、?
「……ヴォックス。見えてた? よね?」
ご機嫌で鏡を適当に立掛けている後ろ姿に問いかければ、にや、と鬼は口の両端を上げる。
近づいてきた男は、そうしてから自分のナースの手を壊れ物のように手に取った。
「ハロウィンの信託には、従わなければ。そうだろう?」
人間のように見えて、人外。
結局のところ、彼もあちら側なのだ。
もしあの異形からの誘いを自力ではねつけられていれば良しとして、そうでなくても助けるから問題はないし、尚且シュウが今これに気づかなくてもこの男は気にしなかったに違いない。
桃と金の溶け合った瞳は、悪意なく楽しさを湛えている。
シュウ今心を乱していることさえも、きっと楽しんでいるのだろう。
「それは、ともかく。助けてくれて、ありがとう」
だから、本来ならもっと早くに言うべきだった言葉は、ものすごく言いづらく絞り出されたのだった。