夜に世を詰めて「あら、爪を切っているの?」
穏やかで静かな夜の海に、鈴を転がしたような声が響く。
ロビンが風呂上がりの体を冷ますため、甲板に出てきたようだった。ドライヤーで乾かした黒い髪を夜風にたなびかせながら、ハンドレールに体を預け海を見据える。
「おお、ロビン!そうだぞ!」
太陽を船主に海を渡り歩く帆船の船長は、今夜甲板で一人何かをしているようだった。
日はとうに沈み、仲間で囲んだテーブルの喧騒も遠い岐路へ置いて行かれた時間である。普段夕食を済ました後は、もっぱら仲間と共に過ごしているルフィが真夜中に一人でいるのは珍しい。ひとつまみの違和感に興味を持った学者は、研究対象と会話を試みてみた。
「ルフィ、いつもナミやウソップに爪を切ってもらってなかった?伸びすぎてどこかひっかいてしまったの?」
「いんや、そういうわけじゃねーぞ」
ぱちん、ぱちんと小気味よい音が響く。
ほう。それならどうして一人で、しかも夜も更けてから?
そういえば、と思い浮かんだことを話の種にしてみる。
「時に船長さん。ワノ国の一説には「夜中に爪を切ると親の死に目に会えない」という言い伝えがあるわ」
「親の死に目に会えない?」
純粋無垢な子どものように、言葉をオウム返しで言うルフィに壮麗な美人はくすりと笑う。
「そのまま、両親の亡くなる瞬間に立ち会えない、という意味ね。夜に爪を切って詰めることが世、つまりその人の人生を詰めて短くすることにつながるという考えからの言い伝えだわ」
ルフィはふーん、なるほどな。とわかっているんだかわかっていないんだか疑り深い返事を返す。取り立ててぱちん、ぱちんと爪を切る動きを止めないルフィに、ロビンは目線を傾けた。
我らが船長は、言い伝えなど迷信だと気にも留めないような男だっただろうか。逆にそれなら止めておれはもう寝るなーなどと言って中断するような割り切りの良さを携えているような人の印象だったが。
首を傾げたロビンを横目に、ルフィは手を止めない。
「ロビン、話してくれてありがとな。親の死に目とかはよくわからねェけど、言い伝えは、要は夜に爪を切るとおれが死ぬのが早くなるかもしれない、ってことだろ?それならこれからはしねェ」
それなら、なぜ今その手を止めないのだろう。ロビンは燻っていた疑問をそのままぶつけることはせず、小さくうなずくことでその先を促した。
「でも、今日はこれから爪を整えなきゃならねェ用事があるからしょうがねェんだよ。だから今日だけは自分で爪切るんだ。せっかく忠告してくれたのに悪ィな、ロビン」
「いいえ、何事にも囚われず好きにやることがいい場合もあるわ。だって私たち海賊だもの」
ロビンの返答に、にしし!そうだな!と満面の笑みを返すルフィ。ロビンはなるほどね、と小さな声で呟き、ルフィに笑みを返すと、船内に向けて足を進め始めた。
「あれ、ロビン寝るのか?」
「ええ、ここには火照た身体を冷やすために立ち寄っただけだもの。気になっていた事象の理由も掴めたし。私は行くわ。三人はまだまだ寝るつもりはないようだけど」
離れた気配が二人分、ぎくりと揺れた。ルフィはそれにとっくに気づいているだろうに気にせずバレたか、と笑う。
ぱちん、ぱちんと規則的な音が響く。
聡明な黒髪の美女は、見通す眼を細めて笑み、扉を閉めた。
***
「ロビンちゃんに絶対バレた…………」
サンジが頭を垂れて酷く落ち込んでいる。ルフィがその丸っこい頭を引き寄せて労わるようによしよしと撫でた。ううう、とうめきながら頭をぐりぐりと手に押し付ける。やわらかな金髪がルフィの指から零れ落ちた。
「別にバレるのも時間の問題だっただろ。コイツが隠し事できるとは思えねェし」
「なんだと、ゾロ!おれもゾロとサンジの名前出さなかったし、これからすることもロビンに言ってねェぞ!」
「まあてめェにしちゃよくやった方かもな、ルフィ」
ゾロは心底楽しそうに笑みをこぼすと、流れるようにルフィと唇を重ねた。
「あ、てめこのマリモ!抜け駆けしやがって!」
サンジがゾロの肩を押してルフィと離そうとするが、ゾロはルフィの背中に手をまわして抑え込んでいるため、簡単に引きはがすことは難しい。
ゾロの厚い舌がルフィのピンク色の唇を舐める。ルフィがなにか言いたげに口を開いたその瞬間を逃さないと言うかのように、ゾロが大口を開けて獲物にかぶりついた。
ルフィのむむ、とくぐもった声を、サンジの耳は確かに聞き取った。
「なにしてんだゾロ!キスは今日おれからだって約束だろ‼」
ゾロの耳にはサンジの声はもう届いていないようだった。胡坐をかくルフィの傍らに立膝をついて上からまるで食むように唇を奪い、舌を重ねている。零れる水音が妙に生々しい。まるで発情期の雌のように、一心不乱に雄を求めて本能をむき出しにする。
腰をルフィの身体に押し付けているのは彼自身も気づいていないだろう。サンジは目の前で急に色を変えた空気に口をすぼめる。おれだけ仲間外れみたいだ。
サンジは頬を膨らませてぶうとぶすくれる。今まで撫でてくれていたのにゾロとキスしてから止まってしまった手に、もう一度頭を擦り付けて、その手を己の口で食んだ。
ルフィが驚いて、サンジの方を向こうとするも、ゾロの腕に頭が固定されているため適わない。それに今無理に動くと、互いの舌という急所を傷つけるかもしれなかった。ルフィは抗議の意を込めてゾロを軽く睨む。ゾロは不敵に笑うのみだった。さらにその目線にも触発されたのか一層ルフィの頭に回した手に力を込めて、繋がった舌をさらに奥へ侵入させた。
サンジは船長の指をひたすら食んでいた。ルフィの指は自分より小さく細いはずなのに戦う者の筋肉がしっかりとついている、世界で一番安心する手だ。
この手で何度闇に引きずり込まれそうになる自分を引っ張り上げてくれたのだろう。
そんな神聖で大切な船長の手を、自分の欲で汚している事実が悲しくて浅ましくて、でもそれをはるかに上回る快感がサンジの脳を犯していく。
もっと、もっと。この手でこの口を好きに動かしてくれていいのに。もっとぐちゃぐちゃに突っ込んで、もっと呼吸ができなくなるくらいに動かして、苦しくても辛くても最後によく頑張ったなサンジ、と笑ってくれたらどんなに嬉しくて気持ちいいか計り知れないのに。
想像だけでサンジは腰を揺らす。自分で動かしているだけなのに声が出そうだった。
その時、ちゅぽん、と音が鳴って、ゾロとルフィの口が離れた。
白銀の糸を引きルフィの手とサンジの口も離れていく。
ルフィは腕を伸ばして二人を抱えると、口を開いた。
「ゾロ!サンジ!」
もう既に出来上がった顔で、海賊王の両翼はただ一人の船長と仰ぐ男を見つめる。
「ごめん!まだ爪切り終わってねェ!もうちょっと待ってくれ」
ピシ、と空気が凍る音がした。
情欲の残る空気が風に流れる。
二人の絶叫が夜空に響いた。
今夜も性欲が年齢と比例しない船長に、二人は泣かされることになるのかもしれない。
「いやおまえらを傷つかせたくないだけだって!終わったらすぐやるからさあ!」
「だったらいまヤれやアア!」
「おれは頑丈だからな、そんくらいで傷つきやしねェよ。ルフィ、早くおれを抱け。ぐる眉は貧弱だからどうなるかは知ったこっちゃねェが」
「はあ~⁉てめえ言ったなこのクソマリモ!おれがただではへこたれねえ野郎だってこと目に見せてやるよ!!ルフィ、このおれを先に抱け!」
「おまえいつも終わったあと満足にキッチンに立てねェじゃねェか」
「ああん!?てめェこそ翌日は鍛錬の数減らしてるの知ってんだからなクソマリモ!ルフィのテクについていけないのなら今日はおれだけにしてもらうってのはどうだ!?」
「いや、一人だけならおれだけ抱いてもらう。ルフィに抱かれるのはこのおれだ」
「話聞いてたかクソ剣士!?ルフィに抱かれるのはこのおれだ!!」
二人がきゃんきゃんと吠え始めてしまったので、これ幸いとルフィは爪を切るのを再開した。残すところあと二か所だけだったのだ。すぐ終わる。
ぱちん、ぱちんと小気味よい音が響く。
そういえば、ロビンが夜に爪を切ると人生が短くなると言っていた。
ルフィは眼前で掴みかかっている二人をじっと見つめる。
今ルフィが切って詰めた命は、確かに自分自身の寿命を縮めたのかもしれない。
それでも、自分の命を預けて、預けられるこいつらとともにいられれば、たった二ミリほどの命など小さいものだと思う。
だって、いま、こんなにも楽しい。今が楽しくて、それで寿命を減らしても、死ぬときゃ楽しかったと満足して死ねるのだ。
それに、このふたりの身を案じ、決して傷つかないように調えたこの行為が、裏目にでることなどありはしないだろう。いま、おれが決めた。
どこの誰かはあまりにも自分本位な考えだと笑うだろうか。
いいや、そうでいい。それでいい。だっておれたち、海賊だもの!自分の生きたいように生き、死にたいときに死ぬ。世界一自由な奴になるためにおれはこいつらと旅してるんだ!
ししし!と笑って、ルフィはいまだきゃんきゃんと喧嘩している二人に向かって手を伸ばし、勢いよく倒した。ゴン!と二人分の音が鳴る。少々乱暴に押し倒したが、丈夫な彼らのことだ。これくらいで構わないだろう。
「どっちもおれが抱いてやるよ。何からされたいんだ?」
ルフィは意図せず低くなった声色で、押し倒した二人を不敵に見下ろす。空気が変わった。ルフィの真っ黒で底のない瞳に、情欲の灯が灯る。マウントをとられた二人は、よく回っていた口を閉ざし、これからされることを予期して、同時に生唾を飲み込んだ。
夜はまだまだこれからである。