嗜みと円舞曲を/おつきおの月尾 風呂上がりの晩酌が好きだ。
濡れた髪もそこそこに、火照った身体をリビングに晒して冷蔵庫を開く。未だ湿った素足がフローリングをぺたぺた鳴らすのが子供のように愉しくて、湯上りだけは室内用スリッパを履かない。同居人はこの状況に遭遇すると決まって顰め面をするがお構いなしだ。そもそもその同居人は晩酌の時間にはもう寝室にいる。風呂場で聴いていたお気に入りの曲を鼻歌でひっそり奏で、ボトル一本で千円もしない廉価っぱな赤ワインをグラスに注ぐ。リビング全体の電灯は落とし、キッチンの蛍光灯一本の白い灯りだけが肴である。染み渡るアルコールが鼻歌を止め、無機質な冷蔵庫の唸りとグラスで踊る赤紫の液体が跳ねる音だけになった。
尾形百之助はこれといって酒が好きなわけではない。好きになった人が好きだったから飲み始めたという何とも恥ずかしい理由から飲んでいるのである。その好きになった人は滅多と晩酌には付き合ってくれないが、別段不満もない。酒とは飲みたいときに呑むものだろう。
ふたくちで赤ワインを飲み干し、ほろ酔いで寝室の扉を開ける。歯を磨いていないからキスは許されないなとふと思う。拒まれるとしたくなるのが人間の性質なのだが、本気で拒まれると立ち直れない。
闇の中にあたたかなオレンジ色が臓朧と浮いている。ベッドの隅でヘッドボードに背を預け、本を読んでいた男ははにかみを殺すように眉間に皺を寄せた。
「扉閉めてくれ、寒い。」
四〇〇ページほどの文庫は紐の栞で区切られて、傍の本棚に仕舞われる。
くったりとした古本の匂いがした。
「寒かないでしょ、五月ですよ。」
言いつつ扉を閉めて本棚の前に立ち、いっぱいに並んだうちの一冊、今し方仕舞われたばかりの本を抜く。尾形が学生時代から好んで読んでいる勧善懲悪の時代小説だ。紐の栞を辿り、二〇三ページを開く。もう何度か読んだことのあるシーンだった。
月島基は消灯の一時間、本を読む。尾形がわずかな酒を嗜むように、羅列された文字を嗜む。
この後の展開は誰が活躍してどんな風に落ちるのだったか──と考えていると、背中から湯上りとは違う火傷に近しい体温と、速い鼓動とが伝わった。
どっど。どっどっど。
腰に回された手を見下ろし、なあにと問う。
「寒いって言ってんだから、さっさと来い」
ぶっきらぼうな声は羞恥を孕んで、背骨に頬ずりをする。甘え下手なその顔が見たいと思いつつも、常は少ない言葉数をより増やしてやりたいという欲が勝った。
「だから、寒かないでしょって。」
大袈裟なくらいに挑発すると、本を手放せないまま強引にベッドに押し付けられ、たちまち白い天井と向き合う羽目になった。白に滲む焼けたオレンジは閨事にはぴったりだと思う。本棚に返す余裕ももらえなかった本をそのままシーツの上に寝かせて両腕を伸ばし、欲に濡れた雄々しい貌の同居人に縋りつく。
余裕ないんですかと引き寄せ、続けて囁く。
「今日は抱きたい? それとも、抱かれたい?」
耳たぶに吸収されなかった吐息が跳ね返り、廉価っぽい葡萄を嗅ぐ。月島は尾形の首の側面に唇をあてがい、吸い付いてから乱暴に笑った。
「眠いのにイイコで待ってたんだから抱かせろよ、この酔っ払い。」
ふ、とまたしても訪れた首筋の刺激に喘ぐ。
仕草の割に、言動の割に、優しい手つきに身を任せていると、抱きながら抱かれるような顔をして快楽に沈殿する声は尾形を呼ぶ。
舌を絡めては「歯磨き粉の味がしない」と窘める男に、
「もう黙ろうぜ」
と、足を絡めて電気を落とした。
シーツの衣擦れに、月明かりと赤ワインと古本と──愛欲がひしめいている。
《了》