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    @Clanker208

    水都百景録の一部だけ(🔥🐟🍠⛪🍶🍖🐿🔔🐉🕯)
    twitterにupした作品以外に落書きラフ進捗過程など。
    たまにカプ物描きますがワンクッション有。合わなかったらそっとしといてね。

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    ★水都史実二次。人を選ぶ要素含むので前書き確認PLZ
    ☆この回は要素なし。

    久々に卒論引っ張り出して書きました(天主教迫害について)。
    礼卿、子先というのはそれぞれの字です。諱は距離が近くないと使わないかなと思ったので。

    ##文章

    「橄欖之苑」 第三幕「礼部の徐侍郎?」

    「士大夫のくせに、農業や治水やら、土にまみれるのが好きな変わり者だよ」
    「万暦の御代には、西蕃と通じて寧夏に飛ばされたって話だぞ」
    「西蕃の技術は我が大明のものより優れているとか吹聴しているが、無礼なことだ」
    「挙句の果てには暦を作り直すために、蕃人を宮廷に招こうだなんてとんでもない」
    「そもそも天主教徒という時点で怪しい。叛意でもあるんじゃないか」
    「魏公公の子飼いと揉めて、睨まれてるんじゃなかったか?」
    「なんにせよ、関わらない方がいい」
    「大明のために尽くした貴殿とは正反対だ」

    「……散々な言われようだな」
    ここ二、三日で集めた情報を反芻しながら、俺は軽いめまいに襲われていた。むろんそれは、轎(かご)の揺れのせいではない。
    徐光啓、字は子先。万暦三十二年の進士、官職は礼部右侍郎。
    焦竑殿によれば、優秀な学者であり、農業・水利をはじめとする実学や「泰西」の事情に通じる才人。
    朝廷内の評判は―――手元の覚書に書いてある通り。

    引き続き覚書に目を通しつつ、俺は顎に手を当てる。焦竑殿と話をしてから数日、自分なりに相手について調べてみた。どの程度のかかわり方が適切なのかを読むためだ。
    その結果がこの大量の悪評というわけだ。しかし彼らの評価も師の評価も、どちらも間違いではないのだろう。結局は、実学および外来の思想と技術をどう評価するという問題に尽きる。「蕃人」や百姓(しょみん)に問うてみれば、また違う答えが返ってくるはずだ。

    事実、彼を批判する声がある一方で、山海関を守る督師の孫承宗や、かつて兵部尚書を務め、満州族対応に当たった熊廷弼ら、辺境の防衛線を担う重鎮たちの多くが彼と交流しているという話も聞いた。だとすれば、軍事に造詣が深いという焦竑殿の言葉は間違いないのだろう。
    嘆かわしいことだが、今のこの国で、まともな軍事作戦が建てられる人物は限られている。だから、彼という人物に関心があるのは事実だった。
    しかし問題は――

    「邪教の徒を京師から追放せよ!」
    街の雑音をすり抜けて、好戦的な叫び声が耳に飛び込んできたのはその時だった。

    「西蕃のもたらした天主教なるものは民を惑わし、大明に仇なす邪教である!」
    耳をそばだてていると、間髪入れずに次の句が飛んできた。なんとも間の良いことだ。今は「天主教」の情報が欲しい。
    急いで轎を止めさせると、帳を掲げて周囲の様子をうかがう。場所はいつも出退朝の際に通過する大通りだ。この一帯は商店や食事処が立ち並ぶ繁華街で、その入り口には目印の牌坊が聳えている。見ると、そのたもとに人垣が出来ており、声はその中心から聞こえていた。時折人垣の頭上に、白い紙片が舞い上がっている。 

    「その証拠に、奴らは朝夕に衆を集めて怪しげな集会をなし、さらには祖先の位牌や画像を焼き捨てさせる。これこそ人倫を破壊し、秩序を乱す振る舞いである!」
    俺は急ぎ轎を出ようとしたが、なにぶん退朝途中のこと、官服のままであることに気づいて動きを止めた。仕方がない。官帽を外し、飾り帯と目立つ赤い円領袍を脱ぎ捨てると、轎夫に小粒の銀を押し付けて上着を拝借し、待機を命じてから牌坊の方へと急いだ。

    「恥知らずにも京師に居座る蕃人どもを、速やかに京師、大明より駆逐せよ!」
    人垣に加わり、周囲の様子を観察する。その場に集まっているのは三十人ほど、その中心に円形の空白があり、そこで一人の若い男が紙片をまきながらながら熱弁を振るっている所だった。折り返しをつけた頭巾と、袖口と襟元に黒い縁取りをした銀鼠の衣。見たところ書生らしき風貌だ。

    彼を取り巻く聴衆はといえば、熱心に耳を傾けている者、聞きながら不安げに顔を見合わせている者、講釈師の語りを聞いているような気でもいるのか、合いの手を打って煽っている者など態度は様々だ。足元には書生が撒いた紙片が何枚か落ちていた。手に取ると、土を払って内容に目を通す。
    見ると、「誅滅邪教」などという仰々しい文句とともに、天主教の「害悪」が列挙されていた。

    一、邪説によりて民を惑わし良俗を乱すこと。
    一、澳門にある諸蕃と共謀し、天朝を脅かさんとしていること。
    一、位牌や神像を破壊し、祖先や神を冒瀆すること。
    一、女子に純潔を強要すること。
    等々。

    民衆に訴えるには堅苦しく、いかにも知識人らしい文面だ。話半分に読み進めていくが、最下部まで来たところで俺は眉を顰めた。
    ご丁寧にも、「天主堂」――すなわち彼らの寺院の地所が書いてある。とすればこれは、ただの演説ではなく、敵意を掻き立て攻撃をけしかける明白な煽動だ。
    町の巡舗(つめしょ)に一声掛けておいた方がいいかもしれない。彼らが天主教保護に前向きかは分からないが、「西蕃」たちが順天府に住んでいるのは帝が認可したからであるはずだし、街の治安が乱されることは本意ではないだろう。
    さて、一番近い巡舗はどこだったか――踵を返そうとしたその時だった。

    「何をしている!」
    突如飛んできた鋭い声が、書生の演説を遮った。聴衆は声のした方を一斉に振り返り、やがて道を譲るように人垣が割れる。声の主は、最初は巡邏(みまわり)の兵と思ったが違った。その先にいたのは一人の学者風の男だった。頭には二本の帯が付いた黒い頭巾を戴き、萌黄色の袍の上にゆったりとした白い衣を羽織っている。何より目を引いたのは、肩から下げた皮帯に白く縫い取られた十字架――天主教徒だ。
    書生は舌打ちをして不快感をあらわにしたが、すぐにわざとらしい媚態を作り、丁重な拱手の礼をした。
    「これはこれは、徐大人」
    ……徐大人?
    俺は片眉を上げて、もう一度、闖入者の方を見やった。

    「恐れ多くも侍郎閣下ともあろうものが、わたくしごとき一介の書生に何の御用でございましょうか」
    侍郎。水に投じられた石のごとく、その語は波紋を呼び起こした。面倒は御免とばかりに人垣を離れる者が増え、一方で平伏しようとした者は「徐大人」によって制された。
    俺はその背後から、事態の推移を観察していた。
    やはり彼が、焦竑殿の言っていた人物のようだ。しかし目の前の人物は、西学の権威、礼部右侍郎……もしくは西蕃と通じる叛逆者。そんな称号とはとても結びつかぬ平凡な風采だ。しかし柔弱そうな面差しとは裏腹に、その紫檀色の瞳は、強い意思の光を宿して相手を射ぬいていた。

    「おべっかは結構だ。不当に民心を扇動し京師の治安を乱すなど、書生にはふさわしくない振る舞いではないか?」
    裁きの庭にでもいるような毅然とした態度で、徐侍郎は舌戦の端緒を開いた。しかし相手の方に動揺はない。むしろ受けて立つという風に、胸をそらして反攻に出る。
    「誤解なさっています。不当に民心を扇動してるのは彼ら――蕃人どもの方ではありませんか。天主教は国家を脅かす邪教、そんなものを広めて……」
    「では教えてもらおうか。ではいつ彼らが我が国を脅かしたと言うんだ?」
    書生の雄弁を遮り、徐侍郎は問い詰める。
    「彼らは満刺加(マラッカ)國を滅ぼした『佛郎機(フランキ)』の仲間というではありませんか。いずれわが国にも牙をむくでしょう」
    「つまり、想像の域を出ないということだな。罪を犯してもいないのに、人を裁くのか?」
    滑らかに動いていた書生の舌が鈍くなる。彼は明らかに不愉快そうに眉を寄せたが、すぐに手を変えて反撃に出た。

    「だとしても、天主教は正学である儒学に反する異端思想。その存在は許容されるものではありません」
    徐侍郎は首を振る。
    「天主教の説く天主と儒教の天は相通じる。両者は相反するものではない。それに、儒学に反するというのなら仏教や道教はどうなる?僕は天主教徒が国家に反逆した事例は知らないが、それらが原因で起こった反乱や亡国の事例なら幾らでも知っている。真に国を憂いているなら、寺院や道観に行くといい」

    「……では、暦の件はどうなのです」
    むきになってか、書生の声の調子が高くなった。
    「蕃人どもの力を借りて、新たな暦を作ろうなどと。暦は天子の徳、そして天子の治める時の象徴。それを蕃人に任せるなどと、天子や天朝への冒瀆です」
    「君の言うとおりだ」
    意外にも、徐侍郎は鷹揚に頷いた。
    「暦は統治の安定に不可欠。だからこそ、彼らの持つ正確な暦が必要なんだ。暦と天体の運行がずれていては、それこそ天子の権威に関わる。それに――君は大統暦を知っているか?」
    「勿論です」
    「それがもともとは中華の暦ではないことは?」 
    書生はぐっと息を詰まらせたような顔になる。
    「大統暦は、もともとは回回(イスラーム)の暦。さらに官軍では西洋由来の佛郎機砲も用いている。すぐれた技術や器具を柔軟に取り入れてきたのは我が国の美徳だと思うが、君はそれを否定するのか?それこそ国家への冒瀆ではないのかな」

    「‥‥‥ですが」
    何度もやりこめられながらも、彼の眼に宿る悪意の火は衰える気配がない。
    「奴らは女人に純潔を強要するというではないですか。これは我らの祖先を侮辱し、漢人の血を絶やそうとしているに違いありません」
    次々論点を変えては食い下がる相手に対し、徐殿はあくまで理性的に論を封じていく。
    「それは単に、仏教に尼僧がいるのと同じ理由だ。全ての女性に求めているわけではない。それに、嫁いで子を産むばかりが彼女らの生き方ではない。彼らは選択肢を提示したまでだ」
    書生は反論の言葉を探っているかのように何度か口を開閉させたが、結局諦めて唇をかみしめた。議論の種はあるが、舌戦で勝てる見通しが立たない。そんな様子に見えた。

    論戦に決着がついたようだ。徐侍郎は語調をやわらげ、嗜めるような調子で付け加えた。
    「内容が何であろうと、不正確な知識で民心を煽るのは感心できない。それこそ『左道乱正の術もて人民を煽惑す』ことではないのかな」
    「くっ……」
    書生は歯噛みして、手に持った紙片の束をしわが寄るほどに握りしめる。その眼差しにはいまだ毒がまとわりついていた。
    「ここで私を追い払ったところで、明日も明後日もありますし、そもそも西蕃に反感を持っているのは私だけではありません。いちいち説き伏せて回るおつもりですか?」
    「誤りがあるなら、それは正されるべきだ」
    こともなげに言った徐侍郎に対して、書生は皮肉げにせせら笑う。
    「まるで東海を填める精衛ですね。……ならば、せいぜい無駄な努力をなさることです」
    そういい捨てると、彼は手にしていた紙片を力任せにばらまいた。

    たちまち視界が遮られ、頭上から紙の雨が襲ってくる。驚いた観衆の一人が叫び声を上げ、その場はちょっとした恐慌に陥った。逃げ出す者、紙を払いのけようともがく者、傷を恐れて身を守る者――紙が全て地面に落ち切った頃には書生はすでに姿を消し、野次馬たちもあらかたこの場を立ち去っていた。

    騒動は去った。なおもその場に残っていたのは徐侍郎と俺くらいのものだった。彼は俺の方を振り返ると、怪訝そうに眉をひそめて言い放つ。
    「何か用でも?言いたいことがあれば相手になるが」
    「……いや、そんなつもりはない」
    俺は首を振り、慌てて否定する。
    「俺は……天主教に関心があって、奴の話を聞いていただけだ。だが、あんたの方が詳しそうだと思ってな」
    誤解を招く表現かもしれないが、まぁ間違いではなかった。如何にも都合が良すぎる言い分だし、怪しまれるだろうか。

    徐侍郎はしばらくじっと俺の顔を見つめた。まるで何かボロが出てこないか検分されているようだ。しかしやがて表情をやわらげ、論戦の時とはうって変わって声を弾ませた。
    「なんだ。それならなんでも聞いてくれ。彼らのような者達が持っている知識は偏っているし不正確だ。実体を知ろうともせずでたらめばかり並べ立てるくせに、声ばかり大きい。困ってしまうよ」
    言いながら、彼は地面に落ちた紙を拾い集め始めた。随分派手にまき散らされており、彼一人にやらせるのもばつが悪い。俺も同じように腰をかがめ、散乱する紙に手を伸ばした。

    「いつも、ああして迫害者を追い払っているのか」
    「気づけた時はね」
    「奴も言っていたが、きりがないだろう。あんただって、政務で忙しいだろうに。それに俺が思うに、奴…いや、奴らにはおそらく後ろ盾がいる」
    彼は書生、すなわち科挙志願者だ。それなのに礼部右侍郎である徐殿に向かって悪意と無礼な態度を隠しもしない。礼部は科挙を司り、侍郎ともなれば試験官も務める可能性だってあるにもかかわらずだ。科挙の採点は匿名で行われるとはいえ、顔を覚えられていれば、合格したところで心証に関わる。
    「分かっている。それが誰なのかもね」
    徐侍郎は軽く周囲を見渡すそぶりを見せたのち、指で地面に「未」の字を書いた。

    …「wei」、すなわち「魏」。なるほど、ここでも魏忠賢(あのおとこ)か。
    謎をかけるような眼差しに、俺は黙ってうなずいた。
    意思が通じたのを悟ったのだろう。徐侍郎は足で字を消した。少し乱暴なその動作は、彼がその字が指す人物に抱いている感情のほどを窺わせた。
    「……奴は天主教を憎んでいるからな。奴の飼い犬が、応天府で大規模な迫害を起こしたこともある。今上帝が西洋砲の購入を認めて下さったおかげで、伝教士たちも澳門から帰ってこられた。だからまた、追い出したいと思っているんだろう。
    ……確かに、きりがないのは分かっているよ。それでもやらないよりはましだ。天主堂が襲われたり、伝教士たちに身の危険があるかもしれない。…応天府の二の舞だけは防がないと」
    彼にとって応天府の事件は忌まわしい記憶のようで、最後の一節を口にする時だけ、声の調子が一段下がった。その切実な様子に、俺は奇妙な感じを覚えた。宮中で囁かれていた誹謗の数々。それは彼の耳にも届いているだろう。にもかかわらず、なぜ彼は「西蕃」に拘るのか。

    「なあ。あんたは何故そんなに、彼らを守ろうとする?」
    問いかけながら、俺はまた紙片を拾い上げる。ようやく、最後の一枚だ。
    「彼らがいないと、僕の考える改革は達成できないからだ」
    徐侍郎の答えはいたって単純なものだった。だからこそ逆に、それ以上の追及を拒んでいるようにも思えた。

    全部で二十枚は集めただろうか。身体を起こすと、拾い集めた紙を徐侍郎に手渡す。彼は礼を言うと、自分で拾ったものと併せ、それを脇に抱え込んだ。
    「さて」
    仕切り直すようにそう言うと、徐侍郎は俺の方に向き直った。
    「君とはどこかで会ったかな。礼部では見かけたことがないと思うが」
    しまったと思った。
    俺はすでに彼のことを知っている。官位も歳も同じということでつい馴れ馴れしく接してしまったが、彼の方はそうではないのだ。なんと言ったものかと考えるが、一方の徐侍郎は、俺の沈黙を驚きゆえと解釈したらしい。
    「官吏だということくらい分かる。僕への接し方もそうだし、あの男の話にもついてきた」
    少し衝動的に振る舞いすぎたようだ。……こうなった以上は仕方がない。俺は改めて拱手し、頭を下げた。
    「――突然の無礼をお許しいただきたい。俺は袁礼卿、兵部右侍郎をつとめている」
    「袁侍郎か。聞いたことがあるよ。『登莱の英雄』だろう?」
    「やめてくれ」
    俺は苦り切った顔になる。どこまで広まっているのだ、そんな悪名は。

    しかし俺の名を聞いても、徐侍郎にはそれ以外の反応はない。焦竑殿は彼に何も話していないのか。いや、日々の政務に加え、こうしてあちこち駆けまわっていては、声を掛けようにもなかなか捕まらないのかもしれない。焦竑殿が俺の方に声をかけたのにも、そういう事情があったのだろうか。ただし、義理を果たすかどうかはこれからの問いの答え次第だった。

    「……さっそくだが、あんたに聞きたいことがある」
    「ああ、なんでも聞いてくれ」
    「薩爾滸(サルフ)の敗因はなんだと思う?」
    薩爾滸の戦い。万暦四十七年、国土に侵入した後金軍を迎え撃った明軍が大敗北を喫した戦いであり、ここ数年大明が悩まされている悪夢の幕を開いた事件だ。
    その問いの中身に、徐侍郎はすっかり不意打ちを食らったようだった。黒目がちの目を丸く見開くと、幾度かしばたたかせる。
    「薩爾滸の戦(いくさ)?天主教について知りたいんじゃなかったのか?」
    「それもあるが、まずはお願いできるだろうか?」
    徐侍郎は釈然としない様子を見せたが、すぐに表情を引き締め、迅速に問いに応じた。

    「戦術的には、兵を分散させたことだ。おかげでわが軍は、数で勝る敵に各個撃破される羽目になった。でも、本質的な問題はそこではないと僕は考えている。軍需物資の不足、練度不足、わが軍にはそんな基本的なことも足りていない」
    「これから必要なことは」
    「適切な人材の登用、練兵、高性能な洋式兵器の導入、外部…そうだな、満洲族と戦うのならば朝鮮との連携」
    「そのうち最も急務なのは?」
    「人材だ」
    次々問いを畳みかけるが、彼の返答によどみはない。

    「今の世では、才ある人材が適切に用いられない。さらに前線の将が兵糧や軍需品を横流しし、私腹を肥やすことすら行われている。こんな有様では、我が軍の質はいつまでたっても向上しない。だから、人材採用の仕組みから作り直すべきではないかと僕は思う」
    滔々と語られるその内容を聞きながら、俺は内心、素直に感心していた。分析は的確。論理も明白。礼部の役人にしておくのがもったいないと感じるほどだ。

    「これで答えになっただろうか」
    遠慮がちにそう言った徐侍郎に対し、俺は心からの賞賛をこめて頷いた。
    「十分すぎるほどだ。失礼だが、あんたは文官だろう?随分軍事に明るいんだな」
    「僕の故郷は松江府だ。倭寇との戦いで鍛えられたからな」
    「なるほどな」
    沿海にあり日本と近い松江府は、しばしば大規模な倭寇の襲撃に見舞われたと聞いている。それは苦労した事だろう。

    「返答感謝する。試すような真似をしてすまなかったな」
    「気にしないでくれ。兵部(そちら)に届けば、僕としても有難い。……それで?まだ何か聞きたいことは?」
    「そうだな。天主の教えにと言ったが……俺が関心のあるのは正確には彼らの技術だ。今はこの通りの情勢だし、彼らの兵器を国防に生かせる物なら取り入れたいと思っている」
    「そうだったのか」
    徐侍郎は得心がいった風にそう言うと、腰に片手を当て、少し得意げな顔になった。
    「よかったら、見に来るか?」
    「見にって、どこに…」
    「僕の家だ」
    けろりとした顔で、徐殿はとんでもないことを言い放った。困ったことに、冗談を言っているようなそぶりは全くない。あまり声高に話す内容ではない気がして、少し声を低めて確認を取る。

    「……兵器をか?」
    「ああ。火砲も鳥銃もあるぞ」
    「これからか?」
    俺は横目で、待たせてある轎の方を見やった。
    「いつでも構わないよ」
    「それはありがたいな。今日は少し時間が遅い。……都合のよい日を、後で伝えさせてもらおう」
    「改めて、徐子先だ。よろしく頼むよ」
    徐侍郎はそう言って拱手する。脇に紙束を挟んでいるため、いびつな礼だ。そんなことを気にした風もなく、彼は目を細めてにこやかに微笑んだ。

    結局徐侍郎とはそこで別れ、俺は再び自邸への帰路に就いた。
    轎の揺れに耐えながら、再び覚書の頁を繰ると、腰に下げた袋から筆と、墨をいれた筒を取り出す。
    ……これでよかっただろうか。焦竑殿の顔を思い浮かべ、心中で問いかける。彼に近づくのはもう少し慎重にしたかったが、却ってよかったのかもしれない。あれこれ思い悩むより、果断に前に出てしまった方がうまくゆくこともあるものだ。

    一言で評せば、徐侍郎はおかしな奴だ。
    天主教や西蕃へのこだわりもそうだし、理知的で厳格な判官のように振る舞ったかと思えば、少年のように無邪気な顔にもなる。複雑な人物だ。
    しかし確かに言えることは、彼の才は大明にとって必ず益になるということだ。
    ――ただし、それが適切に評価されればの話だが。
    彼の才を愛する焦竑殿は、まさにこれを危惧しているのだろう。だとしても、彼が異国のものに寄せるこだわりはすでに彼自身の一部になっているようで、俺にもどうにもできそうにない。
    ……彼の家か。
    記憶が新鮮なうちに牌坊での出来事を書き留めながら、俺は近い将来を思い描く。
    ……火砲だけでなく、またとんでもないものが出てきそうだ。

    縹(はなだ)色の帳を透かして、陽光の存在を強く感じるようになった。それは既に赤みを帯び、日没が近いことを告げている。心なしか、轎夫の足も早まった気がする。少し暗くなった轎の中には、わずかに入り込んだ西日の欠片が、一筋の光の帯を描いていた。
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