橄欖之苑 終幕知府さまから届いた依頼状を前に、俺は深いため息をついた。
「……蟹はもう見飽きたぜ」
指令は養蟹場での蟹の選別と収穫だ。確かに手際には自信があるが、毎日毎日息つく暇もなく駆り出されては不平の一つも言いたくなる。どうせならもっと勉強時間が欲しいし、戚継光将軍と一緒に倭寇対策にも参画してみたい。書物を読んで、自分なりに考えてはいるのだ。
いや。
両手で軽く頬を叩く。戒めのつもりだ。単に、俺がまだ未熟だと言うことだ。
それなら、実績を上げていくしかない。
編み笠と魚籠を手に取って、おとなしく指定された作業場へ向かうことにした。
外に出ようとすると、通りすがりに居間の卓子(つくえ)が眼に入った。そこには読みかけの本が積んである。
「最近、読んでる暇もないな」
後ろ髪をひかれる思いで、戸口へ向かう。仕事が終われば終わったで、董さんに捕まって芸術談義に付き合わされるのが常だ。ひどい時には、含嬌殿の逃避行に巻き込まれることもある。俺の船は漁船であって、決して客船、ましてや良家の奥方が乗るような代物ではないというのに。いっそ山奥に逃げてやろうか、と思うこともある。運が良ければ、桃源郷にでもたどり着けるかもしれない。
戸口を出ると、外は良く晴れていた。抜けるような蒼穹から、透き通った日差しが祝福のように降り注ぎ、水路沿いに立ち並ぶ白壁の家を照らしている。水路に降りる階段では、頭に布を巻いた女性が鼻歌交じりに洗い物をし、水際で肩を寄せ合う海桐の木も、たっぷりと光をもらって嬉しそうに見えた。
程よく温まった石畳が、はだしの足に心地よい。どうせ水に入るのだし、面倒でいつもこうしている。松江の靴は上質だからと、董さんがお節介にも靴を数足押し付けてきたのだが、いまだに箱の中で眠ったままだ。もう少し暑くなれば、彼らも日の目を見るかもしれないが。
「そうだ」
ちょっとした悪事を思いついた。いつもとは経路を変えて、大通りに出た。広い街路の両側には黒い瓦屋根を戴く店舗が軒を連ね、店の売り子や振り売りの呼び声がひっきりなしに聞こえてくる。
街路沿いには赤い灯篭が山査子飴のように連なり、繁華街の入り口を示す牌坊のたもとには、輿や貸し出し馬車の業者がたむろしている。今は閑古鳥が鳴いているようで、座り込んで紙牌遊戯に興じている者もいれば、一人は牌坊の礎石に腰掛けて書を読みふけっていた。
大勢の人で賑わう商店街を行き過ぎると、立派な階段状の馬頭墻を持った書肆の姿が見えてきた。少しくらいならいいだろう。照壁を回り込んで、店内に入った。
街の喧騒もここには届かない。静かで少し薄暗い店内は、紙の繊維と墨の匂いがする。書物も好きだが、こういう書肆の空気自体が好きだ。長居は禁物、書棚に積み上げられた本をざっと検分する。馮夢龍の話本に、湯顕祖の戯曲――いや、俺が探しているのはこれじゃあない。
目当ての経書の注釈本は、入口に近い棚に並べてあった。気になった一冊を取り上げて頁をめくっていると、誰かが店に入ってくるのがわかった。後ろでふっと空気が揺らいで、気配が通り過ぎ、店の奥に向かっていく。
「店主殿!」
明るい声で、人影は店の主を呼んだ。
「おお、徐さま。お待ちしておりましたよ」
まもなく、愛想のいい店主の声が応じた。どさどさと、机上に何かを置く音がする。
「早めに仕上げられてよかったよ。これが今度の原稿だ。少し量が多いけど、いつも通り校正をよろしく頼むよ。西洋語や文法に関わる所は、すでに利さんに確認してもらった」
「確かにお預かりいたしました。またこちらから連絡を差し上げますので」
「承知した。では、頼んだよ」
何とはなしに、俺は振り返った。
そこにいたのは若い儒生だった。二本の帯が付いた儒巾をかぶり、萌黄色の袍の上に白い上着を羽織っている。厚着と整える気もなさそうな癖毛が、どこか垢ぬけない印象だ。
間が悪いことに、しっかり目が合ってしまった。気まずいと思ったが、彼は微笑み、あいさつ代わりに会釈をしたかと思うと、軽い足取りで通りに出ていった。
「……?」
何故だか胸がざわついて、俺は書物を開いたまま、その場でしばらく立ちすくんでいた。
彼とはどこかで会っただろうか。
「しまった」
ようやく我に返った俺を、待ち受けていたのは焦燥だった。これ以上遅れたらさすがにまずい。彼のせいで、結局何もできなかった。
……まぁいいか。
焦らなくても、時間はたっぷりある。
志を遂げるにしても、彼に感じた懐かしさを解き明かすにしても。
そんな気がした。
まばゆい江南の陽(ひ)が降ってくる。
その光は地面に照り映えて、笠をかぶっている自分の眼にも容赦なく入り込んでくる。
石畳を蹴りつけて、俺は通い慣れた仕事場へと走り出した。