俺にとって、シュウは友達よりも距離の近い、家族みたいな存在だった。
母親に連れられ、まあまあ大きい街から地方へ引っ越した。だだっ広い田んぼと畑の間に、ぽつんぽつんと木造住宅が建っている。その後ろには木が生い茂るでっかい山々。絵に描いたようなド田舎。
俺はまだ9歳のガキだった。慣れ親しんだ前の家を離れる寂しさとか、新しい学校でやっていけんのかなとか、とにかくいろんな感情がごっちゃになって、車に揺られる度ぐらぐら考えていたのを覚えている。
「はい、じゃあ自己紹介をどうぞ」
「ミ、ミスタリアスです…よろしくお願いします…」
黒板の前で挨拶をした時、自分に向けられるたくさんの目に耐えられなくて下を向いた。たくさんっつっても、そのクラスには10人しか生徒がいないんだが。今じゃ1クラス40人いる高校に通う身からすれば、なにそのくらいでびびってんだよって話だけど。
「ミスタ君の席はそこね」
「はい…」
ランドセルの肩ベルトを握りしめ、ちくちくと頬を刺す視線に耐える。窓際の机までの距離が何キロも先のように感じた。
ようやっと椅子に座り、教科書を開いてそこに書かれた文字を追うふりをする。本当は内容なんてちっとも頭に入ってこなかった。
「ねえ、」
鈴の音みたいな涼しい声だった。振り返ると、後ろの席に座った黒髪の少年が「それ、」とランドセルにぶら下げたキーホルダーを指さす。当時ハマっていたアニメのマスコットだ。どうしても欲しくて、親にねだって買ってもらったやつ。
「そのアニメ、好きなの?」
喉に言葉がひっかかって声にならなかったから、代わりにこくんと頷く。すると彼は目を細め、
「僕もなんだ」
と人懐っこく笑った。
外では蝉が鳴いていた。それがシュウとの出会いだ。
シュウはクラスの中で、というより学校の中で人気者だった。
頭が良くて、運動もできて、しかも性格もいい。同級生からも教師からも信頼があつい。マジですごいやつ。
そんなシュウはなぜか俺のことを気に入って、話しかけてくるようになった。俺は共通の話題で盛り上がれるのが嬉しくて、だんだんと俺の方からもシュウに話をふるようになった。
でも、シュウは普通のいいやつ、ってだけじゃなかった。
「ミスタ君、一人で大丈夫?先生がおうちまで送ろうか?」
その日は授業参観だった。俺の親は仕事が忙しいから来てないけど。でも、それはしょうがない。前の学校でもそうだったし、もう慣れている。
授業が終わった後。親と手を繋ぎ下校する生徒の列を席からぼんやり見ていると、担任の先生が眉を下げてそう提案してきた。クラスで親が来なかったのは俺だけだった。俺が寂しそうに見えたんだろうか。別に、いつものことなのに。
俺はノートと教科書をしまいランドセルを背負う。
「平気です。先生、さようなら」
「そっか…さようなら。また明日ね」
ぺこんと頭を下げ、廊下を出る。そこにはまだ何人かの保護者と生徒が残っていた。その間を縫うように進む。
「…しょうがないわよ、闇ノさんのお宅なんだから……」
「まあ、なにがあるかわからないし……」
聞き覚えのある名前に足を止める。誰かの母親らしき人物が二人、通路の端で話し込んでいた。そのうちの一人が俺に気づく。
「君、最近引っ越してきたリアスさんちの子?」
「あ、はい」
「君のクラスに闇ノシュウ君いるでしょう?逆らわないほうがいいわよー」
「え、それってどういう…」
さからう、って…シュウになんかあるワケ?俺はちょっと怖くなって半歩下がった。
「あそこのお宅はね、呪術師の…まじないを使う家なのよ。そのおかげでこの町を守ってもらっているけど、もし怒らせたら…なにが起きるかわかったもんじゃないわ」
「ちょっと、小学生にする話じゃないわよ」
「もし機嫌を損ねて、私達までとばっちりが来たらどうするの?それに、ここに住むならいつか知ることじゃない」
「それはそうだけど…」
まじない?まじないって漫画やアニメに出てくるみたいなやつ?おふだで封印したり、黒い炎で攻撃したり、みたいな…。
でも、シュウはそんなのを使う恐ろしい人間に見えない。この人たちが勝手に噂してるだけなんじゃないのか?
俺はまだ話し合いを続ける二人からそっと離れた。心臓がまだばくばくいっている。
まじない、なんて本当にあるわけないよな?家までの田んぼに挟まれた道を走る。怖くて背後を見られなかった。
「あ、ミスタ君、おはよう」
次の日。教室のドアを開けると同時、朗らかにあいさつしてくるシュウに、一瞬ためらって「…おはよ」と答えた。シュウが不思議そうな顔でこっちを見たけど、俺はすぐに椅子に座ってしまった。
…昨日のこと、ホントなのかな。クラスメイトと話すシュウの横顔を盗み見る。アニメで見たような、恐ろしい術を使うキャラクターと全然違う。
でも、今すぐシュウに聞く勇気が俺にはない。
俺はノートの端を破り、そこに小さく「じゅぎょうがおわったらはなしたい」と書いてシュウの机の中に置いた。気づいてくれるだろうか。
「はーい、みんなおはよう。出席をとるよー」
担任が入ってきて、生徒全員が自分の席に戻る。シュウが椅子を引く音に、胸がじんじんするような緊張を感じた。今、シュウは俺の書いた紙を読んでいるだろうか。
とんとん、
「!」
先生が板書に集中していたその時、誰かが俺の背をつついた。それにびっくりして肩が跳ねる。シュウだ。
彼は俺に折りたたまれた紙を差し出した。それを後ろ手で受け取る。
見つからないよう膝の上で紙を広げた。
”いいよ”
その横にゆるい感じの笑顔のイラストが描かれていて、俺は笑ってしまった。
ほら、シュウはいいやつじゃん。内心ちょっとでも悪いやつかも、と思ったことに後ろめたさを感じてしまうほどに。
西日が差し込む教室。他の生徒が帰るのを、俺は机にもたれて下を向き、シュウは座ったまま頬杖をつき外を眺めて待った。視線は交わらなかった。
「それで、」
最後の一人が出たのを見計らって、シュウがこちらに向き直った。
「なにかな、話って」
「……」
どうしよう。勢いで話があるなんて言ったけど、なんて切り出したらいいのか。俺は口を開いたり閉じたり、「あー、えっと…」と寒さでかさついた唇をもごもごさせた。
シュウがゆっくり瞬きして俺の言葉を待つ。
「…シュウの、家ってさ…その…」
俺の小さな声に、シュウは一瞬目を開き、「ああ、なるほど」と呟いた。
「聞いたんだね。僕の家のこと」
「、うん」
「本当だよ」
シュウの答えに左手が震えた。
「闇ノ家は呪術師の家系なんだ。だから、僕も呪いを使える」
「……」
「といっても、悪いことに使ったりしないけど。…でもやろうと思えば、誰かを傷つけることもできるよ」
シュウが俺の名前を呼ぶ。
「怖い?僕のこと」
紫の瞳は引き込まれそうなほど透明で、嘘をついても簡単に見抜かれてしまうだろう。
それでいて、シュウの表情は悲しそうだった。教室のカーテンが風に吹かれたら、一緒にシュウも連れていかれるんじゃないか。それはいやだな、と思う。俺、シュウともっと仲良くなりたいから。
「呪いとか、そういうのは怖い、と思う」
喉から出た声はかすれていた。シュウは俺から目を逸らさない。
「けど、シュウのことは怖くない」
「…どうして?僕は人を呪うこともできるのに」
どうして、ってそんなの、
「だって、お前頭いいし優しいじゃん。もっといい方法を思いつくだろ、きっと」
「……」
それはシュウにとって、予想外の返答だったらしい。彼はぱちくりと目を瞬かせて、黙りこくってしまった。
…嫌だったかな。思ったことをそのまま言ったんだけど。
「…すごいね、ミスタは」
「…は?」
なんで俺がすごいって話になんの?シュウ、俺の話ちゃんと聞いてた?
今度は俺がびっくりする番だった。
「それはシュウの方だろ」
シュウは首を横に振った。
「なんていうのかな…僕にないものを、ミスタはちゃんと持ってるんだよ」
「えぇ、マジで言ってる?」
「本気だってば」
寒くないようセーターの袖をギリギリまで引っ張って、軽口を叩きながら二人で教室を出た。
「俺、引っ越してきて友達できるか不安だったんだ。シュウがいてくれてよかった」
「…そっか」
真正面から言うには恥ずかしいので、下駄箱で靴を履き替える間にぼそっと告げた。
シュウは俺に背を向けて靴ひもを結んでいたから、表情はわからなかったけど、多分笑っていたんじゃないだろうか。
それから、俺たちの距離は確実に縮まった。朝言葉を交わすだけじゃなくて、放課後にも遊ぶようになった。シュウが教えてくれた小さな花の蜜を吸ったり、ゲーム機を持ち寄って対戦したり。特に何も話さずに、二人で神社の境内の石に座って過ごしたり。
そんなささいなことを鮮明に覚えているのは、シュウと過ごした時間が今でも好きだからだろう。
シュウはあの頃、仕事で家を空けがちな親よりも、ずっと近くにいた存在だった。なんでも話せて、頼れて、ふざけあえる兄弟みたいな。
三年後。
「ミスタ、待ってよー!」
「早く来いよ、シュウ!」
自分よりも背の高い向日葵の大群の中を走る。振り向くと、シュウは俺を見失わないように細い足を必死に動かしていた。
「はあ、はあ、はあ…」
開けた場所に出て息を整える。プールの授業ですっきりしたのにまた汗をかいたな、と笑った。
ランドセルとスイミングバッグを地面に置いて、木製の柵の上に腰掛ける。
俺とシュウのお気に入りの場所の一つだ。ここでだらだらと話をするのが夏の決まり事みたいになっていた。
俺は山の向こうで大きくなっていく入道雲をぼおっと見ていた。
「…あのねミスタ、」
隣で足をぶらぶらさせていたシュウが口を開く。
「僕、中学は私立のところへ行くつもりなんだ」
「……!」
私立。俺はその時まで、中学もシュウと地元の公立へ通うのだと信じて疑っていなかった。というより、私立の中学に入ることなんて思いつきもしなかった。
それで、と言いにくそうにシュウが続ける。
「もう小6だから、受験勉強しなくちゃいけなくて。もうこんな風に遊べないかも。ごめんね」
「そっか…」
足元の自分の影は、オレンジ色と紫色が混ざってどこか寂しそうだ。それを打ち消すように、俺はわざと明るい声を出した。
「でも、受験が終わるまでの話だろ?中学生になってもさ、一緒に遊ぼうぜ!」
シュウは顔を上げ、目を細めて笑った。
「うん、ありがとう」
「絶対だぞ!会ってくれなきゃシュウの家まで行くからな!」
「んはは、わかったわかった。絶対だよ」
だんだんと暗くなっていく夕闇の中で、俺たちは別れる時間を惜しむように、何時間も話し込んだ。
「おかえり、ミスタ」
アパートに帰ると、珍しく母親がリビングにいた。いつもは俺が眠くなる時間に仕事から帰るのに。
「母さん、今日は早かったんだ」
洗面所で手を洗い、ダイニングチェアに体を預ける母の元へ戻る。
「ミスタ、大事な話があるの。座って」
重い口ぶりに、俺は嫌な予感がした。
向かい合った母の顔は、疲れでしわが刻まれていた。彼女は「言いにくいことなんだけど、」と切り出した。
「ここを出ていくことになる。…今すぐにじゃなくて、来年の春に。すごく遠いところに移るわ」
息が止まった。
「中学からはそっちの公立に通ってもらうから、もう今の友達とは……ごめんなさい」
母は額を手で覆い、大きく息を吐いた。元々こっちに来たのは、母の親戚を頼ってのことだった。つまり、これ以上その親戚を頼れなくなったってことだろう。
「…大丈夫だって。ほら、一番仲いいやつも、中学は別のとこ行くんだって。だから別に、引っ越して困ることそんなないし、俺のことはいいから!」
俺は引っ越しをするというショックよりも、親の辛そうな顔をこれ以上見ていたくなくて、早口でまくしたてた。
「ミスタ、」
「シャワー浴びてくる!」
なにか言いたげな親の声を遮って立ち上がり、洗面所のカギをかけた。服をおざなりに脱ぎ捨て、シャワーの水栓をひねる。
「う、」
水の勢いが強すぎて、まともに顔に食らった。髪が濡れていくほど頭の奥が冷えていく。
小学校を卒業したら、もうシュウには会えないかもしれない。一緒に遊ぶこともない。ちゃんと約束したのに。
ぐず、と鼻を鳴らした。
シュウ、俺どうしたらいいんだろう。