リーンカーネーション(序/オルタネート・ブランチ)「行きなよ。もらった可能性がある可能性のお返しに、ぼくはこのドアを開けてあげる。ここに残るのはぼくだけでいい。ぼくが見ているきみたちが本当はただの板に書かれた絵だったとしてももう大丈夫。誰かの思い出と両手にいっぱいの傷とがあれば、夢想でも妄想でも可能性に浸りながら他の誰でもない今ここにいるこのぼくもきっと無限に幸せを噛みしめていられる。ごめんね。ぼくが最悪な目にも最低な目にも遭っていなくて。同じことはできないかもしれないけれど、思い浮かべることならきっとできる。同じ幸福は味わえなくても、その味を想像することだったら多分できるはず。……ほら、ぼくがきみを呼んでる」
振り向かずに山を下り始めた背中が見えなくなる前にドアを閉じた。何も変わりはせず部屋の中は散らかったままになっている。窓が開きっぱなしのせいで吹き込んだ土埃が薄く積もり、床はどこもざらざらしていた。どこから片付け始めるにしても疲れすぎている。「とりあえず」ぼくはそう呟き、流し台に転がっていたケチャップの空き瓶をごみ箱に突っ込む。何事も何かをしなければ始まらない。
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一歩歩くと波紋が揺れる。もう一歩歩くと細波が立つ。立ち止まって両手に抱えた光を水面に落とす。足元だけがぼうと薄黄色に照らされた。星のない夜は心細くなるほど暗い。さいわいなことに水は浅く、踝ほどの深さもなかった。底はなめらかに磨いた青い硝子板のようなものでできていて、水の温度より冷たかった。池なのか泉なのかそれとも海なのか、水はどこまでも広がっている。それ以外には何もない。水面には自分の顔が映っている。こんな顔だっただろうか。そんな気もするし、違う気もする。しゃがんで指で水面をつつくと波紋が広がる。底に触ると見る間に植物の茎が伸びてきて花が咲いた。いい匂いがする。深い森の奥から湧き出してくる風の匂い。夜に満ちる月の光の匂い。足元に影が差すのを見て立ち上がった。目を閉じたままでも水面に立つぼくが見える。
朝、目が覚めると生きているのだか死んでいるのだか区別がつかない。カレンダーはもう何か月も前からずっとずっと五月のままだ。窓際に無造作に置かれている写真立ての中身だけが自分の名前を思い出させてくれる。携帯電話は壊れてしまったのか電源が入らなくなったまま、修理に出すのを忘れっぱなしだ。
生きていても死んでいてもやることはたくさんある。要らなくなったものや壊れて使えないものをまとめて表に出し、そこら中に降り積もった埃を掃いて洗い物を片付けた。部屋の中から何もなくなっていくその間に何回か朝や夜が巡っていたと思う。それが全部済んでしまうと時間はまた動かなくなった。
家を出て山の上を目指す。夏に向かって緑が増えていく木々と冬に向かって黄色を散らせていく木々との中には何の目印もないが、何も迷うことはない。雑木林を抜けた先の頂上には洞窟がある。ずっとずっと下の地下奥深くまで繋がっている。その入り口には誰かが植えたのか、それともどこからか種が飛んできたのか、バターカップの花がたくさん咲いていた。ただ、その花は全て赤かった。
腰を下ろして遠くに広がる風景を眺める。街がどこまでも広がっているように見える。空は少しの隙間もなく薄い灰色の雲で覆われていた。地下と地上とちょうど境目のここから、ぼくはどこへも行けない。
同じことはできなくても、考えることならできる。誰もいない家を思い浮かべながら目を閉じる。想像の中にある窓はぼくの家の窓際とそっくりで、写真立てには何にも飾られていないところだけが違っていた。真っ暗い外から内側を覗き込むと白いカーテンがはためき、ぼんやりと部屋が月の光に染まっていく。