リーンカーネーション(序/春、チェリーブロッサムの下で)またいなくなってから一週間が経った。
今度はどうやら他の連中にもいなくなったことが解るらしい。ひょっとして死んでいるんじゃないか?
俺はというと、今度こそ探しもしなかくった。まったくと言っていいほど、そいつを見つけるための努力を放棄していた。
どうせいつか帰ってくる。やつは俺達のことが気になって気になって仕方がなく、ここから目が離せないのだから。そうしてあの人間のイデアと俺たちの認識の内側に存在することを見て、しばらくは満足して目を離す。どうせ見ていたとしても何も起こりはしない。少なくともこの俺はそう思っているし、実際そうしている。何もしない。あの人間に対して全く何もしたくないのだ。存在することをへたに取り扱って、何かを起こされたくなどない。
そうして一年過ぎ二年過ぎ、五年が経った。さらに数年が過ぎて、人間はその分だけ加齢しているようだ。何もしたくない。その意思を忠実に反映し、俺にはただの子供にしか見えない。まったく寸分の違いもなく、常に同じ形状を保ち続けている。後何年が経とうともずっと子供のままに見えるだろう。
もう本当に今すぐ放り出してだらけた生活に戻りたい。外に出た途端風が吹く。その風は寒くも冷たくもない。春だな、と思った。時間は前にだけ進んでゆく。そんな当たり前のことすら当たり前ではなかった俺にも、心細くなるほど新鮮な春の風は穏やかに吹き付ける。ああ、春だ。南天を低く廻る太陽が夏に向かってゆっくりと高くなっていく。
いつまでもそうしている訳にもいかず、足を引きずるようにしてついに郵便受けの前まで辿り着いた。なかったことにならないなら、返事を出すべきだよな。そう自分に言い聞かせながら。辿り着いただなんて大げさな、と半分は内心で呆れていた。ある花が飽きるまでリセットしてくれたおかげだ。あの人間ですら四回はリセットした。それらは俺に努力という努力の全てを放棄させるには十分な回数だったのだ。
郵便受けはひどい有様だった。前はいつ開けただろう。封書やはがきがみっちりと詰め込めるだけ詰め込められている。ゴミなんだか手紙なんだかわかりゃしない。取り出し口を開けるといくつかのポストカードらしきものが飛び出してきたが、それ以上はなだれ落ちることさえしなかった。そのゴミだか手紙だか解らない紙類を一つ残らず拾って家の中に戻る。兄弟が今日の夕食のメニューの希望を聞いてきたような気がするが、適当に答えてさっさと自室に引き上げた。まったくもって嫌な気分だ。
差出元を検めることが億劫で、何度放り出しかけたか自分でも解らない。チラシならいい。こっちの返事などお構いなしの通知だからだ。どこかのテーマパークの割引券だとか、デリバリーサービスのクーポンチケットならもっといい。パピルスが喜ぶからだ。友達や知り合いからの手紙が見つかる度、反射的に吐き気がこみ上げてくる。やるべきことを後回しにし続けてきたことへのストレスだ。
宛名書きはすっかり滲んで、雨に濡れた紙を乾かして更に濡れてしまったものをまた乾かして、を何度か繰り返したような塊がチラシの隙間に挟まっていた。あの人間からの手紙だった。
住所と宛名は知っている。不運なことにここには紙とペンもある。本当に、まったくもって本当に、心底、ひしひしと、身に沁みて厭だなとつくづく思った。被害者意識を持っているからだけではない。こちらが何を言おうが、そいつを切り裂くには十分な力になりうるからだ。さんざん厭がった後、厭になることすら厭になりようやく何か言葉を紙に書く気になった。長い挨拶なんか無駄だ。近況報告も要らない。なので、考えることに費やした時間のわりに出てきた言葉はとても単純だった。「するべきだった」。俺はその言葉の前や後ろに何かつけるべきか、説明を加えるべきか、そもそも何についてのトピックかを指し示すべきか、と考える羽目になった。考えに考え抜き、あーだのうーだの意味の持たない唸り声をさんざ吐き出し、やはり何も思いつかないことにもう一度頭を抱えた。これじゃまるで……これじゃまるで? 文脈上、この先に繋げる単語として自然な単語はそう多くは知らない。その全ての単語は意味合いから考えるとどれも適切でない。「まるで何とかのようだ。」その何とかにぴったりとうまく収まってくれるたった一言があればいいのに。心の内側にひりひりと焼け付いていく何かは確実に存在している。なんで俺が悩まなきゃならないんだ。それも、悪い方向に。仕方がないので、一番最初に思いついた単語を当てはめることにした。これじゃまるで……嵐のようだ。
偶然にしては出来過ぎたタイミングで、開けっ放しの窓から強い風と大量の花弁が流れ込んでくる。何事かとペンを放り出して窓の外を覗くと、そこには満開の何かの花の木があり、あの人間がいた。……フリスクがいた。
玄関まで回って外に出るのももどかしく、窓を乗り越えてそのまま外に出た。地面には散った花が積もり、クッションみたいに柔らかだった。逃げる前に追いつきたいが、走るのも癪でわざと歩いていった。急いでいるのか遅れようとしているのか訳が解らない。ともかく、人間は逃げずにこちらに背を向けて木の下にずっと立っている。
すごいでしょう。声の届く距離まで近付くと自慢げにフリスクはそう言って振り向いた。かすかに笑っていた。確かに否定するつもりがなくなるほど壮観だった。何がどう凄いのかはきちんと言葉にするのが難しいが、圧倒的な雰囲気に飲み込まれてしまうくらいにはとてつもない光景に覆い尽くされている。周囲を囲むように何本も花を咲かせた木が立っており、そして花は散っていく。円の中心に立つとそこに閉じ込められたように花咲く木々に取り囲まれる。
「チェリーブロッサムツリーの花が散るとアブダクションに遭うらしいんだ。不思議だね」
なんだそれは。全然因果関係が解らない。というかなぜチェリーブロッサムツリーなのか、そして一体何にアブダクションされるのか、もうその辺りからてんで理解できていない。
しかし止めどなく花は散っていく。それはもう見事なほどに。パーティー会場とかでやたらめったらにばら撒かれるコンフェティやライスシャワーとおんなじくらい勢いよく花弁が散る。
「はは。花が散ったくらいで大げさだよね。ある文化の人達はチェリーブロッサムツリーの花を見ると非常に物悲しいような、「一時的な感じ」を感じるらしいんだよ。その……ええと何て言ったっけ、瞬間的とか、束の間とか、短命とか……」
「儚い、だな」
「うん、多分それだ。はかない、を感じるんだってさ。なんでそんなに花にばかり注目するんだろう? そこに木があるのにね。はかないは全く感じられないな」
それは多分、チェリーブロッサムの花がほんの短い期間にしか開花しないことから説明しなければならない。そしてその事実を踏まえて瞬間的に消え行くものの例えの一つとして使われていることも長々と説明しなければならない。この花の木の下でそんな長い話をできるだろうか? 今ここに舞い散る花弁はいつまでも尽きない。
考えるうちに眠り込んでしまったらしい。ふと気が付くとペンを握ったまま机に突っ伏していた。ただ、紙はなかった。
「なあ……あのさ、手紙……」
「手紙? ああ、それなら封筒に入れてポストに入れてきたぞ! フリスクに送るんでしょ?」
「……中身、見たか?」
「いいや見なかった。ヒーローはそんな卑怯なことはしないのだ!」