年を数えるその理由はアイヌにも新年の祭りはある。
アシㇼパ ウㇰ エトㇰ カムイノミと言って、春が来たことを祝う祈りの儀式だ。雪が溶け、山が一斉に花開き、彩りに満ちた春という季節が来たことを祝う。暦よりも季節を読んで来た民族だ。
今は杉元の提案で和人の慣習に合わせて新年を祝うことにしている。同時にアシㇼパの誕生日でもあるからだ。故郷に戻ってからもう何回目になるだろう。
「私が生まれたのは真冬だけど、アシㇼパと名乗ると春生まれだと思われるんだ」
「和人も正月のことは新春、なんて言うよ」
アシㇼパは目を丸くした。
「元旦の頃は内地でも寒いだろう?どうして春なんだ?春を感じるものなんかないじゃないか」
「俺の親父が子供の頃は、元旦って梅の花が咲く時期だったんだよ。文明開化で暦が変わったんだって」
田舎の方じゃ旧正月の方が普通だったけどね、と杉元は言った。祖父母はずっと旧正月を祝っていた。農家が多い地域では特にそういう家が多い。
「梅の花…」
アシㇼパが呟いた言葉に杉元はどきりとした。昨年の正月にアシㇼパは成人を迎え、それもふたりで祝って過ごした。そしてこの程夫婦になったばかりのふたりである。夫婦となってから初めての新年であった。梅子の話は何となく言い出しづらく、アシㇼパも特に聞いてこなかったのでこれまでちゃんと話したことはない。自分と夫婦になるはずだった親友の妻の目の治療のために金塊が必要だった。そう話したっきりだ。何となく気まずい沈黙が流れたが、それを破ったのはやはりアシㇼパだった。
「…お前の初恋の人の…”梅ちゃん”ってどんな人だったんだ?」
金塊にまつわる入れ墨の囚人達の話を聞き、それを気味悪がりこそすれ機会が巡ってきたと縋るだなんて。よほど大切な人だったんだろう、とアシㇼパはぽつりと言った。
「責める気なんかないぞ。ただ知りたいだけだ」
杉元は逡巡した。いつかは聞かれるだろうと思っていたから、どんなことを話そうか考えてはいた。だが、いざその時を迎えると、どれも正解ではない気がする。どう話しても過去のことは過去のこと。今更変えられないし、掘り起こす気もない。梅子は自分の力で幸せを掴んだのだから、それを心から祝福出来る。幸せで笑っているといい、と願っている。
「隠すつもりなんかないけど…聞いてどうするの?」
「分からない」
即答だった。
「聞いてから決める」
話すまで梃子でも動かない、という気迫を感じた。アシㇼパの意志の固さはずっとそばで見てきた杉元が一番良く知っている。杉元は溜息を吐いて頭を掻いた。
「…アシㇼパさんと似てたよ。その意志が強いところ。優しいところもね」
寅次から聞いた、結婚式の後日談。杉元が梅子を連れに帰って来たのだとしても、一緒に行く気はないと。
「でも、梅ちゃんは寅次を選んだんだ。梅ちゃんのことだから、ちゃんと考えて、自分で決めてそうした」
一人で家に帰って、寅次が帰ってくるまでにご飯を作って待っている。子供の頃泣き虫だった寅次を慰めるのはいつも梅子の役目だった。梅子はそうやって寅次を受け入れて一緒に生きていくと決めたのだ。
「昔世話になった人がさ、”男はみっともない生き物だから、惚れた女のことは大事に仕舞っておいて、時々取り出して想ってていいんだ”って言ってくれたんだ。だから俺は引き出しに大事に仕舞って、時々取り出して、取り敢えず生きてていい役目みたいなものを確かめてたんだ。梅ちゃんのことを、俺は寅次に頼まれたから」
寅次は杉元を庇って砲弾を浴びたのだ。寅次が杉元のかわりに死んだのなら、寅次のかわりに梅子の目を治してやるという道理が杉元にはあった。
「寅次は…帰ってこられなかったけど…でも、それでも梅ちゃんは自分で決めて新しい人生を掴んだし、幸せになるために進める人だよ。俺は、昔から変わらない梅ちゃんだからこれからも幸せでいてくれると思うし、そう願ってる」
「……もし……」
「ん?」
「…もし、東京で再会した時、梅ちゃんが未亡人のままだったら、どうしてた?」
思いもよらない質問に今度は杉元が眼を丸くした。知りたいのは梅子のことではなく、杉元の気持ちの方か、とその時ようやくわかった。
「それでも俺の故郷はここだよ」
もっと正確に言うなら、今握る小さな手の持ち主が杉元の故郷だ。
「ねえ、こうなるのに何年待ったと思ってるの」
「え?」
「毎年アシㇼパさんがひとつずつ大人になるのを一緒に祝ってきたでしょ」
「え?だって、帰ってきてからずっと…」
故郷に戻ってからずっと、新年とアシㇼパの誕生日をふたりで祝ってきた。
「だから、待ってたって言ってんの。アシㇼパさんが大人になるのを。俺のいちばん大切な人にするためにね」
杉元はアシㇼパをひょいっと抱き上げて膝に載せた。いつもならこんな軽い荷物のような扱いを怒るアシㇼパだったが、今はそれも忘れてしまっている。あんぐり開いた口の紅唇を親指で撫でた。
「伝わってるものと思ってたけど。意外とまだまだ教え足りないのかな?」
ニヤリと笑った杉元をきっと睨み付け、懐に拳を放った。いつの間にかガッチリと肩も膝も掴まれて動けなくなっている。
「もうわかった!わかったから放せ、杉元!」
「いいや、アシㇼパさん。徹底的にわかってもらうまで放しません」
杉元はアシㇼパを懐の更に奥まで抱え込むように身体を丸める。
「…く、苦しい…放せ、杉元…」
「俺は羆よりも執念深いよ」
「わ、悪かった…疑った私が悪かったから…」
謝ってやっと解放されたアシㇼパはほっと溜息をついた。戒めは解かれたが、杉元の両手はアシㇼパを抱え込んだままだ。その手を恨めしげにじっとりと見上げる。
「やっと手に入れたんだから、簡単に放すもんかよ」
緩やかな拘束への文句は、口付けで言葉ごと飲み込んで塞がれた。