だれかの観察日記:司+レオ その⼈はいきなり部屋のすみにあらわれたので、とてもおどろきました。
ですから、このさっしはあの⼈の観察⽇記にしようと思います。
――朱桜司
♪
×⽉×⽇・くもり
その⼈はいきなり部屋のすみにあらわれたので、とてもおどろきました。
⽣気のないかおでぼう、としていて、さいしょは、ちみもうりょうのたぐい、かもしれないと思いましたが、その⼈も反応がうすいながらおどろいていたようで、なんどか⽴ったりすわったりをくり返したあとに、「ああ、ゆめか」とつぶやきました。
家のものにかくにんをさせても、⾸をかしげられるばかり。だれかをともなって部屋にはいると、その⼈はこつぜんといなくなるのです。
⼦どもになら⾒えるのではないか、と思い、こっそりと桜河をつれてきてみても、同じでした。
そればかりか、「坊はおばけがこわいんか」と笑われました。くつじょくてきです。
ともあれ、その⼈は、だいだいの明るいかみの⾊をしていて、どこかぐったりとしていました。
きれいな⾊のかみは、あちこちにはねていて、もったいなく思います。顔⾊もわるく、具合がよくないのかもしれません。
しおれた花のようなその様⼦に、お⽔でもあげようかと思ったら、いつの間にかいなくなっていました。
こうして、その⼈はたびたび、ぼくの部屋にいつの間にかひっそりといるようになりました。正体は分かりませんが、よく⾒ておくことで分かることもきっとあるでしょう。
ですから、このさっしはあの⼈の観察⽇記にしようと思います。
×⽉×⽇・晴れ
また、あの⼈があらわれました。
ずっと聞こうと思っていた名前を聞いてみても、かたくなに教えてもらえませんでした。
だから、ひとまず「あなた」とよびかけることにしています。こちらも「おまえ」とよばれるのは少しばかりふほんいですが、名乗らぬものに名乗る名はないのです。
どうして名前を教えてくれないのか、と聞いてみると、「どうしてあんなにたからかに名乗れたんだろうな」とひざをかかえてしまいました。
この、ぐったりとまるまる⼈が、ろうろうとした名乗りを⾏うなんて、そうぞうがつきません。
そんな名乗りを、いつか聞けるなら聞いてみたい、と思ってしまいました。
×⽉×⽇・くもりのち晴れ
今⽇は、気になっていたかみの⽑をさわっていいか聞いてみました。
その⼈は「べつに」とそれだけを答えたので、どちらにもかいしゃくできるような気がしましたが、さわりたくて声をかけたので、そのままかみに指をとおしました。
ふわふわとしていますが、やはり、あまりさわり⼼地はよくありません。ぴょんぴょんとあちこちにかみがはねていて、とちゅうでどうしても、指がつっかえてしまいます。
そこで思い⽴って、ぼくのくしで、かみをすいてみることにしました。
⼈のかみをすくのははじめてで、最初は「ギャ」とか「いた……」とか声が聞こえましたが、少しずつとおりがよくなって、⽑先がまとまってきました。
ぼくのつげぐしには、お⺟さまがときどきつばき油をぬってくれます。
そうして、かみがつやつやで、ふわふわに整ったのを⾒て「⽑なみがよくなりましたね」と⾔うと、何やらふくざつな顔をされました。
×⽉×⽇・⾬
いつものようにうっそりとすわっていたその⼈に、おもむろに「なにか紙ってある?」と聞かれて、少しおどろきました。ものをあげようとしても「いらない」の⾔葉ばかり聞いていたので、たよってもらえたほこらしさで、むねがいっぱいになりました。
朱桜の「もん」のすかしが⼊った和紙をわたせば、「もっとコピー⽤紙とかで良いんだけど」と⾔われてしまいました。コピー⽤紙というものを調べておこうとおもいました。
紙を何に使うのかとわくわくしましたが、「ごめん、やっぱりだめだった」と返されて、少しざんねんな気持ちでした。
×⽉×⽇・⾬
今⽇は、ぼくのひざとひざのあいだで、あの⼈がねています。
こんなになついてくれるなんて、といううれしい気持ちがあって、それでも、ぼくが⼤きければ、ひざの上にのせることができたのかもしれないと思うと、少しだけくやしいような、ざんねんなような、そんな気持ちになります。
少し前に、ちくしょうのようなあつかいはいやだ、というようなことを⾔われて、ぼくははたして、このよく分からない⼈のことを、ペットのように思ってしまっているのだろうか、と考えているところです。
答えはまだ出ません。この⼈がぼくにとって何なのか、まだよく分からないのです。
すぐそばで、やすらかなねがおを⾒ていると、ああ、なぜだか、今すぐに頭をひっくり返すようにたたき起こしてびっくりさせたい、そんな顔もみてみたい、という、勝⼿でぼうりょくてきなしょうどうにかられるからふしぎです。
気をまぎらわすように、ひたいにひたいをこすりあわせていると、⼆⼈分のかみがまざってあざやかでした。すぐ下から動物のようなうなり声が聞こえてきます。
この⼈はあまり寝起きが良くありません。
×⽉×⽇・晴れ
その⼈はいつものように、いつのまにか部屋にやってきたかと思えば、「学校へ⾏く」と⾔いました。あぶらあせを流しながら、何かにおびえるように⾔いました。
ぼくももうすぐ、⼩学校へ通学するようになります。学校とは、そんなにおそろしい場所なのでしょうか。しんけんな顔をするその⼈に、そんなところには⾏かないで、ここにずっといればいいのに、と⾔えなかったのはどうしてなのでしょうか。
「そうですか」とこたえたぼくの声は、⾃分でもおどろくほどにさびしげでした。
その⼈はそのまま、少しだけわらって、ぼくのかみをすくように頭をなでます。
そうして、ぎゅうとぼくをだきしめました。
それは強い⼒でしたが、同じくらいの⼒をしがみつくようにして返しました。そのあたたかさはどうあっても、ゆうれいやおばけなんかではなくて、じつざいする⼈間であるように思えてなりません。
ああ、やっぱり、もう少し⾃分が⼤きかったらよかったのに。よりそって、ささえてあげることができたかもしれないのに。
ふわふわとしたかみがほおに当たって、むしょうにかなしくなって、めいっぱいなでつけました。
その⽇をさかいに、あの⼈のことを部屋で⾒ることはなくなりました。
♪
そいつはいきなり部屋のすみに現れたから、結構おどろいた。
いいとこの坊ちゃんみたいな格好をした⼩さな⼦どもだった。向こうもおどろいていたようで、おれを不躾に眺めまわして「浮浪者……?」と呟く。失礼なヤツだった。
こっそり⾒に⾏った⽞関に靴はなく、こんな親戚もいないはずだ。
夢なのか、幻覚なのか。
幻覚とは⾒てる間はそうだと気付かないと聞く。まあ、そういうものなのかもしれない、と納得した。
⼦どもはこっちに興味津々で、つついたり、おっかなびっくり触ったり、そうしてたびたび質問をしたりした。偉そうで、どこか背のびをしていて、それでいて、きっと頭が良いのだろうな、と思わせる⾔動だった。これから先、何でもできるやつだ、きっと。
そう思うと、こうして何もできない⾃分の情けなさに消えてしまいたくなる。
しばらく曲を書けていない。おれの世界に⾳楽が鳴らない。
だから、ぐちゃぐちゃの譜⾯、書きかけの譜⾯の裏側に、何だかよく分からないそいつとの⽇記、のようなものを⼿遊びにつけてみることにする。
○⽉×⽇
部屋のそいつが、おずおずとおれに触れてくるようになってから、おれもそいつに触れてみることが増えた。
⼀度髪をすいたら気に⼊ったのか、たびたび⾼そうな櫛を持ってきては好きなように撫でつけている。⽑並みが良い、なんて⾔われようから、もしかしたらおれのことをペットみたいに思ってるのかもしれない。
お返しのように髪に触れれば、さらさらと細い髪はびっくりするくらい撫で⼼地が良い。それでも、無⼼に撫でていると「⼦ども扱いをしていますね?!」と怒られた(⼦供じゃないのか?)。
○⽉×⽇
尊⼤で偉そうな態度のそいつは、どうやら実際に、何やら⽴場を約束された⼈間のようだ。
いや、そこまで含めておれの幻覚かもしれないんだけど。
それで、「おまえも、⽀配がしたい⼈間なのか」と聞いてみれば、聞きなれないのか、「しはい?」と⼤きな⽬で聞き返された。
王さまとか、皇帝とか、そういう単語を並べて説明すると、少しだけ学院の中のことを思い出して、お腹がぐるぐるとした。
「⼈の上に⽴つ⼈間たれと教育をされてきました」とそいつは⾔う。確かにそんな感じ。
でも、考え込みながらそいつは続ける。
「それでも、それは、他の⼈を⾍のように踏みつけにするものではない、と思います」と。
しっかりしている。おれなんかより、ずっと。素直に「えらいんだな」とほめると、花が咲くように、そして、⾃信に満ちた顔で笑った。
ころころと変わる瞳の⾊は、キラキラと、チカチカとしていて、どこか、⾳楽の予兆みたいなやつだ、と思えた。
○⽉×⽇
⼩さい⼦に接する⽅法なんて分からない。まして、今の状況ではなおさら。
⾳楽というコミュニケーション⼿段をなくしてしまうと、おれはそもそもそんなに⼈とうまくやれないんだった。いや、⾳楽があっても、もはやどうだったか分からないけど。
たわむれに膝枕をしたりされたりしていたから(おれが膝にのるのは重そうだから、あいつの膝と膝の間に収まってやることにしている)、その延⻑として⽿かきでもしてやろうか、と提案すれば、⻑い思案のあとに「お願いします」と⼩さい声が返ってきた。
⽿かきはルカが⼩さい頃にやってあげていたことがあったから、まあ、失敗はしないだろう。
そいつは、どこかもじもじと緊張した様⼦で、膝の上で⽿かきをされている。⽿かきってなんか、こんな雰囲気になるものなんだっけ。何やら⾏き違いを感じる気がしないでもない。
それでも、聞けば「ぼくも少し前までならお⺟さまにやってもらったことがあります」と⾔う。余計に、何でそんなに恥じ⼊るのか分からないな。
○⽉×⽇
結局、体調は良くはない。引きこもってるせいもあるのかも。
頭は重く、ふらついて、何より世界に⾳楽が鳴らない。ステージに⽴つなんて、もはや夢みたいなことだった。
それでも、すがりつくように、確かめるように、曲を喉にのせようとする時がある。
たまたま聞かれてしまったらしい、かすれた情けない歌声を、そいつは⼤層気に⼊ったみたいだった。
「もう⼀度歌ってください」とたびたびせがまれるようになって、でも、もうこんなことに意味なんてないんだ、と呟くと、⽕がついたようにそいつは「そんなことはない」と⾔う。
しまいには、「あなたの価値はぼくが証明して差し上げます」なんて⾔い始めるものだから、何様なんだと思うと、少しだけおかしくて笑ってしまった。
いとおしいな。なんだかそんな⾵に、⾃然に思えた。
こいつが本当に偉くなるかもしれない世界が。
もしかしたら、そうして保証されたおれの歌声も。
○⽉×⽇
「学校に⾏く」
そんな⾵に、部屋のそいつに宣⾔した。
まあ、実際のところ⾏けるかは……分からないけど。
お⺟さんは制服を⽤意してくれて、お⽗さんも、出勤の時間を少し遅らせて、登校時間にいてくれると⾔っていた。だから、明⽇、とりあえず学校に向かう⼿筈だ。
なんとなく、だけど、これが別れの⾔葉であることを互いに理解していて、そいつは寂しそうな顔をしていた。最後まで、都合の良い幻覚だ。
最後の⽢えのように抱きしめると、あたたかくて⼒が強くて、⽣命⼒のかたまりみたいなその有り様が、やっぱりとても好ましいと思った。幻覚だとして、この先の成⻑を⾒てみたいと思ってしまうくらいには。
ああ、名前くらい聞いてみても良かったのかもしれないな。
もしも。もしもいつか、そいつに宛てた曲ができたときに、なんて名付ければいいか分からなくなっちゃうから。
♪♪♪
「そういえば、引きこもってた頃、家族ともあんまり話せなくなっちゃった時期があったんだけどさ、部屋の中で、尊⼤で⽣意気な座敷童⼦の幻覚を⾒るようになっちゃって〜、⻑いこと⼈と喋らないと結構危ないんだなって思った☆」
「何それ⽉ぴ〜、ヤバじゃん」
♪
「そういえば、部屋を整理していたらこんな書きものを⾒つけたんですよね……桜河、あなたのことも多少書いてあるようなのですが、⼼当たりありますか?」
「……なんやこれ、おかしな話やの。でも、本当に本家にこんな侵⼊者があったらそれこそわしらの⾸がとんでしまうわ。坊、案外空想癖があったんやなぁ」
【終】
幼少期×引きこもり期、ロマンがある……