その人の名前は 今日から新しい職場へと配属になる。気分を引き締めたくて、メイクは深めの暖色系でまとめてみた。少しはキリっとなったなと、鏡の中の自分に自画自賛する。新しいことが始まる時はもちろん緊張もするが、なにか胸躍ることも起こるのではと嬉々とした高揚感も感じることができる。我ながら、この前向きな性格がありがたいと思う。
配属場所へと出向き、部署総括の鶴見部長に今日から配属となります、よろしくお願いしますと挨拶をした。鶴見部長はよろしくと一言だけ言い、皆に私を紹介してくれた。その後、月島課長から部署の概要説明を受けたあと、
「夢主さんの指導係は、そうだな…ヒャクノスケでいこう」
ヒャクノスケ⁉頭の中に奇妙を表す符号が飛んだ。それもそのはず、若い人が大半の部署と聞いていたからだ。しかし、私が勤めている会社は、かなりの歴史があると聞いているので、部署にベテランの人がいてもおかしくない。どんな、お爺ちゃんがやってくるのかと思っていたら、呼ばれた彼は、白い肌に黒い大きな瞳、整った鼻筋に髭を生やし、髪はオールバックに整えられて、濃紺色のスーツは本人のためだけに作られたのではと思うほど綺麗に着こなしている若い男性だった。さらに特筆すれば、両頬にある縫合跡がどこか憂いのある表情を醸し出していた。彼は低く艶のある声でよろしくとだけ言って、仕事の説明を始めた。尾形百之助、古風な名前に興味を持ったが、それ以上に存在自体が私の好みで…一目惚れだった。
部署の人達は、尾形さんのことをヒャクノスケと呼んでいた。しかし、私は彼を尾形さんと呼んだ。彼は私の指導係でもあるので馴れ馴れしく接して嫌われるのも辛い、それ以前に、好きな人の下の名前を本人の面前で呼ぶことの恥ずかしさもあった。
ある日のこと、来客対応や書類作成など、いつになく仕事が忙しいことがあった。目まぐるしさに焦りながらも、間違いだけはおこさないようにと尾形さんに確認を取りながら進めていた。もう、何をやっているかもわからないくらいの忙しさになったとき、
「ひゃくのすけさん」
あ!と思った時には既に遅く、周りにつられてしまった無意識下の行動、馴れ馴れしかったかなぁ…と思い、すみませんと言って小さく頭を下げた。気まずさに尾形さんの顔を見ることができなかったが、
「いや…かまわない。皆もそう呼んでるから」
ぶっきらぼうだが言葉が返ってきた。よかった、いつもの尾形さんだと思い、安堵した。次に私が尾形さんに目を移したときは、すでに背中を向けていたので表情は見えなかった。
けれど、彼の耳元が赤く染まっていたのを、私は見逃さなかった。