誰も知らないいつものように山と積まれた本の合間で仕事に没頭する黒い恋人の部屋で見つけたものは、謎を秘めた古文書でなければ歴史を感じる遺物でもない、ふわふわゆるゆるとしたおよそ緊張感のない代物であった。
「……なんだこれ」
床を埋めつくそうとする紙束を拾い上げ立ち上がったテリオンは、丁度自分の目線と同じ高さの棚に鎮座している物体と目が合ってしまった。金刺繍の入った黒いローブを着て、特徴的な跳ね上がった前髪、艶感のある糸で縫い込まれた青い瞳。どこかで見たような特徴を揃えた人形は、前回この部屋に入った時には無かったものだ。
「ああ、それかい?なかなか良く出来ているだろう」
机から顔を上げたサイラスの答えはおよそテリオンが望んだ内容ではなかった。さらにすまないがそこの資料は動かさないでおいて欲しいんだ、と付け加えられてしまって渋々紙束を元の場所に戻す。
この部屋の有様は散らかっているように見えてサイラスの思考を組み立てるために重要な配置になっている。それを理解した上でも、テリオンにとっては足元が確保されていないように思えてしまってならないのだ。
「それで?なんなんだこの部屋にそぐわないものは」
猫のような足取りで棚に近づき片手でひょいとそれを持ち上げてみると、綿毛のような軽さと微かな繊維質の手ごたえが返ってくる。姿勢を作るために一部に大鋸屑か何かが詰められているのだろう。テリオンの経験上、少なくとも暗器の類は入っていないと断言出来た。
「王立学園の学生たちが活動している手芸の同好会があってね。今度作品の展示販売会があるそうなんだ。その作品のモデルにさせてほしいと打診を受けてね……キャットリンとか小動物とか、もっと可愛らしいものにした方が良いのではと意見したんだが、卒業を控えた生徒達が恩師を模した作品を作りたいと言うので許可したんだ。販売会の売り上げは聖火協会に寄付されるそうだよ」
旅路を共にした商人少女が聞いたら商機をみすみす譲渡したと怒り出しそうな内容に、テリオンは頭の中で眉間を押さえた。恩師と言うのは建前で、どうせサイラスの人形だけ量産されて売り上げを叩き出したに決まっている。
「モデルのお礼として一つ貰ったから飾ってみたんだが、確かにこの書斎よりは居間の方が雰囲気が合うかもしれないね」
あくまで飾るつもりでいるのか。自分モデルの人形を。と少々面食らったが、そもそも自分の容姿に頓着していないサイラスの事だ。この人形が自分に似ているかどうかはあまり気にしていないのだろう。
テリオン自身これはこの部屋に似合わないと発言してしまっている以上、同意を得ているのに元の棚に人形を戻すのは不自然だ。正直この家の何処にも似合う場所があるとは思えないが。
「調べ物もいいが、飯を食い忘れるなよ」
「ああ、あと半刻もしたらひと段落するんだ。一緒に食事にしたいから待っていておくれ」
当初の目的を達成し、ヒラヒラ揺れる羽根ペンを尻目に書斎を出る。右手には思わぬ土産を持って。
「(……飾る場所と言ってもな)」
そもそもサイラスの家は書斎に限らず落ち着いた内装で、物を飾る場所自体そう多くはない。偶に花を飾る壁龕か、暖炉の上くらいであろう。
長椅子に腰掛けて改めて人形を観察してみると、確かに細部まで細かい縫い目で丁寧に作られている事がわかる。簡略化されているとはいえローブの柄は金糸の刺繍がされているし、服も縫い付けてあるのではなく別に縫製した物を着せてあるようだ。
髪の結い紐やブローチもサイラスが使う頻度が高い物と同じ色が使われており、よく見ている事だとテリオンは小さく舌打ちをした。
「(モデルはあいつ……か)」
人形のローブをぺらりとめくり、何かを思いついたらしいテリオンが徐に立ち上がった。人形を小脇に置いたまま物入れから道具箱を取り出し、小刀や工具などの中から針と糸が入った小袋を手に取る。旅の間も装備の修繕に活用していたそれは、今もしっかりと手に馴染む。人形を前に黒い糸を針に通したテリオンの口元は、ニヤリと弧を描いていた。
「ああ、こちらに飾り直してくれたのかい。ありがとう」
スープを口に運ぶ優雅な仕草を止めて、暖炉の上にちょこんと座る人形を見とめるサイラス。別に礼を言われる程の事はしていないとサラダを取り分ける手を止めずに目線だけで返事をするテリオン。
「よく出来ていただろう?だけど一つだけだと何処か寂しそうに見えるね。君の人形も隣に飾りたいな」
「お断りだ。取り調べじゃあるまいしあんなに隅々まで観察されるなんて」
学生達に囲まれて外套の内部まで観察され尽くされる自分を想像して、ぞっとしないとその絵を打ち消した。
「はは、君にとってはそうかもしれないね。私も自分の人形なんて興味がわかないと思っていたのだけれど、細部まで作り込まれているのを見るとやはり嬉しくなってしまって。よく出来ていただろう?」
「ああ、あんたにそっくりになった」
「そうだろう?……なった?」
「そんな事より、書斎の前の廊下まで広がってる資料は明日には片付けるからな」
「え、ま、待ってくれテリオン!あれはあと少しで何かが掴めそうで……!」
執行猶予を必死で懇願しているサイラスは知らない。人形を作った生徒も贈った者も誰も知らない。人形の服の下、右太腿の後ろ側に追加された小さな黒子の事を。