~〝恋人ごっこ〟する燐ひめ ⑪ 告げられたホテルは徒歩で辿り着ける範囲にあった。一昨日から滞在しているのだとか、言っていたかもしれない。もう三日も。こんなに近くにいた。
目の前に聳え立つドアの威圧感。意を決してインターホンを押し込むと、すぐに人の気配がして。ゆっくりと室内の灯りが見えた、と思った次の瞬間、伸びてきた手に攫われるようにして抱き寄せられていた。
バタン、と背後で重い音を立てて扉が閉まる。
手加減を知らないみたいに背中と腰にきつく回された腕が熱くて、身体の芯まで焼かれそう。顔は見えない。赤い髪の毛が視界の端で揺れる。匂いが、する。
「——っ離せ」
「来たら、もう離せねェって言った」
「そんな自分勝手なことばかり、どんな顔して言うのか見てやりたくなっただけです」
ひと言、いや二言も三言も文句を言ってやりたくて来た。それだけのはずで、眦が痛むのはきっと怒りのせいだ。泣きたくなんてなかった。こいつのことなんかで排出する水分など一滴だって無い。
いくら身じろいでも腕の中から抜け出せないから、そのままぐいぐいと掌で押して進む。HiMERUに押されるがまま後退っていた燐音の踵が、やがてクイーンサイズのベッドの脚に引っかかって。HiMERUを抱きかかえたまま重力に従って仰向けに倒れ込んだ。
はずみで緩んだ腕から勢い良く顔を上げる。燐音を押し倒すような形になって初めて真上からその顔を見た。唯一の美点である顔は変わっていないなとかそのきっちり着こんだままのスーツは何だ似合うからムカつくとか、目につくことはいろいろとあるはずなのに。
(天城だ……)
それだけを思う。そこに
「……メルメルだ」
陶然とした呟きが重なったのを耳にした刹那。
ぽたり。
細く息をする薄く開いたままの唇に、水滴が落ちるのが見えた。
「メルメル」
ぽた、ぽたり。
またひとつ、ふたつ。紅潮する燐音の頬に落ちる。
静かに持ち上がった指がHiMERUの頬をやわやわと撫で、目頭から目尻をそっと辿って離れた親指は濡れていた。
くそっと悪態をついて、袖で慌てて目元を拭う。濡れた睫毛の先で細められた碧い瞳と視線を交わす。
「すごいカオしてる。……綺麗な顔」
そのワードはもういい、聞き飽きた。だからすごいカオって何なんだと言い返す前に「そりゃ怒ってるよなァ」と逆立った神経に無遠慮に触れるようなことを言うから。反射的に胸ぐらを掴んでいた。
「何を、やってんだよあんたは……っ」
「うん」
「結婚はしない? 必要なら後継ぎは作る? 種馬にでもなるつもりですか」
「うん。相手も納得して、そういうシゴトって言われりゃな」
「最悪。最低。故郷がどうのって俺達には関係無い、あんたが果たすべき責任だろ……っ。何のためにこっちを手放したんだよ」
「……うん。もう戻れねェだろうなァって思いながらここを出た。本当に」
じゃあどうして今ここに居る?
ぱたぱた。ぱた。昂った感情を吐き出すように再び雫が落ちて、懸命に唇を噛み締めた。きっと、本当にグシャグシャな見られたものじゃないカオをしているだろう。もう今更だ。
「カッコ悪い。最低野郎」
「うん」
「あんたはあんたの居るべき所で、幸せにでもなんでも」
瞬間。HiMERUの後頭部を覆った大きな手によって、言葉の端を縫い留めるように燐音の胸元に顔を押し付けられた。皺の無いスーツの襟がじわじわと色を濃紺に変えていく。それを目で追ってまた涙が溢れた。嫌だ、止まれ。HiMERUはこんな風に弱さを見せたりしない。こんなの〝HiMERU〟じゃない。
「すき」
頭上から降ってくる小さな声は震えて聞き取り辛かった。だからきっと、その言葉は聞き間違いの気のせいだ。
「メルメルが好き。メルメルがいい。散々抱いといて、今更ズリぃこと言ってる。ごめんな」
頬を押し付けた胸から、ドクドクと心臓が早鐘を打つ音がする。
「……っ知らねぇよ。そんなの」
好きになってしまったのは〝俺〟。好きになってほしいなんて思ってない。ステージの上の〝HiMERU〟が誰からも愛される存在でありさえすればそれだけで良いんだ。
「ほんと、口が悪ィな。おまえは」
乾いた笑いに「今から酷いこと言う」と告白が紛れた。抱き締める腕が僅かに力を増す。
「ただの情だと思ってた。カオは好みだしカラダの相性はいーしさァ。だから今だけ。離れて、触ることも無くなればそのうち元通りだろって」
——うん。俺だってそう思ってた。期限付きの、割り切って性欲発散できる都合の良い相手。それもとびきり気持ちイイ。
「それなのに、おまえのドロドロに感じてる顔とか無防備に寝てる顔とか、〝HiMERU〟の向こう側を見るたびに離れ難くなった。ヤバイなこれって思って、それでもおまえの部屋行くの止められなかった。……なんでなのか考えないようにしてた」
物の少ない、白い天井の部屋。シンプルなソファ。そこに似合わないビールのロング缶と使いかけのゴムの紙箱。食べかけのコンビニスイーツ。綺麗に見せかけて何一つ揃わない雑多な空間。アンバランスな自分たちにはぴったりな場所ではあった。何も飾る必要の無い、ふたりきりの。
「ステージのど真ん中でスポットライト浴びて歌って、芝居で賞を取ってカーペットの上歩いて。大事な弟くんと一緒に広い家で暮らして、そんでいつかはキレーな嫁さんと仲良く笑って生きてく。……そういうハッピーエンドを望んでいいんだよ〝おまえ〟は。だからさ、『来るな』って言われたあの日少しだけホッとした。最後に拒絶されて、これで元に戻れると思ったんだけどなァ」
そんなハッピーエンドなんて知らない。あんたが勝手に決めるな。そう心は訴えるのに貼り付いた喉奥は言葉を外に通してくれない。
「いざ離れてみたら、どうやって忘れたら良いかわかんねェの。何が元通りだよって、可笑しくて笑えもしなかった」
——元通り。今度会ったらその時は、そうできるつもりだったよ。俺だって。
淡々と動き続ける口を押さえ付けて止めてしまいたい。けれど左右のどちらの腕も持ち上がらなかった。降ってくる声が見えない紐のように身体中を優しく縛る。
「理由なんてわかってるよ、好きだってことしか無ェよ。でも、俺っちが酔いにつけこんで自分勝手に始めたコトっしょ。おまえの気持ち、一度だって聞いてない」
聞かれなかった。——違う、言わなかったのだ。いつの間にか生まれて無視できないほどに育ってしまった恋心。HiMERUに不要なそれはちゃんと修正するつもりだったから。
冷めきったように見えたのは表面だけで、結局その内側で低温火傷のようにジクジクと熱をため込んで少しづつ範囲を広げていった。情けなくも好きなままなのだ。好きになっていく。どうにもできないほどに。
こんな強欲になってはいけない。〝HiMERU〟だけで良い、俺は何も望まないと思っていた。のに。
——全部、ぜーんぶ。
「あんたなんかと、出会わなきゃよかった」
何度そう繰り返しただろう。何度悔いたところで、きっと。どうせまた惹かれてしまうのに。
「でもこうしてまた会っちまったなァ」
賭けは俺っちの勝ち。そう言って大きな掌が宥めるように背中を往復する。温かい手が背骨を辿って、首筋を這う後れ毛を指先に絡めて遊ぶ。賭け? そう上目で見ながら首を傾げたHiMERUの耳裏を長い指が擦った。
「逃げる時間も忘れる時間も。あったっしょ?」
「……」
そのどちらも選ばずに今ここに居るおまえが悪い。そう、傲慢な唇が告げる。
「〝恋人ごっこ〟はまだ有効?」
目の前に〝俺〟を好きだとか言う男がいる。手放すなんて……やっぱり、もったいない。
——欲しいものを。欲しがれ。
「……とっくに期限切れに決まってる」
「更新は?」
「不可」
「じゃあ〝ごっこ〟は終わりっしょ」
片手でHiMERUの腰を抱いたまま上半身を起こした燐音は、ヘッドボードに背中を預けて向き合うと右手の甲でHiMERUの鼻筋にかかる髪をそっとかきあげた。耳にかけるように流し、そのまま指先がカフスを摘み首筋を這う。濡れた頬に添えられた温かい掌が、するりと滑らかな輪郭を確かめるように動いて。色気を滲ませた男の顔がゆっくりと迫る。
「……っ」
咄嗟、というか、条件反射というか。
突き出した両の掌に感じた湿った吐息。ギュッと寄った眉とジトリ細められた碧色が不満そうにHiMERUを映す。
「……手ェ、退けて。キスできねェ」
「だって、それは」
その言葉は彼にとって軽いものじゃない。わかっているからこそ抑える指に力が入ってしまう。
「メルメル」
濡れた舌がペロリと掌を擽って思わず「ひ、」と肩を竦めた。碧い三日月の中にいる自分と目が合う。セットしていたはずの髪は額に落ちて、目元を赤らめて。抑えきれなくなった欲求に満ちた自分。
あぁもう、わかったよ。やっぱりあんたは君主サマだ。欲しいものに手を伸ばすんだな。たとえそれが誰のためにもならない我欲そのものでも。だからといって大人しく手に入ると思われるのも癪だ。
震えそうになる指先を叱咤して、重ねた両手をゆっくり引き離す。
「める、」
開放した口元が音を形作るより早く。薄く開いたそこに己の唇を押し付けた。
——俺もずっと。欲しかった。
ほんの一時触れただけ。ただそれだけのキスに、バクバクと耳元で心臓が鳴る。もう何度も身体の奥底を探り合ってきたくせに、その一番外側、表面が触れ合うことがこんなにも緊張して。こんなにも切ない。表現を生業としているくせにこの感情を表す言葉が見つからない。ただ、もう一度触れたい。
睫毛が絡みそうなほどの距離で見た燐音の顔に息を飲む。
(〝すごいカオ〟はどっちだよ)
焦燥と欲望がギラギラ滲む。狙いを定めた獣のようなそれを見ていられなくて瞼を下ろすのとどちらが先だったのか。
「あま、……んうっ」
喰いつかれた。
くちゅくちゅと水音が止まない。
薄い皮膚が摩擦で熱くなるほどに擦り付けて、押し付けて、時折柔らかく食むように挟み込む。
キスをしながら息ってどうするんだったか。
「んん……っ ふ、あっ?」
苦しさに酸素を求めて口を開けば、すかさず僅かな隙間から厚い舌が潜り込んできた。狭い口腔内の壁を丹念に這いまわり、上顎を擽って、絡みとったHiMERUの舌をきつく吸い上げる。
飲み込みきれない唾液が顎を伝い落ちて、座り込んだままのシーツに染みを作った。もう一つや二つじゃ済まない。唇の隙間から湿った息がハァハァと溢れて止まず、後頭部を支える大きな手が髪をぐしゃぐしゃと乱しては、愛撫するように耳に指を這わせて孔の内側を引っ掻いていく。
もうめちゃくちゃだ。気持ち良い。ただ只管に熱を追う。
やがてどろどろに重なった唇が数ミリだけ離れた。やっと息ができるとほっとしたのもつかの間、今度は舌ごと燐音の口内に招き入れられる。
「は、……メル……ッ」
「ん、ふ」
ぬるぬるとした粘膜に包まれ、時折鋭く当たる硬い感触は形良く並んだ歯だろうか。
本当に、捕食されているみたいだ。
快感と酸欠とで現実か空想か判断できなくなった頃、幾筋も糸を引いてそっと唇が離れた。腫れぼったくなったそこはジクジクと痺れてもう殆ど感覚が無い。
「……ヤバい」
瞳を蕩けさせた燐音が情欲を剥き出しのままに口を開いた。長い指がHiMERUの火照った目元を撫でる。
「勃った」
「……」
瞬きを二度。
「……ふ、ふふっ」
「笑うとかひどくね?」
だってそんな、脱童貞チャンスを掴んだ高校生みたいな可愛い表情でそんなことを言うものだから。笑わずにいられるか。
ちらりと視線を流したそこは、仕立ての良いスーツの布地をまぁそれは見事に押し上げていた。可笑しい。なのにとんでもなく愛おしい。
「すいませ……っふ、」
「メルメル~」
好きなヤツとこんなキスしたらこォなんだろ! と声を荒らげる燐音の首に両腕を廻して身体を寄せる。
「メ、……」
擦り付けた下腹部。燐音の喉がこくりと鳴ったのにまた小さな愉悦を覚えて。
「……俺も。勃った」
本能だ。仕方ないだろう?
そう真っ赤な耳元で囁いて、舌を捩じ込んだ。
何も為せなくたって良い。ただ混じりあってしまいたかった。
「……ゴム無ェんだけど」
そんな予定では無かったし、ラブホテルでもないから備え付けのものなんてあるわけがない。「俺は構わねェけど、おまえの身体には良くないっしょ」と口を尖らせる燐音はやっぱり軽薄そうに見せた真面目な男だ。まぁ、君主とかいう立場上、そう軽々しく種を振り撒かないように刷り込まれているのかもしれない。
そんな彼のギリギリの理性を切り落としてやる手札がHiMERUにはある。
「持ってる」
「へ?」
親指と人差し指で作った五センチ四方の四角。この状況と形をみれば何かは明白。バッグの奥底に忍ばせたままだったそれを取り出す日なんて来なくて良いと思っていた。
「オトコなんだから用意しておけ、って言ったのはあなたでしょう」
使用期限、ギリギリなんですよね。と笑みを浮かべてみせれば、まぁるく見開かれた瞳がクシャッと目尻に皺が出来るほどに細められた。子供みたい。ああでも、子供はこんなことしないか。
「メルメルさいこー。悪りィ子。大好き」
「そうです、俺は強欲で諦めの悪い子になるんです」
そうだ、結局まだ言っていない言葉があったんだ。
両手を伸ばして大きな身体を抱き締める。それから、もう一度。ちゅ、と戯れるような幼いキスをした。
「あなたが好きです。天城燐音」
キスをしてしまったので責任は取ってやる。
真正面から伝えた言葉に、眩しそうに目を眇めた燐音の碧色には少しだけ水の膜が揺れたように見えた。
「キャハハ! やっぱおめーはカッコ良いなァ」
出会ってしまって。
欲しがることを覚えたあんたも俺も、きっといろいろが変わってしまったんだろう。あったかもしれないもしもの未来なんてもう知らない。
ざまぁみろ。