吉祥寺の雪「これから雪がひどくなる予報だろ? だから今夜は早じまいなんだ、ごめんね」
え、と零れた吐息は真っ白な靄となって吉祥寺の夜に消えていった。
うっすらと雪が積もり始めた東京はまだ20時にもならないというのに百貨店の明かりは落ち、雑貨店も明かりはあるものの閉店作業をはじめ、ファストフードでさえ入口に張り紙を貼ってシャッターを降ろし始めている。個人経営の居酒屋は気合で営業を続けているようだが、それも時間の問題だろう。駅には通常の五倍は人がひしめき、誰もかれもが我先にと帰路へと急ぐ。
指先ほどもある大きな牡丹雪が、止む気配もなく空から降り注ぎ、街灯の明かりすらもかすませた。
――そんな、たかがこれくらいの雪で。
思わず驚いてしまうのは、自分が地方出身だからだろうか。流石に道路に融雪装置が置かれているような雪国育ちではないが、除雪車だって融雪剤だって覚えがある。一家に一台は雪ダンプがあるような地域で育った蓮には、何年経ってもこの東京の惨状が信じられなかった。
慌ててスマホを開いてみると、深夜から大きな雪だるまのマークが並んでいる。しかも吹雪付きの。横殴りで雪だるまが傾いているやつ。そのすぐ上には注意報のマークが浮かび、ショートニュースには『交通網に影響があるため早く帰宅するように』との文字が踊る。かつて悪神からの脅威に打ち勝った東京は、たった5㎝の雪に膝を着いた。
「君も電車が止まらないうちに帰ったほうがいいよ」
ジャズバーのマスターはそう告げると、外に出していた看板をいそいそと中へ仕舞い込んだ。残ったのは頭に雪を積もらせた蓮ただ一人。
この日は必ずこの店で過ごすと決めていた。東京へ戻ってから、この夜を自室で過ごしたことは無い。人寂しいならば竜司でも祐介でも、なんなら女性陣でも、頼めば誰かと過ごすこともできるだろう。けれどこの日だけはどうにも一人でいたい気分なのだ。
たぶん、これは癒えかけていたかさぶたを無理やり剥がす衝動に近い。もうすっかり癒えているはずのものを端から爪で無理やり剥がして痛みを確認する。なんなら皮膚が破れ、血が出てしまえばいいとすら思っている。そうすれば、傷はただの皮膚には戻らず、来年もかさぶたを剥がすことができるから。なのに、四軒茶屋ではなくこんな吉祥寺で燻るなんて中途半端なことを繰り返しているのは、ルブランの存在が今の蓮にとっては強すぎるからだ。
一人であいつのことを想いたいのに、一番の後悔に近い苦痛が伴うルブランに残る勇気はまだ蓮にはなかった。あそこはあの日の夜の記憶が鮮やか過ぎて、猛毒だ。
室温、環境音、コーヒーの匂い、カレーの匂い、古びた本の匂い、やわらかな表情のサユリ、自分の心臓の音、途切れる吐息、ぐらぐらと揺れる思考、あいつの表情、視線、声、コートの衣擦れ、体温。
今なお鮮やかに蘇るあの日の会話。それを思い出すだけで、蓮の心臓は悲鳴を上げ、呼吸が浅くなる。
だからこそ四茶から離れた。あいつとの思い出が残る優しいこの場所で、あの頃飲めなかったアルコールを片手に痛みと静かに語り合い、存在を忘れずにいたかったというのに。
手元のスマホで近所のネカフェを検索するも満員状態、こうなりゃ金に物言わせてビジホだ社会人舐めんなと検索しても同じことを考えている大人は五万といる。いっそ会社に戻って泊まるかと画策するが、傷心の状態で社畜のモードになんて戻りたくもないし、大人になった今の居場所であいつのことを思い出すのは、どうにも辛い。まるで高校生のあいつを一人置き去りにしてしまったようで。
迷っている間にも次々と今夜の居場所が無くなっていく。さすがにこの雪の中、外で過ごすわけにも行かないし……。
迷いに迷った末、蓮は真っ白な息を顔面いっぱいに吐きながら、駅への道にずりずりと戻った。
あの日もこんな夜だった気がする。流石にここまでの大雪ではなかったが、うっすらと屋根が白くなっていたのを覚えてる。きっと外は氷点下だっただろう。店じまいをしたルブランはまだ暖房が効いていたが、それでもサイフォンもコンロの火も無い店内は外気温でじわじわと下がっていく。ドアの隙間から滑り込んできた冷気が、ひやりとまだ高校生の蓮の足首を撫でた。
あいつもきっと寒かっただろうなあ。
足元に視線を落とし、ざくざくと雪に足跡を残しながら蓮は思い返す。いつからこんな寒い空の下に立っていたんだろう。自分がすみれと話している間も、ずっと外にいたんだろうか。自分が屋根裏で暖かいコーヒーを飲み、ストーブに当たっていたとき、もうすでに外にいたんだろうか。ルブランに入って来たあいつの髪や服には雪が積もっていなかったから、どこか屋根のある場所にいたんだろうけれど、それでも丸喜が訪れたすぐ後にルブランのドアを開けたことを考慮すると、四茶のどこかにずっといたんだろう。
声をかけてくれればよかったのに。
最後に取ったあいつの手は、驚くほどに冷たかった。
思惑はあれど、別に一緒に待っていたって良かったじゃないか。
一緒にコーヒーを飲んで、アラジンストーブに当たって、これからの決意を固めて。
二人と一匹で過ごしたって良かったのに。
あいつは今日の蓮のようにたった一人、この冬空の下にいたって言うのか。
ず、と鼻をすする。思わず吸い込んだ2月の夜気は凍るほどに冷たい。
ああ、だからこの日だけは四茶に、ルブランに居たくはなかったんだ。
寒さで耳が痛い。鼻の先はきっと赤いだろうし、頭には白く雪が積もっている。
この夜に四茶にいるとどうしてもあの夜が色鮮やかに蘇り、蓮の心にジョーカーの姿で問いかける。
あの夜の選択は、本当に正しかったのか? あいつはあれで本当に良かったのか? あれが本心だったのか? あの言葉は建前で、本当はもっと――
そこまで思考がめぐって慌てて頭を振った。積もった雪が落ちる。
未だ、あの夜に向き合う勇気が、持てない。
けれど忘れることも出来ず、したくもなく、蓮はこうして傷心に喘ぐことしかできない。
世界を救ったって、現実を取り戻したって、冤罪を取り消したって、自由になったって。あいつがいなければモノクロだ。
雪道だからというわけでもなく遅くなる歩みであったが、無情にももうルブランがある通りまで来てしまった。このタバコ屋の角を曲がれば、あの日の記憶を持ったルブランがそこにいる。
「あれ……」
雪の影の奥に見えたルブランは、まだ煌々と明かりがついていた。
チャットを見たときに惣治郎から雪だから早じまいする、とあったのに。次いで10分以上間を空けてから「できるだけ早く帰って来いよ」とも来ていた。
酷い雪だから蓮が帰るまで明かりをつけておいてくれたんだろうか。それとも明日の仕込みか。それとも雪で足止めを喰らってしまった客が居残っているのか。何にせよ、ルブランに誰かがいるというのは今の蓮にとっては僥倖だ。惣治郎でも双葉でもモルガナでもいい。今夜ルブランで過ごさなければならないのであれば、一人になるには苦しくて仕方なかった。
足元に気を配りながら歩みを進め、氷のように冷たいドアノブに手を伸ばす。そうしてドアベルを鳴らして扉を開けた蓮の目に入ってきたのは、
「ずいぶん遅かったね。おかえり」
カウンター席に足を組んで座る一人の男の姿だった。
「は……?」
「ちょうど良かった。マスターに淹れてもらったコーヒーが冷めきっちゃってるんだよね。淹れ直してくれるかな」
そう言って黒い手袋をしたままカップに手を伸ばし、口へ運ぶ。手元にカウンターから拝借しただろう文庫本が半分以上のページで開かれているのを見て、ずいぶん長い間ここにいたことを知る。
そんな。こんなことって。
頭が白に、あの頃の気障ったらしいあいつの衣装のような鮮やかな白に、弾ける。
「ねえ、聞いてる?」
その少しばかり高い、苛立ちを含んだその声色。
隠すことなく顰められた眉。
ランプのような仄かな炎を宿した瞳。
あの時と違うのは制服ではなくセーターで、輪郭にはもう幼さは無く、髪はやや短くなったか――。
幻にしてはやけに鮮やかで、夢にしては男は自分と同じように年を経ている。
「あけ、ち?」
ようやっと漏れ出た声は、情けないほどに枯れていた。
それを聴いて、男が口の端を歪めて笑う。
いや別に泣いてたからじゃないけど。