Happily Ever After「徹郎さんの宗派ってどこですか」
譲介の忌憚なき問いかけに、徹郎は怪訝そうな視線でもって応じた。
「俺が神なんてもんを信じてるように見えんのか?」
「思想信条の話じゃなくてご実家の話です」
「ンな昔のこたァ忘れたね」
徹郎は気だるげな様子でベッドに横たわっていた。二人きりの病室。周囲を囲む物々しい機械の数々。専門知識がなければどれがどこに繋がるか見当もつかぬであろう大量の管。譲介はその間に紛れるようにしてベッド横のパイプ椅子に腰掛け、布団の上の空きスペースに頭を預けてぐんにゃりと力を抜いている。
清潔を保たれているはずの病室にはぼやけた疲弊の匂いが停滞し、燦然と輝くLED灯の下であってもどこか薄暗く見えた。何を隠そう、譲介はとんでもなく疲れていたのだ。ここ暫くまともに眠れておらず、清潔を保つためにシャワーを浴びに帰る他はほとんど仮眠室と医局、そしてこの病室をローテーションしながら暮らしていた。同僚からも朝倉からも徹郎からも再三帰って寝ろと促されていたが、どうしても積極的に帰宅する気にはなれなかった。
譲介の自宅。1BRの集合住宅。ここ数年継続していたモラトリアムの象徴。
真田徹郎と二人で暮らしたあの部屋へ一人で帰ることに、譲介はいまだに慣れられないでいる。
一週間前、仕事を終えて帰宅した譲介が玄関の扉を開けてすぐ目にしたのは床に倒れている同居人の姿だった。
倒れた原因は一見にはわからなかった。心当たりがありすぎたからだ。意識の確認をしながら救急車を呼ぶ間に呼吸停止、そこから怒涛の心肺蘇生。自宅のリビングに交代要員などいるはずもなく、無休でひたすら胸骨圧迫。救命士に一旦交代し、病院に到着してからは流れるように緊急オペ。
怯えている暇も焦っている暇も泣いている暇もなかった。怖気付いた瞬間オペ室に立ち入る資格すら失ってしまうのだ。腹を開いて臓腑を掻き分け原因を探し出し、どうにか処置が終わった時にはとっくに日付が変わっていた。
「死に水っていうからには神道か仏教でしょう。浄土宗? それとも日蓮ですか?」
徹郎が目を覚ましたのはほんの二日前、容態が安定しICUから一般病棟に移動してすぐのことだ。
三途の川を8割方渡りかけたのにもう喋れるまでに回復している。本当に人間なのか疑いたくなるほどの頑強さだった。共に救命に当たったスタッフの一部は若干引いているようだったが、今の譲介にとってはそれが大きな救いに感じられる。
「違いがわからん」
「南無阿弥陀? 南無妙法蓮華経?」
「どっちでもいい……」
「よくはないでしょ」
ここまで派手な事態になったのは初めてだが、徹郎が倒れること自体はこれが初めてではない。
定期的に腹膜内全体を薬に浸していても病は少しずつ彼の体を蝕み、今では転移していない臓器も数えるほどしか残っていなかった。歩行器を用いればまだ辛うじて歩けるものの、それも時間の問題だろうというのが譲介の見解だ。背中と脇腹周辺には10段階中7〜8もの痛みを常に抱えており、それを麻酔で2〜3までコントロールしやり過ごしている。徹郎の受け答えがやや投げやりなのは、麻酔の副作用である強烈な眠気に耐えている都合も大きい。
末期、と呼ばれるに相応しい様相。本人もそろそろだと折に触れては譲介を促し、かつての『約束』の履行を言葉もなく求めてくる。
それでも、彼があれほど嫌がっていた延命治療をおとなしく受けてくれているのは、譲介が泣いて駄々を捏ねた成果に他ならない。
譲介がメディカルスクールを恙無く卒業し、念願の医師免許を手に入れて、クエイド財団傘下の病院でインターンとして忙しく駆け回っていた頃のことだ。慌ただしくも充実した日々を送る譲介の前に、かつての養い親はかつてと同じ唐突さでふらりと姿を現した。
「手足に麻痺が出始めてる。もうメスは持てねぇ」
──静かにそう告げた徹郎の声を、譲介は今でも覚えている。
それは訃報に他ならなかった。流浪の闇医者の、伝説のKと名高いKAZUYAと比肩する執刀技術を誇った外科医の、ドクターTETSUの死。かつて見た鮮やかな手技が永遠にこの世から失われた事実への衝撃と、次に続く言葉が容易に想像できることへの絶望感に譲介は言葉もなく立ち尽くした。
ドクターの看板を下ろしただの『真田徹郎』となった男はほとんど着の身着のままでロサンゼルスまでやってきたようだった。所持品はほぼ無く、医療器具どころかあの大きな車さえ無い。身辺整理を済ませてきたと話す彼が持っていたのは体を支えるための杖と僅かな金銭と、『依頼料』だと言うバカの金額が記載された通帳だけ。
そのバカの通帳を譲介に手渡し、徹郎は口の端を歪めてシニカルに笑った。
「お前も医者なら勉強しただろ。『カリフォルニア州には尊厳死法がある』……さて、どうする?」
譲介は、ドクターTETSUがかつて一也にさせようとしたことを知っていた。一人と一也、二人の力によってその望みが打ち砕かれたことも。治療を続けると決めた後もけして延命治療を受け入れたわけではなく、完治を目指した闘病として己の病に抗っていたのだと知っていた。
その彼が再び『尊厳死』の言葉を口にした意味を。それを他の誰でもない、譲介に持ちかけた意味を理解した瞬間に、譲介は持てるプライドを全て投げ打ち一世一代本気の駄々を捏ねたのだ。
狂気! リノリウムの床に全身を投げ出して泣き喚くアラサー男!
と言っても本当に狂ったわけではない。命に対して諦め悪くあれという神代一人の教えに従ったまでのことだ。
この露悪趣味の捻くれ者には言葉を尽くした理詰めの説得より、視覚と聴覚にダイレクトに訴える強硬手段が最も有効だと譲介はよく知っていた。徹郎が譲介を呼び止めたのはプライベートスペースでもなんでもない病院のエントランスだったがそんなことは関係なかった。心臓に刺さったナイフを死ぬと知りながら引き抜いてしまうような男にとって、社会的死の危険性を孕む衆人環視の下で五体投地など全く恐るるに足らぬ些事なのである。
かくしてDr.和久井の乱心は一瞬で衆目の下に晒された。唖然とする外来患者とその家族たちの視線。何事かと医局から飛び出してくるクエイド所属のドクター達。湿っぽい別れの雰囲気から一瞬で阿鼻叫喚の地獄絵図へと転じた状況に流石の徹郎も大いに焦り、「もうやめろ、わかったから!」と叫ぶまでにさほど時間はかからなかった。
そんなこんなで、譲介は徹郎から延命治療を受けることへの合意をもぎ取ったのだ。覚悟の成した勝利だった。もし事の顛末を耳にすることがあれば流石の神代も「そこまでやれとは言っていない」と呻いたかも知れない。
それから約3年。譲介はいまだに朝倉から定期的なカウンセリングを推奨されているが、恩人の命と比べたら安い代償だといえるだろう。
「葬式の話ってこたァ、いい加減腹括ったか」
「腹は括ってますよ、死に水取るって言ったでしょ。まだ今じゃないだけで……」
「括れてねぇじゃねーか」
ヘタレめ、と譲介を罵りながら徹郎は目を細めて笑った。
痩けた頬。落ち窪んだ目元。日に日に薄くなりゆく体。どれだけ薬を打とうが体を切り刻もうが無情にも病は進行して、必死で食い止めようと抗う譲介の指の隙間から細く細く命がこぼれ落ちていく。
譲介は自分の選択がただの我儘であることをよく理解していた。真田徹郎は延命治療を望んでいない。「強くなる」ことを至上とし、なりふり構わず医学の道を突き進んできた彼にとって、自力で立ち上がることすらできないほど衰弱した体を他人に世話されるのは拷問に近い辱めだろう。いまだって本当は一刻も早く楽にしてほしいと思っているはずだ。
分かっていて、譲介はそれを黙殺し続けている。
「今じゃないですけど、見送りの時くらいちゃんと本人の希望に添いたいじゃないですか」
「フン。死んだ後のことなんざ知ったことかよ。適当に焼いてその辺に撒いとけ」
「そう言うだろうと思って調べたんですけど、散骨って結構めんどくさいんですよ。手続きとかマナーとか。地域住民の理解とか。場所も限られてますし」
「希望に沿いたいとか嘘だろお前」
本当は可能な限り墓参りのしやすい場所で眠ってほしい。死んだ後くらい『そこに行けば会える人』になってほしい。
思っていても口には出さない。譲介はあの日からずっと憤っているのだ。
和久井譲介は真田徹郎に対してとても怒っていた。突然現れて勝手に自分を救って、唐突に突き放してまた会いにきてまた救って、またいなくなって。手紙を読んでくれていたならもっと来てくれたっていいのに、結局本当に最後になるまで連絡の一つもくれなかった。
その上「どうする?」と来たものだ。自分こそ譲介に断られたらどうするつもりだったのか。誰か他に当てでもあるのか。考えた途端『絶対に思い通りになどさせてやるものか』と言う気持ちが腹の底からわっと押し寄せて、譲介の心に一つ大きな決意を固めさせた。
──この人のいうことなんて、もう何一つだって聞いてやらない。
それは反抗だった。高校生のころ満足にやりきれなかった反抗期を、譲介は30歳を超えてようやく迎えることができたのだ。
「じゃあ、もう、なんでもいいわ。適当にやっといてくれ」
「お。言いましたね? だったら僕の好きなようにやらせてもらいます。バカみたいに派手なセレモニーにしてやろう」
「は? おいバカやめろ」
「K先生も一也も村の皆さんも呼びます」
「呼ばれた側が困るだろそれは。やめろ」
「葬式代5000万使いますから。耳揃えて返しますから」
「やーめーろっつってんだろ」
折角だから骨壷も豪華にしてやろうと思い立ち、譲介はのろのろとベッドサイドの机へと手を伸ばした。手にとったスマートフォンに「骨壷 ド派手」と支離滅裂なワードを打ち込み検索をかける。有田焼、七宝焼、金箔貼り、たまに紛れるペット用。ページを開いては閉じてを繰り返してスルスルと結果を引き下げていた指が、不意にポップした広告を前にしてピタリと止まる。
「……ダイヤモンド葬」
「あ?」
「徹郎さん、ダイヤモンドになりませんか」
徹郎は哀れむような目で譲介を見た。
「ナースコール押すか?」
「狂ったわけではなくて。メモリアルダイヤモンド、知りません?」
宝石の王とも呼ばれるダイヤモンドはああ見えて炭素の同素体である。炭素を加工してダイヤモンドを合成する技術はすでに確立されており、生成された人工ダイヤモンドは工業や服飾の現場で広く活用されている。
その技術を遺骨の加工へと転用したものがメモリアルダイヤモンド。故人の遺体を火葬した後、残された遺灰から炭素を抽出し、熱と圧力をかけることで人工ダイヤモンドとして生まれ変わらせる。2000年代に開発された、墓を持たない決断をした人々に対する新しい選択肢の一つである。
「知っちゃぁいるが。ジジイの死体圧し固めて作ったダイヤとかお前どうすんだよ。どこに売っても碌な値段つかねぇぞ」
「なんで売る前提なんだよ。一生大事にするに決まってんでしょうが」
無くすと嫌だから仏壇置いてそこに飾りますね、と宣言して、譲介は彼と共に再びあの部屋に戻る日のことを想像した。これからはずっと一人で使い続けることになるであろうベッド。寝室の一角に鎮座する豪奢な仏壇。真ん中に遺影と位牌、その手前にルースボックスを置いて、そしてその上にダイヤモンド。どれくらいのサイズになるかは調べてみなければわからないが、どの角度からみてもとんでもなく場違いであることは確かだろう。もはや他人を呼べるような部屋でないことは明白である。
その手前にクッションを置いて、一人になった和久井譲介は宝石になった真田徹郎にその日あったことを報告する。よかったことも悪かったことも、今でさえ言えないような話をこれでもかと語り尽くす。物言わぬダイヤモンドは部屋の明かりを受けただ静かに輝いて、譲介は毎日少しだけ泣きたくなるのだ。そうやって少しずつ年を重ねていく。悪くない未来だなと思う。
「形に残すと引きずるぞ」
「いいんですよ別に、どうしたって引きずる予定なんですから。縋るものの一つくらい残させてください」
「マ、かまわんぜ。好きにしな」
譲介は徹郎を見た。徹郎も譲介を見ている。あの日見たシニカルな笑みとはまた違う、どこか安らかで諦めたように穏やかな笑み。
「一生引きずって、人生棒に振りやがれ」
その言葉が字面通りの呪詛ではなく、譲介の想いに対する徹郎の答えだとわかるくらいには共に生きてきた。
目の奥がつんと熱くなる。隠しても無駄だろうと思いつつ、声が震えないよう努めて明るく声を出した。「それなら、業者はどこにします? 今なら選ばせてあげますよ」体を起こせない徹郎にも画面が見えるよう、スマートフォンを手にしたまますぐ側へと寄り添いグッと顔を寄せる。痩せた体。低くなっていく体温。まだここにいてくれる命。
「そもそも幾らすんだよ。5000万で足りンのか? 葬式で破産してたら世話ねぇぞ」
「はいはい、それも調べればいいんでしょ。ええっと相場は……45万〜300万?」
二人は顔を見合わせて笑った。
「「……安!」」