▽
──人の息吹を感じる。
喧騒から隔離された部屋で、歓声が遠くで聞こえた。
この国は都市同盟という名を捨て、デュナンとして産声を上げた。その、建国を祝して式典が行われている最中だ。
そんな中でティアは一人、部屋で本の頁を捲っている。
この部屋に鍵はかけられていない。見張りが立てられているわけでもない。だというのに、ティアはこの部屋を牢獄のようだと称した。
足下を見遣ると、存在しないはずの鎖が巻き付いているのが見える。雁字搦めにされたそれは、この部屋の先、明るい未来を夢見て王に期待する民草に繋がっていた。
約束の地にてジョウイと武器を交え、彼の想いとともに片割れの紋章を宿したリアンは、削られていた寿命が戻ってきただけではなく、強大な力の副産物としてティアと同じく体の成長を止めることとなった。
帰ろう、と言ったきり必要最小限の言葉しか発しないまま、リアンを連れ立ってデュナンへとひたすら歩いた。
バナーで声をかけられて、あれよあれよという間に同盟軍の、正確には軍主の手助けをすることになった。
それはひとえに、似たような境遇のリアンを己と同じ轍を踏ませたくなかったからだ。大切な人を戦いの中で手放してはならないと、紋章の運命に呑まれてはならないと、そう思ったからリアンの誘いを受けたのだ。
元から大きくはなかった彼の背中が一層小さく見えて、ティアは何度も天を仰いだ。
──この結末はなんだ。
──何がいけなかったのだろう。
後悔の言葉すら、紡ぐことは許されない。リアンの背中が、それを許してはくれない。
己の心境とは裏腹に、突き抜けるほど透き通った快晴が、獣の一匹すら現れない長閑な道のりが、酷く憎らしかった。
城下町へと戻ってきたリアンに、何も知らない市民と兵士達は喜びを露わにした。城の入口で出迎えた軍師は表情を動かすことはなく、「覚悟はできているのか」と一言宣うと、リアンは首を縦に振った。
そのまま城の奥へと進んでいったリアンを見送ってから、ティアは踵を返した。もう、己がこの地へいる理由がなくなったからだった。
本意ではない終焉を迎えたが、「この戦いが終わるまで君の力になろう」と言った約束は成された。
ジョウイが討たれた時点で、ハイランドという国は王位を持つ者がいなくなり、首を失った。ルルノイエ付近に残党は残っているが、烏合の衆の命を摘むことなど今の都市同盟ならば容易いだろう。
「トランの英雄、ですね?」
城下町の外へと出ようと門を抜けようとした矢先、番をしていた兵士の手にあった槍の切っ先ががティアに向けられた。行く手を遮るように左右で交差された槍に、反射的に足が止まる。
「これは、何のつもりだろうか」
「客人に対する不敬、お許し願いたい。どんな手段を使ってでも足止めせよと命を受けておりますので」
「手荒な真似はしたくありません。どうか城までお戻りください」
視線を向け、二人を見遣る。門番を任されるくらいだ、兵士の中では精鋭に入る手練れだろうが、今はあくまでも形式上武器を向けているだけで、敵と対峙したときのように構えているわけではない。使い慣れた長棍を持ち、接近戦に長けた己ならば容易に突破できるだろう。もしくは、城に戻る振りをして、日が落ちた後に城壁を越えてしまってもいい。
しかしそれのいずれもが、ティアがデュナンから追われる身となる選択肢だった。
「……わかった」
体に纏わり付く嫌な感覚を本能で感じ取りながらも、ティアは同意するしか道はなかった。
「マクドールさん、僕、この国の王になります」
数十分前に別れたばかりのリアンと応接室で再会した。酷く明るい笑みを向けてくる。それは本来、本拠地でリアンがよく見せていた表情だった。数週間見ることがなかった笑顔。
隣に立つシュウから、物言いたげな視線を受けた。普段から刻まれている眉間の皺が、より深く刻まれている気すらしてくる。
「決めたというか、シュウさんと以前から取り決めてたことなんですけど……僕らが再びここに戻ってきたら、そのときは王になると約束してまして」
「……そう」
「でも、漠然と王になるんだろうなって思ってたから……帰ってきた後のことを考えて準備をしてもらってました。ちょっと足りないものがあったから色々口出ししてたら……マクドールさん、いつの間にかどっか行っちゃってて。慌てて門番に通達出したんですからね!」
「突然いなくなったことは詫びるよ。でも、僕は、」
もうここにいる意味がないから、と次いで紡ごうとした言葉が、突如腕を引いてきたリアンの行動で遮られる。そのまま廊下を駆けたかと思うと階段を登り、見覚えのある扉の前で止まった。
「見知った場所ですけど、どうぞ」
そこは軍主をしていた際にリアンが使用していた個室だった。要人ではないティアも、何度か訪れたことがある。
公に話せないことを話すためなのかローテーブルとソファ一式が揃っていて、こんな部屋勿体なくて使えないとぼやいていたことを思い出す。
ただ、記憶と異なるのは壁だった。隣部屋へと繋がる路ができていた。本来扉が付けられていたのだろう、金具が取り外された形跡がある。
「ほら、ここ。マクドールさんの部屋、作ってみたんですけどどうですか?」
背を押され中に入るよう促され、抗うことなく踏み込むと。
リアンの部屋と同室のカーペットが敷かれ、壁には所狭しと本棚が並んでいる。それ以外には一人がけのソファとスツール、ロッキングチェアに小さなテーブルが一つ。窓からはあたたかな陽の光が漏れていた。廊下に繋がる扉はなく、リアンの部屋を経由しないと出られなさそうだった。
居心地が良さそうなその場所に、本能的にティアの体が逃げを打った。
仲間ではなくあくまでもリアンの手助けをしているという名目上、ティアは本拠地に部屋が作られていなかった。グレッグミンスターに滞在しているからいいだろうと、どれほどリアンに乞われてもそれだけは断っていたというのに。
元の部屋へと戻ったティアに、リアンが含み笑む気配がした。ぞくりと、悪寒が走る。
あれはまるで、ティアを逃がさないと言わんばかりの部屋だったからだ。
「……リアン。僕は──」
「マクドールさん、本が好きだから読み応えがあるように本棚も用意させたんです。本当は同室が良かったんですけど、一人で過ごしたいときもあると思って……こういう形にしました。読み終わっちゃったら図書館の本と入れ替えてもいいし、マクドールさんの欲しい本を言って貰えれば入手することだってできるし」
「リアン」
「でも、ほら。完全にバラバラなのは寂しくてベッドは二人で使えるように大きなものにしました!これから毎日、マクドールさんが隣で眠ってくれるなら幸せだろうなあって」
「リアン!」
「…………」
「僕は、この国から出て行く」
部屋の空気が固まる。
リアンは一瞬眉を顰めたが、再び口角を上げた。
「なんでですか?」
「戦いが終わるまで力になると約束した。もう、戦争は終わっている。それに、僕の紋章は脅威になるし、これ以上の滞在はレパント──トラン大統領から何を言われるか分かったものじゃない」
「そんなの、マクドールさんがここにいたいって言ってさえくれれば」
「無理だ。分かってくれないか、リアン」
「……どうしても、出て行くって言うんですか?」
琥珀の瞳がティアを貫く。敵意は感じられないというのに射殺されそうな眼光に、ティアは息を呑んだ。視線を逸らさず、リアンを見る。
暫くしてリアンは目を伏せると、盛大にため息をついてみせた。
「なら、あなたがいない日数分、民を殺していくことにします」
「……え?」
突拍子もない発言に、呆けた声が出た。
拒否しているのか、言葉の意味が脳内に入っていかない。
「一日なら一人、一週間なら七人、一年なら……分かりますよね?」
声の出ないティアに、リアンは笑いかける。さも、あなたならこの台詞が含む意味が理解できるだろうと言わんばかりに。
「身寄りのない年寄りか孤児から選びましょうか。ああ、ハイランドの捕虜でもいいですね。今更長年仕えた主を変えるのは難しいだろうから、一思いに死なせてあげるほうが幸せかもしれないですし」
まるで夕飯のメニューを考えているような声色でリアンは言った。
「なんで……」
「なんでそんなことをするのか、ですか?」
与えられた情報とリアンの表情が目まぐるしく頭の中で蠢いて、上手く言葉が生み出せない。
ようやっと絞り出した声に対して、何故かリアンは苦笑を浮かべた。
「そんなこと、マクドールさんは考えなくていいんですよ。僕に民を殺させない方法が分かりきっているんだから。ここにいれば、あなたに不自由はさせない。欲しいものがあれば何でもあげる。マクドールさんの身やその紋章を害する者は徹底的に排除するし、僕が一生守ります。だから────」
歩み寄るリアンから距離を置くように、後退る。
聞いてはいけない。耳を傾けてはいけない。
その先を聞いてしまったら、もう後戻りができなくなる。
ティアが床を踏み込むより先に、リアンが縋るように飛びついてきた。勢いのまま背中を強かに床にぶつけ、痛みに呻いた。それでも、体に乗り上げたリアンはそこを退こうとはしなかった。腰に回された腕に更に力が篭もる。
「この国に、僕の傍に、いてください」
息が苦しくなるほどの抱擁を振りほどく術を、ティアは持ち合わせていなかった。
「マクドールさーん!」
パタパタと廊下を走ってきたかと思うと、乱暴に部屋の扉を開けリアンがソファに座るティアに飛びついてきた。
普段よりも華美な装飾が施された式典用の礼服を身に纏っていても、行動がそのままなら印象は変わらないものだな、と一人思う。
「どうだった?胸を張って、かっこいい姿見せられた?」
「緊張したけど、ちゃんと話せました!それよりも、マクドールさんが逃げちゃうと思って心配で心配で、式典なんて早く終わらないかなって思ってたんです!」
「逃げられないって分かってるだろうに。まだそんな心配をしてるのか?」
「……まだ、逃げたいって思ってるんですか」
口を尖らせ、頬を膨らませてみせるリアンの頭上に被せられた王冠をテーブルに置き、やわらかな髪を撫ぜる。嬉しそうに胸へ擦り寄る姿に、ティアも口角が上がる。
「リアン。そう言うのは、揚げ足を取るって言うんだ」
「えへへ、ごめんなさい」
──良かった。殺す人数が増やされでもしたら、里帰りすらできなくなるところだった。
上目遣いで見詰めてくるリアンに口付けをしながら、ティアは顔も分からぬデュナンの民を想う。
悠久の時を生きるティアにとって、それは終わりのない贖罪なのかもしれなかった。