長らく顔を見せなかった富永から遊びに行く、と診療所に連絡があったのは突然のことだった。喜んで荷物持ちと出迎えを志願したのは一也と宮坂だ。一日数本しかないバスが到着し、懐かしい顔が手を振りつつステップから降りてくる。相変わらずの童顔であまり変わりないようだが、今までの富永と違う部分が一つ。富永の胸元にぶら下がってバタバタと動く生き物を見つけて一也と宮坂は挨拶より何より先に絶叫した。
「「誰なんですか?その子は?!」」
「おい、結婚したなら連絡ぐらいしろ。」
「いえ、してません。所謂シングルファーザーってやつですね。」
「…医者の癖に何と迂闊な。」
「いやはや面目ない。で、うちの太一はどこに行きましたか?」
「一也と宮坂くんと譲介で奪い合いながら小児科実習してるぞ。なあ、お前その名前。」
「太の字を付けるのは富永家の伝統ですから。一の字は戦友殿から一字拝借しました。」
「俺は聞いてないぞ。」
「事後承諾ってことで。でもいい名前でしょう?」
「まあな…一也!お前の肩車は高すぎる!」
すいません、と言いながら一也が富永の息子の太一を肩車から降ろす。慣れた手付きで一也から太一を受け取った富永が話を続けた。
「もうすぐ育休も終わるんで皆に会いたくなりましてね。しばらくお世話になります。」
「ずっといてくれたっていいんですよ!」
Kが何か言う前に一也が先に答えた。
「太一くんはお父さん似だねー?」
遊びに来たはずの富永が譲介と往診に行ったので一也と宮坂は休憩を兼ねた子守中だ。太一は一也の膝を椅子代わりにすっぽり収まっている。
「目元とか本当に富永先生そっくり。でも髪の毛はちょっと違うみたい。」
所々跳ねた太一の癖毛を指先で遊びながら一也が答える。
「直毛と癖毛だと癖毛が優性遺伝するから先生のお相手が癖毛だったんじゃないかな。」
膝の上に飽きた太一がよたよたと一也をよじ登ろうとするので慌てて抱え上げる。近くにいたKが自分の髪の毛をぐっと掴んでいることに二人共気付かなかった。
「あの、何かすいません。結局手伝ってもらっちゃって。」
「僕がやりたくてやってるだけだから気にしないでね。村の皆にも会いたかったし。」
兄弟子である富永の存在は一也と宮坂から何度も聞かされてきた。Kの一番弟子でもあると聞いていたのでどんな厳つい男かと思ったら物凄く普通の人が来た、というのが譲介の第一印象だった。
「こちらこそ太一と遊んでくれてありがとうね。」
「こっちも楽しんでるんで。あの、一つ聞いていいですか?」
「いいよー。一つと言わず何でも聞いて。」
医療に関する質問だと思っているのか、軽い調子で答える富永に口ごもりながらも譲介は問いかける。
「いやあの…こんなこと聞くの何なんですけど。その、相手に恨み言の一つも言いたくなったりしませんか?」
「え、ないない。むしろ太一に会わせてくれて感謝してるかな。」
その反応はいささか人が良すぎやしないかと譲介は思う。
「それに僕の我儘なんだよね、全部。」
ふいに真顔になって富永がそう呟いた。自分の我儘でシングルファーザーになって相手に感謝こそすれ恨みはない、譲介には全く状況が掴めない。普通なんだけど何だか謎の多い人だ、と譲介は富永の印象を改めた。
富永が帰って来ているという話は村中を駆け巡り、あちこちから往診のリクエストがかかった。今日も遠方まで往診に出掛けた際に雨が降りだし、予想外の土砂降りとなって富永を直撃した。
「お帰りなさい、富永先生。うわー、ひどいずぶ濡れ!」
「白衣被って走ったけど無駄だったね。中までびちゃびちゃだよ。ほら。」
シャツの裾を捲りあげて雑巾の要領で絞る真似をする富永に大判のバスタオルが被せられた。
「中年の半裸なんぞ見せるな。宮坂くんの前なんだからもっと気を使え。」
「いやー、すいません。男所帯だった頃の癖で。」
タオルでガシガシ頭を拭く富永を見ながらKが問いかける。
「富永、お前大病でもしたのか?」
「いいえ。僕は至って健康体ですが?」
富永の返答にKはそうか、とだけ答えた。
診療所に帰って来て一週間、そろそろだなと富永は考える。このまま居心地の良さに慣れてはいけない。ここに来るのは最後のつもりで来たのだから、と診療所のドアの前で深呼吸した。
「ただいまでーす。富永戻りましたよーっと…誰もいない?」
「ここにいるぞ。」
診察室から声がしたので覗くと、膝に太一を乗せたKがいた。太一は生えかけの歯がかゆいのか、Kの聴診器にかじりついている。
「いい光景だなあ。写真撮っていいですか?」
「子守三人が出払っててな。こいつ一歳児の割に手も足も大きいな。将来でかくなるぞ。」
Kから太一を受け取って富永が呟く。
「明日、帰りますね。一週間お世話になりました。」
一瞬の沈黙の後、太一を抱く富永の腕を掴んでKが言った。
「帰る前に俺に言うことがあるんじゃないか?」
「えーと。往診の給料は要りませんよ。」
違う、と呟いてKが立ち上がった。
「太一は俺とお前の子供だろう?」
「…やだなー、もう。特例とは言え、医師免許持ってる人が何言っちゃってるんですか?僕とKの子供って僕が産んだってことですか?僕、生物学的に正真正銘の男ですよ?」
いつにも増して饒舌に富永が返答するが、一瞬の間があったことをKは聞き逃さなかった。その返答を無視し、Kは富永の下腹部に手を伸ばした。
「前に見た時はこんな傷などなかった。」
下腹部を撫でられて富永が押し黙る。
「俺だって信じられん。でもな。お前の切開跡、連絡のなかった期間と太一の年齢、俺と太一の相似部分、全て辻褄が合うんだ。信じられないからと言ってこの事象を俺は無視できない。」
Kから見据えられ、富永は観念したように息を吐いた。
「…神代一人の観察眼見くびってたなあ。」
眠くなってきたのか太一がぐずり出したため、富永は背中をトントン叩きながら話し出した。
「出張でこっちまで来た時に酔った勢いで押し倒してきたでしょう?」
「…医者の癖に迂闊で見境がないのは俺の方だ…。」
ふふ、と笑いながら富永が続ける。
「実は酔ってないのわかってましたよ。僕も酔ってなかったんで双方合意の上です。」
それでもKは項垂れたまま顔を上げない。
「しばらくしてからひどく体調悪くなりましてね。腫瘍でもあるんじゃないかと自分でエコー検査して驚きましたよ。」
「恐くはなかったのか?」
Kが顔を上げて問いかける。何だか泣きそうな顔だな、と富永は思った。
「あなたがさっき言ったのと同じです。信じられないからと言って無視できなかった。で、自分がどうしたいか考えた時に。」
そう言いながら富永は腕の中に目をやる。太一は熟睡しているが、その手は富永の白衣を掴んで離さない。
「僕はこの子に会いたいって思ったんですよ。」
そこまで話し終えると富永はふーっと息をついた。
「これで全部です。僕の我儘で産むと決めたのであなたにも伝えませんでした。これからも何も求めるつもりもありません。」
そう言って立ち去ろうとする富永の手を掴んでKが引き止める。
「じゃあ何で会いに来たんだ?」
「…それも僕の我儘です。あなたには二度と会わないと決めていました。けど、欲が出たんです。あなたと太一が並んでる所が見たくなったんです。最後にその光景が見られたら、もう会えなくても生きていけると思ったんです。」
言い終わらない内にKが掴んだ手を引き寄せて片腕で富永を抱きしめた。
「だったら俺にも我儘を言わせろ。」
そのまま肩に顔を埋めて呟く。
「もうどこにも行くな。お前が抱えてきた物を俺にも背負わせろ。」
「僕はあなたに迷惑かけたくないんですよ。」
「好いた相手が自分の子供を産んでくれたことの何が迷惑だ。」
富永の目に涙が滲む、と同時に二人の間に挟まれた太一が目を覚まして泣き出した。
「す、すまん。苦しかったか?」
Kが慌てて高い高いを繰り返すが、慣れていないので動きがぎこちない。その姿を見た富永は泣き笑いで噴き出す。出来ればこの光景をずっと見ていたいと思った。
「落とさないで下さいよ!あなたにもできないことあるんですねえ。」
「当たり前だ!」
一也、宮坂、譲介の三人は診察室の外で口を押さえながら立ち尽くしていた。かなり前に帰院していたのだが、診察室から漂う空気を察して中には入らなかった。
「一部始終聞いちゃったわね…。」
「正直、驚いてるけど俺的にはピースがはまった感じもするよ。おい一也、放心してないで何か言え。」
診察室には聞こえないようにできる限り小声で会話する。
「この場合、お父さんが二人になるのかしら。それとも富永先生がお母さん、K先生がお父さんになるのかしら。」
「どっちでもいいだろ。親には変わりない。おい一也、いい加減こっち戻って来い。」
「いつまでもここにいる訳にはいかないわ…聞かなかったふり、できる?」
男二人が黙って首を振る。
「だったら思い切って中に入るわよ!」
「どうせなら何か言いながら入った方が良くね?」
「…家族が増えるんだから「おめでとうございます」でいいんじゃないかな。」
ずっと黙っていた一也が口を開く。宮坂と譲介も親指を立てて賛同しながら診察室のドアを開けた。