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    yoi_kure

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    yoi_kure

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    ngroウェブオンリー開催おめでとうございます!
    webオンリー「世界で一人のパートナー」様への展示作品です。
    支部にてプロローグを公開している「百目鬼家の籠」という作品のプロローグを含めた続きを執筆しておりますが、未完です。
    完成しましたら後日支部に完成版をアップ予定です。

    百鬼家の籠百鬼家の籠

    【prologue】

    「これ、御影に演ってほしいんだよ」

     梅雨の湿った空気が肌をなぞる、とある日曜日。
     白宝高校在校時代に何度か同じクラスになり、偶に会話していた程度の位置関係である同級生の鳥澤文哉(とりざわ ふみや)は久方ぶりの同窓との再会の挨拶もそこそこに目の前の御影玲王に向かって、そう切り出した。
     玲王の目の前にはA3サイズの用紙が左上を黒いクリップで挟まれた束の状態で置いてある。表紙には一文のみが簡潔に記載されただけのその束は何某かのゲラ、もしくは脚本だろうか。そう思いつつ先ほどの鳥澤の言葉を思い返すと、どうやらこれは「台本」のようなものであるらしい、と玲王は目の前の紙の束の正体に目星をつけた。

    「これ、台本か?」
    「うん、台本。オレが今弟子入りしてる監督の最新作」
    「あぁ……、今映像関係の仕事してるって電話で言ってたもんな。映画監督の助手、みたいな仕事か?」
    「そんなに大した仕事じゃないよ。専門の時に出したコンテ作品が偶々師匠の目に留まったらしくて。その関係で今も師匠の周りで出来ることさせてもらって修行してる感じ」
    「いや、すげぇじゃん!そっか鳥澤、高校の時から映画好きだったもんな。オレあの勧めてくれた映画何本か観たよ」
    「あぁ、アレ観てくれたんだ……」
    「まぁな!感想とか言ってなかったか?あ、もしかしてオレあの頃BLとかでバタバタしてたし言ってなかったかもな」

     そういえば、鳥澤とこうして話すのもBLに入るまで、もっと言えばW杯優勝を夢に掲げサッカー部に入部するまでだったような気がする。その後スグに凪に出会ってからの玲王の人生はそれはもう、そこいらのジェットコースターでも勝てないだろうと思うような二転三転した、最悪で最高の日々を過ごしていたのだから。
     目の前の鳥澤も、玲王も、そして凪も二十五歳になった。
     まだ現役の第一線をなんとか、玲王も凪もひたむきに走り抜けている。走り抜けられている。
     現在玲王と凪が所属しているチームは異なるが、それも数年後の二度目のW杯で日本代表として招集されると思っているし、それを目標に日々頭と体を使っている。そんな最中、オフシーズンに突入し凪とともに日本でゆっくり過ごすか、と都内のオフシーズンの際にのみ使用している別宅に到着したその日の夜、鳥澤から何年ぶりかのコンタクトが高校時代の知り合いしか知らないSNSアカウントのDMに届いたのだ。
     海外にホームを置いている玲王が偶々国内に降り立った日に届いたDM、それだけでもかなりの幸運を鳥澤は使っているが、まだ続きがあった。
     一緒に帰国するはずだった凪が、チームの広報に「これだけはっ!なんとか!絶対に断れないので受けてください!」と何十回と頭を下げられ渋々受けた仕事が入ってしまったのだった。本人は最期まで抵抗していたが、依頼先が某有名雑誌とあればコレは断ると後々に禍根を残しそうだと判断した玲王も凪を受ける方向で宥めたので、そうなればグズグズと恨み言をチーム広報と依頼主に呟いていた凪も雨に濡れた子犬のようにしょんぼりとして撮影現場までの送迎車に乗っていったのだった。
     撮影はインタビューも含める為、二日間の予定だと聞いた。なので、別宅の準備を整える為にも一足早く玲王のみで帰国したのだ。明後日には凪も羽田空港に到着予定なので、それ以降は久しぶりに何にも邪魔されず二人の時間を過ごせると、そう思って長時間の空の旅を超えてきた玲王にとって、その連絡はまさに予想外中の予想外であった。
     きっと凪と共に帰国していれば、いくら同級生といえど突然の「会って話がしたい」という申し出には快い返事が出来なかっただろう。玲王の男は嫉妬深いのだ。電話口でビジネスの話がしたい、絶対にマルチ商法等の胡散臭い話ではないし、名刺も渡すと鳥澤に懇願されたと話しても凪は決して玲王を離そうとしなかったに違いない、と殆ど未来予知のような確信をもって玲王は断言できる。
     なので、こうして一人で帰国し、かつ凪と合流するまで時間のある御影玲王と二人で話し合える時間を持てたことが鳥澤の第二の幸運であった。

    「いやぁ……、ははっ確かにあの頃、いや今もだけどさ、御影ホント忙しそうだったから。今回もダメもとで連絡したら返信くれてビックリしてスマホ落としたよ」
    「なんでだよ!いや、忙しいのはさ、ホラ有難いことにそうだけど、オレそこまで薄情者じゃねぇから、同級生からのメッセージに返信くらいするっつーの」

     笑いながらそう玲王が返せば、鳥澤は眉を八の字に下げながらも「ありがとう」と小さくお礼を呟いた。
     眉どころか肩まで斜めに下げたその様子に、どこか迷子の子どものような不安気を感じた玲王は「鳥澤からの連絡、嬉しかったよ」とニコリと微笑んだ。その玲王の顔を見てやっと安心したのか、鳥澤も身体に入った力を抜くようにほぅっと小さく息を吐いた後、目の前のとうに冷めた珈琲を一口啜った。
     ふと、目の前の鳥澤の顔をよくよく見れば、凪とはまた別ベクトルの童顔だということに気がついた。話していた高校時代はその年齢もありあまり目立った特徴ではなかったが、なるほど、日本人男性の平均身長よりも低いのだろう背丈とこの未成年に見えるような幼顔だと、実際に同級生として過ごした記憶がなければ大学生位の年齢に間違えてしまいそうな雰囲気がある。
     普段ヨーロッパでガタイの良い人間に囲まれ「日本人は若く見えるな」と周囲に言われている玲王にとっては久しぶりの同郷の人間に少し心が解れた心地がした。しかも、鳥澤はどこか周囲に「守ってやらねば」と思わせるような自信の無さや、挙動があった。それが益々反対の気質をしている玲王の庇護欲を震わせた。

    「で……本題に戻るけどさ、この台本の映画にオレが出演するって話で、いいんだよな?」
    「あっ、うん!そう、その件なんだけど、電話で話せる話でもなくて……、ほらこういうの守秘義務が結構厳しくてさ。まぁ、こっちの都合でちょっと、守秘義務とか言ってる状況じゃないっちゃ、ないんだけど」
    「ん?なんかマズい状況なのか?」
    「……、結構ね。だから、今日もコッチの指定するカフェに来てもらった感じなんだけど。此処かなり穴場でさ、しかも師匠の行きつけだから結構融通してくれる場所なんだよね。今日のこの話誰にも聞かれたくないから、話し終わるまでお客さんが入ってこないように貸し切りにしてもらってる」

     貸し切り。どおりで待ち合わせの店が見つけにくいと思ったし、入店してからも誰の気配もないわけだと、そこで初めて玲王は自分が今いる状況の異様さに気がついた。そして、そうまでして人払いをしなければならない鳥澤の話の重大さについてもまた、同様に気がついていた。
     これはオレ一人じゃなくて誰か、そう例えば現在所属しているチームのマネージャー、もしくは御影家周りの仕事をこなす際に手伝ってもらっている私設秘書に一報入れるべき話だったのかもしれないと表情に出さずに心中で後悔をしながら玲王は、鳥澤に話の続きを無言で促した。

    「御影はさ、猿翁園冥(きおう えんめい)っていう映画監督知ってるかな?」
    「きおう……?って、あの猿翁監督か!?知ってるも何も何時だったかのアカデミー賞で外国語映画賞獲ってるし、近代日本映画界の宝って言えばあの監督以外いねぇだろ。映画史に残る名監督って言えば絶対にあの人の名前が出てくるしな。あ!そういえば、鳥澤に勧めてもらった映画もあの監督の作品だったよな。まぁ、最近はお年もお年だから暫く新作は出てねぇけど……」

     言いながら、玲王の顳顬(こめかみ)には薄っすら汗が滲んでいた。
     まさか……、その一言が喋りながら脳内から消えてくれない。自然、目線が卓上にある台本の表紙に向かうのを止められず、とうとう目の前の鳥澤ではなく台本を見つめようと首を真下に下げた瞬間、鳥澤の声がその日一番と言ってもいいほど澄んだ音色で玲王の鼓膜を揺らした。

    「その、猿翁園冥監督の最新作にして監督人生最後の作品の台本がソレって言ったら、どうする?」

     全ての音が止まった。
     顳顬(こめかみ)に滲んだ汗は既に筋となり、玲王の肌をつたっている。
     今自身が聞いた言葉の意味を正確に理解した玲王の脳内では、ここまでの鳥澤の行動が一本の線のように理解できた。なるほど、これは貸し切りにした店でしか話せない話だな、と。
     そうして、きっかり十秒。最後にきつく目を閉じ、大きく深呼吸をした後玲王は覚悟を決めた目で頭を上げた。

    「本気か?鳥澤」
    「うん、本気。前代未聞だし、今日御影に打診することは監督以外の誰も知らない。でも、その監督からOKが出た。だからね、御影」

     その直後、鳥澤は背筋を伸ばし、居住まいを整え身体を九十度に曲げた後玲王に懇願した。

    「どうか、この映画に出演してください」
    「この役を演じれる役者はきっと他にもいると思う。でも、違うんだよ……魂が。あの人の、師匠の最期の作品だからこそ、俺は上手い役者じゃなくて同じ魂をもつ人間を撮ってほしいって思ってる。勿論これは俺の単なる我儘なんだけど、でもさ、それを師匠に話したらいいぞって、師匠なんでか俺に甘いから。だから、我儘突き通させてもらったんだ」

     最後にもう一度、頼む、と言うと鳥澤は両の手を自身の膝にあて強くズボンを握りしめた。その様子を見ながら玲王は未だ開いていない台本の表紙をツゥっと人差し指でなぞりながら努めて柔い声で聞こえるように鳥澤に向かって語りかけた。

    「そんなにオレに似た役があんの?」
    「っぁ、うん!御影に似たっていうか、魂が同じ気がする役がある。って、ちょっとさっきから魂、魂って俺キモイよな。ごめん」
    「いや、全然。魂……、魂か。興味のあるなしで言ったら、滅茶苦茶あるんだけどな。でも、あの猿翁監督の作品、しかも最後の作品ってなるとスグに返事するのは難しいな」
    「あぁ……、うん。そうだよね、急にこんな話聞いたらそりゃそうだよね」
    「一個だけ、聞いてもいいか?その内容でこの話を受けるかどうか判断したい」

     玲王の問いかけに鳥澤の喉がゴクリ、と動いた。
     目の前の鳥澤の緊張を受けながらずっと気になっていた事を聞いてみようと、そしてその返答次第では自分が出来る限りの都合をこの映画につけてやっても良いと、そう決めながら玲王は審判を下す裁判官のような面持ちで鳥澤に問いかけた。

    「オレに演ってほしい役って、どんな役なんだ?」

     緊張しつつも、どこかその質問を待っていたかのような鳥澤は瞬間、どこか婀娜っぽいような笑みを口元に浮かべながら囁くように玲王に呟いた。
    御影に演ってほしい役はね、

    「天性のオムファタールだよ。それもとびっきりの。天使であり悪魔、花と棘、蜜と毒、そんな役」

     君にぴったりでしょ?と言わんばかりの目で、口元には笑みを称えながら提示された回答に玲王は一瞬目を開いたかと思うと、同じく目の前の鳥澤を真似るように口元に笑みを浮かべた。

    「初めてこの台本を読んだ時から、この役はキミしかいないなってそう思ったんだよ」

     続けて話す鳥澤の声を聞きながら、玲王は台本の表紙に書かれた「百鬼家の籠」と書かれた題字をそうっとなぞり、そして紙を捲った。


     かくして、梅雨の湿気の燻る中、御影玲王は銀幕デビューすることと相成ったのである。






    【1】

     久しぶりに降り立った母国の空気は湿っていた。
     纏わりつく湿った空気と絡みつく視線が鬱陶しい。羽田空港に降り立って真っ先に凪誠士郎が思った感想はその一言である。
     これはもう、今すぐにでも玲王の香りを心ゆく迄吸い込んで、スキンケアに余念のないしっとりと凪の手に吸い付く肌を擦らねばおかしくなるな……とボンヤリ虚空を見つめながら今後の算段を考えていると、至近距離から今まさに凪の思考の全てを桃色に染めていた張本人の声が聞こえた。

    「凪?おかえり。どうした?飛行機酔ったか?」
    「んぇ、ぁ、レオ。レオだぁ……」

     この世で一番好きな生き物が途轍もなく可愛い顔で凪の顔を覗き込んでいる。
     わ、可愛い……、と玲王に出会ってから既に何万回と思った感想をまた新たに感じた凪は、その衝動のまま目の前の玲王を抱きしめた。いい香りがする。日本っていい国だな、と凪は久しぶりの生の玲王の香りと体温にネジの外れた脳みそで母国への感謝の言葉を述べた。

    「っわ!はは、三日ぶりだもんな。よしよし、一人で帰ってこれて偉いぞ~凪!」
    「ん。もっと撫でて」
    「ふふ、安心しろよ。家着いたら今の倍撫で繰り回すからな」

     悪戯気に笑いながらそっと凪から身を離し、凪の頬をツンっと突くそのあまりの無邪気さと可愛らしさに「こんな可愛いのにこの人外出歩かせて大丈夫かな」と凪は心底玲王の安全が心配になった。

    「ほら、凪家帰るぞ!なんか盗撮とかされてるし……」

     やっぱり大丈夫ではなかった。先ほど「日本はいい国だな」と評した自分をぶん殴りたくなった凪はその衝動を抑えつつ、玲王を盗撮する輩と『話し合い』をする為周囲を見回した。
     ……二人の周囲二メートル以内に人はいなかった。というより、二メートル以降にドーナツ状に人が溢れかえっていた。端的に言うと、二人が目立ちすぎていた為ギャラリーを産んでいた。
     それもその筈、そもそも二人は海外リーグ所属のプロサッカー選手であり、また見目も良く、国内人気もある人物である。その顔立ちからBL出身者は殆ど芸能人のように各種マスメディアが扱ってきた影響もあるだろう。そんな有名人が出国ゲート付近で何やらイチャついているのである。それはもう、何かの撮影かと思う程目立ちまくっていた。

    「あ~、折角極秘で帰ってきたのにあんま意味なかったね、コレ」
    「だな……」

     瞬間、どちらともなく相手の目を見やり、凪も玲王も同時に人混みから飛び出るようにその場を駆けだした。
     あまりに突然の退場と、足の速さに周りを囲っていたギャラリー達も、その行動に追いつかず、ただポカン…と手を繋ぎながら空港内を駆け抜ける二人の小さな背中を黙って見つめていた。


    「え、なにそれ。明日から玲王、一週間もいないの?」

     あまりに衝撃的な宣告であった。
     空港での小さなハプニングを二人で切り抜け、ばぁやの運転するリムジンで玲王の別邸に辿り着き、さぁこれからは二人っきりの時間だ、と甘えるようにソファに座る玲王の膝にコロンと頭を乗せた瞬間頭上の玲王が申し訳なさそうに口を開いた。

    「あ~……、凪。ちょっと先に謝らねぇといけないことが、その、あってな?」
    「え、何?浮気以外だったら謝んなくていーよ。もし浮気だったら謝っても許さないし、ここから一生出さないから気を付けて言葉は選んでね」

     玲王の気まずそうな顔に、思わず瞬きもなしに普段は隠している本心を投げれば、浮気なんかするかよ!と少し怒ったような表情で凪の額に玲王からのデコピンが飛んだ。どうやら凪の本心は半分くらいしか伝わっていないようである。

    「い、った。え~……じゃあ、なに?どしたの?」
    「オレが浮気すると思ってる薄情な凪くんに教えることはありません。忘れてください」

     完全に拗ねている。拗ねた玲王も勿論可愛いが(寧ろ可愛くない時がない)、自分に何かを謝りたい、という話の内容は気になるのでギュゥっと目の前の玲王のお腹に抱き着きながら「やだ。言って」と懇願しながら頭をグリグリと押し付けていると、玲王の琴線に触れたのか頭上からンンッ…!という何かを堪える声が聞こえた。

    「んんっ、ゴホン。ま、まぁ……、今回は許してやるよ」
    「やったー」
    「もう言うなよ?あ~、でだな。そのな、先に謝っとくんだけどごめんな。実は明日から一週間、家の仕事でここに帰ってこれねぇんだ」

     そして、冒頭の凪の呆然とした呟きに戻るのである。

    「ホントごめんな。二人でゆっくり過ごすの楽しみにしてたのに、一週間も居なくて。実は関西の支社を各社回って顔を売って来いって親父からの命令が来たんだよ。断りてぇけど、正直かなり厳しくてな。本当に、ごめんな」

     謝りながらも辛そうに話す玲王の声を聞くと、当初瞬間的に湧き上がってきた玲王に対する怒りは既に凪の中では萎んでいた。なるほど、あの親父さん直々の指示だとコレは一週間というのも既に大分玲王の方で交渉した結果の期間なのかもしれない、と凪は感じていた。

    「ん~、分かった。いいよ、一週間もレオと居れないの悲しいけど仕方ないよ。その代わり、帰ってきたら俺とのんびりイチャイチャするって約束してくれる?」
    「え、いいのか?いや、オレが言ったことなんだけど、でも」
    「いいよ。レオに俺と親父さんの板挟みになってほしくないし」
    「う、それは……、ありがとうな」
    「ん。だからさ、帰ってきたらいっぱい俺とダラダラしよ~」
    「ダラダラは、まぁちょっとなら、してもいいかも。ダラダラじゃなくてイチャイチャだともっといいな」

     チュッ、と可愛い音とともに凪の鼻先に玲王からのキスが一つ落ちた。
     うん、一週間も玲王に触れずに我慢するのだから、我慢代として先にご褒美をもらってもいい気がする。凪は脳内でコンマ二秒の間にそのようなことを考え、そして実行に移したのだった。
     突然凪に姫抱きにされた挙句、寝室に連れこまれ「一週間我慢する代わりに今ご褒美がほしい」とどこか上目遣いにおねだりしてくる凪にNOとは言えず、それこそ今まで断固として拒否を貫いてきたハメ撮りまでも、息も絶え絶えな快楽の波の狭間で「少しなら」と許可を出してしまったほどであった。勿論、玲王が本格的に意識を飛ばすまでカメラは回され続けていたことを凪だけが知っている。


    ■■■


    「おう。座んなさい」

     玲王の目の前に座る着流し姿の老人はそう、ぶっきらぼうに告げると着席を促した。
     都内某所、高級住宅街の大きな家々の中にこれまた大きく立派な日本家屋が一軒。年代と歴史を感じる木々の色合いと大きな庭に彩られた家屋の一室、応接室として使用されている間に鳥澤と玲王は通された。猿翁の弟子と自称していたように、何度もこの場所を訪れたことがあるのだろう。顔見知りのお手伝いさんと軽い談笑をしながら玲王の一歩手前を歩く鳥澤の小さな背中を見ながら、玲王は自身が軽い緊張状態にあることを自覚していた。
     喫茶店での鳥澤からの映画出演のオファーを受けた時に交わした秘密保持契約書に書かれていた「映画出演に関して、監督及び鳥澤、所属チームの広報責任者以外の人間に口外することを禁ず」という一文。出演に関しての口外禁止は理解できるが、その対象範囲のあまりの広さに鳥澤に尋ねると、返ってきた答えは「それが監督の唯一の条件だから」としかなく、お陰で凪にも一週間の出張と偽って家を出てきたのである。
     世界最高峰の映画監督に対面するだけならきっと、玲王はここまで緊張しないだろう。映画監督という職業の人間とは初めて会うが、それでなくとも幼少期から様々な世界のトップ達と引き合わされてきたのである。相手がどんな立場でもそれなりの対応と愛想を振りまく自信はあった。しかし、あの解せない条件、そして演技のド素人の玲王を起用する度胸、その二つがこれから会う人物がただ者ではないと玲王の脳内に警笛を鳴らしていた。
     まぁ、しかしここでビビっていても仕方がない。もう話は受けると腹を括った後であるし、そもそも読ませてもらった脚本は、自身が出演する欲目を引いても素直に面白かった。猿翁監督作品特有のじっとりとした風景描写と人間関係に彩られた作品だった。
     そうこう考えていると、いつのまにか縁側を歩いていた鳥澤の背中がピタリと止まった。どうやら目的の部屋に到着したらしい。慣れた手つきで障子を引こうとする鳥澤の白い手を見ながら、玲王は一度ゴクン、と喉を鳴らした。

    さて、鬼が出るか蛇が出るか。


    「おう。座んなさい」
    「わっ!師匠、お待たせしました。先にいらっしゃってたんですね」
    「そりゃ、客人を待たせるわけにはいかんだろう」

     猿翁と鳥澤が話しながら玲王の着席を待っていた。その雰囲気を感じ取り慌てて鳥澤の隣の座布団へ正座する。

    「初めまして、御影玲王と申します。この度は作品への出演依頼をありがとうございます」
    「猿翁園冥だ。こちらこそ、こんな急な話を受けてもらって悪かったな」
    「いえ。確かに驚きましたが、有難いです。それに、鳥澤の誘い文句に落とされました」
    「ほぉ……、トリ坊お前なんて言ってこんな美人口説き落としたんだい」

     部屋に入る前の緊張を微塵も出さず猿翁に挨拶をすると、向こうも挨拶と軽い謝罪を返してきた。挨拶のために下げた頭を上げて目の前の老人を見ると、そこには雑誌の特集やネットでの写真からすこし老けてはいるが、未だ貫禄とオーラを背後に纏う好々爺が座っていた。
     黒く深い眼光に見るものを黙らせる鋭さがあるが、若い頃はそれはもうモテたであろうことが判る容姿に、黒髪が白髪に至る途中である灰色の髪。そして広い肩幅が濃紺の着流しを似合わせていた。もう暫くすると喜寿を迎えるご年齢であるに関わらず、体格の良さがスッと伸びた背筋から見て取れる。これは、また。中々大変な人物と引き合わせてくれたな、と隣に座る鳥澤を見れば、師匠の軽口に赤くなりつつ狼狽していた。

    「口説くなんて……。その、魂が似ているから出て(出演して)ほしいって言っただけですよ」
    「ははっ!鳥澤、俺が口説き落とされたのはその後の方の台詞だよ」
    「えっ!?ぁ……あっちか」
    「ほう、なんて言った?」

    「ぅあ、えっと……、天性のオムファタールの役を演ってほしいと、言いました」

     一瞬の間の後、応接間に猿翁の笑い声が響いた。

    「はははっ!そうか、オムファタールか。なるほど、トリ坊には紫葉(しよう)がオムファタールに見えたってことだな」
    「ぇ……、間違っていましたか?」

     師匠のいきなりの笑い声に、自信無さそうに答える鳥澤の声は小さく震えていた。これは何というか、少し雲行きが怪しい会話だなと思いながら自身の今後の予定にも関わることなので玲王も真剣になりすぎない雰囲気を出しながら二人の会話の行く末に耳を澄ませていた。

    「いや、間違ってない。確かにヤツはオムファタールだろうな。それも一等質の悪い性質のな」
    「ぁ、良かった……。師匠、脅かさないでください!御影もOK出してくれた後なのに今更違うってなったら俺、どうやって詫びればいいかって今必死で考えてましたよ」
    「はははっ!悪いな、トリ坊。お前はどうも、こう…揶揄いたくなる性質をしとるもんでなぁ」

     どうやら、玲王のオファーは継続するらしい。猿翁の風貌に最初はこの師弟関係は中々の厳しさと共にあるのかと思っていたが、この目の前で笑いながら話す二人は何も知らない第三者から見れば親子のようにも見えるのではと思わせるくらいには和気藹々としていた。そっか鳥澤、いい師匠に付いたな。と微笑まし気に同級生を見ていると、いつのまにやら猿翁の視線が玲王の方に向いていることに気がついた。

    「さて……、じゃあトリ坊。そんだけの口説き文句使って落としたんだ、自信あるんだろうな?」
    「はい。とびっきりの、オムファタールを連れてきました」

     とんでもない人格を期待されているらしい。
     しかし、それは鳥澤の頼みを聞いた時点で覚悟していたことであったので、玲王はあえて何も言わずにニコッと目の前の猿翁を見つめながら笑って見せた。
     玲王の笑みに何か感じたのか、猿翁は鳥澤を見遣ると「今晩一晩でコイツと話を詰めたい。明日からの撮影のためだ」と至極真剣な顔で語りかけた。その言葉に承知云ったとばかりに鳥澤が立ち上がり、過ぎ様に激励の意なのか、励ましの意味なのか玲王の背中をポンと叩くと、そのまま一礼した後応接間を後にしてしまった。
     驚いたのは玲王である。いきなり猿翁と二人きりにされたばかりか、今目の前の男は「一晩話を詰める」と言ったか?予想していなかった展開に、先ほどまでは表に出さずにすんでいた緊張が自身の身体を再び覆っていくのが分かった。

    「ふむ、御影、玲王と言ったな」

    二人きりになった静かな室内で、やけに猿翁の声が響く。
     その声に負けないようにカラカラに乾いた喉を震わせながら「はい」と答えると、再び猿翁の口が開いた。

    「お前さん、自分の苗字は嫌いか?」
    「ぇ、あ、いえ。嫌いではないです」

     好きです、とは断言できないけど。と思いながら玲王は猿翁の問いに答えを返した。実際、御影の名前と家に自分の人生は助けられてきた。それはもう、多大に。しかし、そのお陰で苦労したことも、人生の選択肢を減らされかけたことも玲王は覚えていた。嫌いです、とは言わないが、好きですとも言えない。そんな絶妙な位置に立っているのが「御影」という苗字であり、「両親」であった。

    「そう固くなるな。ただ、苗字で呼ばれる方が良いのか、名前で呼ばれる方がいいのか聞きたかっただけだよ」
    「あっ……、では、名前で呼んでいただけると」
    「そうかいレオ坊。お前さんも俺相手にそう畏まるな。ただアンタの人となりが知りてぇだけなんだ」

     人となりを知りたい「だけ」、なるほどコレは中々人の事をオムファタールだ何だと散々持ち上げていた癖に、この目の前の好々爺も中々の人たらしではないか、と玲王は思わず笑ってしまいそうになる口角を無理やり元の位置に引き留めた。
     こんな才能と自信、それと長きにわたる人生経験に裏打ちされた余裕を持つ人間に「お前のことが知りたい」と真っすぐ目を見つめられて心酔しない人間がいるのだろうか、と思わせる籠絡のオーラを感じていた。しかし、玲王とて幼少期から数々の大人たちに揉まれながら社交界を生きてきたのだ。見極められている雰囲気を察しながら、また玲王は反対に、こちらも仕事相手を見極めるチャンスだなと内心猿翁に対して考えていた。

     ……、カーン

     庭の鹿威しが鳴る。
     それはまるで、戦いの前のゴングのように、二人の間に響いて消えた。


    ■■■

     湖の近くに古い家があった。
     立派な造りをした洋風のお館である。山中に建つその館は山裾に広がる村の権力図の頂点に立つことを意味していた。山の木々が館の年月によりくすんだ卯の花色の壁を恥ずかしがるように隠し、湖が日光を浴びてキラキラと鱗のような瓦を照らす。そんな立派なお館が、物語の舞台だった。
     語り部は大学生の青年。
     民俗学を専攻している彼は恩師のフィールドワークに付き添い、近畿のとある地方を訪れる。
     本来の調査対象は別にあったが、滞在中の宿にて不思議な伝説を耳にする。
    ――曰く。
     山の中に建つ白いお館には昔「人ならざるナニカ」を飼っていた、と。
     与太話であろうと、恩師と青年以外の宿泊客は宿の主人の話を一笑に付したが、二人はフィールドワークのついでだとより詳しい話を主人にせがむ。主人は大正の頃に起きた実際の事件を滔々と語りだす。三羽の鳥と、ナニカの話である。
    「今の時分にはまぁ、ピッタリの話かもしれませんわな。ちょっとした怪談話みたいなもんですよ。実は私の祖父位の代にね、あの山ン中建ってる大きなお屋敷で殺人事件があったんですよ。当時あそこには御当主と奥様、それと一人息子さんがいらっしゃたらしいんですがね、ある晩その三人ともが死んじまったんです。それはそれはエライ騒ぎだったらしいですわ。駆け付けた駐在さんなんか、あの当時電気もそう頻繫についてるもんでもないですからね。ランタン片手に屋敷の中覗いていたらそこら中真っ赤な血が飛び散ってたらしいですよ。どれだけ暴れたのか、痛めつけたのか知らんですが遺体もそれはそれは酷い有様でね。真っ白な建物と真っ赤な部屋の中に見た人間全員が腰抜かして暫くまともに立つことも出来んくらいだったらしいですわ。でもまぁ、そこまでなら犯人は物盗りか御当主一家に怨恨を持つ誰かか、って話になるじゃないですか」
     夏の夜の虫の鳴く音をバックに、恩師と青年を前にスラスラと淀みなく宿の主人は語る。
    「でもね、そうはならなかったんですよ。あの館に住んでた一家の苗字は百目鬼と言うんですがね、御当主は鷲雄(わしお)、奥様は鶴子(つるこ)、息子さんは鷹久(たかひさ)っていう三人ともに鳥の名前がついた御一家だったんですよ。そんな鳥さん御一家を惨たらしく殺したのはね、物盗りでも恨みをもった人でもなかった。お互いがお互いを殺し合ったンです。当時の捜査で警察がそう判断しました。不思議でしょう。御当主はここら一帯の地主さんで村人からは先生って呼ばれてましたし、まぁあの時代相応の厳しさみたいなもんはあったらしいですがそれも過度なもんじゃなかった。物盗り以外の犯行だと怨恨がありきたりだからそう言われてただけで、実際村人に御当主を殺す程憎んでる者なぞおらんかったらしいですわ。奥様は良いところのお嬢様だったらしいですね。上品で、夫を立てるのが上手くって、良妻賢母を形にしたらあんな人、と祖父は言ってましたな。息子さんはそろそろ大学生になるかならないか位の時分だったらしいですわ。男前な、ハキハキした立派な青年さんだったとか。そんな理想の一家みたいな家でですよ、お互いに殺し合ったっちゅう前代未聞の事件が起きましたからなぁ。当時は結構新聞でも騒がれたらしいんですわ。で、こっからがナニカの話になるんですが、一家全員で殺し合ったっていうところまで警察が調べましたやろ?本来ならそれで事件解決、となりますね。原因は分かりませんがまぁ、よそ様からは見えへんところで家族関係が破綻しとったんかもしれんし。それはもう当事者全員が死んでるから調べようがないですわな。と、ここまでで事件は終わるはずやったんですけどね。終わらんかったんですよ。一個だけ不可思議なコトが残ってましてん」
     話す主人に段々と熱が籠ってくる。最初よりも方言がきつくなった言葉で、目の前に座る二人に向かって頭が近づいてくる。まるで秘密を打ち明けるような小さな声で主人は鳥たちの住む屋敷で起こった殺人事件の謎をそうっと打ち明けた。
    「駐在さんが駆け付けた時天気は小雨やったらしいです。時間は朝。夜中に屋敷の電気がピカッピカと何回か瞬いて、その後に暴れるような物音がしたらしくてですね、屋敷から一番近い住民が朝になって駐在さんを呼んだんですわ。そんで、それまで誰も山を下ってきてないと。つまり誰も屋敷から逃げて来てないと証言したらしいですわ。でもね、これが謎なんですが、駐在さんが駆け付けた時に屋敷から一人分の足跡が延びてたんですよ。それも、屋敷から出て、真っすぐ二、三歩歩いたと思ったら、すぐに方向を変えて以降はずっと湖まで真っすぐ。そんで、最後は湖に入っていったみたいに足跡が付いてたんですって。亡くなってた三人とも足元には泥一つついてない綺麗な足元やったらしいし。そもそもあの湖は透明度はありますけど、相当深いらしいんですわ。人が泳いで向こう岸まで渡るにしても、夜中にそんなことしたらまぁ、間違いなく死ぬやろ、ってくらいには。そんで、警察の方も勿論湖を調べはりましたけど、何も見つからんかったらしいです。こんなとこ泳いで大丈夫なんは人魚か河童くらいやろ、っていうのがまぁ、人やないナニカの話になったんですな」
     そこまで聞いて青年は内心ガッカリとした気持ちになった。なんだか最後の辺りは雑すぎないか?と。隣で微動だにしない恩師の横顔も少々引き攣っているようにも見えた。
    「あ、話はこれで終わりちゃいますで。まだちょっとだけ続きがありますねん。さっき僕ナニカを飼ってたって言いましたやろ?あれね、実はお屋敷を調べたらなんと一番奥の人目につかへん部屋にアレがありましてん!アレ!座敷牢ですわ!なんかもう滅茶苦茶怖いお屋敷やないですか?住んでる人間はお互いに殺し合うし、座敷牢はあるしで…。ま、その座敷牢も誰が開けたんか、扉が開いた状態でね。ついさっきまで誰かが暮らしてた形跡もあったらしいです。牢の中は大量の着物と本で溢れとって、男か女かわからんけどもナンカが住んでたと。あ、お兄さんんピンときたでしょ。そう、そうですわ。さっきの屋敷から出た足跡、コレね、この牢に居った人間ちゃうかってのが警察の見立てでしたわ。まぁ、人間なんかは分かりませんが。つまりね」
    「あの牢に入っとったナンカはね、殺し合う人間を止めも助けもせず見続けて、そんで全員死んでから自分の意思で屋敷を出て、湖に入ったんですわ。ここまで判明した時にはね、村中怯えまくったらしいです。そりゃあんな大きなお屋敷で座敷牢にナンカを閉じ込めてたんもそうですけどね、もしそれが人じゃないナニカで、ソレを閉じ込めたから怒りを買ってあんな惨劇が起きたとしたら祟りでっしゃろ。あんなおっきい湖で溺れしなんような生き物人外以外あらへんって」
     ふぅ、と大きく息をついた主人は急激に先ほどまでの勢いを失くし最後にポツリとだけ戯言のような言葉を漏らした。そういえば、と。

    「あの籠に囚われていたのは、どっちだったんだろうな…って祖父さんが言ってましたわ。
    意味は分からんのですが」

    ■■■

    「さて、レオ坊。お前さんはこの話をどう見る?」

     パタリと先ほどまで二人して無言で捲っていた台本を猿翁が閉じる。
    「ここまでは田舎の山に囲まれた場所で起こった殺人事件のあらましをざっと語られただけですよね。しかも語り部はかなり故意に話を恐怖の方向に寄せて喋ってる。まぁ、その話も所々疑問点が目立ちますけど、都市伝説とか怪談話とか、ちょっと怖い話ってことならこれくらいの粗は間々あるかなって感じですね」
     すっかり冷えたお茶で喉を潤した直後、作者である猿翁の目を見ながら玲王は一切の遠慮なく言い切った。
     その目を受けた猿翁も、軽く頷きながら同意を示す。
    「そうだな。じゃあ、お前さんから見て紫葉はどう見える?」

    ――紫葉。
     苗字はない。見た目は大層美しい。男でありながら、身に纏う衣服は全て女物の着物ばかり。彼こそが座敷牢に居た人物である。先ほどの話で人外のナニカと恐れられた、立派な人である。

    「紫葉……、紫葉は」

     少し言い淀む。しかし、ゴクリといつのまにか咥内に溜まっていた唾を飲み込んだ後、覚悟を決めたように玲王は猿翁の目を見つめた。

    「多分、誰の事も本当のところは好きじゃなかった。でも、好きじゃなくても、愛してなくても相手の望んだ言葉や反応を返せる人間だったんだと思います。そう、カメレオンみたいに」

     自身もよく例えられる生き物の名前を出した瞬間、無意識に玲王は膝の上の両手を握りしめていた。凪に出会う前の自分に似ている、と声に出さず心の内で思いながら。
     猿翁は無言のまま玲王を見つめている。その視線を真っすぐ、自身を貫いていると知りながら玲王は再び口を開いた。

    「時に息子になり、夫になり、母になり、娘になり、恋人になったあの人は実際のところ多分そんなにあの生活は辛いと思ってないですよね。だって生来の気質がそうだったから。悪い事、不誠実なことをしてるとも思っていない。そんなあの人が、自分の足であの館から出て、湖に浸かった瞬間に第二の人生が始まったと思うんです。キリスト教の洗礼のような。今までは与えられた役を不満もなくこなしてたけど、あの瞬間から紫葉は自分の意思でいろんな人間の欲望を満たして、それと同時に自身の欲望も満たそうと心に決めたんだと思います。いうならば、湖のシーンからが紫葉のオムファタールの目覚めなんじゃないでしょうか。本当の意味での」

     いつの間にか、玲王の頬には一筋の涙が伝っていた。
     自分が泣いていることにも気づかず話し続けた玲王をじっと、無言のまま見つめた猿翁は話し終えた玲王に向かって懐紙を差し出した。

    「……、ほれ。お前さんの想いは伝わったよ。紫葉のことをどう思っているかもな。だから、先ずは拭いなさい」
    「っ、あ。すみません……、オレいつの間にか」
    「いいさ。トリ坊の目は確かだったよ」

     合格通知である。
     驚きながら下げた頭を勢いよく上げると、猿翁の大きな掌が玲王の小さな頭を撫ぜた。

    「ほれ、泣きやみなレオ坊」
    「っう、あの、子どもじゃないので」

     不思議と猿翁の手は玲王の心を落ち着かせた。鳥澤から貰った台本を読んだ時も紫葉に自分に似た気質を感じつつもここまで感情を乱すことはなかったはずなのに、玲王は猿翁からの問いを答えているうちに紫葉と自分が混じっているような感覚に陥っていた。

    「さて、レオ坊。改めて言わせてもらうな」

     玲王の頭から手を離した猿翁は、居住まいを正すとゆっくりと頭を下げた。

    「今回の映画への協力を、宜しくお願い申し上げる」

     夜はまだ始まったばかり。
     映画監督とサッカー選手の出会いもまた、始まったばかりであった。


    【2】

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