バレンタインデーにチョコレートを贈るのが通例となっている場所はなにも極東だけではない。例えば物資が十分にあるとは言いがたい傭兵集団の拠点など。
バレンタインという習慣がいつから始まったものであるのかをScoutは知らないが、少なくとも今のテラでは広く一般的に行われているイベントである。愛情、と言葉にするとむずがゆいが、ようは親しい間柄の相手に気持ちのこもった贈り物や普段は言えない言葉を告げる日だ。ヴィクトリアなどでは花を贈るのが一般的らしいが、あいにくとそんな豪華なものを用意できるほどの余裕は今のバベルにはない。その点、チョコレートであれば補給の際に運よくありつけさえすれば入手可能であるので、つまりはScoutが手にしているチョコレートもそういったひとつなのである。
「あぁ、Scoutか。報告書ならそこの隅の箱に入れておいてくれ」
一瞬だけ顔を上げた彼は、入り口をくぐってきたのがScoutだと知るや否や即座に手元の書類へと視線を戻した。別段彼がScoutを冷遇しているというわけではない、むしろ信頼されているからこその会話の省略である。その様子を見てScoutは内心ガッツポーズをとった。というのも今のドクターの反応によりこれから実行する作戦の成功確率が跳ね上がったことが確信できたからである。
そろりと作業を続ける彼へと近寄れば、フードとフェイスガードを乱雑に脱ぎ捨てた彼は手元に積み上げた数種類のファイルを見比べながらうんうん唸っていた。どうかそのまま振り返らないでくれよと祈りながらScoutがポケットから取り出したのは、銀紙に包まれた小さな塊である。この日のために特別に取り寄せた逸品でも何でもない、テラじゅうどこであっても少し大きな移動都市であれば容易に手に入るような薄い板状のチョコレート菓子である。彼の集中を乱さぬようできるだけ静かに包み紙をむいたその中身をそっと彼の口元へと運ぶと、彼はファイルを手にしたまま表情ひとつ変えることなく無防備に口を開く。その無防備さに少しだけ胸が痛みつつも、Scoutはその小さな口の中へと手に持っていたチョコレートを放り込んだ。
「…………」
口内に突如として正体不明の異物が放り込まれてさえ、彼は視線ひとつ動かすことはなかった。せわしなく書類上の数値の上を行き来する眼差しはいつも通り深く、Scoutが知るうちで一番美しい色をしていた。それを眺めていられる距離を許されているというだけで、Scoutの胸にはじわりとあたたかいものがこみ上げてくる。そして来た時同様にそろりと音もなく出入り口であるドアへと向かいながら、もう一度だけ振り返って彼の姿を目に映した。
「あまり根は詰めないようにな」
「ん」
口の中にものが入っているからだろうか、不明瞭な発音での返答は上の空どころではなく気持ちのこもらない生返事で、Scoutはあまりにも上手くいきすぎた結果に苦笑をもらしてしまった。おぼえた一抹の寂しさは、自分の意気地の無さとの両天秤の結果として十分に押し込めて無視することができるレベルであったため、Scoutは見えないとは知りつつもスカーフの下で表情ごとを押し殺した。そうして入り口外の護衛役と挨拶を交わしつつ、ゆっくりとした足取りで自身へと宛がわれた部屋へと歩いてゆく。
その優しげな視線を落とした腕時計の盤面には、日付が変わる寸前の時刻が表示されていた。
どうして数字が合わないんだ。ドクターと呼ばれて久しい男は、人類のおおよそが人生で一度は襲われたことのあるであろう苦悩に襲われながら、虚ろな目で書類と格闘していた。そもそもの事の始まりは――いや、やめておこう。思い出すだけで頭痛しか増えないので詳細な説明は省くが、つまりはこの分厚いファイルの中から計算ミスを見つけるまで帰れませんというのが現在のドクターの置かれた状況なのである。泣きたい。が、泣いてどうにかなることであればドクターという男は躊躇なく一リットルでも二リットルでも涙を流してみせる男だったが、あいにくとそんなことでは何も解決しないというのが理解できる程度には優秀な脳みそを持っていたため、大人しく机に向かってうんうん唸っていたのである。とはいえここまで手こずってしまっている以上、一度頭をリセットしたほうがいいというのはわかっていた。こういう時は大体何をやっても無駄なのである。が、あと少しで糸口が見つかりそうという微妙な期待に引きずられてしまい、どうやら今のおのれはずいぶんと酷い顔をしていたらしい。途中で書類を持ってきてくれた数名は最低限の会話だけでそそくさと退室していってしまったし、最後に来たScoutですら世間話のひとつもなく報告書だけおいて帰ってしまった。うん? 来たことには勿論気がついていたとも。流石にそこまで油断するほどここが安全な場所ではないことは理解している。だが彼の気配に余計に気を抜いてしまったというのは事実だ。何かが口に放り込まれたというのはわかっていたが、その正体に気がついたのは彼が退室してからとうとう数値との戦いを諦めすっかり冷めてしまっていたコーヒーのカップに口を付けたときであった。
「?………??」
甘い。そしてほろ苦い。無意識に飲み込んでしまっていたらしくほぼ口の中から消えかけてはいたが、この強烈な甘さの後味は間違えようもない、チョコレートと呼ばれる甘味である。だがScoutがどうしてチョコレートを? 確かに食事を忘れがちな私は何度か糧食のビスケットなどを作業中に口に放り込まれたことはあるが――そんな憐憫に満ちた目でこちらを見ないでくれ。流石に数えるほどだ。いつもじゃない。ともかく、彼のくれるものなので問題はないだろうと疑問に思うこともなく咀嚼し飲み込んだらしい私の口の中にはチョコレートの後味だけが残されていた。ひょっとして誰かが彼に告げ口をしたのだろうか? しかし今日はきちんと食事はとっていたし、酷い体調不良も起こしてはいない。Scoutは優しい男なので何くれとなく私のことを気にかけてくれるが、不要な世話は寄越さない。だから口の中に残ってるチョコレートは正体も意味も不明なもので、しかし彼がくれたということは何かしらの意図があるはずなのである。のろのろと帰り支度を整えながらの思考はふわふわと浮ついていて、まあだって仕方がないだろう。誰だって好きなひとのことを考えるときは地に足がつかないものだろうし。うん、好きな人。ふとあることに気がついた私は机上の時計に目をやった。とっくに日付が変わって久しいデジタル数字の浮かぶ表面には時刻と一緒に本日の日付も表示されている――二月十五日。
「!」
それからの私の行動は早かった。出来るだけ速やかに机の上を片付け、荷物を掴んでドアを出る。この時間の護衛役へと労いの言葉もそこそこにバタバタと駆け出していった私の後ろ姿は相当に滑稽なものであっただろう。そして向かったのは当然ながら彼にあてがわれた宿舎の部屋で。
「Scout、もう眠ってしまっただろうか」
ノックの音は控えめにしたはずだったが、彼の部屋の扉は私が言い終わる前に開いた。
「もう書類はいいのか?」
「君のおかげで何もかもが終わったよ。責任をとってくれ」
言いたいことはいっぱいあったはずなのだけれども、彼の顔を見たらすべて吹き飛んでしまった。さすがに驚いた顔をしている彼の体をぐいぐいと押しやってドアを後ろ手に閉めると、彼が口を開く前にぎゅうぎゅうと抱き着く。もう寝るところだったのだろう、Tシャツ一枚の引き締まった身体は少しだけ体温が高くて、とろりと眠気の気配を漂わせていた。硬直していた腕が、おそるおそる私の背に回される。遠慮がちな両腕がようやく背を覆うにいたって、私は彼の胸板に鼻先を押し付けたまま深くため息をついた。
「責任と言ったが、その、俺に手伝えるような書類仕事なのか」
「いいや、まったく君向きではない」
視界の端、落ち着かなさげに揺れていた彼の長い尾の先がしょんぼりと垂れ落ちていった。ああなんて、君はこんなにも尻尾の先まで愛らしいのだろう。だが恋人が意気消沈している姿を見るのは非常に心の痛むことであったため、私は慌てて言葉を続けた。
「どこかの心優しい誰かが、バレンタインデーに私の口の中にチョコレートを放り込んでくれたんだ。おかげで口の中が甘ったるくてこのままでは眠ることもできそうにない」
私の背を抱く腕に少しだけ力がこもった。その腕に爪を立てたときのことを思い出しながら、私はうっとりと彼の言葉を聞いた。
「もっと寝かせてやれないかもしれない」
「かもしれない、でいいのか?」
「明日も早いんだろう」
「早起きの冠羽獣ほどではないさ」
あれだけ大胆なことをしておきながらもなお退路を探そうとする彼を微笑ましくは思うが、あいにくと彼のおかげで余裕のない私としてはそんなものを見つけられては困るので、しがみついていた手をそろりと動かして彼の尾の付け根をゆったりと撫で上げた。
「っ、ドクター……!」
「君が選べるのは、このままドアの前で私の声を外の誰かに聞かせるのか、それともベッドに連れて行ってくれるのかということだけだ」
ぴん、と硬直した真っ黒な尾をすりすりと撫でていると、頭上から深くて重い吐息がこぼされる。そしてようやく降りてきたくちびるに逆らわずに、私は口の中に残るチョコレート味を彼へと伝えたのであった。