バレンタイン延長戦「リツカって、バレンタインになるとどれくらいプレゼントを貰うんですか?」
どこからか通路を歩いている足音や、互いの静かな息遣いさえ聞こえてきてしまいそうなほどに、図書館は気持ちの良い静寂に包まれている。
だからわたしは隣にいる彼だけに聞こえるよう、細心の注意を払った声の大きさでひそひそと頁を捲る彼に語りかけた。
「え、」
「リツカ。図書館では静かに、ですよ」
「……ごめん」
しかしその当の声をかけた相手は、わたしの言葉の内容に驚いてしまったようで、少し大きい声を上げてびくりとその身体を跳ねさせてしまった。
「でも急にどうしたの?」
ぱたりと読んでいた本に青色の栞を挟むと、彼はその栞に似た青い瞳で疑わしげな視線を投げてくる。だが、それを向けたいのはこちらの方であると、彼へ視線を投げ返した。
「急に、ではないです。あと一週間後ではないですか」
「……まぁ、そうだね」
聞けばバレンタインというのは、女性が男性へチョコレートなどのプレゼントを贈る日である以外にも、男性が性別に関係なく感謝の気持ちを込めてプレゼントを贈る日でもあると言う。
「なので毎年この時期になると、あなたは忙しなく準備に奔走していると聞いたのですが……こんなところで油を売っていて良いのですか?」
「……大丈夫。こうして君と一緒にいられる時間くらいあるよ」
「そうですか」
返答に一拍の遅れがあったことに、ほんの少しだけ疑念を抱いたが……まぁ彼のことだ。このような相手を思う行事において、何もせずにその日を蔑ろにすることは決してしないのだろうなという確信があった。
「そういう君は大丈夫なの?」
「わたしですか?はい、もちろん何の問題もありませんよ」
そんな思案に耽るわたしに、彼が問いを不意に投げかけてくるが……わたしは頭のうちで計画している当日の流れに、胸を張ってふふんと笑ってみせる。
「バレンタインは、当たり前になって忘れてしまいそうな日頃の感謝を、改めて相手に伝える素晴らしい催しですが……」
「うん?」
「こういうのは肩肘張らず、ただありのままの気持ちを形にして伝えればいいと思っているので……少しだけ自信があります!」
「……確かに。そういう考え方もあるよね」
わたしの言葉にまたしてもほんの少しだけ一拍の間を置き、含みのある反応をする彼の様子に違和感を覚えるが……それでも自分の考えは変わらない。
日々お世話になってる人たちに、わたしの等身大の思いと感謝を精一杯込めて渡すのだ。
「リツカにもちゃんと友チョコ?をあげるので、期待しててくださいね!」
「……うん。楽しみにしてるよ」
まだ制作してはいないが、実際にこれから作業に入って完成させて……そして渡す場面を思い浮かべるだけで、わたしにたった一つの感謝をくれたあの出会いのような思い出が、たくさんの人々に訪れるように思えて、心底心が踊った。
そんな思いのまま、静かな図書館で彼だけに聞こえるように告げると、彼はわたしに微笑みながら答えてくれて――わたしは益々その日が待ち遠しくなったのだった。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
オーシャンビューによって燦々と照りつける太陽の日差し。適切に管理された室内温度において、それはただの心地よいものにしか過ぎない筈だが、――今この時だけは、その日差しから感じる温度さえも煩わしく感じてしまうだろう。
「さあ。もう一度、です。我が夫」
「……うん」
南国の豪奢でありつつも洗練されたホテルの一室で、紅玉色の果実がまた一つ、彼の指に取られて彼女の艶やかな唇へと消えていく。
どこからか取り寄せたという彼の國にはなかったその果実は、現在ではもうその半分が房から彼らの唇へと消えていった。
「……モルガン」
「……リツカ」
チョコートばかりでは胸焼けすると言っていたが、静かな室内に響く細やかな咀嚼音と、熱っぽく互いの名前を呼ぶ二人のこの状況。
これではチョコレートなど無くとも胸焼けするに決まっているだろう、と思わず声を荒げて突っ込みたくなる。
現に、一瞬聞き耳を立てていたメイド長は、その一瞬で耳までを真っ赤に染めて、この場限りに復刻したホテルに勤めている他のメイド達に、その区画の立ち入り禁止を命じに行ったぐらいだ。
それほどまでに甘ったるく……わたしにとっては、どこか――しい光景が広がっていて。
わかっていたとはいえ、呆れと諦念を半分ずつ覚えながら、彼がわたしたちからのチョコを喜んでくれたことの確認はできたからと、そっと走らせていた魔術を閉じる。だが……
「すごいなぁ、『私』は」
ソファーに置かれていた真っ赤な果実はともかく、机の上に置かれていた立派なチョコは、さすが未来のわたしという他ない。
わたしともう一人のわたしが加わったとはいえ、その完成度は申し分ないほどに完璧で、これ以上のない出来栄えだったと言える。
「……これが二〇〇〇年の差、なのかな。それとも――」
脳裏に痛いくらいに焼きついたチョコの完成度と――部屋に広がっていたチョコ以上に甘ったるい光景。
それらに対して、何となく一つのつぶやきと共に懐から取り出したものを口の中でぱきっと頬張ってみせると――
「……にがい、かも」
胸焼けばかりする筈のそれは、数日前の味とは、ひどく違った味がした。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
バレンタイン。
それは、隣人への感謝を、特別な人への特別な思いを、自分なりに考えた特別なカタチで贈る、甘くも刺激的な日だ。
「……やっぱり、本の匂いは落ち着きますね」
だがそれはあくまで昨日の話。
一日すぎて、その特別な日の翌日となった今では、それはあくまで過ぎ去った一つの過去に過ぎない。
だから浮かれる気持ちも十分痛いほどわかるが、なんだか一大仕事を終えた気持ちになってしまったわたしは、未だ興奮冷め止まぬサーヴァントや職員達の喧騒から少しだけ離れたくて、通い慣れた図書館で一人ページを捲っていた。
「あ、やっぱりここにいた」
「っ……こんにちは、マスター」
ぱらぱらと捲るページの内容がすんなりと頭に入ってこない感覚は、いつになっても慣れることができない。だから思わず開いているページを閉じて、不貞寝でも決めこんでみようかとため息をつきそうになった頃に、彼はやってきた。
「どうかしたんですか?」
「ん、チョコの感想を伝えようと思ってね」
彼はわたしの挨拶に穏やかに答えたあと、自然な動作で隣に腰掛けてくる。いつもならなんて事のない距離感のはずなのに、彼が間近で耳朶を震わせる言葉と合わせて、思わず声が引き攣りそうになった。
「それは、態々ありがとうござ……なんでここにそれを持ってきてるんですか」
「一度で食べるのが勿体なくてさ。よかったら一緒に食べないかなって」
書物に青色の栞を挟んでぱたっと閉じた先、彼が懐から取り出して机に置いた代物にはとても見覚えがあって……これには流石に表情の方を引き攣らせる他なかった。
「まぁ、あなたにあげたものなので、自由にしてくれて構いませんが……」
「ありがとう。まぁ、君ならそう言ってれると思ってたんだ」
このところずっと頭を悩ます原因にもなっていたそれをちらつかされたことで、どことなく言葉まで尖ってしまうが……彼はその言葉を聞いても穏やかに笑うどころか悪戯の如く笑みを浮かべてみせるので、思わず席を立ってしまいたくなる。
「……はぁ。しょうがない人ですね」
だが、ここで去って仕舞えば、心地よい今までの関係も何だか突然終わってしまう気もして、おとなしく腰を落ち着ける。
それを見届けた彼は、持っていたそれに手をかけるが……既に一度包装を取り除いたからだろう。チョコを包むリボンをしゅるりと解けば、あれだけ丁寧に施していたはずの包装はやけに簡単に外されてしまって、中からは一欠片だけ欠けたハートが姿を現した。
彼はそれを目の前でぱきりと一部分だけ手折ると、ハート型はさらに欠けて……彼はそのかけた一部分を本当にわたしに差し出してきた。
「……一応言っておきますが、わたし味見はしましたよ?」
「いいから、お願い」
その仕草にやはり思わず彼へ疑いの視線を向けてしまうが、もとより彼の性格はもう存分に知っている。その上彼が思ったよりも真剣な顔つきでお願いをしてきたものだから、差し出された一欠片を思わず受け取ってしまった。
彼はそれを見届けると、その青い瞳を細めながら頷いてきたので……何度も何度も似た味を味わった事のあるそれを、わたしはもう一度口に含んだ。
――あまい、けど……
すると口の中に広がっていく、少し抑えた砂糖の甘みとカカオの渋み。材料から製法まで拘ったとはいえ、それは――
「うん、やっぱり美味しいね」
「……」
「……君はどう思う?」
こく、と小さなその一欠片を嚥下したのち、それと同じもの口にしていた青い二つの瞳が朗らかな笑顔を浮かべて……同時に、疑問を投げてくる。
感想を伝えに来てくれたはずの彼に、なぜ逆に感想を伝えなければいけないのか正直疑問だが、それでも喉を震わせようとして――ふと思考に耽る。
「……」
無論、わたしは彼の問いに答えることができる。何度も試行錯誤したのちに辿り着いた味なのだから、この味がどういうものなのか、どうしてこのような味になったのかまで、その全てを彼に一から説明することができる。
――だが、わたしの瞳を見つめてくる青い視線が、あまりにも真っ直ぐすぎて。
「……わかりま、せん」
未だ胸に悶々と渦巻くものを抱えたまま、心地良い居場所や信頼――たくさんの温かいものをくれた視線に向き合えなくて、思わず逃げだしてしまいたくなったのだ。
「どうして?」
彼はその逸らした視線でぽつりと呟いた言葉を咎めるのではなく、ただ優しい声音で理由を問いかけてきて――尚のこと自身のこの状況が情けなくなって、鼻の奥が熱くなった。
「だって、これは……」
「うん?」
だが、それでもこれ以上わたしをただの友人という対等な立場で接してくれた彼に、正面から向き合えなくなることなんてもっと嫌で、少しずつぽつぽつと言葉を絞り出す。
「甘すぎず、苦すぎない。コクについても、ないわけではありませんが、深いわけでもない。至って普通の……どこにでも、ある――」
しかし、それもやがては蚊の鳴くような声音になってしまうことはどうしても止められない。
それどころかだんだんと沈んでいく心情につられて、逸らした筈の視線は自身の情けなさにぎゅっと握った手に吸い込まれていった。
(わたし、なにしてるんだろう。確かに彼に感謝を告げて、彼もそれを快く受け取ってくれた。……でも、本当にただそれだけで……なのに、一人で舞い上がって……)
俯いていく視線を上げることができず、痛いくらいに握った拳の爪先は皮膚を食い破ってしまいそうで……だがその痛みは、自身の無力さをほんの少しでも慰められる気がした。
「わたしは、こんなものをあなたに――」
だがそれでも胸に渦巻く感情を解消するなんてとても出来なくて、――思わずぽつりと、本当に心底みっともない弱音をこぼしてしまいそうになった、そんなときだった。
「トネリコ」
――あと少しでつぅと血が滴り落ちてしまいそうな手を、温かな指先がそっと覆ってくれたのだ。
「俺にはこれが、君が一生懸命考えて、君なりにありのままの感謝を渡してくれたんだって、ちゃんと伝わったよ」
その握り込まれた温かな感触は、彼の誰かを想う優しい心として、既に何度も経験したことのあるもので。
その耳朶に響いてくる優しい声音は、時折厳しい言葉と相まって、胸に安心を与えてくれるもので。
そして、それらに不意に包まれ驚きに見上げた青色の視線は――相変わらず、どこまでもわたしのありのままを見つめようとしてくれていて。
「でもわたし……本当はそれだけじゃ、なかったみたいなんです」
――だから思わず、言うつもりもなかった言葉を、どこか期待を混ぜて伝えてしまったのだ。
「――トネリコ」
彼の呼びかけで自分が何を口走ったのかを理解した瞬間、刻が止まったかのようだった。
「ぁっ……い、今のはっ……!」
どくどくと鼓動が速くなって、頬や耳に熱がかぁっと集まっていくようで……だがその羞恥以上に、彼がこれからあの声音で何を言うのか、不安で不安で仕方なくて。
「わ、忘れてくださいっ」
挙句の果てには、その不安に駆られて思わず腰を上げてしまったのだから……やはり救世主なんて大それた肩書きは、わたしには似つかわしくないようだ。
「……ううん、忘れないよ」
「っ……!」
だが、そうしてその場を去ろうとするわたしに、彼は握っている指先を解くことは決してせず、――そうして彼は変わらず、わたしが逃げる道を選ぶことを許してはくれなかった。
「実は、俺もそれを伝えに来たんだ」
「え……」
いつの間にか解いていた拳の指先を絡めて、元の位置に戻るように手を引かれる。
決して強引な引かれ方ではないのに、その力にわたしはどうしても抵抗することは出来なくて、優しく握られる手の感触に、あっという間に元の場所に座らせられた。
「ね、目を瞑って」
「……?」
「いいから、お願い」
そして彼の言葉の意味もわからないまま、ほんの少し前とほとんど似たようなお願い方をされる。すると、すっかり抵抗の意思をなくした身体は、彼の言うまま視界に帷を下ろした。
そして何やら近くで何かを弄る音がしたかと想うと、彼の大きな掌が肩に置かれて身構えたとき――
「いったい、なに……んっ、!?」
――自身の唇に、彼の少しだけ硬さの残る柔らかな唇が重ねられた。
その衝撃に思わず瞳を見開いて距離を取ろうとするが、目の前に広がる彼の青はいつの間にか獲物を捉えるための色に変わっていた。
「ちょ、りつっ……ん、んんぅ!?」
そのことに気づいた途端、自身の瞳と共に驚きで微かな隙間を開けた唇に、とても熱い何かがするりと入り込んできて。
火傷してしまいそうに熱いそれは、酷く甘い、胸焼けしてしまうような何かを纏っていて、背筋をなぞり上げるかの如くゆっくりとわたしの反応を楽しみながら、その味を覚え込ませようとしてくる。
「ふ、ん、んぅ……」
初めて感じる他人の粘膜の感触は、まるで熱を孕んだ唇ごと喰まれてしまっているようで、あっという間に身体の力を奪っていく。しかもその熱はぬるりと歯列を這い回って、身体が幾度もふるふると震えてしまった。
だが彼はそれさえも後頭部に回した手で抑えつけてくると――残っていた溶けかけの固形を、唇の奥に押し込んできて。
「ちゅ、んっ……こくっ……」
口内に広がる甘ったるい味が、二人の体温と合わさってわたしの口内で馴染んでいくと、同時に彼はその熱でぐにゅりと固形を押し潰してくる。
熱い粘膜同士に挟まれたそれは、やがてすぐにその形を崩していき――どろりと粘度の高い甘い液体となって、喉を滴り落ちていった。
「ぷは、ぁっ……は、ぁ、……」
そうして静寂なはずの空間に響く水音と、口の中に広がる甘やかな味を飲み込む己の喉の音にが何度か響いたあと、わたしは漸く解放された。
「は、ぁ……どう?普通なんかじゃ、なくて……とっても甘かったでしょ?」
「……ばか。へん、たい……しんじ、られ、ない……」
唇を重ねるだけの行為ではなく、深く繋がった故の短い時間の拘束から解放されると――わたしと彼を繋いでいた茶色い糸がぷつりと途絶える。
それを見て仕舞えば、自分たちが今何をしていたのかを自ずと熱に蕩けた思考でもう一度理解させられて……自然と吐く荒く熱い息や、ばくばくと鳴る鼓動に、思わず目の前の彼の胸に埋まった。
「君だって、最後は乗り気になってくれたのに」
「……うるさいですよ、ばか……」
減らず口を叩いてくる彼もそれは大差はないようで、自分からしでかした癖に手を置いた胸から響く音も、彼の胸から見上げたその表情も、わたしと全くと言って良いほどに似通っていて――
「でも、伝わってくれた?君のチョコは俺にとってはとっても――」
「……はい。十分、伝わりました」
未だ早鐘を打つ鼓動をどうにか耳に届いてくる彼の鼓動で落ち着けると、背中を摩る彼の優しい手の感触に、漸くくすりと笑みを浮かべられるようになる。
だがそうして落ち着いてくると、どうしてもいろんなことが気になってきてしまって――
「でも、いいんですか。『私』以外にこんなことして」
「一応、彼女からは許可は貰ってるんだ。……めちゃくちゃ怖かったけど」
「………でしょうね。この魔女誑しの浮気者」
「え、……浮k!?」
「というか今更ですけど、こ、こんな人が来そうな場所で、こんなことっ…!」
「それは式部さんに言ってあるから大丈夫」
「……へんたい」
「………………反論できない……」
一つ一つ疑問を解消するように彼に言葉を投げていくと、彼はその表情を青くしたり、赤くしたり……わたしの言葉一つで百面相していく様はとても楽しくて、いつの間にか胸に蔓延っていた蟠りは解けていた。
だから悪戯された分を取り返した頃、最後に一人の――らしく、彼にちょっと意地悪をする。
「――わたし、さっきのが初めてのキス、だったんですよ?」
「……知ってる」
すると見上げた青空の瞳はちょっとだけ申し訳なさそうな顔をしたあと――それでもわたしの頬に、その焦がれてやまない温かな手を添えてくれて。
「なら、埋め合わせも……してくれるんですよね?」
「――もちろん」
その手の感触にすり寄るように笑ってみせると、彼はわたしの唇を一撫でしたあと……一欠片のチョコを、そこに咥えさせてきて。
そうして目の前の青空が穏やかに細められたのを見届ると、わたしはまた、帳を下ろす。
「大好きだよ、トネリコ」
その帳の中で告げられた言葉に、不覚にもとくんと鼓動を一つ早めると――もう一度柔らかな感触が、優しく唇に重なってきて。
だからわたしはもう瞳を開くこともせず――ただただ唇に忍び込んでくる熱く胸焼けしそうに熱いものを、彼への返答として自身から受け入れたのだった。