ハイラル城備忘録*幻史【図書館司書の記録】
1:掃除の極意
図書館司書の一日は掃除から始まる。片手に大きめの刷毛を持ち、中央階段を奥へと上がっていく。刷毛はシツゲンスイギュウの毛が一番適している。毛質は硬いがしなやかで埃を絡め取るが、表紙の細やかな装丁を傷つけないからだ。
ハイラル城の書物のほとんどは覧できるように整えられている。大きなホールを中心に、背の高い本棚が並び、左右に設けられた中二階は廊下と書棚を兼ねる。ホールには書物を読んだり、書き物ができるよう机が設えられ、学者や術士が学びにやってくる。時々僕のちいさな息子も妻に連れられて絵本を借りていく。だからこそ居心地の良い場所にせねばという気持ちが強くなるのだろう。
「うん。今日もいい眺めだ」
僕は眼鏡を押し上げて図書館全体を見下ろした。ここから見る圧巻の書棚。まるで森のように立ち並んだ棚に、古い歴史書から幼子の手習い書まで、すべての情報がここに揃っている。
ハイラルを守らんとした時、人々の目は優れた武器や強靱な兵士などに向きがちだ。でも僕はここにある積み重ねられた知識と情報こそがハイラルの宝であり、同時に国を守るものだと思っている。武器は打ち直すことができる。騎士は育てることができる。だが書物はそうではない。そこに書かれているのは古からの叡智だ。一度失われれば、二度と同じ状態では取り戻すことはできない。古い本ならなおさらだ。だからこそ、ここを守るお役目に就けたことが、僕にとってはとても誇らしく思えるのだ。
司書の仕事は万単位の蔵書の中から要り用の書物を案内したり、返却された本を棚に戻したりする作業が多い。それから一番大切なのは蔵書の状態を守る為の掃除だ。本というものは湿気に弱い。埃は湿気を含みやすく、埃を起因としたカビや紙の変色、腐食が本にとっては大敵なのだ。ホールに背を向けると、さらに奥へと足を進めた。
扉で隔てられた小さな書物室。窓がないから、より湿気対策に気を使わなければならない場所のひとつだ。一番奥の書棚から掃除を始めた。
「おや、こんなところに指跡? ……本を取ろうとしたにしては位置が逆……か」
不自然な向きと位置についた指跡に、僕は興味をそそられた。それは二人分の指跡。最近読んでいる推理物語よろしく思考を巡らす。ここは図書館の中でも特に奥まった場所だ。禁書とまではいかないが、古いものが多く閲覧数の規制をしている。閲覧履歴を見れば誰がここに入ったかすぐに分かるだろう。それにこの部屋は七日に一度は書棚の埃を払う決まりになっていて、前回掃除したのも僕だ。埃の層は季節によっても違うが、そう変わるものではない。
「拭われた部分には埃が一切無いな」
ここに指が掛かってから、二日と経っていないと思われた。ならばこの二日でここに閲覧に入った者の指跡で決まりだ。
さて、では誰なのか。
前日、前々日となれば閲覧記録を見るまでもない。ここに入ったのはただ二人きり。
「ひとつは先端が細くわずかに爪跡がある。おそらくは女。もうひとつも男にしては細めだが、指腹の幅が広い。常に指先に力の掛かる仕事をしてる者の手だな」
女性のものと思われる指跡は第一関節から先端までが、中棚の内から外へと触れている。背中から後ろ手にもたれ掛からなければ、こう跡は付かない。男の指はその一段上の中棚に、ちょうど女のふたつの指跡を挟むように指先だけ。
「かなり力が入ってるな」
弾き飛ばした埃の欠片。それは中棚の奥へと散っている。つまりは外から内への力が掛かったということだ。問題はこの指跡が同時についたものかどうかだ。僕は引き続き、謎を解く物語の主人公にように考えた。
偶然、同じような位置に指跡がつくものだろうか。ここは大きな蔵書も保管してある為、他の通路よりも本棚と本棚の間は広く設計されている。すれ違えなくて棚に手が触れるということも考えにくい。想像してみた。この指跡が同時についたとして、どんな体勢になるのかと。
「……これは」
頭のなかで像が結ばれる。棚を背に後ろ手にもたれる女性。その身体を挟むように上段に両手を勢いよく置く男。どう想像しても、それは――。
僕は一度頭に浮かんだ人物像を消し、あらためて別の角度から想像を続けた。
二日前にここを訪れたのは、プルア女史のみ。二人の男女がここの閲覧を希望したのは昨日。いや、それ以前も、何度か同じ顔ぶれでの閲覧があったはずだ。
「ゼルダ様と側近の騎士……か、なるほど」
主従を越えて紡がれる許されざる関係――いやいや、考えすぎか。
決まって同じ時間。姫様とそのお付きの騎士なのだから、同日同時刻の来館は当たり前と言えば当たり前なのかも知れない。曜日も決まってはいないし、ひとりだけ現れることもある。来館時間と退館時間にもズレはある。しかし、毎回必ずわずかでも重なる時間があったように思う。
青年の名はリンク。
若くして近衛兵になっただけでも充分に信頼の置ける人物だということが分かる。ハイラル王は博識で、秩序と伝統を重んじ、人を見抜く力のある方だ。単に武勲を上げた、能力が高いというだけでは大切な一人娘の傍に置く男を剪定はしないからだ。
ならば騎士の方が強引にという話でもないのだろう。今、ゼルダ様は遺物の研究を禁じられていると聞く。外出も修行のみに限られているとあれば、ここに籠もりたくなる気持ちもわかる。その傍にはいつも信頼する騎士が控えている。それはどれだけゼルダ様の心の支えになっていることだろう。想像に難くない。
もう一度指跡から人物像を想像する。今度はより具体的に。背の高さ、体躯が揃えば、それは正確な輪郭となって見えてくる。
ゼルダ姫様を両腕の間に挟む騎士。騎士の指跡の位置と背丈から考えれば、足の位置は棚に近くなければおかしい。となれば、ゼルダ様との距離はないに等しく、この場所に互いの足が絡んでいたとすれば、ほぼ同じ背丈のふたりの顔は――。
こちらへと近づく足音に気づいた。
僕は顎に当てていた刷毛を持ち替えると、書物室の入り口へと足を向けた。
そこら中の埃を綺麗にするのは図書館司書としての務めだ。だが同時に、ゼルダ様の心の安寧を願う従者でもある。
だからすることはひとつ。
「申し訳ありません。こちらから先は今、本の並べ替え中ですので明日以降にご来館頂きますよう」
これくらいはしてもいいだろう。
身分の差がなんだ。封印の力に目覚めぬゼルダ様の心に寄り添える者など、彼以外にいないのだから。
ほんの一時、交わし合うのは言葉か心か、それとも――。
「事実は小説より奇なり」
我ながら上手くまとまったな。本日清掃予定の本を取り出し、埃が入らぬようにしっかり片手に抱える。刷毛で地、前小口の順に埃を払う。表紙を開いて見返しのノドから外へと刷毛を動かす。こうして本は長い時をこの本棚で大切に過ごしていくのだ。
僕は明日も埃を払う。ハイラルを守る叡智と積み重ねられた情報を後世へと繋ぐために。そして、お二人の密会が埃に残る指跡で誰かに知られてしまわぬように。
了