ハイラル城備忘録・幻史【造園技師の記録2】
2 孤独の終焉
刈り込んだ枝葉に、朝露が美しく光っている。儂の手のひらでは今日にでも咲くだろう蕾が、まだ眠そうにしている。この花はゼルダ姫様のお気に入りの花だ。淡いベージュの地味な花だが、とても香りが良い。東の空は次第に明るくなり、薄雲の中から太陽が生まれた。
「今日も綺麗だ」
儂は満足して次の作業へと移る。井戸に水を汲みに行き、水でいっぱいになった木桶を上げる。滑車の音を聞きながら、先日のことを思い出していた。
今は亡き王妃とゼルダ姫様にだけの【隠れ園】に辿り着いた青年。姫付きの騎士となったリンクは、どうやらあれから何度もあの隠し通路を使っているようだ。外から見てもただ庭木が林立しているようにしか見えないが、人ひとりだけ通れるようになっている。彼奴の性格からして、強引な突破はおそらく一度きりのはず。ただ確証はない。ゼルダ姫様が嫌だと言えば、きっとあの騎士は道順を知ったとしても、決して立ち入ることはないだろう。
昨日、もう少しでお気に入りの花が咲くとゼルダ姫様には伝えてある。おそらく朝食が済まれたらすぐに、こちらへ訪問されるだろう。
「ふむ、ならば少し鎌を掛けてみるか」
姫様が善しとしないならば、儂の目の黒いうちはどんな奴でも【隠し園】に入れる訳にはいかない。例えそれが、姫様を護る盾である騎士だとしてもだ。
ご機嫌な様子でゼルダ姫様が儂に手を振られたのは、それから少し経ってのことだった。
「やはり咲き始めの香りはとてもやさしくて素敵ですね」
「よかった、ちょうど間に合いましたな」
「ええ。この花は朝の光が大好きですもの。あなたが教えて下さったんですよ。お忘れですか?」
「ははは、忘れてはおりませんぞ」
熱心に開き始めの小さな花弁に鼻先をくっつけている。そんなにしたら花粉がついてしまいますぞと笑えば、ゼルダ姫様もコロコロと笑う。なんと愛らしいのだろう。幼い頃からずっと見守ってきた。大好きな母親を早くに亡くし、王家の次代を担う唯一の姫として、同時に厄災を封じる巫女として、大きな期待を背負ってきた方。
儂がこうして庭木を手入れするのは王家の威厳のためでもあるが、ここに住まうすべての人の気持ちを安らかにしたいからでもある。その筆頭はもちろんゼルダ姫様に他ならない。
だからこそ憂慮案件は潰しておきたい。考えていた言葉を儂は口にした。
「彼は姫様のお気に入りなのですな」
案の定、ゼルダ姫様は言葉をのんだ。沈黙こそが肯定。あえて名は告げなかった。姫様にとって名を告げなくとも、儂の言った『彼』が誰だか想像できているということだ。頭の中に、リンクという存在が常にあるからこそ、儂の言葉に声を詰まらせるのだろう。
そうか、そうか。
儂は嬉しくなって心のなかで何度も頷いた。
青年は確かに招かれたのだあの場所に。王妃様がお亡くなりになってから誰ひとり招き入れたことのない大切な場所に。ハイラル王ですら入ることができぬ、存在すらも知らぬ【隠れ園】に、彼は導かれたのだ。
それは姫様が長く抱えていた孤独の終焉を意味していた。目尻が下がっていくのを自覚しながら、儂はそっと姫様の手に切ったばかりの花を一輪手渡した。
「よかったら、一度紹介して下さいませんかな。そのお気に入りの近衛兵を」
揺らぐ瞳を泳がせて、姫様は少し躊躇された後、ちいさい頷いて下さった。
「ではもう少し刈り込みを浅くしておきましょう。姫様が通られる分には構わないが、その者は他人の目に触れない方がいいでしょうからな」
「……っ」
儂の言葉に姫様は一瞬驚いて、それから嬉しそうに「はい」と答えられた。
リンクという青年に初めて面通してから、いくつもの太陽と月が空を往来した。
厄災の気配はしだいにハイラル全土に不穏な影を作っていく。花は以前より開花が減り、茎は頼りなく花冠も小さいものが増えた。ハイラル城の花である姫様のお顔にも、暗澹とした色が滲むことが多くなった。それは差し迫る危機感と父王との仲だけの問題ではなさそうだ。おそらくは、姫様の中で何か大きな変化があったのだ。
いや、気づきか? 変化と気づきをもたらしたのは、おそらくあの騎士で間違いない。端正な女顔で、感情の読めない男だったが、雄弁に武勇を語る者よりずっと誠実だ。庭木や花への扱いも丁寧で、声なき者への愛情を感じられた。あのまっすぐで曇りのない目は姫様への忠誠の証だろう。
「今日飾る花はどれにしますかな?」
楽しげに選んでいた指が止まって、ふいに表情が曇った。白い手のひらのなかに桃色の花びらが一枚落ちる。それを姫様は潰さぬように握り締められた。
「時々……自分がわからなくなるのです」
姫様の唇が胸にしまい切れない想いを零し始める。儂がするべきはただ聞くこと。姫様が大好きな他の従者も同じことをするだろう。姫様はただ聞いてほしいのだ。他言など喉を切り裂かれてもする気はない。信用されているからこそ、姫様は言葉を紡いで下さるのだ。
「とても怖いのです。過ぎていく時間が夢のように幸せであればあるほど、現実に戻った時に酷く心が痛んで」
唇を噛みしめられ、その愛らしい唇に血が滲む。儂はそっと真新しい手ぬぐいを差し出した。花びらと交換に白布を受け取ると、姫様はそっとそれを唇に押しつけた。白い布に赤い血の跡がつく。
「私はどうすべきなのでしょう。誰かに止めて欲しい。でも失いたくないという気持ちも同時にあって……自分が半分になってしまいそうなのです」
握り締められた手ぬぐいの赤い跡。それは姫様の痛みそのもの。
沈黙は長く続いた。おそらくもう、言葉にすることはできないのだろう。潤んでいないのに翡翠の瞳はまるで泣いているようだ。
「花を飾りましょう。姫様の大好きな花が明日にでも咲きますぞ」
儂に言えたのはそれだけ。
わかってしまう。面通ししたからこそ、この姫様の苦しみを与えているのがあの者であると。【隠し園】に唯一招かれた男は主従を重んじていた。姫様の口から零れ落ちるお気持ちを彼奴は知っているのだろうか。いや、もう詮索はすまい。これ以上儂ができることはない。ただ二人の間で、心と身分と使命との折り合いを付けていく他ないのだから。
「そう……ですね。ではこの青い花にします」
選ばれたのはあの騎士の瞳と同じ色。
青い花弁をどんなお気持ちで眺められるのだろう。姫様とて巫女や王女である以前に、ひとりの若い娘だ。誰かを特別に想っても女神さまはお許し下さる。
儂はただこの【隠し園】を、姫様を護る砦として維持しておこう。それが今は亡き王妃様との約束。王族ゆえ、封印の巫女ゆえの重責と大義に対し、この方の肩は細い。護る者が必要だ。
姫様のお命と身体と……そして御心を護る者が必要なのだ。
儂は、それがあの者であって欲しいと、身勝手にも思ってしまうのだった。
了