木漏れ日の朝珍しく昨夜まではボディガードの依頼が立て込んでいて、全ての仕事に片がついたのは、明けの明星があける頃だった。
冴子経由で舞い込んだ厄介な依頼は、獠が大企業に潜入して内偵をしながら幹部の汚職をあぶりだす政治色の強い依頼。
いつもの空色のジャケットにパンツスタイルではなく、黒のスーツに社員証をつけ、上質の生地を思わせるそれは目から足の先までトータルコーディネートされた出で立ちとなっている。獠の気分次第でどうにでもなる無造作ヘアーは器用にワックスで整えられ、一見すると頭の切れる商社マンのようだ。均整の取れた体躯はどこのテーラーがオーダーメイドで仕立てたのかといった風格を思わせるほど、獠に似合っていた。それは社内の女性や男性、出勤ラッシュの人々が振り返るくらいには。
新宿の界隈で冴羽獠が動くとなると、獠のファンや懇意とする情報屋も含め、やぶさかではない。
獠の人間性や根底にある優しさを知る人間であれば、誰しも虜にしてしまう魅力がある。
彼の珠中の珠である香もまた、今回は潜入先の企業に潜入するかと思いきや、獠と冴子からはついぞゴーサインは出なかった。
詳しくは話さないことを慮ると、香はまた一人取り残された気分になってどんよりとする。ちょうど件の仕事について獠が口火を切ったのは二日前。言い訳がましく情報収集に手こずったそうであるが、果たしてそれはどうだろう?
香は訝しんでいたが、そもそも獠はよほど危険が迫る以外のことは口を割るタイプの人間ではない。
今さらその獠の仕事への向き合い方に口を挟むつもりは毛頭ないし、今回もいつものことか、と香は自分を納得させていた。
いつもの女主人と心優しいマスターが入れる珈琲が無性に飲みたくなった香は洗濯機を早々に回してタイマーをセットする。
その合間に掃除機をかけて手際よくベランダに干し終えると、最低限の基礎化粧をし、お気に入りのロイヤルブルーのローヒールを履いた。
カウベルが鳴ると同時に香の良く通る声がする。
「こんにちは。美樹さん、海坊主さん」
ニコッと屈託のない笑顔を見せると美樹の柳眉が柔らかく下がる。
「いらっしゃい、香さん。…いつものでいいかしら?」
幸い他に先客はいなかった。
平日の10時半ともなると客足は少しずつ増えていく。
海坊主が丹精込めて入れる珈琲と物腰柔らかい美樹の接客。繊細で女心をくすぐる自作ケーキや焼き菓子はファンが多い。
昼前ともなると軽食などのサンドイッチを求めてサラリーマンや主婦、学生らで満席になることも珍しくはない。
(自分たちがこなければ、ここってすごい人気店よね。獠をハンマーしなければここは憩いの喫茶店なんだし)
いつもの定位置のスツールに腰を掛けて、出された仄あたたかいお絞りを手にする香を見て海坊主がお冷のグラスを差し出す。
コポコポとサイフォンの音が心地よく香の耳を撫でるように包みこみ、今頃あの男は冴子と一緒なのか…と胸がちくりと痛む。
別に自分も行きたいと思ったわけではない。
獠のことだから、本当に香がついて行っていい案件であれば迷いなく同行を許すはず。ただ、それをしなかったのはそれなりの理由がある。そこを根掘り葉掘りつつくするのはお門違いだと、胸に去来した一抹の不安には蓋をして香はかぐわしい珈琲に口をつけた。
と、そこで小さな違和感に気づいた。
見間違いでなかればカップはもう一つある。
「え…?これ…」
出されたカップとソーサーには特段変わりはないし、豆の種類もおそらく同じ。
白いクリームがぽわんと浮かぶそれを凝視すると香ははじかれたように一定のリズムと手つきで皿を丁寧に拭く店主を見た。
「ヤツからのおごりだ」
「・・・・」
「え、え、え?」
香の頭の上にカラスが飛んでいる。
基本ツケで飲み歩く獠に限っておごりほど怖いものはない。
今日は槍でも降るんだろうか。
獠が帰ってきたらとっちめてやらないと!と思考を他所に飛ばしていると美樹がクスクスと笑いを堪えている。
「う…え、え?」
「香さん、それね、今度のクリスマスに向けた試作品でね。ちょっと食べて欲しいのよ。もちろん、これは私とファルコンからの試食のお願いなんだけど」
ホールケーキ状のまま出てきたのは、甘夏をゼラチンが覆った煌びやかなタルトだ。
ミントの葉があしらわれ、ナッツやベリーが層になってさり気なく切り口からのぞく。
サーバで丁寧に美樹がゆっくりと切り分けたタルトを皿に移すと甘酸っぱく清涼感のある芳香が食欲をそそる。
デパートのショウケースに並んでも引けをとらない美しく幸せを呼ぶビタミンカラーだった。
タルトの横には小さなメレンゲがちょこんと3つ可愛らしく飾られている。
「うわあ、おいしそ~」
これ、海坊主さんと美樹さんが作ったの??
香は満面の笑みでケーキとウインナー珈琲をじっと見つめてスマホ片手にパシャリとおさめた。
「食べるなんて勿体ないわ!」
「そんなこと言わずに。お味見してみてよ。ずっと思い描くのが出来ないってファルコンも私も悩んでいたのよ」
苦笑している美樹はそれでも満足気に笑みをこぼす。
「獠に見せてあげなくちゃ。海坊主さん、これって私なんかでもできるかしら??」
香に自然な笑顔が戻ったのを見て、海坊主は口元をかすかに上げる。
「レシピというほどではない、未完成なものだ。だか、香ならなんてことないだろう」
香の探究心と好奇心は何も料理に限ったことではない。
いつも獠の体を気遣い、最小限の材料と調味料で無限大にレパートリーを紡ぎだしていく。
いわば創作料理が多いが、基本を外していないだけに香にしか出せない家庭の味がある。
香にとって誰かに食べてもらえることが何よりの喜びであると同時に、憎からず思っている想い人がなんのてらいもなく完食してくれるということの偉大さを身を持って知ったのは、兄が他界し、獠という男に出会って初めて披露したささやかな手料理が最初だった。
「冴羽さんがね、昨日ここに来た時に香が来たら食わしてやってくれって」
自分が二の次になるからさ…って言ってたわ。
最近食欲がないみたいだし、心配してたみたいよ。
「あのばか」
確かにこの依頼に行きつくまでがきつかった。
貯金を切り崩して獠の食事だけは手が抜けないから安い食材を吟味してスーパーや商店街をハシゴして奔走していた矢先、一筋の光のように舞い込んだ依頼は獠と冴子さんが組む仕事で、おそらく彼の-裏の生業に関わるものだった。
蚊帳の外に放り出されて慣れっことはいえ、どこかすっきりしないモヤモヤがずっと心の片隅に棘として刺さったままだった。
だからこそ、CAT'S EYEに入り浸れるわずかな数時間は香にとって獠と冴子のことを考えずにいられる自由気儘なひととき。
なのに、綺麗な物を見ると獠に一番に見せたいと思う。隣で一緒に笑い合い、食べたいと思う。
くだらない話をして…ああでもない、こうでもないとささやかで平和な日々を彼にもっともっとあげたい。
獠が好きな物を自分なりにアレンジして食べさせてあげたい。
「獠の今回の仕事は今日で一区切りつく。香、待っていてやれ」
「海坊主さん、美樹さん。ありがとう・・・ご馳走様でした」
ゆっくりと手を合わせて目を閉じ、まるで祈りを捧げるかの如く微笑む香に海坊主は「またいつでも来い。獠抜きでな」と憎まれ口を叩いた。
*
帰宅後、セキュリティーをチェックして解除すると香は紅茶を入れて夕食の下準備に取り掛かった。
CAT'S EYEからの帰り道、商店街の肉屋のおばちゃんから声がかかり、特売品だからと一日限りの目玉商品をゲットした。
茹で野菜とイカ、タコのマリネ、マッシュドポテトのベーコン巻き、ステーキは香草とオリーブオイルにつけておき、冷蔵庫から取り出して室温に戻す。ソースは隠し味に醤油を混ぜてパルサミコソースでさっぱりと。副菜はエリンギとマイタケのソテーにコーンポタージュかパンプキン、ミネストローネか…?
うう、・・・ん・・・どうしよ。
―獠は何が好きかな。私はパンプキンでカロテン摂りたいだけどなあ、口内炎がさ、おとといから治んないしさあ。
ーあの大食漢がこれだけで足りるとは思えないが、とりあえずおおもとの献立は出来たと。
よし、じゃあ、食器選びしよっか…獠の帰宅を逆算して手順を総ざらえすると、良く知ったる気配にかすかな煙草の香り。
「たでーま」
「あ、お帰り」
いつからいたのか。この男は。
背後に気配を消して立つの、やめてって言ったわよね?
(あんなに何回も言ってんのに、いい加減人の話を聞け―!!)
スーツ姿に黒ぶちのメガネ、サテン地の濃紺のネクタイにシルバーのラインとラメの入ったネクタイを気だるげにシュルっと音を立てて抜くと大仰にため息をついた。様になりやがるなコノヤロウ。
「やーーーっと終わったぜ」くそっ、あの女狐、人遣い荒いったらありゃしねーとぶつくさ文句を言っている。
はあ、とうなだれてソファーに大の字になるこの男は、先ほどまで大企業で偽商社マンを装っていた同一人物とは到底思えない。
詐欺だ。無駄にカッコイイのがむかつく。マジでムカつくんですけど!!
「香ぃ。なんともなかったか」
それでも、パートナーの無事を一番に確かめるのは彼なりのやさしさであることは痛いほどにわかる。
「うん、今日は暇すぎてね、CAT'S EYEでおいしい珈琲とタルト頂いたのよ」
―美樹さんと海坊主さんのおもてなしが最高でさ…
話しながら香の手は獠の珈琲を入れるのに忙しいので効率重視な香の手に無駄はない。
さほど顔を見るわけでもなく、キッチンに立つその後ろ姿に獠はふうんと眉を上げる。
「獠、コーヒー入ったよ」
さんきゅ、と湯気の立ったマグを受け取った獠は、あらかじめ余熱でちょうど冷めないように気遣われたカップを手にして芳香を鼻腔の奥まで吸い込んだ。
「獠、今日はありがとね」
「あん?」
「美樹さんと海坊主さんに聞いたの。獠が冴子さんと大事な仕事があるから、私を息抜きさせてやってくれって。
獠がわざわざ頼んでくれたんだって。でさ、美味しいケーキと贅沢な珈琲もご馳走になったの」
ダイニングテーブルに肘をついて、香は目尻に深い皺を作った。
その瞳の美しさに一瞬たじろいだ獠はチラッと珈琲の水面を見つめ、ふと小さく笑った。
「今日はね、私も獠にお返しがあるのよ」
「何だよ…」
「色々私の知らない所できれいなお姉さまとよろしくやったんでしょ?お疲れかと思って肉にしたわよ」
「香ちゃん?…どういう風の吹き回し??」
途端バツの悪そうな面持ちになった獠を鼻でふふん、と笑った香は、「臨時収入があったからね。今日は特別よ」と背を向けてキッチンに向かう。
香自身、二人で囲むこのダイニングテーブルでたわいもない世間話をする時間が大好きだった。
獠が何を話してくれなくても、それでも私はこの男を愛している。
獠が何をしていても、ここに帰って来てくれるのであればなんだってしてやる。
香は再びやりかけの調理を再開しようとシンクに手をかけたその時。
「聞かないのか」
「…なに?」
「今日何をしてたのか」
「聞いて答えてくれるわけ?」
獠が変装して冴子さんと一緒に仕事をして、その仕事がどんなことだったかなんて。あんた、私に言いたいの?
「香が気になるんなら」
「いらないわ。別に怪我してるわけでもなさそうだし。依頼料弾んでくれるんなら私が口出しすることないじゃない」
努めて淡々と伝えると獠が香の持つ包丁を横に避け、首筋に顔を埋めた。
「ちょ、退いてよ」
香は突然動いた獠の動きが読めず、振り返ることは許されなかった。
「冴子に嫌味言われたんだよ。いつまでもおまあに甘えるのもいい加減にしろって。安心して暮らせないくらいおまえを苦労させるんなら、離れろと」
槇村がそんな未来を望むと思う?と…。
「香…」
「それで?そんなにしょぼくれてるってわけね」
獠が自分の知らない所で人を殺めても、それが彼が必要だと判断するなら口出しするつもりはない。
ただ、どんな時でもここに帰って来てほしい。ただ、それだけが私の願いだ。
「今日はね、私とってもいい日だったから。色んな人に笑顔を貰ったのよ。獠もそうよ」
「おれ?」
「うん、たぶん寝ぼけてたんでしょうけど、朝にさ。「おはよ」って言ったらさ「香、おはよーさん」ってあんた珍しく挨拶したでしょ」
あれ、すごい私にとってはうれしかったのよ。
いつものんだくれて玄関のたたきで寝たふりしてるくせに。
「だから…獠。おはよう。おかえり。ただいま。帰って来てくれてありがと」
「全部じゃねえか」
「うん?まだあるわよ」
「あ?」
「一日の終わりは、「おやすみ」よ」
「ほんじゃまあ、ささっと香ちゃんお手製のディナー食って一緒に寝るか」
「嫌よ」
即答かよ。
「1つお願い聞いてくれたらね」
どんな?
私がこの世の中で一番安心する貴方の声で名前を呼んで。
抱きしめてよ。
1人で貴方を待つのが寂しくないように。そんな自分の弱さを貴方に見せないように。
ゆらゆらと心良く揺れる安寧の揺り籠で、一晩中抱いてよ。
獠は「仰せのままに」と香の唇に優しい熱を落とすと、焦がれる瞳を香に向けたままもう待てないと唇を何度も重ね合わせる。
窓からのぞく月の光だけが二人の姿を映していた。
FIN.
初稿:令和5年12月16日
BGM:TM NETWORK「Still Love Her 失われた風景」
City Hunter Sound Collection Y-Insertion Tracks-
JENINIFER CIHI 「 WITHOUT YOU」
アン・ルイス「WOMAN」