お手て繋いで 二〇〇六年。任務を済ませたある夏の日の午後の事だった。蝉時雨の中、鳥居のある階段をのぼって高専に帰る道すがら、灰原が右手がむずむずすると言い出したのだ。ナタの入った黒い袋を右肩に担ぎ上げた七海が、灰原の拳を触る。
「呪霊にでもやられたのでしょうか。家入さんに診てもらいましょうか?」
そう言うのに、灰原は顔を赤くして、ただ。
「手のひらがむずむずする」
とだけ言う。グーにしている灰原の右手を開かせると、灰原の手のひらはしっとりと濡れて汗ばんでいる。
「たぶん、このむずむずは家入さんでは治せないと思う」
そう罰が悪そうに言う灰原に。
「じゃ、どうやって治せばいいんですか?」
と七海が不思議がる。
「それは僕の好きな人が手を握ってくれたら、治るんじゃないかな」
その灰原のお誘いの言葉に、七海がぶっと吹き出した。
「ふふ。もしかして、私と手が繋ぎたいんですか?」
「そうだけど、悪い?」
灰原が不貞腐れる。
「なら、なんでまわりくどい言い方をするんですか? 手を繋ぎたいなら、繋ぎたいって言えばいいのに」
「だって負けた気がするじゃん。今日の任務は七海に助けて貰ったのに。その上、手も繋ぎたいなんてそんな我儘、僕からは言いにくいよ」
「って、言ってるじゃないですか」
「だって、やっぱり手を繋ぎたくて。人目も憚らず、外で七海と誰の目も気にしないで手を繋げるチャンスはここしかないだろ? 先輩達に見つかって、冷やかされるのも嫌だし」
「わかりました」
そう言って、七海が灰原の手のひらを握る。しっとりと汗ばんだ灰原の手のひらの体温が上がったのがわかる。七海の手のひらに、灰原の手のひらの温かさと湿り気が同時に伝わってくる。
「もう灰原は仕方ありませんね。手も引いてあげましょうか?」
「そこまではいい……って、ちょ七海!」
七海が灰原の手を引いて、階段を駆け上がる。
「もう待って」
「待ちません。だって、灰原は私と手を繋ぎたいんでしょう?」
そう手を繋いだまま、階段の上から灰原を見下ろして、七海が婀娜に笑いかける。
「もう七海! 後でチューするぞ」
「できるものなら、やってご覧なさい」
「言ったな? 後で後悔させてやる。にしても、今日は七海が強気だ」
挑発と不満を述べる灰原に、七海がふわっと花が香るように笑う。
「だって、私は灰原に手を繋ぎたいなんて言われたんですよ? それだけで嬉しくて。私は愛されているのだなと」
そう言って、七海が白い頬を赤らめる。
「もう七海ぃ。なんで七海はそんなにいじらしくて、可愛いわけぇ? 今、ここでキスしてもいい?」
「いいですよ。とでも言うと思いますか? ダメです。ちゃんと灰原が先生に報告書を書いて提出できたら、考えてあげます」
「むぅ、七海のケチ。七海はいじらしいんだか可愛いんだか、高飛車なんだかわかんないや」
「ケチでも高飛車でも結構です。やる事を後回しにするのが性分に合わないだけですから」
そうビシッと七海が決めた後。
「灰原とは色んな事したいと思ってますよ、なんてこんな事、こんな場所で私の口から言わせないでください! さ、行きますよ!」
頬を赤らめたまま、そう大声でヤケクソに言って、くるりと高専の方を向いてぎゅっと灰原の手のひらを握る七海に。
「うん!」
七海の照れ隠しが通じたのか、七海が引っ張る形で灰原が手を繋ぐ力を強くする。ただ、短い間だけ、人目を気にせず灰原の汗ばんで緊張した手と手を繋ぐ。ただそれだけの事なのに、それがこんなにも嬉しくて、胸がドキドキして、幸せで。灰原が思い切って七海に言ってくれた提案をとても嬉しく思う七海であった。