ケセラセラ「ここからどうすりゃいいんだぁ……?」
こぢんまりとした作業部屋に、大音量のパソコンの排気音と溜息のようなアンジョーの唸り声が響きわたる。
27インチのモニターにはびっしりとアイコンが並んでいて、その真ん中には雪だるま型の簡素なオブジェクトが映し出されている。
椅子の上で胡座をかきながらアンジョーは悩む。ここからもっと人間の形に近づけられないだろうか。腕を生やせばいいか、それか先にテクスチャーを貼り付けてみようか。どう作業を進めるべきか、と画面をじっと見つめてみるが、驚くほど何の埒も明かない。
デュアルモニターの右側から、ラフ画の金髪女子がこちらに微笑みかけている。ミディアムボブの彼女は眼鏡の向こう側におっとりした雰囲気を纏わせていて、三面図から女性らしいまろやかな身体のラインが分かる。自らの嗜好をふんだんに取り入れた、我ながらよくできたデザインだと思う。
これが動いたらどれだけ愛らしいだろうか。けれども今のところは、キャンパスに貼り付けにされているだけの三面図。自作の女神はただの物言わぬ絵でしかない。
このまま考える人の銅像になっていても仕方ない。眼下のタブレットに視線を落とし、『Blender モデリング』と入力する。
表示された検索結果の上から三つ目に、どこかで見たことのあるドメインが出てきた。とりあえずタップしてみる。
「うわあ、字ばっか」
何度下から上へスワイプしても、画面一面にびっしりと埋め尽くされた文字列が続く。時々文字列の間にスクリーンショットが現われるが、出てくるのはマグカップやエビフライの形の画像で、今自分のやりたいことからは程遠い。
「ネットの情報じゃ限界かなあ。やっぱ本屋で情報収集するしかないか。でも本屋かあ……電車に乗らんと行けないのかあ」
どんどん澱んでいく気分に堪えかね、うわーっと大口を開けて思いっきり叫んでみた。轟音が頭にガンガンと反響し少し目眩がしたが、もやもやも晴れた気がする。ところでここは防音室だったっけ? まあいいか。一戸建ての家だ、大して問題ないだろう。
部屋の外に出てみると、甘さのなかに温かさを含む匂いが廊下に漂っていて、アンジョーの鼻腔を強く刺激した。
香ばしいバターの香りに、もったりする油の匂い。少し後にニンニクのきいたパンチのある匂い。ものすごく食欲がそそられる。突然空腹を思い出した腹がぐう、と大きく鳴った。
「ジョーさーん」
階段の下から自身を呼ぶ声が聞こえた。気のせいかと思って一度無視したが、
「ジョーさん! アンジョーさーーん、アーーンジョーーやい! ねえ聞こえてる?」
と何度も大きな声で呼びかけてくる。声の主は言わずもがな、同居人のコーサカだ。まっくろくろすけを呼び出したい無邪気な子供ばりに声が張っている。
「なあにいーー?」
「あ、聞こえてた。なぁなぁ、メシ食お!」
「へ、どういうことぉ?」
「いいから! とりあえず下降りてきて!」
理由もなく急かしてくるばかりだったが、とにかくお腹が空いて仕方ないアンジョーは何も疑問に思うことなく階段を軽快に駆け下りた。
「何だこれ。めっちゃ美味そう」
「だろ? この天才ユルミラー=ヴァン=コーサカ、張り切って作りましたとも」
皿の上に等間隔で並べられているのは色とりどりのサンドイッチ。ツナ・レタス・トマト、ハムにベーコン、それから厚焼きの卵焼きとよりどりみどり。その隣には山盛りのから揚げにコロッケ、それからカツ。あとはトレイの上の肉団子にシュウマイ、立派な巻き寿司も二本そばに添えられている。
キッチンカウンターからはみ出すくらいに所狭しと並べられたご馳走の山を前に、アンジョーは思わず手を口に当てた。
見たことがないと言わんばかりに瞳を輝かせ屈託なく喜ぶ彼の反応に、エプロン姿のコーサカは上機嫌そうに鼻をふふんと鳴らした。
「この量全部? このお寿司も?」
「それはぁ……ウーバーした。流石に」
「でもすごいよ、こんなてんこもりのオードブル。君、これ朝からずっと作ってたん」
「作ってたよ、朝飯食い終わってからずっと。もしかして貴方、気付いてなかった?」
「知らんかったぁ。朝からずっと作業してたから」
一度集中するとゾーンに入って何も気付かなくなるんだよなあ、この人。彼の素直な反応に呆れたらいいのか喜んだらいいのか。コーサカが頭をくしゃくしゃと掻く横でアンジョーは鳩が豆鉄砲を食ったような顔のままだ。
「本当にすごいね、この量。二人だけじゃあ食べきるまでに三日はかかるね」
「いやいや、二人で食う量なわけねーじゃん。ゲストも昼過ぎから順次いらっしゃいますよ」
「また豪勢なパーティーだ。何かいいことでもあったの?」
「……え? ジョーさん本気で言ってる? 今日が何か分からない?」
思いもしなかった質問にそのまま質問で訊き返してしまったが、アンジョーは「なんだろう……」とオウム返しみたく首を傾げるだけだ。
――たぶん、アンジョーのことだから本気で言ってそうだな。冗談にしては悪趣味だし、そもそも冗談を言うアタマなんて彼にはないだろう。けれども本当の本当に忘れているんだったらその大きい背中を力いっぱいどつき倒してやりたい。
「今日は何の日? ほら、マンスリーカレンダーを見る」
今日は五月五日。世間の連休最終日にして、俺たちの記念すべき活動開始日。〝同じことを来年も続ける〟を目標に細く長く楽しく続け、なんとか六度目のこの日を迎えることが出来た。俺たちの最も分かりやすい区切りではあるので、毎年一応何らかの形でお祝いはしていたと思うが。
「日曜日? うーん、五月五日。あ、今世の中連休なんだ」
「そうそう久しぶりの連休……違うそうじゃねえ! 五月! 五日! は何の日?」
「五月五月ぅ……ん、こどもの日? もしかして今もう五月なの? って、あああ!」
稀代のボーカリストによる腹からの叫喚に鼓膜が堪えられず、キーンと強めの耳鳴りがした。
「マジか。もう周年の日なんだ。早、一年めちゃくちゃ早い……」
「じゃあ一体なんだと思ってたの」
「四月なのに日射しが妙に暑いし、人も車も少なくて外がやたら静かだから、なんでかなと思ってた」
さも当然といった表情でアンジョーが頷く。
周年記念日を覚えていたか否かの以前に、そもそも世間から一ヶ月遅れた時間を生きていたのだ。お前の人生周回遅れか、なんてツッコミが出かかったが、それにしては語気が強すぎるとぎりぎりのところで口を閉ざした。周回遅れなんて言葉、レースゲームでも滅多に使わない。
絶句するコーサカの前で、アンジョーは待ちきれないと言いたげに大皿を一つ持ちあげた。
「早く食べないと冷めちゃうよ。折角コーサカが作ってくれたご馳走」
「うえぇ? ちょっ嘘でしょ……現金かよ! まあいいか、あいつら来るまで時間あるし」
「あっちのローテーブルんとこに全部動かすね。そうだコーサカ、外で食べようよ。折角のピーカン照りだし」
「お、それいいですね。こんな快晴日に外でビール。ぜってえ気持ちいいぞ~~」
「いいね、みんな外でパーリーピーポ! ん? コーサカぁ。ドリンクは?」
「あっ」
コーサカは声にならない悲鳴を上げ、そのまま慌てて冷蔵庫に駆け寄った。けたたましい音を立てながら上から下まで片っ端から勢いよく開けていく。
そしてほんの少しの硬直のあと、モスキート音のようにか細く喉を鳴らしながらその場で蹲った。
「~~……んじょーさん。あのお、本当にスミマセン」
「……やってしまいました?」
問いかけに対しこくりと一度だけ頷いたあと、そのまましなしなと力なく項垂れる。ドリンクの存在が丸ごと頭からすっぽ抜けていた、というシンプルかつ誤魔化せないミスの前に為す術がない。
「麦茶とこないだの残りの酒しかない……」
「長く生きてりゃそういう時もあるって。コーサカ、何飲む?」
「ビールとウイスキー、あとワイン! 割り材の炭酸とかジンジャーエールもだし、ソフトドリンクも適当に……え、行ってくれるの?」
「そこのスーパーでよければ」とアンジョーが財布をポケットに捩じ込もうとすると、コーサカは慌てて立ち上がり身につけていたエプロンを脱ぎ捨てた。
「待って待って、一人じゃムリだってあの量。せめてチャリ乗ってけ……ってジョーさん速! マジで待って、俺も行くから!」
絞り出すような悲痛な叫びが閑静な住宅街にこだまする。空は雲一つなく青く澄み渡っていて、コーサカの雄叫びは天高く遙か遠くまで届いていった。
*
プルタブに指をかけると、カシュ、と景気のいい音が広い庭に鳴り響いた。
「ッッハア~~昼間のビールまじうめえ~~~~! 背徳! ピクニック! 時間の贅沢ゥ」
コーサカは手にした缶ビールを一気にぐいとあおった。ふわふわとした酩酊とともに強烈な炭酸と麦芽特有のコクが広がり、程よく疲労した身体に沁みわたっていく。この瞬間がまさに生きている絶頂だ、なんて本気で思うくらいには心が緩んでしまう。
その隣で、アンジョーが夢中でサンドイッチを口に放り込んでいる。アイスコーヒーも一緒にセットされているが、そちらは一向に減りそうにない。
「これホントに美味しい。マヨネーズにからし混ぜるの最初に考えた人は天才だよ……はー、レタスのシャキシャキ感最高」
「全部食うなよ、まだこれからたくさん来るんだから。俺も一ついただこ……」
無邪気に顔を輝かせる相方につられ、コーサカもツナサンドを一切れつまんだ。ツナのコクに玉ねぎの食感と辛味がほどよくマッチしている。パンチの効いた胡椒がアクセントになっていて、その後ろに控えるのは胡瓜の歯ごたえのある食感。口の中を様々な感覚で満たし、決して飽きさせることがない。
――やっぱり天才だな、と自分に向かって頷く。
外は春を通り越し早くも初夏の陽気に包まれていて、半袖姿でいるくらいがちょうどいい。白く冴え渡る日射しがじりじりと肌を焦がす。耳を澄ますと、ぴいぴい、と遠くから小鳥の鳴き声が聞こえてくる。笛を吹くような声が二種類。軒の隙間から見える木陰で鳴いているようだが姿は見えない。
ふと、爽やかな風がすり抜けていき、草木も一緒になって囁きはじめる。静かだなあ。ベンチに四肢を投げ出し、穏やかで心地良い微睡みに身を委ねてみる。
「平和ですねえ」
「だね。二人でこんなゆっくりするの、久しぶりじゃない?」
「一日何もない日が全然なかったからなあ」
ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し、六年こつこつ地道に活動を続けてきた結果、ありがたいことに沢山の人から声を掛けてもらえるようになった。寄せて貰える期待には可能な限り応えたい。その一心でほぼ年中無休駆け回っていたが、ここ最近は頭も身体も思い通りに動かない日々が続いていたように思う。忙しさのあまり、人の心をどこかに亡くしてしまい、大事なことまで忘れてしまうような、そんな嫌な感覚。
「たまにはこんな日もいいねえ」
アンジョーが声色優しく宥めてくれると、ぴんと張り詰めていた緊張がほぐれ、余計に眠くなってくる。酔いも程よくまわった頃合い、たわいもなく目を閉じてみる。
「……そぉですねえ」
浅い眠りとの狭間でぼうっとしていると、横からごそごそと物音が聞こえてきた。カチャ、とベルトを外す金属音まで鳴ったので思わず身体を起こすと、上半身裸のアンジョーがプールサイドで仁王立ちする姿が目に入った。
「アンジョー?」
「暑いじゃん今日。だからプールに入ったら気持ちいいかなと思って。でも……」
険しい顔のアンジョーが指差すのは、我が家ご自慢のプライベートプール。――だが、今は緑色の液体が一面に広がり、藻や虫の死骸が好き放題浮いていて見る影もない。
「あぁーー……冬の間全然出来てなかったもんなあ、掃除」
「今からやる……にしても皆来るまでには絶対終わらんやろうし。今日がパーティーだって分かってたら、昨日のうちから頑張ってたのになあ」
すっかり落胆し肩を落とすアンジョーの隣に、コーサカが意気揚々と並び立った。
「任せろ」
軽くウインクし、パチン、と指を大きく鳴らした。
するとどうだ。青緑色に錆び付いたプールの真ん中にぽっかりと黒い穴が空いた。たちまちに水面が渦を巻きはじめ、濁流となり、中心に向かって吸い込まれていく。ミシミシと裂くような轟音をとどろかせながら、深淵はあらゆるものを呑み込む。
やがてすべてを巻き込んだ頃には、プールには水一滴すら残っていなかった。役目を終えた渦は天高く昇り、凪いだ廻風へと変化し、一筋の痕跡を残す。
その先端から、大きな雫が落ちてゆく。ポタリと撥ねた瞬間、白い閃光が視界いっぱいに迫った。あまりの眩しさにアンジョーは両目をぎゅっと瞑る。
衝撃が収まり、恐る恐る目を開けてみる。眼前には底まで透き通った水面がいっぱいに広がっていて、太陽の光が反射しきらきらと揺れていた。プールから吹き上げてくる風も青く澄んでいる。
ほんの一瞬でいっさいの澱みが消えてなくなった。目の前の出来事がまったく理解できず、アンジョーは激しく瞬きした。
「何これ! 凄い、えぇ待って。コーサカって魔法まで使えるの?」
「いいや、これは……人間の英知。技術の結晶。メタバースの可能性!」
「メタバースってプールの掃除もできるんだ! すげええ~~メタバースって何でも可能にしちゃうんだね」
「ん? 光の加減でそう見せているだけなんだが……」
「だってホラ、さっきまであんなに腐った土の臭いがプンプンしてたのに、今は何もしない。塩素の臭いすらしないよ」
アンジョーがプールの際ぎりぎりまで顔を寄せ、くんくんと鼻を鳴らしている。
そんな馬鹿な、とコーサカは小さくごちりながらも、一緒にプールサイドに座り込みひくひくと鼻先を動かしてみた。
「マジじゃん。てか水がめちゃめちゃ綺麗。そんなことある?」
「だろ? やっぱコーサカもメタバースも凄いよ。無限の可能性しかない」
そう早口で捲し立てながら、アンジョーは自身のズボンに手を掛け、下着ごと一気に脱ぎ捨てた。
「プール開き一番乗りぃ! うっひょー!」
「あっくそいいな! ぜってー気持ちいいじゃん、フルチンでプールとか!」
辺りに水飛沫を撒き散らしながら躊躇なく飛び込む狼男の背中を、コーサカは穴が空くほど恨めしそうに見つめた。吸血鬼は流水が苦手――という以前に、それなりに酔っ払った頭のまま入水なんて自殺行為には走れなかった。自制心はいつだって心の片隅に置くべきものなのである。
「あーー気持ちいい……」
全身から力を完全に抜いて、水の揺らぎに身も心も丸ごと預ける。浮遊感にぷかぷかと漂っていると、胸の内も自然にぽろりと溢れてしまう。
「ジョーさん、本当に水浴び好きだよね。温泉もだけど」
ズボンを膝上までたくし上げ水に足をつけてみると、ひんやりとして気持ちいい。コーサカが少し大袈裟に足を振り上げると、ばしゃ、と細かな飛沫が舞う。すぐにうわぁ、なんて弱々しい悲鳴があちら側から上がった。
「なんだろう。落ち着くんだ、帰るべき場所みたいで。水は全ての生き物のみなもと、って言うじゃん」
「それを言うなら水ではなく海なのでは?」
ん? そうだっけ? と不思議そうに訊いてくるので、話の着地点を見失ったコーサカはそれ以上深掘りするのを止めた。
「来年もこうやってお祝いできればいいですねえ」
「そうだね。そのために今日はしっかり遊んで英気を養って、明日からまた頑張ろ」
「今日が終わってほしくないよ~~! 明日からまた出張だ、荷造り全然終わってねえ」
「また遠くで仕事なの? 隙あらば予定入れるじゃん、コーサカほんと……」
そう諫めようとした瞬間、チャイムの音が窓の向こうのリビングから通り抜けてきた。
玄関の方角から「コーサカ! アンジョー? いるー!?」「真っ昼間からおっぱじめてんじゃないの?」「551あるで! チルドの!」なんて好き勝手な雄叫びが聞こえてきて、そのうちに「開けろ! はやく!」とシュプレヒコールへ変わっていった。
「うっせえ! 近所迷惑だろうが、今行くから待ってろ! あ、ジョーさんも早く上がろ。もうすぐ来るって、ドラ美さん」
「。あとどのくらい?」
「五分後。フルチンを晒していいならそのままでもいいけど」
「いいわけないだろ! くそぉ、君が入らなかったのはそれが理由かあ」
慌てて水から上がり室内に入ろうとするアンジョーを、「家中がびちょびちょになるから止めろ!」とコーサカが身体を張ってなんとか制止する。
ここはMZMの一番の拠点にして、メイトみんなの集合場所。太陽がてっぺんから少しだけ傾いた頃合い、賑やかな祝いの宴はまだまだ続くのであった。