あなたからの手紙静かな部屋で暖炉の炭の爆ぜる音がする。
俺は没頭していた書類にむけていた顔を上げると、視線を窓の外へ向けた。
冷えるわけだ。
昼までは止んでいた雪が再びちらつき始めている。
しんしんと降り続く雪から視線を放し、俺は万年筆を置くとひとつ伸びをした。
凝り固まっていた肩や背の筋肉がゆっくりとほぐれてゆく。
首を何度か回しトントンと肩を叩くと、冷めるを通り越して冷え切った茶を一口流し込んだ。
乾いた喉を冷たい茶が潤してゆく。
湯呑みをおくと、俺はこの部屋へと近づいてくる足音に耳を傾けた。
視線を扉へと向けて一呼吸置くと、部屋の外から入室の許可を乞う部下の声が聞こえてくる。
「月島曹長殿!ご在室ですか」
「ああ。入っていいぞ」
「失礼します!」
俺の返答を得ると、部下……長瀬一等卒は何冊かの書類と書簡を持って入室した。
「昨晩所望されていた書類と、本日届きました月島曹長殿宛の書簡をお持ちしました」
長瀬はそう言いながら数冊の書類と書簡を差し出す。
「すまない。そこに置いておいてくれ」
「は。ではこちらに」
そう言ってきっちり揃えた書類を机の端に置くと、長瀬は一礼をして執務室から出てゆく。
「失礼しました!」
「ご苦労だった」
俺はそんな長瀬を見送ると、早速書類の題名を確認した。
頼んだ書類は全て揃っている。
俺は顎を撫でながら次は書簡へと目をやった。
一通は偵察へ向かわせた部下からの報告書。
一通は武器商人からの最新式の武器の紹介。
一通はアイヌの少女からの近況報告。
そして、もう一通は……
最後の書簡に視線をやった瞬間、手紙を捌く手が止まった。
たった一枚の絵葉書。
そこには、実直そうな達筆で一言「息災か?」とだけ書かれていた。
俺はそっとその絵葉書を取り上げると、その達筆な字に指を滑らせる。
この字を、自分が見間違うはずがない。
二年前までは毎日、嫌というほど見てきた字だ。
そっと裏返して差出人を見れば、そこには想像通りの人物の名前。
——鯉登音之進。
俺は、自分の表情がふと緩むのを感じた。
再度裏返し、絵葉書の文面を見る。
洒落た絵葉書には、雪の中に咲く福寿草が控えめに、だが品良く描かれていた。
俺は流行りの花言葉など知らない。
だが、縁起の良い花だということはわかる。
書いてあるのはたった一言。
だが、俺は何度もその文字を繰り返し読む。
その文字を記憶してしまうくらい、目に焼き付けた。
はい。
俺は息災ですよ、鯉登中尉殿。
あなたはもうそろそろ大尉に昇進なさるんですよね。
色々な言葉が頭の中を駆け巡る。
だが、言いたいことはそんな事ではない。
中尉が陸軍大学校へ入学して、そろそろ二年が経つ。
その間、今まで届いた葉書は七通。
これで八通目だ。
それが多いか少ないかで言えば多い方だろう。
普通、ただの部下に葉書で近況報告などしない。
もっと言えば、中尉がこの旭川に戻ってくる保証もないのだ。
別の部隊に派遣されることだって十分あり得る。
だから、今現在自分と中尉は上司と部下と言ってしまって良いのかも分からないのだ。
それでもこうして、季節の折に鯉登中尉は絵葉書を送ってくれた。
書いてある言葉はいつも一言二言、非常に短い言葉だ。
『そちらは寒いだろう。自愛しろ』
『こちらは暑い。旭川が懐かしい』
『雪は溶けたか。息災でな』
だが、その多くは俺の身を案じるような言葉だ。
俺はその絵葉書が届くたび、なんとも言えない心が暖かくなるような気持ちになった。
恐らく、今中尉はかなり厳しい状況に居るのだろう。
陸大は秀才揃いだ。
もちろん中尉も聡明であるし、何より気力と胆力が他より群を抜いている。
だが、鶴見中尉の一件以来、鯉登中尉の立場はかなり厳しくなっていた。
綱渡りのような道を行き、茨の道を進む。
その甲斐あってなんとか鶴見中尉の部下達を救ったが、その道のりは決して平坦ではなかった。
それは今も変わらない。
未だに敵が多い中、それでも持ち前の前向きさと人望で少しずつ増え始めた味方によって、何とか陸大への推薦をもぎ取り、二年の勉強の末陸大への入学が決まった。
その努力が並々ならないものだった事は、隣で見ていた自分が一番よく知っている。
恐らく、陸大でも狡猾な同輩によって足の引っ張り合いが起こっている事だろう。
傷の多い鯉登中尉は、その格好の餌となっているはずだ。
それでも。
きっと鯉登中尉は負けない。
そんなものもねじ伏せて、ついでに味方まで作ってしまう。
そんな男なのだ、彼は。
俺は、引き出しから葉書を一枚取り出して机の上に置く。
鯉登中尉が選ぶような都会的な絵葉書ではないが、この絵を見つけた瞬間、俺は中尉殿を思い出した。
そして気がつけば、この葉書を買っていたのだ。
万年筆を手に取り、何を書こうか悩む。
が、結局俺はそのまま何も書かずに万年筆を置いた。
自分でも「下らない」とは思うのだが、今ここですぐに返事をしてしまうには惜しい気がしたのだ。
すぐに返事をしてしまえば、このやりとりはここで終わってしまう。
だから、一日しっかりこの葉書を噛み締めたいと、そんなことを思った。
俺は葉書を二通引き出しにしまうと、再び途中だった書類に取り掛かった。
「寒いと思ったら雪だよ」
不意にそう声をかけられて、私は落としていた視線を上げた。
そして、そのままその声の主の方へ顔を向け、次いで窓の外へと視線を投げた。
なるほど、窓の外にはちらちらと雪が舞っている。
深く積もるほどではないが、屋根が白く色づく程度の雪だ。
「ああ……本当だな」
声の主にそう返事をすると、私は持っていた絵葉書を手帳へと挟む。
「だが、旭川はもっと寒い」
「ああ、そうか。君は第七師団の出身だったね」
「そうだ」
声の主……高橋は陸大の同輩だ。
確か第三師団出身の中尉だと話していたのを覚えている。
高橋はここ、陸大で比較的好意的に接してくれる人物だったので、自然と世間話もするようになった。
「僕は名古屋の出だからこの寒さは辛いな」
そう言うと高橋は戯けたように腕を摩った。
「この程度の寒さで参っていては、第七師団に派遣されたら生きていけんぞ」
「いや、そうなったら本当に死活問題だ」
そう言って笑いながら高橋は私を見つめる。
その視線が不意に真剣な、しかし優しいものになった。
「……その葉書は、細君から?それとも許嫁殿とか?」
「うん?」
「今見ていた絵葉書だよ」
高橋はそう言って私の手帳をちょんちょんと指差した。
「ああ、これか」
「すまない。見るつもりはなかったんだけど、あまりにも君がその……幸せそうな顔をしていたから」
そう言って照れたように高橋が微笑む。
「君、そんな顔も出来るんだなぁ」
そう言った高橋の言葉に私は驚いて声を上げる。
「それではまるで、常に私が怒っているようではないか」
私の言葉に、今度は高橋が驚いたような声を上げた。
「え?気がついていないのかい?君、いつも難しそうな顔をして、ずっとここに皺を寄せているよ」
そう言って高橋が自分の眉根を指差しながら怒ったような表情を真似た。
「……そう、だったか?」
私は高橋の言葉に打ちのめされながら額を押さえた。
確かに、思うところはたくさんある。
それらを考えていると、無意識に気難しい顔をしてしまっているかもしれない。
「うん。でも、君でもちゃんと心が許せるような人がいるってわかって安心したよ。で?誰なんだい?」
少し意地悪そうな、だが楽しそうな顔をしながら高橋がそう聞く。
「これは——」
「おい!鯉登!鯉登音之進はいるか!」
私が高橋の質問に答えようとした瞬間、廊下から激しい怒号が聞こえてきた。
「鯉登!」
言葉と共にバタンと扉が開かれ、ズカズカと額に青筋を立てた青年将校が近づいてくる。
私は無意識に唇をへの字に曲げると、入ってきた人物に向き直った。
「煩いぞ、間宮」
私の言葉に間宮は更に目を釣り上げると、ダンッと目の前の机を叩いた。
「貴様、ふざけるな!」
「何がだ。言葉はきちんと文法を守って話さんと伝わらん」
間宮を前にすると、どうしても無意識に煽ってしまう。
隣で心配そうに見ている高橋には悪いと思うが、出てしまった言葉は戻らない。
「先ほどの演習だ!貴様も私と同じ青軍だっただろう!」
「ああ、それがどうした。私と同じ軍なのが嫌だったのか?だが、組み分けは私がしたわけではないぞ」
「そうではない!貴様あの場面で『戦略的撤退』とはどういう了見だ!」
間宮は唾を飛ばしながらそう捲し立てる。
ああ、面倒臭い。
なぜこうもこの軍には「根性論」を押し付けようとする人間が多いのか。
それが将来の将候補であるならば尚更嘆かわしい。
私はため息を一つ着きながら間宮を見上げた。
「戦略的撤退のどこが悪い?あの状況……戦力差、地形、天候、兵糧の残り……諸々の状況から、あのまま攻めに転じていたら兵の被害が大きいと感じたまでだ」
「負けそうだから逃げ帰るというのか!」
再びダンッと机を拳で叩きつけ、間宮ががなる。
「負けないために撤退するのだ。だから戦略的撤退だ」
「逃げるのは負けと同じだ!」
「……話にならんな」
私は怒鳴り散らす間宮から視線を外し、腕を組んだ。
「貴様ぁ!難局からおめおめ逃げるような負け犬のくせに、私を愚弄するか!」
「逃げるのではない。撤退だ。その区別もつかん輩とこれ以上話す気はないな」
頭が痛い。
私はこめかみを押さえると手で間宮を追い払う仕草をした。
なにも、この直情思考は間宮に限ったことではない。
ここにいる多くは兵を駒としか考えず、無理な作戦、過激な作戦をいかに派手に演説し、教官から喝采を受ける事かという事ばかり考えている。
実際、そういう者達の評価が高いのも確かだ。
本来、ここは多くの兵を率いる将たる者の知識、技量、度量、心得、決断などを学ぶはずの場所である。
だが、実際はそんな事は二の次三の次であり、奇抜な作戦で教官の目を引き、他の者からの反論をただ論破することだけに長けていくだけの教育に、私は心底辟易していた。
将となるものがこれでは駄目だ。
私の経験した『戦』では、そんな詭弁で兵は動かない。
兵が最もよく働くのは、自らの心が動かされた時なのである。
「ははぁ、もしや貴様……陛下に忠誠を誓った軍人ともあろうものが、死ぬのが怖いのか?」
激怒から一変、したり顔になった間宮に私は再びため息をつく。
「私は自分の命が惜しいのではない。だが、どんな人間であろうと、兵の命は何よりもかけがえなく尊いものだ。その命を軽々しく扱うものではないと言っているだけだ」
「ふん、腰抜けらしい詭弁だな」
間宮はそういうと、それでも私を『腰抜け』呼ばわりしてそれなりに満足したのか、踵を返した。
「せいぜい教官殿に見切りをつけられて、落第……いや、退学になんようにな。まあ、私はそれでも一向に構わんが?」
そう言って鼻で笑うと、間宮はいつの間にか集まって私たちのやりとりを見物していた野次馬を手で追い払いながら出てゆく。
それらを見届けると、野次馬達はそろそろと散っていった。
「鯉登君……」
心配そうな高橋の声に、私は視線を彼に向けた。
「高橋、お前も……私のことを腰抜けだと思うか?」
私は自重気味にそう笑うと、椅子の背に身体をもたげる。
私は間違ってなどいない。
だが、それでも時には感傷に浸りたくなる時もある。
高橋はそんな私を見ると、一つ吐息をつき、意外なことに自身について口を開いた。
「僕はね、鯉登君。日清戦争で父を亡くしたんだ」
「……父君を?」
その話がどこに繋がるのかは分からなかったが、彼の表情がいたく真剣だったので、相槌を打ちながら話を促す。
「うん。父の死後は六つ上の兄が僕たちを支えてくれた。その兄も……日露戦争で死んだ」
「…………」
「彼らは、自分の死に誇りを持っていたと思うよ。後悔はなかったと思う。でも……残された方は、そうもいかない」
高橋はそういうと、懐から一枚の古い家族写真を出した。
そこには高橋の父君、母君、兄君と彼自身、そして恐らく妹と弟らしき人物と笑顔で写っている。
「兄が死んだ後、母は僕に『軍に行くな』と言ったよ。家族を二人も戦争で亡くしている母の気持ちを考えたらそれも理解できる。だけど……今僕はここに居る」
そう言って高橋は少し笑った。
「鯉登君、君ならその意味が分かるんじゃないのかな?」
高橋の言葉に、私は身が引き締まる思いがした。
同じ志を持つ者が、ここに居る。
それだけで心が奮い立った。
ここの教育は間違っている。
おそらくここで学んだ事は実際ほとんど役に立たないだろう。
そして、寧ろそれが役に立つ様な組織にしてはならない。
こんな場所にいられるか、と飛び出してしまうのは簡単だろう。
だが、それでは組織は変わらない。
組織を変えるには、まずは出世をしなければならないのはどんな世にも通じる理なのだ。
軍は、様々な人間の大切な者を守るための組織でなくてはならない。
勿論、それは部下の命とて同じだ。
だから、ここがどんな場所であろうと、他を圧倒して卒業せねばならん。
勿論その後も、休む事なく邁進しなくてはならない。
「……うん。いい顔になったね」
高橋はそう言って笑うと、机に頬杖をついて私に再び質した。
「で。誰なのか、聞いてもいいかい?」
高橋の言葉に、私は一瞬逡巡する。
言うのを躊躇ったのではない。
ただ、この関係性を言葉にしたことがなかったからだ。
「……そうだな」
そこで言葉を区切り、私は思いを巡らせた。
部下と言い切ってしまうのも違う。
友人でも……まあ、あるまい。
そこで、一つの言葉に行き当たった。
うむ、完璧ではないが、まあ、妥当だ。
「相棒だな。こいつは、私の一番大切な相棒だ」
私の言葉に高橋が笑う。
「それはそれは。ごちそうさま」
「む、なぜ笑う」
「君、かわいいなぁ」
「なんだと?!」
「さあさあ。次の訓練は剣術だぞ。早く行かないとどやされてしまう」
「む……」
不承不承立ち上がると、窓の外に視線をやった。
雪がチラチラと降っている。
——月島、後少しだ。
私は思いを断ち切るように踵を返した。
「月島曹長、その万年筆えらく洒落てますね」
「……ああ、そうだな」
隣で執務をしていた成田軍曹から突如としてそんな軽口を叩かれ、俺は自身の万年筆に視線をやった。
「誰かからの頂き物ですか?」
「……まるで、俺がこんな洒落た万年筆など選べんだろうといった言い草だな」
「……!ち、違いますよ!ただ、曹長殿の趣味とは少し違うと感じただけで!」
調子良くそんなことを言う成田に苦笑いをしながら、俺は万年筆を撫でた。
「だが、まあ、その通りだ。これは鯉登中尉殿……今は大尉殿か……から頂いた。大尉殿が陸大へ行かれる時に餞別でな」
「ああ、やっぱり!そうかなと思ったんですよね。さすが大尉殿はハイカラだなぁ」
「……貴様、やはり俺のことを馬鹿にしていないか?」
「ぎゃ!もう、冗談ですよー!」
軍曹はそう言うと額の汗を拭った。
そろそろ夏の日差しが強くなり、旭川といえど汗が滴る暑さだ。
「後四月程ですね」
手拭いで汗を拭いながら目を細めて軍曹は窓の外を眺めた。
後四月で鯉登大尉殿が旭川へ戻ってくる。
『月島ァ!戻ったぞ!』
きっと、今まで変わらぬ太陽のような自信に満ちた表情で名を呼ばれるのだろう。
それを思うとむず痒いような、心の臓がじんわり暖かくなるような気持ちになった。
「あ、曹長殿……なんか嬉しそう」
「煩い」
万年筆をひと撫でし、俺は再び視線を書類に向ける。
「さあ、大尉殿が戻ってくるまでにこの案件を片付けるぞ」
それまでは、どうか息災で。
——次に旭川に太陽と月が揃うのは、雪の降りしきる真冬の話。