リバする師弟居酒屋編 ざわざわと人々の声が耳に当たる中、注文した品物も出揃って一緒にきたビールの二杯目を受け取りながら、目の前の昔は可愛かったはずの弟子が口を開いた。
「師匠ってえっちしたことありますか」
「えっ⁉︎ ゴホッごほっ!」
な、な、なん?
噛んでた豚トロをまだ咀嚼途中なのに飲み込みそうになり、激しく咽せる。
え、なに? なんて言った今?
モブの口からえっちって出てきた?
お冷を飲みながらモブを見ると、相変わらず何考えてるのかわからない顔をしていた。
大丈夫ですかと抑揚のない声で言いこいつは本当にひとを心配する気はあるのかと問いたいくらいだが、いや今はそれはいい、それよりも先程の発言はなんだ?
これまで長い付き合いだったモブからの、初めての下関係の質問に俺は戸惑いを隠せずに咽せた喉を咳払いで治めようとした。
周りが騒がしくて誰も俺たちの会話を聞くことがないのが幸いだ。ここは近くの居酒屋で、酔っ払いたちの声が響いているため、少し大きめの声で話していたが、周囲は各々の話題で大層に盛り上がっているようで耳をそばだてる者はいない。
金曜日の夜は居酒屋も賑わい、街中の人々も明日からの連休に浮き足立っている。
俺は芹沢を飲みに誘うも彼はすみません来週テストがあるのでと早々に帰宅してしまい、あーあ俺呑みたい気分だったんだけどと呟くと、後ろで聞いてたモブが「僕が付き合いますよ」と、かの無表情で言い、ほんとに付き合う気あんのかよとぼやきながらもモブと共に赴いたのだった。
モブ自身ももう二十歳になり、酒もそこそこだが呑めるようなっている。誕生日にはみんなでビールを呑み、あのモブが酒をと感動したものだ。
それにしてもモブも一丁前に男だったんだな、これまで一度もそんな話を振られたことがなかったから興味ないんだとばかり思っていた。男が全員性に興味があるものだというのは決めつけで、そうでない奴もいるのは当たり前だ。だから、モブももしかしたらそういうことは必要のない質なのかもしれないと薄らぼんやりとだが考えてはいた。
しかし俺の記憶ではこいつはキスは経験済みだ。高校生の頃に告白されて女の子と一度、三ヶ月付き合って、その時にしたと言っていた。本人ではなく、トメちゃんからの情報ではあったが、そのトメちゃんはモブから聞いたと言っていたし間違いはないだろう。女の子はいつの時代も恋愛話が大好きだからな。
確か、その後は、先に進めずヤキモキした相手に振られたはずだ。
それ以来、浮いた話が出たことはないし、大学生の今も堂々たる陰キャぶりを発揮している(と俺は思っている。聞いたことはないが)。つまりだ、要するにモブは、そっち方面は未経験、童貞だ。
ということは、だ。今までキスしたことがあるモブと、そういう話をしてこないモブが頭の中でリンクしていなかったが、今の話題から察するに興味はあったが元来のびびりや奥手さが邪魔をしてただ単に話題に出てこなかっただけなのではと思い至った。
そうなると、まあ、二十歳ともなれば未経験の自分に焦って周りと歩幅を合わせたがるものだから、モブもそうなのかもしれないと思い、うっすいレモンサワーを飲み干して、あるよ、と平静を装い答えてモブの様子を伺った。
「それがどうしたんだ?」
モブの目がわずかに開き、口元が閉じ、俯き加減になった。
「えと、あの……」
「もしかして大学でみんなに童貞をバカにされたのか?」
「あ、そう言う話題にはなりました」
おずおずときっかけを話しだすモブ。
やっぱりな。じゃなきゃこんなこと言い出すわけがないんだよ、うちの弟子は。
「今時みんな卒業してるってことか? ダイガクセーはませてるな」
「みんなじゃないです、まだの人もいます」
「あー、まあそうだろうな。童貞捨てた奴らはあいつらと俺らは違うって言いがちだろ。線引きが好きだから」
「言われました……。その中で、童貞じゃない方がモテるって言う人がいて」
枝豆をぴっと指で出しながら、モブの話に耳を傾ける。それ俺も聞いたことあるな。男ってのは自信がなさすぎるから、まあ俺もなんだが、別にどっちでもたぶん女は気にしないんだろうよ。
「そんなことはないだろ、現に俺は……」
そこまで口に出して、慌てて枝豆を放り黙り込んだ。いやいや、待てよ、俺は、なんだよ、モテないって今言おうとしたか。それはさすがに情けなさすぎて口には出せなかった。咳払いを一回して、続ける。
「とにかく、別に童貞だろうか違かろうが何も変わらないんだから大丈夫だ」
「師匠は、でももう違いますよね」
「そりゃもう、さすがにこの歳まで童貞だとやば」
あっしまった。
口を押さえたがもう遅い。モブがぎっと見据えてきている。
「……ほらやっぱりそう思ってるんだ」
たらりと額に冷たい汗が流れる気がした。
このままだと怒りだすぞ、これは。
「いやいやいや、違うんだってモブ。だってお前はまだ二十歳、俺はもう三十四だろ。比べる対象にならんぞ。魔法使いも超えとるわ」
「まほうつかい」
「三十まで童貞だと魔法使いになれるってやつだ」
「僕このままだと魔法使いに……」
「超能力ある時点でもう十分魔法使いみたいなもんだろ」
「超能力と魔法は違いますよ」
「は?」
モブがよく喋るようになってから、俺はモブとの会話の流れをこっちに持ってくるのが少し苦手になった。モブの返答はいつもどこかズレてるし、この感覚には子供の頃からの付き合いで慣れてるんだがどうしても最近は俺の思ったように丸めこ……失敬、モブを納得させるだけの展開にはさせられないでいた。
「それから、女の子たちに、好きな人が初めてだと不安って言われて……」
「えっうそだろ」
マジかよ、不安なの?
それは予想外だ。
枝豆を口に放ったのに、モブの発言に豆を受け止めるのを忘れそのまま放物線を描いて床に落ちていったが、ついと出された指が、空間を歪ませるように色付き枝豆を浮き上がらせる。
「それで、師匠にお願いが」
「この流れでのお願いはちょっと不安なんだが」
どうしよう風俗か女を紹介してほしいとか言い出しかねん勢いだ。風俗なんてもってのほかだし、女なんか知り合いに1人もいないし、いるとしたら客のあのバレンタインにチョコをくれたマダムくらいだ。つーかあのマダム相手に勃つか いや流石にそれは相手にも失礼か。
ていうかモブはそもそもそこまでしてまで童貞捨てたいのか
よし、ここは師匠の俺から説得しなければ。
「モブ、いいか。まずは風俗はだめだ。プロで卒業しても素人童貞へと進化するだけだ」
「いやちょっと意味がわかんないんですけど。風俗には行きません」
「……そうか。」
俺はふうぅぅと深く息を吐いて、腕を組んで目を瞑った。そっちじゃなかった――
てことは、やはり女の方か。
よし、と目を開けて、モブ、初めてはもっと大切にした方がいいぞ、と我ながらいい事を言おうとした瞬間、先を越されたモブの言葉に俺の声はかき消された。
「師匠にえっちしてもらいたんですけど」
飛び込んできた枝豆を口で受け止めたが、顔の筋肉が痙攣していくのを止められずに、枝豆も結局落ちていった。
いやいやいや。
待って、おかしいだろ 確かに、確かに俺はお前の師匠だけれども、指導する立場にこれまであったわけだけれども。
そっち方面まで指導する師匠が世界のどこにいる
「おかしいおかしいおかしい発言がおかしい」
「真剣なんですけど」
「いやいやいやいや」
俺は首がちぎれんばかりに横に振り、モブを制止した。何を血迷ったことを言ってるんだ。落ち着けよモブ、さっき俺なんて言おうとしてたっけ? 全然思い出せんこの流れになんでなったんだっけかあれおかしいな俺も落ち着かないといかん。よし追加注文だ。
「すみませーん! あ、レモンサワーください。サワー多めで」
「今のアルコールなしでお願いします」
「こらモブ!」
「師匠、話の途中ですよ」
モブは並んだ皿の中から刺身を一口放り込みながら、俺のことをさらに見据えてきた。
そうは言っても、こんな話酔わずにできるかよ(すでに酔っているが)。モブがあんまりにも無表情に睨むもんだから、冗談なのかどうかも判断つかない。
「あのなあ、女の子を紹介してくれとか、風俗に行きたいとかならわかる。実際行くかどうかは別として、それが普通の考えだろう」
「普通が何なのかは僕にはわかりませんが、風俗ってお金払ってしてもらうところですよね? それは違う気がするし、そんなことに女の子を紹介してもらうのも変だと思います」
「正気に戻ったか」
「だから師匠にしてもらいたいんですが」
「また気が狂ってきたぞ」
ちょうど届いたレモンサワー(こいつのせいでただのきつめのレモン炭酸水)を受け取り、モブのアホの極みのようなおねだりを殴り返す。
「なんでそこまで拘るんだよ」
本当にそうだ。なんでそんなにこだわるのか。友達に馬鹿にされたくらいで、わざわざ男の俺に頼み込むことでもないだろう。
「……師匠、僕」
これまでより小声になり、モブの勢いがなくなった。店の喧騒がモブの声量を上回りかけ、俺は聞き漏らすまいと身を乗り出す。
モブが口を小さく開けて、すっと箸を置いた。背筋もわずかだが伸ばし、手を膝に置いてこちらを向き直り、改まった様子で続きを口にした。
「好きな人がいるんです」
「へ、え、え⁉︎」
俺は持ったままのレモンサワーを危うく落としかけて、指の力を意識して込めた。
乗り出していた身も半分立ち上がるほどで、慌てて深く座り直し、椅子ががたりと背中で音を立てる。
好きな人がいたのか! というかこの流れでそこ?
「それなら余計に何で。初めてをとっておけよ」
「その人、男なんです」
「えっ!」
さっきより大きめの声で返してしまった。もうレモンサワーを握るのは忘れてしまった手のひらは宙を舞い、円を描いて口を塞ぎモブを見る。
おとこ。
マジなのか。
「あ、いや、でも、相手が男だろうが別に関係ないだろ」
慌てて冷静さを取り戻したように言い繕うが、モブは俺の反応に少し傷ついた様子で下を向いた。
周りの騒がしさが遠くに去ったような感覚を覚えて、二人の間には静けさが訪れる。信頼して言いにくいことを話してくれたモブに対して、あの態度は失礼すぎた。
「悪い、そういうつもりじゃなくて。ただつぼみちゃんを好きだったお前が、と思って」
「いいんです。僕も自分で気づいた時はびっくりしました」
飲みかけのビールの泡はすっかり消えて、ぬるくなってきているであろうそれの縁を指でなぞり、モブは目線をふわふわと浮かせながら、呟くように言った。
「俺が知ってる人か?」
思わず俺は、疑問に思ったことを尋ねてしまう。こんなこと聞いてどうするんだ。俺はどうするつもりでこれを聞いたんだ。でももう出した言葉は引っ込められない。
聞きたかったのはこれではないような気がしたが、はっきりと自分の気持ちさえ今はわからない。
黙り込んだモブの表情は前髪で隠れて窺い知れない。俺は間を持たすようにレモンサワーの取っ手を持ち直し、モブの返答を待つしかなかった。
モブは長い沈黙のあと、
「いいえ」
と答え、ビールを、ひとくち飲んだ。まるで他の何かを飲み込むようにごくりと音を立てて、ふうとため息をつく。
「その人が、初めてじゃない人がいいって」
そっぽ向いて、まるで飲み終わったペットボトルをごみ箱へ捨てるように残りの言葉を放ってきた。
大切にされない証拠を見たくないと、どこかへ向かう視線を追いかけ、俺も同じ方向へ顔を向けた。
「……そいつはやめとけ」
俺の声が響く。コップの取手を強く握りしめて、そいつはろくなやつじゃないぞと続けた。
「お前の気持ちを知っててそれ言ってきたなら、よほどのゲスだぞ。知らないならただの遊び人だ。どっちにしても脈はねーぞ」
ついついトーンが低くなってしまう。最後は語気も強くなって、吐き捨ててモブを脅す形になったが、感情を抑えられなかった。
この会話が始まってから動揺しっぱなしだ。初めて性に関する疑問を投げかけられ、その後にセックスしてほしいと頼まれ、挙句にこの告白。
平気でいられるほうがおかしい。
指先が冷たくなるのを感じる。これがコップについた水滴が手を冷やしているわけではないことはわかっている。
だってそうだろう。
相手が誰だか全くわからんが、そんなやつに、モブの良さがわかるわけない。そんなゲス野郎に。女でもない。何処の馬の骨ともわからんやつに。それなら俺のほうがマシじゃないか。俺のモブを取られてたまるか。
いや、あ、
……俺の弟子のモブだった。
言葉足らずだった。
誰に聞かれたわけでもないのに言い訳してしまう。
とにかく、俺はモブに幸せになってほしいんだ。そう思うとつい引き止めたくなる。
「他にもいるだろう、ほら、えーと」
「師匠とか?」
「そう、俺とか」
そうだ、俺とかな。
「え?」
モブは残っているビールを一気に飲み干して、立ち上がった。
俺は自分の流されやすい軽すぎる口が乾いていくのを感じながら、その姿を呆然と見ていた。
「じゃあ、行きましょう」
感傷に浸るような口ぶりだったモブは一瞬でいなくなり、後には元の目の据わった弟子の瞳だけが残されていた。
行くって、ど、どこへ――?
もう俺も大人だ。モブが向かおうというそこの場所は容易に想像がつくが、それが100%確定するまでは、絶対に口にできなかった。