上の空のバカンス(2/5くらい)『二十五歳も年上のひとと付き合うって実際どんな感じ?』
そんなふうに大学の女友達が聞いてきたとき、聡実はさらりと、
『結構ふつうだよ』
なんて返した。
その言葉に嘘はない。
二十五歳年上の恋人は聡実より大分長身だけれど、そのぶん話を聞くために小首をかしげる所作が可愛い。声も力も段違いだけれど、聡実に触れるときは羽毛が触れるみたいにして、年中『痛ない?』なんて気を使う。着ているもの、持っているもののランクは段違いのはずだけれど、上手いこと自分とならんでも違和感のないものを選んでくれるようになってきた。選んでくれる店だって、カジュアルで味重視。
ようは、相手の優しさに助けられて、結構ふつうの付き合いができている。
女友達は聡実の答えに少し驚き、安心したようだった。
『そっか~よかった。……ごめんね? 岡ピはしっかりしてるから大丈夫だと思ったけど、年上彼氏って色々あるって聞いたから』
『色々って、たとえば?』
『うーん。高校の時とか、うんと年上の彼氏が豹変した~みたいな話、よくあって』
『豹変……』
『……やっぱり、力とか経験の差? すごいじゃん。だから、ふつうに付き合ってるつもりが、いつの間にか嫌なことされてて、気づいたら逃げられなくなっちゃってて……みたいな。あ、でも、ほんとに! ほんとに岡ピのとことは違う! だから、きっと大丈夫だよ。岡ピは大丈夫!』
女友達は珍しく焦って両手をあわせた。
――大丈夫。きっと大丈夫。
――お幸せにね?
そんな会話をしたのは、何日前だっただろう。
聡実は清潔な寝具に包まれて、ぼんやりと白い天井を眺めている。
白い天井、白い壁、白い寝具。
何もかもが白い部屋。
高い位置の窓から差し込む光が、白い壁紙にまばゆい筋を作っている。
(あさ……? ひる……? どっち向きの部屋なんやろ……)
頭の中に霧がかかったみたいで、今の状況がよくわからない。
見慣れない天井を見つめていると、ドアの開く音がした。
「お、起きとるやん。おはよう~」
のんびりとした低い美声。
聞くだけで心臓を優しく撫でられたみたいな気分になる、恋人の声。
「きょ……じ、さ、ん」
(な、なんや、この声)
自分の喉から出たのは、あんまりにも歯切れの悪いかすれ声だ。
ぎょっとしていると、ぎしり、ベッドのスプリングがきしむ。
嗅ぎ慣れた香水と、少しの煙草。
真っ黒なスーツを着た男の、彫りの深い顔が目の前に現れる。
「ん。聡実くんの狂児さんやで」
ほんの少し乱れた前髪を揺らし、隈の深い目を細めて囁かれると、反射的に心がとろけてしまう。
好きな顔だ。好きな声で、好きな名前で、好きなひとだ。
聡実はもうろうと訊ねる。
「ここ、どこ……?」
「えー? 忘れてもうたの? 俺の部屋ヨン。きみがあんまり知らないところ」
くすくす笑って肩をすくめる恋人は、完全にいつもの調子で。
(なんでやろ。なんか、そわそわする)
胸に宿った淡い不安を持て余し、聡実は問う。
「いま、なんにちの、なんじ」
「どうでもええやん、そんなん」
(……へ……?)
あっさりした返事に、聡実は目を丸くした。
「ど……うでもよく、ない、学校も、バイトもある……」
どちらかといえば苦学生に近い聡実の日々は、それなりに多忙である。
狂児だってそのことはわかっているし、いつだって聡実の予定を最優先してくれた。
――二十歳前後、何をするにも一番ええ時期や。悔いのないようにな。
――俺のせいで、これ以上聡実くんの人生、台無しにできひんし。
そう言って年上ぶる狂児には、ついつい噛みついてしまう日もある。
けれど、本当は大事されている実感があって、大好き。
なのに。
「ないよ」
「は……?」
目の前の男は、聡実の横たわるベッドの端に座ったまま、にこにこと嘘くさい笑顔で両手をぱっと開いて見せる。
「きみの予定、ぜーんぶないなった。代わりに俺がおるからええやろ」
「何、言うてはるの……狂児かて、仕事あるやろ?」
(いや、今つっこむとこ、そこちゃうわ)
うろたえて、思わず問いの順番を間違ってしまう。
とにかく、変だ。
今日のこの男は、変。
いつもと言っていることが逆すぎる。
(いつもは僕の予定が一番大事で、どうにか予定を合わせて、会って……たまに狂児が、急な仕事で居なくなって。腹立つけど、それが大人やと思ってた)
仕事でどうしても予定を変更しなくてはならなかったとき、狂児は必ず詫びをした。そこの筋は通さんとあかんて、オヤジにも口酸っぱく言われて来たのよ、なんて言いながら、ものや新たな約束を手土産に謝ってくれた。
なのに今の狂児は、黒々とした瞳を妙にきらめかせながら、身を乗り出してくる。
「どうしょーもないのは終わらせてきた。あとはきみの面倒みるのだけが俺の仕事や。いくらでもわがまま言ってええで。したいこと、行きたいところ、欲しいもの、なんでも言ってな?」
「っ……!」
(何がわがまま言ってええで、や! ひとの予定全部ぶっちぎらせてる時点で、おまえがわがまま三昧やないか!)
怒鳴りたかったが、どうにも舌が上手く動かない。
聡実はふかふかの羽根枕から頭を上げられないまま、一生懸命狂児を睨む。
「じゃあ、まず、服持ってきて……! 外行く、一回部屋帰りたい」
「それは無理」
即答。
さすがに、カッとなった。
「なんでも言え言うたやないか! 嘘吐き!!」
心臓に火がついて、嗄れた喉からみっともない叫びが飛び出す。
狂児は少し悲しそうに笑って、そんな聡実を見下ろして言う。
「だって君、足腰立たんやろ」
「阿呆言うな!!」
ひとを病人みたいに、と歯がみをし、聡実は体を起こす。
ぐらり、とめまいがしたが、気にせず足を床に下ろした。
膝が、かくん、と崩れる。
「えっ」
嘘みたいに体に力が入らない。
壊れた人形みたいに、聡実の体はくずおれた。
床に倒れ込む前に、力強い男の腕が抱き留めてくれる。
やめろ、と押しのけようにも、腕も重い。体が重くて、手足が体に適当にくっつけられた異物みたいで、上手いこと動かない。
「……はー……」
聡実を抱き留めた狂児が、深くて長いため息を吐く。
痩せた聡実の体を抱き直し、後頭部を掴んで顔をあおのけさせる。
まだ呆然としているうちに、唇が重なった。
「んっ……ふ」
少しかさついた、熱い唇。
とろりと溶けるような柔らかい感覚。
慈しむように、確かめるように、何度か触れるだけの甘いキスが続き、背筋に淡い快楽がぞわりと走る。体の感覚がひどく遠いのに、その痺れだけは妙に鮮明だ。
「ゃっ……」
聡実は顔をしかめ、小さく震える。
狂児はわずかに唇を離すと、聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声で囁いた。
「嘘吐いてへんよ、俺」
嘘じゃ、ない。
狂児の言うことは、本当なのだ。
そのことが、聡実の心にもじわじわと染みてくる。
いつの間にか着せられていたスウェットを脱ぐのも、家に帰るのも、学校へ行くのも、バイトへ行くのも、全部、無理。
「なんで……? なんで、こないなことに……」
抱きしめられたまま、聡実は薄茶色の眼球を震わせる。
こわい。不安だ。自分が、あんまりにも無力すぎて。
――二十五歳も年上のひとと付き合うって実際どんな感じ?
なんでこんなときに、あの、女友達の話を思い出すのだろう。
――結構ふつうだよ。
あのとき、自分はそんなふうに答えた。
揺るぎなく、そう信じていたから。
狂児は自分より体格がよくて、力も強くて、でも、そのすべてを気遣いで包んでくれていた。なのに今は、軽々と聡実の抵抗をねじ伏せて、軽々と抱き上げてしまう。
「もうちょい寝てなさい。それがいちばんええよ」
問答無用でベッドの上に戻される。
聡実は必死に上半身を起こして、狂児の腕にすがった。
力の入らない指先で、上等なスーツの生地をひっかく。
「説明しろよ……! あと、僕のスマホどこですか。返して……! 僕は……僕は狂児さんのペットやない、勝手せんで、ちゃんと説明せなあかんやろ!!」
叫ぶだけで、ぜえぜえと息が切れてしまう。
さっき感じためまいが強くなる。
(どうかしとる。なんで、こんな……)
「聡実くん、」
狂児の声がする。
どこか、ほの暗い声だった。
感情の色が薄く、何か、悪い予感をさせる声だった。
聡実はこくりと唾を飲む。
直後。
ぴぴぴぴぴぴ。
電子音が響き、聡実は滑稽なくらいに震えてしまう。
「な、んの、音」
目を瞠って囁くと、狂児はのろりと胸ポケットからスマホを出した。
アラームを切りながら、
「薬の時間やね」
と、言う。
「くすり?」
聡実は目を瞠って囁く。
「そ。それも、忘れた?」
狂児が乾いた声を出す。
どっ、と、心臓が血を吐き出す音がした。
狂児はベッドサイドのナイトテーブルの引き出しから、薬のパッケージを取り出す。部屋に満ちた淡い陽光が、銀色のパッケージにぎらりと反射した。
ぱきん、ぱきん、と音を立てて、錠剤が狂児の手のひらに落ちていく。
(なんやの、それ)
聞きたいけれど、舌が痺れていた。
さっきまではギリギリ叫べていたのに。
体のだるさより、おびえが、舌の動きにとどめを刺した。
ぎしり、狂児がベッドの端に片膝をついて、手を伸べてくる。
「はい、口開けて。怖ないから」
どこか日本人離れしてきれいな顔が笑って、節の目立つ大きな手が顎を掴んでくる。羽が触れるように、ではなくて、しっかりと顎を固定してくる。
――うんと年上の彼氏が豹変した~みたいな話、よくあって。
記憶の中で女友達が喋っている。
そんなことにはならへん、と、あのときは思っていた。
狂児は、そんなことにはならへんよ。
はっきりそう思えたのは、万が一そんなことになったら、おしまいだから。
狂児はただの年上彼氏ではないから。
「こ……怖ないわけ、ないやろ……おまえ……やくざなんやから」
震える舌が、どうにかそれだけ、吐き出した。
狂児の男らしい眉根が寄って、ふ、と、吐息みたいな笑みがこぼれる。
次の瞬間、顎を固定していた手の親指が、聡実の唇を割った。
「んッ……!!」
とっさに抵抗しようとするものの、容赦なく反対の手で喉奥まで錠剤を突っ込まれる。味も感じないような位置までねじ込まれ、おう吐感がせり上がった。
(呑んだら、あかん)
吐き出さねば、と思うのに、吐ける前にさっと指が出て行く。
速やかに口を手のひらで押さえられてしまうと、とっさに喉が動いて薬を飲み込んでしまった。
「げ、ほっ……!」
手を外されて何度か咳き込むものの、もう数錠の錠剤は食道の中だ。
ざっと血の気が下がって、強いめまいで視界がぐるりと回る。
喉の奥が痛い。天地のありかがわからない。
あえぎながらやみくもに手を伸ばすと、すぐに手首を掴まれた。
「乱暴してごめんな。お水いるよな、飲ませたろ」
いつもの甘い声がする、でも、やっぱりどこか暗くて、こわい。
手首を掴む力がつよいのも、引き寄せられるのも、また顎を掴んで、拒否権なしに唇が重なるのも。
「や、だ、やだ、狂児さ、ん……んんっ」
唇を割って入ってきたのはぬるい水だ。
呑みこんでいいのかわからなくて、半分くらいはボタボタと布団に落ちていく。
残りの半分を吐き出す勇気はない。
だって、こわい。
「大丈夫、ただの水よ?」
甘やかしの声が、いつ反転するかわからない。
だってもう、一度反転してしまったから。
大事大事にされていた自分の日常は、いつの間にかどこかへいってしまった。
ぬるい水をごくりと飲み込むと、喉の痛さが少しだけマシになる。
代わりに頭の芯がぼうっとした気がして、やっぱり、こわい。
(ねえ、さっきの薬、なに?)
声に出して聞きたいけれど、それも、こわい。
狂児は聡実が水を飲んだのに満足したらしく、ぐらつく上半身を自分の体に添わせて、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。
「すぐ気分ようなるから、こうしてようね、聡実くん。きみは難しいこと、なーんも考えんでええよ。大丈夫。俺が全部どうにかする」
歌うような声だ。夢のような睦言だ。
(正気のおまえは、言わんやつ)
そう思うと、目の奥がじわりと熱くなる。
「きょうじさん……いや、や」
絞り出した声、お返しは優しく背中を撫でるてのひら。
熱くて、大きくて、大事で、すきで、こわい。
「何がいや? 嫌なことあったら、全部言うて」
「こわい……ぜんぶ、ぜんぶこわい」
もう、強がることすらできなくなって、ぼろりと涙と言葉が零れた。
涙がじわじわと狂児のスーツを濡らしていく。
狂児は聡実の背中をなで続ける。
「すぐ怖なくなるよ。お薬飲んだし、俺もおるしね」