ハンカチ「これ、落としましたよ」
突然肩を叩かれて、振り向くと綺麗な青年が微笑んでいた。派手なピンク色の髪をポニーテールにして、不思議な魅力を孕んだ瞳は嫉妬しちゃうくらいバサバサなまつ毛に縁取られている。
目を細めた彼が此方に差し出す薄いピンクのハンカチは、私好みではあったけれど、しかし私の物ではなかった。
「いえ、私のじゃありません」
「でも、貴女にとっても似合うと思います」
そう言って困惑する私の手にハンカチを握らせて、青年はくるりと背を向けて行ってしまった。
きっと一般的には彼の不審さを恐怖するべき出来事であるが、その美しい容姿のせいか、美しい容姿のお陰か、あまり怖いとは思わなかった。手の中にあるハンカチを見て、ただ、困ったなぁと。そう思いながら家路に着いた。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて、帰る途中で買った惣菜を電子レンジに入れてから酎ハイを一口。いつものルーティーンを淡々とこなしながら、先程の青年を思い浮かべる。
「本当、私好みなんだよなぁ」
温かくなった惣菜を電子レンジから取り出して、握らされたハンカチを眺める。薄いピンク色も、繊細なレースも、控えめな刺繍も、本当に私好み。
綺麗に畳んであったそれを広げてみると、柔らかな布地の中からはらりとメモ書きみたいなものが落ちてきた。
三途春千夜 090-××××-××××
成る程ね、そう独り言ちる。今日の不思議な出来事は、あまりにも用意周到なナンパだったって訳だ。きっと目についた女性全員に同じものを配っているのだろう。手間の掛かった手法に呆れる。いっそ尊敬するくらい。
そして、先程まで感じていた胸のときめきを恥じた。
「でも、顔は良かったんだよなぁ……」
少し思案し、紙切れに記された番号を電話帳に登録した。恋人とは最近別れたばかりだったし、寂しい夜に相手になって貰うのも良いかもしれない。女の子に困るような容姿ではなかったから、きっと女遊びが上手なのだろう。
登録した番号に『三途春千夜』と名前を付けて、紙切れをゴミ箱に放った。空になった酎ハイと惣菜のトレイをそれぞれゴミ箱に入れる。明日も仕事だ。
◇◇◇
足元を通り過ぎる冷たい風に、身を震わしながら退勤する。今朝、寝坊して適当に羽織ったトレンチコートは秋の終わりには防御力が低すぎたようだ。ヒールの刻む音が勝手に速くなる。
冷えた手をポケットに突っ込むと、携帯が震えているのに気が付いた。電話? 上司からの呼び出しか、それとも友人からご飯のお誘いか。今日は、すれ違う多くの人が浮かれて見える金曜日だ。どうか友人からであってくれ……そう願いながら画面を見て、足が止まる。
三途春千夜
画面に映った見覚えのある名前。丁度ひと月くらい前にハンカチを押し付けて来たナンパ男だ。
確かに番号は登録した。その時は暇な時にでも相手になってもらおうと思っていたから。でも仕事が繁忙期に入りそれどころじゃなかったし、やっぱり冷静に考えて電話を掛けるのは怖かった。
だから、向こうが私の番号に掛けてくる事なんて、絶対にあり得ない筈なのに。
立ち止まったまま画面を見つめていると、視界に革靴がちらついた。あぁ、ここは歩道のど真ん中だ。他の歩行者の邪魔になってしまう。
「すいません」
短く謝って道の端に寄ろうと顔を上げて、息が止まる。派手なピンク色の髪の毛と、嫉妬しちゃうくらいバサバサのまつ毛。吸い込まれてしまいそうな、魅惑的な瞳。前に会った時は確かマスクをしていたんだと思う。だって、この口元の傷を見ていたら絶対に忘れられない。
握り締めている震えの止まらない携帯と、目の前の男が耳元に当てた携帯が無関係な訳がなかった。バイブの音と自分の心臓の音が混ざって騒いでいる。今まで聞いた、どんな音よりも恐ろしいと思った。
ゆっくりとした動きで彼の腕が上がり、人差し指が私の手の中を指した。男の口が開かれる。
「どうして、その電話、出ないんですか?」