なれそめの潮1.
暗がりにぼんやりと影が浮かんでいる。混じり気のない純白が風に棚引き、抹額がひらひらとその先を危うく揺らしている。黒髪と長い袖は絶え間なくゆらゆらと動き、彼の存在さえも不確かなものにしている。
藍曦臣は湖面を見つめていた。じっと感情のない面で、暗闇を覗いている。
暗闇は彼に語りかける。いつまでそこにいるのか、と。
美しい輪郭は静寂を湛え、その瞳は泥濘に沈んでいく。目尻から頬にかけて幾度となく水滴が滴り、唇の間からは虚ろな空間が垣間見える。藍曦臣は静かに泣いていた。独り俯き、暗い水面を覗いてそこに映る自身に絶望するかのように。
江澄は覗き見てしまった。正確には、見るつもりのなかったものを、たまたま見つけてしまった。
『な、泣いてる…!』
江澄は人が泣いている場に立ち会ったことなど人生で数回も無かった。元々人を慰めるのが苦手な性分で、人の泣いてるところを慰めることなど不可能に等しい。
まして、沢蕪君のような強靭な仙師が泣いてる場など、想像も及ばなかったのだ。
江澄は衝撃で暫し固まった。夜廻りに、無駄な警戒心を持ちすぎたのかもしれない。こんなことなら、自分は部屋で惰性を貪り師弟に夜警を命じた方がマシであった。
江澄はすぐに結論を出した。
見なかったふりをして立ち去るのが礼儀だろう。俺があの人ならそうして欲しいはずだ。
引き返す一歩を踏み出した時、大変運の悪いことに、この時ばかりは藍曦臣の良い耳が働いた。
「っ、そこに誰かいるんですか!」
江澄は天を仰いだ。相当用心して一歩を踏み出したというのに、流石は沢蕪君である。なにもここでその修為を活かさなくても良かろう。俺なんぞに見つかったと知れても、お互いに気まずいだけである。江澄は何て顔をして出ていけば良いかしれなかったし、言い訳の仕様がない。たまたま見てしまったんです、とでも言いたいが、立ち去ろうとした身で分が悪い。結局どうしようもなかった。
「……私です」
結局壁の端から不器用に顔を出すことになった。
「……なんだ、あなたか……」
藍曦臣は江澄の姿を見てへらりと笑った。
「すみません。その……覗き見るつもりではありませんでした」
江澄は気まずいことこの上なかったが、藍曦臣は吹っ切れたように目元を拭った。
「いいんです。もう、あなたには一度情けないところを見られてますし。もう曝け出すものもないでしょう」
「そういうものですか」
「ええ、そういうものでしょう」
水辺に立つ藍曦臣をそのままに、江澄は恐る恐る切り出した。
「聂懐桑があなたを呼んでいた。……今頃心配しているんじゃないですか」
「そうでしょうか。私はそうは思いません」
「あと藍先生もだ」
「「……」」
お互いに何も言えない。江澄は完全に立ち去るタイミングを逃してしまった。この空気、一体どうしたものか。
「……どうしたのか、聞かないんですか?」
「はぁ……聞いたほうがいいんですか?」
江澄は慰め方の作法など知らなかったので、純粋に疑問に思った。実際、もし自分が沢蕪君の立場であれば、人に弱みを見せた段階で憤然やるせないのである。そこから更に根掘り葉掘り訊かれるなど冗談ではないと思った。
「いいえ。あなたはそうなさらないでしょう。無粋なことを言いましたね」
藍曦臣は俯いたままで、抑揚のない声を出した。
「無理もないでしょう。あなたの立場であれば弱みを探ろうとする連中は多い」
「……」
「私は今日のことを誰にも言うつもりはないし、言う相手もいない。すぐに忘れますから、あなたもご心配なく」
江澄が沢蕪君の立場だとしたら、最も恐れるものは醜態が更に広まることだ。江澄には噂話をするような習慣はないし、本当に言いふらすような相手も居なかったが、この状態の沢蕪君にとって、心配するな、と念を押すことは僅かな慰めになるだろうと思った。
「ありがとうございます……」
「なっ、止めてください、俺に礼を言うなど」
藍曦臣は何も言わなかった。その代わりに、俯いた黒髪の隙間から更に雫が落ちていくのが見える。雫の一つ一つが湖面に反射した星の光を吸収して、輝きながら消えていく。江澄はぎょっとして声を張った。
「あぁ!勘弁してくれ!邪魔者は俺だ、今に去る!……ほら。これを使ってください。返さなくていい、あなたのことだから気になさるかもしれないが、今日俺が覗き見た詫びだと思って、どうか取っておいてください。俺はもう行きますから」
慌てて襟袖から手拭を取り出し、藍曦臣に押し付ける。身を翻し、大股で逃げるようにその場を去っていった。
後ろで控えめに、すん、と鼻を鳴らす音が響いていた。
清談会は二日目になった。会に大した議題があるわけではないが、開催することに意味があるのだろう。江澄は会場の主として、厳粛な面持ちで上座に座り ――― 内心は退屈しきっていながら ――― 議論の行く末を見守っていた。
下座の上位には藍曦臣が穏やかに座っている。藍曦臣は正確にはまだ閉関中の扱いで、この清談会に来る必要もなかったのだが、最近は修真界の事柄に度々顔を出すようになっている。昨日の今日で、江澄は藍曦臣をちらりと垣間見てしまうのを止められなかった。
いつものように凪いだ春の海のような雰囲気で、襟を正して清く座し、その頬は昨夜の雫の跡を一筋も残していない。威厳たる美を翳し、清雅で力強くどこにも欠点のない仙師だ。
江澄は昨夜自分が見たものは幻だったのだろうかとも思った。暗闇に独り立ちすくみ、はらはらと泣いていた姿は頼りなく、会議中の沢蕪君と余りにもかけ離れている。
同時に、恐ろしくもあった。もしかして自分はとんでもない秘密に立ち会ってしまったのではないだろうか。
その日の夜、夜会の騒々しい喧騒の中、藍曦臣が忽然と姿を消したことに気がついた時、江澄は妙な胸騒ぎがした。
普段は使われない廊下、縁側の隅、湖の影、馬小屋の裏手、客人が行ける範囲で人気のなさそうな場所は全て見た。しかし沢蕪君の姿が見当たらない。
江澄は自室に戻り、文机に向き合って額を抑え、項垂れていた。どこにもいないのだ。蓮花塢のその主ですら見つけられないとはどういうことだ。姿を隠すのが巧すぎる。
ため息をつき、もう諦めようかと顔を上げたとき、窓の外に一瞬白いものがよぎった。ん??見間違いか?と思って目を擦っていると、再度、視界の端にひらりと衣の先が揺れて出た。
江澄は、まさかという思いで窓を開け上を見上げた。俺が見ていない最後の場所は、屋根だ。
「沢蕪君!どうしたんですか、そんなところで……」
長い袖を揺らし、幽玄と佇んでいる。今度は月明かりに照らされて、下からはっきりと見えた。目元は赤く染まり、鼻先まで淡い色が滲んでいる。瞳の奥の深い琥珀色が潤み、睫毛が露を垂らしている。雫が顎の先で合流し、連綿と流れていく。藍曦臣は江澄がいきなり窓を開けたのに目を見開き、その睫毛の先から雫を散らす。ふわりと困ったように笑った。
「おや、見つかってしまった」
「なんでここに」
「私も知らなかったんです、ここがあなたの部屋の上とは……」
「ではどうして……」
「月が……綺麗だと思って……眺めていました……」
江澄は空いた口が塞がらなかった。やっぱり議会中の沢蕪君とは別人なのではないか?
「分かっています、私が今愚かな真似をしていることも」
「いや、そうではありませんが……はー、こちらに来ませんか」
「しかし……」
「このことは誰にも言いつけないので。あなたのことは俺しか知らない」
藍曦臣は屋根の切っ先に身を乗り出し、今にも落ちそうである。そのままにしておくには危うく、江澄は窓を開けて自室に入るように促した。
「江宗主……」
「ほら、茶でも飲むだけです。あなたはそんな状態で夜風に当たるべきではないだろう」
藍曦臣はそこが江澄の寝室だと察したのか、どうするべきか決めかねているようである。美しい顔にはありありと憂慮の念が浮かんでいた。
「早く。ずっとそこに居るおつもりですか?私の部屋が真下だということもお忘れなく。その主が招いているんだ。断る理由もないでしょう」
その言葉に藍曦臣は決心したようで、
「分かりました」
と肯首し、ひらり部屋に舞い入ってきた。
宗主に用意された就寝用のお茶を注いで、手前に差し出した。藍曦臣は大人しくそれを受け取り、黙ってお茶を飲んでいる。
もう項垂れもせずに顎を上げたまま泣いている。静かに涙を流しながらどこも見ていない。部屋の灯火が頬の水筋を橙色に照らし出し、その奥の瞳に反射している。涙は宝石となってポロポロと溢れ、無造作に袖に染み出している。
江澄は琥珀色の水滴が滾々と垂れ落ちるのを見て、その脆い美しさが勿体なく感じた。輝きを反射した瞳の輪郭は溶け出し、このままでは瞳も落ちてしまいそうだ。それをしたのは殆ど無意識だった。江澄は身を乗り出し、濡れた頬に手をやってその水滴を拭っていた。
藍曦臣はハッとしたように江澄を見て、徐ろに目を閉じた。
「もう一度してください」
声が掠れている。身を江澄の方に傾けて、静かに与えられるのを待っている。
「もう一度………」
灯火に照らされた二人の影はちりちりと揺れて、重なったり離れたりした。江澄は無言で藍曦臣の頬を拭い、藍曦臣はただ目を閉じていた。