洞天小話 2章 後編(1) 岩王帝君との邂逅以来、金鵬は自暴自棄になっていた。何もかもがどうでもいい。こんなに酷く落ち込むのは、数百年前に魔神に囚われた直後以来かもしれなかった。
「…それは、自傷行為ではない?」
雪山の麓の拠点から帰離原の方角を見下ろし、無心に雪を頬張っていたときだった。
金鵬の背から、グラシャの声が問い掛けた。
口を利きたくなかったが、自然と口は開き、答えていた。
「…否。好んで口にしている」
「……岩王帝君との出会い方が、そんなに気に入らなかった?」
「……」
それは、図星だった。金鵬が抱いていた夢は、この男に捕らえられたときに潰えてしまったが——それでも、あれは無かった。
元凶に痛いところを突かれ、湧き上がってきた激情を、目を閉じ抑え込もうとする。
到底、無理だった。ギリ、と奥歯が軋んだ。加えて、自分を使役する魔神の問い掛けには、答えずにいられない力がはたらいていた。
「……幼い頃……成長して、岩王帝君にお仕えするのが夢だった…」
低く紡がれた声が、意図せず震えていた。高ぶった感情を、上手くコントロールできない。このまま喋っていいのか少しの迷いと不安——…しかし、抗えない。
「…——帝君に、刃を向けてしまった…。人を殺すところを…見られてしまった……。幻滅されたはずだ…しかも女の格好で……こんなはずではなかった!」
絶望に沈んだ声が、悲痛な叫びに変わった。堰を切ったように、溢れ出た感情の勢いが止められない。金鵬は、恐怖に竦みそうになる身体を奮い立たせ、長年自分を支配してきた魔神に、ずっと言えずにいた言葉を引きずり出した。
「お前のせいで!最悪の出会い方をしてしまった!」
グラシャを振り向いた金色の瞳は、激しい怒りに満ちて、強い光を放っていた。
「絶対に許さん!!」
地響きが起こるような勢いの咆哮だった。
睨み上げた金鵬を、グラシャはすまなそうに眉を下げた表情で見下ろしていた。
「……うん。君の怒りは、当然だ」
甘受するように微笑まれた。
それを見て、本心を言わされたのだ、と気付いた。
言った金鵬も、言われたグラシャも傷付くだろうに……何故だ!?
(……腑抜けた我を立ち直らせるため…気付け薬代わりに吐き出させたか…)
「くそッ…!」
グラシャから視線を外し、肩で数度息をして目を閉じ、呼気を整える。血で沸騰した脳が、みるみる思考をまとめていった。
本当は、分かっている。牛車の中で会った帝君は、こちらを気遣って話す間も、様々な事を考えている、理知的で聡明な方だった。彼の選ぶ、一つ一つの言葉に驚かされた。立場が甚だしく弱い、売られた女に対し、あれだけ誠実に接する方が、こちらの女装など見下すはずがない。
槍で撃ち合い、武器を取り上げられた直後、トドメの一撃は飛んで来なかった。自分が操られているのを、見抜いたのかもしれない。
あの岩王帝君なら、自分の悪事を全て知った上で、正当な裁きを下してくれる——そう信じるなら、幻滅されたなどと落ち込む必要は、無い。
金鵬は目を閉じたまま、ハーッと大きく息を吐いて、全身に漲っていた力を解いた。
静かに息を吸って目を開いたときには、冷静さを取り戻し、心は芯を持って立ち直っていた。
グラシャを見上げ、鼻で溜め息を吐く。
眩しい物でも見るようにこちらを見下ろしていたグラシャは、ポツリと告げた。
「もう、人を襲わなくて良いよ」
「!?」
驚きに目を見張り、耳を疑った。
霧の魔神は、先程まで金鵬が見ていた方角を仰いだ。
「人と戦う力は、手に入る算段がついたんだ」
吉報だったはずの話が、途端に不吉さを帯びた。グラシャは出会った頃、虎憑きを増やして、岩王帝君の町を襲いたいと言っていた。だが、虎憑きを伝染す条件は厳しく、遅々として進まなかったはずだ。それで、状況が整った——…?
「その代わり、君に若蛇龍王と戦って欲しい」
グラシャが続けた言葉に、再び金鵬は絶句した。
「殺し合うのでなく、足止めをして欲しい。…しなないでね?金鵬」
そんな顔で心配するなら命じるな、と言いたいところだった。金鵬の得意とする戦い方は短期戦で、長期戦には不向きだ。これは、戦術を練らなければならない——。
「…ぐるぐるして答えが出なかったら、まず、対象を観察して」
「……わかった」
「戦法を考えついたら、実践できるか、対象と自分を観察して。その戦法はどの程度優れているか評価して、改善するんだ。10日後に進捗を聞くよ」
金鵬は、3日で若蛇龍王の居場所を探し出し、実際目にすると想定外の身体的特徴に気付かされ、それまで考えていた戦法が使えないことに落胆した。
岩山のような身体で、四つ足で地を移動すると聞いていたので、亀のような身体つきをしておりひっくり返せば起き上がれぬのでは……と安易に考えていたのだ。
だが実際は、手足の関節部分までがそれぞれ長く、人間の身体つきに近かった。
おまけに4つの元素を使うことができ、地に潜ることもできる。
金鵬は自分の思い込みを反省し、対象に気付かれぬよう、その行動や能力を真摯に観察した。
グラシャの隠れ家へ戻って、幾つかの古書を読み、案を練る。
進捗を聞かれ、練り途中の案を話すときは、戦場にいるわけでもないのに緊張した。
グラシャは真面目な様子で話を聞き、難点を理解して、共に悩みながら良い点を褒め、生かす点と問題になる点を明確化し、課題となる事柄を絞った。
そうしてもう一度考えながら若蛇龍王を観察しに戻ると、唐突に突破口を閃いた。駄目だと思っていた案も、生かす道が見つかった。無謀に思えた挑戦に成功したかのような高揚感があり、実行するのに適した場所を見つけ、「ここだ!」と思ったとき、早くグラシャに伝えたくなった。
だがすぐに、相手は邪悪な魔神なのだと思い出し、握り締めた拳で自身を殴ろうとして、自己防衛の術がはたらきそれは叶わず、やがて……力なく拳を解いた。
道中、樹の上で眠りにつきながら、ふと気付いた。いつかグラシャが帝君と戦ったら、グラシャが負け、死に、そのときこの身は自由を得るかもしれない。
(もしそうなったら…ようやく死ねるな……)
岩王帝君の裁き次第だが——。
金鵬は、死によって得られる安寧に、安堵に似た希望を覚えた。
◆
1人の虎憑きから、それを殺した1人へ虎憑きが伝染しても、虎憑きがより強き者へ変わるだけだった。
しかしあるとき、1人から、10人程へ増えたのだ。
その虎憑きは集落で暴れ、複数人を傷つけて捕えられ、殺された。
そのとき負傷した全員が、虎憑きへと変わったのだ——。
◆
(2)へつづく